錆びた鉄の匂いが、夜気に混じって漂っていた。
むぎは、ひとりで廃工場の敷地に足を踏み入れる。
手にした銃は、無駄のない動きで身体に沿わせられ、歩調は一定だった。呼吸は落ち着いていて、視線だけが静かに周囲を測っている。
割れたコンクリート。
半分崩れたシャッター。
闇に沈んだ入口。
——来る。
そう判断した瞬間、影が動いた。
前方から現れた敵が構えを取るより早く、むぎは引き金を引く。
乾いた発砲音が連続して響き、敵は声を上げる暇もなく倒れ伏した。
迷いはない。
動作は速く、正確で、余計な力が一切ない。
次。
横。
背後。
向かい来る敵を、むぎは次々に撃ち抜いていく。
弾道は無駄なく、急所だけを確実に捉えていた。
Σの兵士。
碧星院高校に籍を置く工作員たち。
彼らは「ハッピートリガー」と呼ばれる存在だった。
その名の通り、異常なほどの機動力。
身体を低く保ち、跳ね、転がり、弾丸の軌道から外れる。
ほとんど当たらない。普通なら、そう評価される戦いぶりだ。
だが——
むぎもまた、その呼び名に恥じない。
一歩踏み出し、撃つ。
跳躍の着地点を読み、撃つ。
動線を潰し、回避先ごと撃つ。
弾は、ことごとく命中した。
敵の動きが速ければ速いほど、むぎの判断は研ぎ澄まされていく。
射撃は反射に近く、思考は極端に冷えていた。
工場の入口へ向かう通路には、次々と倒れた敵が転がっている。
音が消え、残るのは、わずかな反響と火薬の匂いだけ。
その光景を——
少し離れた、誰にも見つからない影の奥から、ひとりの女子生徒が見ていた。
柱の陰。
崩れた機材の裏。
震える手で口元を押さえ、息を殺しながら、目だけで追っている。
「あかん……」
声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。
信じられない、というより、受け止めきれない。
あまりにも淡々と。
あまりにも正確に。
人が倒れていく。
その中心にいるのが、家長むぎだという事実が、女子生徒の胸を強く締め付けていた。
涙が滲み、視界が揺れる。
それでも目を逸らせず、ただ、その背中を見続けていた。
廃工場の入口に、むぎは辿り着く。
銃口を下げることなく、静かに、次の空間へと踏み込んでいく。
その足取りは、迷いなく、確実だった。
息をひそめ、柱の陰に身を潜めながら、女子生徒はその光景を見つめていた。
誰にも見つからない場所。
そう信じていた。
けれど——
「……っ!」
気配。
呼吸が止まりそうになる。
振り返るよりも先に、目の前にライフルの銃口があった。
迷いのない動きで構えられている。引き金にかかる指。
「——うわっ! 危なっ!」
声を上げるよりも早く、彼女は反射的に身をひねって銃口をよける。
狙撃の間合いなど関係なく、間合いを詰めた。
次の瞬間、全身のバネを利かせて敵の懐に踏み込み、
「んッ!」と短く息を吐きながら、鋭い肘をみぞおちに叩き込む。
「ぐっ……!」
敵がうめくと同時に、彼女は腰のホルスターから即座にテーザー銃を抜き、
間髪入れずに至近距離から敵の胸部に撃ち込んだ。
ビリビリという衝撃音とともに、敵の身体が硬直し、崩れ落ちる。
「……はー……マジありえんて……!」
息を切らせながらも、無駄口は叩く。
声はかすれ、鼓動は早い。それでも身体はちゃんと動いていた。
すぐさま足音を最小限に抑えつつ、足早にその場を後にする。
中央、むぎのいた場所は避けるように通り過ぎ、さらに奥の柱へ。
廃工場の、灯りの届かない一角。
そこから見えたのは——
まるで“処理”されたように整然と倒れている、数多の死体。
その中心に、銃を手に立ち尽くす家長むぎの姿。
「……っ」
息を飲んだ。
その静けさが、かえって何よりも怖かった。
弾道の痕跡。倒れ方。焦げた匂い。
血の広がり。動かない手足。
誰も呻かず、もはや苦しんでもいない。
全部が、終わっている。
中央に立つその少女は、ただ銃を構えたまま、呼吸も見せない。
女子生徒の手は、気づけば震えていた。
廃工場の出口。
重たい鉄の扉を押し開け、家長むぎは静かに外へと出た。
夜風が吹き抜ける。
冷えた空気を一度、深く吸って、ゆっくりと吐き出す。
その息には硝煙と血の残り香が混じっていた。
そのとき——
「……むぎちゃん……」
か細い声が、前方から響いた。
むぎはすぐに気づいたが、そのまま無言で歩き出そうとする。
声の主は、柱の影から恐る恐る姿を現した女子生徒。
震える足取りで、一歩、また一歩と近づいてくる。
「もう……やめなよ……」
その声は、まるで言葉の形を保てないかのように掠れていた。
それでも、どうにか口を動かして続ける。
「優しい……むぎちゃんに、戻ってよ……」
むぎの背中は、何も答えないまま前へと歩いていく。
だが次の一言が、その足を止めさせた。
「……もしかして……“騎士”が、怖いの……?」
その瞬間。
「……っ」
女子生徒は、息を呑んだ。
むぎが、まるで重力に逆らうようにピタリと動きを止め、首だけをゆっくりと振り返る。
そして、歩み寄ってくる。
足音は静かだった。
けれど、視線が冷たい刃のように一直線に突き刺さってくる。
女子生徒が身を引こうとしたその瞬間——
「っ……!」
むぎの手が、鋭く胸ぐらを掴んでいた。
その表情には、笑みも戸惑いもなかった。
ただ、確かな怒気だけがこめられていた。
「……言葉、選んで話しな?」
低く、抑えた声音。
感情を抑えているのではない。むしろ、寸前までせり上がった怒りを、必要最低限の強度に留めている。
睨みつけられた女子生徒の瞳が揺れる。
「私のことは……別にいいけど」
むぎは顔を近づけ、静かに、けれど決定的な口調で言い放った。
「——リリちゃんのこと、悪く言ったら……許さないよ」
声は震えていなかった。
それがかえって、何よりも重かった。
夜の工場跡に、風の音すら止んだかのような沈黙が落ちた。
胸ぐらを掴まれたまま、女子生徒の喉がひくりと鳴る。
目の縁に涙が溜まり、今にも零れ落ちそうになりながらも、逃げない。
震える唇を噛みしめ、どうにか言葉を押し出す。
「……私、むぎちゃんのこと、忘れないから……」
声は掠れている。
それでも、はっきりと届いた。
「サクヤ先輩のことも……」
沈黙が落ちる。
夜風が二人の間をすり抜け、血と硝煙の匂いを遠くへ運んでいく。
むぎは、ゆっくりと手を下ろしたかと思うと、今度は女子生徒の両肩を掴んだ。
真正面から、逃げ場を塞ぐように。
「……川口さんは、子供のままだよ」
声は低く、冷たい。
責めるというより、切り捨てるような響き。
「もう、いい加減にしなよ」
吐き捨てるような言い方だった。
優しさも、慰めもない。
ただ、現実を突きつけるだけの言葉。
女子生徒の肩が震える。
涙が、ついに一筋こぼれ落ちる。
むぎは、その様子を数秒見つめていた。
それから、ふっと視線を外す。
「……もう行くね」
小さく、ほとんど独り言のように呟く。
手を離し、背を向ける。
そのまま振り返らず、夜の闇へと歩き出す。
足音は静かで、迷いがない。
取り残された女子生徒は、肩を押さえたまま、ただその背中が遠ざかるのを見つめていた。
廃工場を離れ、しばらく無言で歩いたあと。
むぎは待機していたワゴン車の後部座席に乗り込み、そのままシートにもたれかかった。
「……マジで怠い……」
天井を見上げたまま、ぼそりと呟く。
指先にはまだ微かに反動の感覚が残っている。
けれど、それを振り払うように目を閉じる。
「まさかこんなとこにまで来るなんて……」
小さく息を吐いた、そのとき。
「本当、ほんと。」
すぐ横から、のんびりとした声。
「もう諦めれば良いのにね~」
むぎのまぶたがぴくりと動く。
ゆっくりと横を見ると——
ジャージ姿の女子生徒が、当然のように隣に座っていた。
体育会系のラフな格好。
足をぶらぶらさせながら、どこか面白がるような目でこちらを見ている。
むぎは半目になり、明らかにイラっとした顔をする。
「……何してんの?」
女子生徒は、きょとんと目を丸くしたあと、わざとらしく首を傾げた。
「え……?」
「あ、私……このまま行くと、捕まっちゃいます?」
少し面白そうに、照れたように笑う。
むぎは一瞬無言になり、そして小さくため息をついた。
「あ……そういうのいいから」
完全に慣れた口調。
そのまま前を向き、運転席の男性教官に声をかけようとする。
「こいつ、追い出してくださーい」
軽い調子だが、本気だ。
すると——
「あっ、いや!待ってください!」
女子生徒が慌ててむぎの腕にしがみつく。
「このままじゃ野宿になっちゃう!」
必死さと、どこか芝居がかった声色。
むぎは引き剥がそうとしながら、冷めた目で見下ろす。
「知らないし」
「いやいやいや!ひどくない!?」
「ひどくない」
即答。
女子生徒はむぎの腕にぶら下がったまま、必死に抗議する。
「だってさっきの見ちゃったし!?私、絶対目つけられてるって!」
「自業自得でしょ」
「えぇ~~~!」
車内に、気の抜けた抗議の声が響く。
運転席の教官は、バックミラー越しにその様子を一瞥し、小さくため息をついた。
夜の道路に、ワゴン車のエンジン音が静かに重なる。
「……このサイコ女、どこで見てたんだ」
低く呟きながら振り払おうとするが、相手は意外としぶとい。
「ひどい! 古い仲じゃん!」
ぐいっと顔を近づけてくる。距離が近い。近すぎる。
「さっきの川口さんでしょ!? これでまたストーカーが増えたわぁ、とか思ってたんでしょ!」
むぎのこめかみがぴくりと動く。
「結構積極的になったよねぇ~……昔なんかちんちくりんだったのに!」
好奇心に満ちた目で覗き込まれ、むぎは露骨に嫌そうな顔をする。
「……やっぱ、犯罪やってて捕まった奴は格が違うわ……」
心底面倒くさそうな声。
すると女子生徒は、すかさず口を尖らせた。
「はいすぐそれ! 非行少年に言われたくないです~!」
ぷんすかと抗議したかと思えば、次の瞬間にはにやにやとした顔に戻る。
「それでさぁ~、今は夕陽リリといちゃいちゃしてんでしょ?」
わざとらしく声を潜め、肘でつついてくる。
むぎは呆れ顔でため息をつく。
「……何その言い方」
しかし否定はしない。
むしろ、どこか誇らしげに肩を預け直す。
「そりゃもう、必死よ」
さらっと言い放つ。
女子生徒が「うわっ」と目を丸くする間もなく、むぎは続けた。
「正妻になろうとするやつは全員潰すから」
真顔。
声色は冗談にも聞こえるが、目が一切笑っていない。
女子生徒は一瞬ぽかんとしたあと、腹を抱えて笑い出した。
「やばっ! 独占欲つよ! こわ!」
「うるさい」
「え、じゃあ私も立候補したら消される?」
「秒で」
即答。
車内に、くだらない笑い声と呆れたため息が混ざる。
運転席の教官が、バックミラー越しにその様子を見て、小さく首を振った。
「……お前ら、静かにしろ」
だが後部座席はまったく静かにならない。
ワゴン車が碧星院高校の駐車場に滑り込む。
エンジンが止まり、夜の静けさが戻る。
隣の女子生徒が、きょろきょろと辺りを見回しながら声を弾ませた。
「あっ……こんなところまで乗ってきちゃった……!」
まるで遠足気分だ。
そして、にこっと笑って続ける。
「私、やっぱりここで始末されるんだぁ……!」
むぎはドアノブに手をかけながら、淡々と返す。
「はいはい」
慣れた様子で受け流し、そのままさらっと言った。
「世怜女まで歩いて帰りな〜」
軽い口調。
だが、ふと視線を上にやり、計算するように小さく呟く。
「……いや、まだ全然電車あるか……」
それを聞いた女子生徒は、ぱっと目を輝かせる。
「え、本当に歩いて帰ったらどうする?」
興味津々。
むぎは即答する。
「しがりこちゃんの足が豆だらけになる」
真顔。
一瞬の沈黙のあと——
「え〜!? 今日の家長先輩、付き合い悪い〜!」
女子生徒——りこは、笑みを浮かべながら車を降りる。
むぎはそれを横目で見て、小さく肩をすくめる。
「はいはい、気をつけて帰りな」
「それ、先輩ムーブすぎ!」
夜の駐車場に、くだらないやり取りが少しだけ響いた。
やがて、二人はそれぞれの方向へ歩き出す。
街灯の下、りこはまだ何か言いながら手を振り、むぎは半目でそれを見送る。
そして、校舎へと静かに足を向けた。