むぎはアパートの裏へ回ると、外壁を見上げた。
水道メーターの機械。
そこから伸びる柱。
手をかけられる出っ張り。
足場を確かめると、軽い動きで体を引き上げる。
一度、柱に体重を預け、そこからベランダの縁へ。
ほとんど音を立てず、二階までよじ登った。
そのままベランダに身を伏せ、室内を覗き込む。
しばらく目を凝らして中の様子を確認していたが——
ふと、あるものを見つける。
「……あっ」
小さく声が漏れる。
むぎは何かを察したような顔になり、そのまま引き返そうとする。
その時だった。
背後で、かすかな物音。
振り返ると、すみれが同じように登ってきていた。
むぎは小さく舌打ちしそうになりながらも、手招きする。
「……見てみ」
ベランダの隙間から室内を覗かせる。
すみれがそっと中を見た瞬間——顔色が一気に青ざめた。
思わず悲鳴をあげそうになる。
その直前、むぎがすぐに手を伸ばし、すみれの口を押さえた。
「バレるからここで騒がないでよ」
小声で言う。
すみれの体を押し下げるようにして、むぎは来た道を指差す。
二人はそのまま、静かにベランダから離れ、登ってきた経路を引き返していく。アパートの裏手に降りたあと、すみれは胸を押さえながら小声で言った。
「ど、どうしよう……」
息がまだ整っていない。
むぎは肩をすくめる。
「どうもしないよ」
淡々とした声だった。
「そのうち警察か、アパートの大家が見つけるでしょ」
それだけ言うと、少し歩き出す。
だが数歩進んだところで、むぎは「さて……」と呟き、ふとすみれの方を振り返った。
そして、不意にすみれの手を掴む。
すみれが驚いて立ち止まる。
むぎはそのまま顔を近づけ、疑うような目で見た。
「……あんた、本当にすみれ?」
すみれの体がビクッと震える。
むぎは構わず続ける。
「あんた……あいつなんじゃない?」
視線が鋭くなる。
「……共和国のスパイの……ソフィア・ヴァレンタイン」
その名前が出た瞬間。
すみれの顔色が変わった。
恐怖に歪み、思わず後ずさる。
「嫌……」
震える声。
「その名前……出さないで」
息が乱れる。
「せっかく……忘れてたのに……」
しぼり出すような声だった。
むぎはしばらく、その様子をじっと見ていた。
そして小さく息を吐く。
「……流石に違うか」
そう言って、掴んでいた手を離した。歩きながら、小さく息を吐く。
「川口さん達、水海さんのお見舞い行ってる?」
半目で聞く。
「私のストーカーやるよりも、やることあるでしょ」
すみれはすぐには答えない。
少し目線を逸らし、申し訳なさそうに言う。
「最近は……ちょっと……」
むぎはため息をつく。
「……薄情だな」
肩をすくめる。
「同じ学校なんだし、会いに行ってあげなよ」
それから、ふと思い出したようにすみれを見る。
「川口さんはさ」
さっき借りたテーザー銃を取り出し、軽く見せる。
「本当にサクヤの言うことを守っているから、こんなことしてるの?」
少し間を置く。
「それとも……ただ単に怖いから?」
すみれは答えない。
視線を落としたまま、黙っている。
むぎはその様子を見て、小さく息を吐いた。
「別に責めようって訳じゃない」
淡々とした声。
「川口さんがどう思ってるかで、私も対応変えようかと思ってるだけ」
川口は、しばらく何も答えなかった。
視線を落としたまま、言葉を探すように沈黙が続く。
やがて、渋々といった様子で口を開いた。
「……人を殺すのは、嫌」「殺されるのも……嫌」
むぎはそれを聞くと、一歩踏み込んで顔を近づける。
「もし、それをしないで上手くやれるなら、そっちの方がいい……?」
静かに問いかける。
「その代わり、私が仕事するのの邪魔とかできないようにするけど……」
すみれはまた黙る。
答えが出せないまま、ただむぎの目を見ていた。
そして——ふいに、むぎの身体を突き放す。
「……っ」
そのまま、涙目で首を横に振る。
言葉にはしないまま、背を向けて走り去っていった。
足音が遠ざかる。
むぎはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
(……断られた、か)
形としてはそうだ。だが——そこまでの信念はない。そう感じていた。
完全に拒絶しているわけではない。
ただ、答えを出しきれていないだけ。
むぎは少し考える。
「……もう少し練ってから聞き出すか……」
そう呟くと、踵を返す。
そのまま、静かな夜の中へと歩き出した。
碧星院高校の地下。コンクリートの壁に囲まれた整備スペースで、むぎは机に肘をつきながら銃の手入れをしていた。隣では、リリも同じように作業している。
「……もうちょっと離れてやりなよ……」
リリが呆れたように言う。
「嫌だ」
しかしむぎはそのまま、むしろ肩が触れそうなくらいに近づく。
「近いって……」
リリが小さくため息をつく。
手元にはH&K USP。
スライドを後退させ、チャンバーに弾が入っていないことを確認してから、マガジンを抜いて机に置く。
スライドを少し戻し、分解位置に合わせてテイクダウンレバーを引き抜く。
そのまま前方へスライドを外し、フレームと分離。
リコイルスプリングとガイドロッドを取り外し、最後にバレルを抜く。パーツが机の上に整然と並ぶ。
一方のリリのSIG SAUER P226。
同じようにマガジンを抜き、スライドを引いてチャンバーを確認。
安全を確認してから、スライドを少し後退させてスライドストップ位置で固定する。
フレーム側のテイクダウンレバーを90度回転させ、スライドストップを解除。
そのままスライドを前に滑らせて外す。
内部からリコイルスプリングを取り出し、続けてバレルも外す。
むぎはUSPのバレルをクリーニングロッドに通したブラシで掃除しながら、横目でリリを見る。
「高い銃使ってんなぁ……」
半目でぼやく。
「水浸けても使えるってマジ……?」
P226をまじまじと見つめる。リリはパーツを布で拭きながら、軽く肩をすくめた。
「マジだけど、別に好きでやってるわけじゃないよ」
スライドのレール部分に軽くオイルを差しながら続ける。
「確かに耐久性は高いし、信頼性もある。でも——」
バレルを手に取り、チャンバー周りを点検する。
「重いし、フレームが金属だから手入れサボるとすぐ劣化する。あと、海水とかだと普通にダメージ入る」
さらっと現実的な話をする。
「それにダブルアクション重いでしょ。初弾のトリガー、慣れないとズレる」
むぎは「ふーん」と言いながら、USPのスライド内部を布で拭く。
リリはちらっとその様子を見て、今度はUSPを指さした。
「そっちの方が扱いやすいと思うよ」
「え?」
「ポリマーフレームだから軽いし、反動も吸収しやすい。耐久性も高いし、水にも強い」
むぎの手元を覗き込む。
「あとセーフティとデコッキング一体型でしょ?操作もシンプル」
バレルを戻し、リコイルスプリングを組み込む。
「へぇ……じゃあこれ当たりじゃん」
「まあね」
リリもP226を組み直しながら答える。
スライドをフレームに戻し、後退させてテイクダウンレバーを元に戻す。
動作確認でスライドを数回引き、トリガーとデコッキングレバーの動きを確かめる。
むぎも同じようにUSPを組み上げ、スライドを引いて確認する。
「……ねえ」
不意に、むぎがさらに距離を詰める。
「まだ近いって……」
「いいじゃん別に」
リリが呆れた顔をする中、むぎは完成したUSPを軽く構え、満足そうに頷いた。
リリがふと手を止め、
「……私はファイブセブン撃ってみたいかな」
ぽつりとした一言。
むぎは「あー……」と気の抜けた声を出す。
そのまま、自然とあの顔が浮かぶ。
「あー……」
少し間を置いてから、
「今度話しとくよ」
と軽く返す。
むぎの頭の中では、別のことが動いていた。
りこは世怜音女学院の生徒。
もし、旧蘭阜市で仕事をしている生徒と接点があるなら——
あの場所を、“人を殺めたくない”新東京ポートの生徒たちの拠り所にできるかもしれない。
そんな可能性が浮かぶ。
むぎは少し考え込んでから、隣のリリに目を向ける。
「ねぇ……」
口を開きかけた、そのとき。
地下室の扉が開いた。
「ご飯よ〜……」
エプロン姿の緑髪が、ゆるい調子で顔を出す。
二人を見て、軽く手を振る。
リリは顔を上げるが、むぎは一瞬だけ視線を向けて、
「ごめん、後にする……」
と短く言った。
手入れを終えた銃をカウンターに戻す。
そのまま振り返らず、地下室を出ていった。
所変わって、リリとむぎの部屋。オムライスをスプーンで崩しながら、ぽつりと呟いた。
「Σで……戦えない子供達って、どうしてんだろう……」
隣で食べていたガクが、顔も上げずに答える。
「無理して戦う必要はないだろ」
軽い口調。
「学生は学生なんだから、座学と訓練だけしてれば良い」
むぎはすぐに首を横に振る。
「いや、そうじゃなくてさ」
少しだけ声が低くなる。
「……リリちゃんとか……強い人と違って」
スプーンを持つ手が止まる。
「Σは……戦えない人は……自分の身の振り方を選べないから」
視線を落とし、手元のスプーンを見つめる。
「誰か強い人に付き従うしか無い……」
そのまま、小さく続ける。
「人を殺せって言われて、嫌だって言える人なんて……一握りもいない」
「自分の気持ちなんて、全部無視される」
少し間を置く。
「だから、みんな藁にも縋る思いでサクヤについて行った……」
静かな声だった。
その話を聞きながら、緑髪の女性――森中花咲は箸で唐揚げをつまむと、そっとむぎの皿に足した。
「……なんか、ごめんね」
申し訳なさそうな顔。
「管理が行き届いてなくて……」
むぎは顔を上げる。
「気にしなくていいよ」
あっさりと言う。
「かざちゃんは免許持ってるだけで、教官じゃないじゃん」
オムライスを一口食べながら続ける。
「免許も叶さんに取らされただけでしょ」
森中は苦笑いを浮かべる。
「まあ……それはそうだけど……」
どこか納得しきれないような顔のまま、箸を止めた。
リリがふと顔を上げて、むぎを見る。
「そういえば」
少し間を置く。
「さっきのあれ……なんだったの?」
視線を合わせる。
「もしかして……その話?」
むぎはスプーンを持ったまま、小さく頷く。
「うん……」
少しだけ考えるようにしてから続ける。
「エージェントとしての居場所がないなら、他に仕事とかあれば良いかなって思って」
その言葉に、リリはすぐに首を横に振った。
「できるかどうかはともかく」
真面目な口調になる。
「組織と関係ない仕事はさせるわけにいかないでしょ」
箸を置いて、むぎを見る。
「今は実を結ばなくても、いつか役に立って働ける時が来るかもしれないじゃん」
少し強めに言う。
「それを関係ない適当な仕事させてたら……」
一拍置く。
「はっきり言って、その頑張ってる子達にも失礼だと思うよ」
その目は真剣だった。
むぎは視線を逸らす。
(……そうかな……)
小さく考え込む。
その空気を、ガクが軽く崩す。
「夕陽もバカだな……」
呆れたように笑う。
「むぎっちはそんなこと解ってるよ」
箸をくるくる回しながら続ける。
「関係ない仕事なんて振らねえから」
そして、むぎの方を見る。
「お前が思ってること、やってみれば良いじゃね?」
軽い口調だが、後押しするような言い方だった。
食事が終わった後の部屋。
シンクでは、水の音が静かに響いている。
森中は袖を軽くまくり、手際よく皿を洗っていた。
泡立ったスポンジで皿を滑らせ、水で流し、次々と重ねていく。
その手を止めずに、ふと上を見上げる。
「椎名さん」
声は何気ない調子だった。
次の瞬間——天井の隅から、するりと影が落ちる。
「見てきたで〜、旧蘭阜市の反対側」
軽い声とともに、3年前よりもやや背が伸びた椎名唯華が天井から降りてきた。
音もなく床に着地すると、そのまま気だるそうに伸びをし、和装の裾を軽く直しながら、にやっと笑う。
「これで荒木のおばちゃんのアイス食っても怒られへんなぁ」
森中はそれに反応せず、洗い終わった皿を食洗機に入れていく。一枚、また一枚と無言で並べながら、ぽつりと聞いた。
「ソフィア……まだ旧蘭阜市にいるの?」
椎名は肩をすくめる。
「さあな」
そのまま壁にもたれかかりながら、ぼんやりと天井を見る。
「お互いを探らんのが忍やねん」
「スパイは忍者じゃないでしょ」
椎名は一瞬だけ間を置いて、にやっと笑う。
「西洋行ったらスパイ、東洋行ったら忍者や」
さらっと言い切る。森中は呆れたように小さく息をつく。
椎名はそのまま続ける。
「うちはニンジャスレイヤーとちゃうで。同業他社はやりづらいねん」
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人通りの多い街中。
信号の変わる音、車の走行音、雑踏のざわめき。
誰もがそれぞれの目的地へと足早に歩いていく中で——
ひとり、ゆっくりと歩く女性がいた。
淡い色の長い髪が、風にわずかに揺れる。整った顔立ちはどこか冷ややかで、感情の起伏を感じさせない。
そのシルエットは洗練されていて、無駄がない。その姿は街に自然と溶け込んでいるはずなのに——なぜか、周囲の空気だけが微かに変わる。
すれ違う人々は、無意識に視線を逸らし、あるいは気づかないまま、ほんの少しだけ距離を取る。
音も、匂いも、温度さえも。
彼女の周囲だけが、わずかに静まり返っているようだった。
そのまま、一定の歩調で進む。
表情は変わらない。視線も、どこか遠くを見ているようで、誰とも交わらない。
——ふと。彼女の足が止まる。
古びた商店街の一角。小さなたい焼き屋の前。
鉄板の焼ける匂いが、ほんのりと漂っている。
カウンターの前に立つ。無言のまま。店の奥から、老婆が顔を出す。
「あら」
柔らかな笑顔。
「今日はあるよ」
その瞬間——女性の顔が、変わった。さっきまでの冷ややかな表情が、ふっと崩れる。
ぽかん、としたような、間の抜けた顔。
「……!」
目が、きらりと輝く。無言のまま、じっと老婆を見る。
その瞳には、さっきまで一切なかった感情が、はっきりと浮かんでいた。
期待と、わずかな喜び。さっきまで街の空気を変えていた存在が、まるで別人のように、その場に立っていた。