月曜日。むぎは旧蘭阜市の通りを歩いていた。
前に来た時よりも、わずかに人の気配がある。まばらではあるが、確かに生活の気配が戻りつつあるような空気。
その視線の先——観光案内所に、灯りがついている。
「……やってる」
小さく呟き、そのまま歩みを進める。入口の前に立ち、透明な扉に手をかける。
開けると、カラン——軽やかな音が鳴る。同時に、ふわりと澄んだ木の香りが漂ってきた。中は、相変わらず整然としている。誰もいないはずなのに、机もパンフレットも、ぴしっと揃っている。
むぎはゆっくりと中へ入る。奥を見るが、人影はない。
代わりに、端の方にドリンクバーが目に入る。むぎは特に迷うことなくカップを取り、アイスティーを注ぐ。
氷の音が、静かな空間に響く。そのままカウンターに向かい、呼び鈴をチンと鳴らす。
椅子に軽くもたれながら、アイスティーを一口飲む。
しばらくの静寂。その直後——奥の扉が勢いよく開いた。
「君を笑顔にご案内〜!」
明るい声とともに、黄色いチャイナ服風のアイドル衣装を着た少女が、元気よく飛び出してくる。
その瞬間。
「——っ!?」
むぎは思わず、口に含んでいたアイスティーをぶっと吹き出した。
目を見開く。カウンターの向こうで、にこにこと笑っているその顔。
間違いない。いつもあっているジャージ姿の兵士、司賀りこだ。
りこはくるりと振り返り、満面の笑みを浮かべる。
「むぎ先輩、ご案内〜!」
そのまま勢いよく外へ飛び出していく。
「はぁ……」
むぎは半目のまま、小さくため息をつく。
「めんど……」
ぼやきながらも、結局その後をついていく。整備された通りを抜けると、景色が少しずつ変わる。
舗装は途切れ、ところどころに瓦礫が残る。だが、その中に混じるのは——
赤い提灯や、装飾の施された門。どこか中華風の雰囲気を残した大通りだった。
りこは軽やかに歩きながら、振り返る。
「こっちこっち!」
しばらく進んだ先。通りの中央に、それはあった。
白い石で造られた、大きな像。狼のような姿をした神獣。
鋭い牙、流れるような体躯。静かに佇みながらも、どこか威圧感を放っている。
りこはその前でぴたっと止まり、ぱっと両手を広げた。
「これが蘭阜市の守り神、白牙の幻獣だよ!」
誇らしげな声。
「へぇ……」
適当に相槌を打ちながら、像を見上げる。りこはさらに続ける。
「でも白牙の幻獣だとなんだか言いづらいから、地元だとルンルンって呼ばれてるんだ!」
「いや……威厳落ちすぎだろ」
即答だった。呆れたように顔をしかめる。
「終わってる終わってる……」
ぼそっと呟く。すると、りこがぱっと顔を明るくする。
「あっ、そう!」
指を立てて、嬉しそうに言う。
「ルンルンの口癖も、『終わってる終わってる……』なんだよ!」
「いや流石に嘘だろ……」
低い声で呟いた。
中華風の通りを、二人は並んで歩く。赤い提灯はところどころ色褪せ、立て看板も傾いたまま放置されている。
店先のガラスは弾痕に撃ち抜かれ、ひび割れたまま。整備された区画とは違い、この辺りはまだ“そのまま”だった。むぎは周囲を見回しながら、ぼそっと言う。
「この辺、杭地雷無かったっけ……」
りこはあっさり頷く。
「そこの角曲がったところだね」
少し先を指さす。
「今もあるよ」「……そのままなんだ」
むぎは小さく息を吐く。少し歩いたところで、むぎが何か言いかける。
「あのさ……」
だが、その言葉を遮るように、りこがぱっと前を指さした。
「あそこ!」
視線の先。通りの奥に、大きな建造物が見える。中華風の装飾が施された、堂々とした建物。
「蘭阜迎賓館!」
りこが誇らしげに言う。
「本場の香港の建築家に製作してもらった場所で……」
建物を見上げながら続ける。
「昔は展示会やったり、いろんなことに使われたんだけど」
少しだけ表情が緩む。
「最近はすっかり手付かずだねぇ」
むぎはその建物をじっと見ていた。しばらくして、ぽつりと呟く。
「……この辺、使えるようにならないかな」
りこがちらっと横を見る。むぎは続ける。
「最近なんか、変なパパラッチとかも来てるから……」
視線を逸らさずに言う。
「早く直した方がいいと思う」
そして、少し強めに。
「地雷処理とか、廃棄物の処理とか」
一つ一つ区切るように。
「できる人いた方がいいんじゃないかな」
さらに言葉を足す。
「後は……事務処理とか!」
りこはしばらく黙って聞いていたが、首をかしげる。
「……何か企んでる?」
じっと顔を見る。
観光案内所に戻ると、先ほどと同じように扉のベルが軽く鳴る。中に入ると——カウンターの向こうに、青い衣装を着た少女が座っていた。
足をぶらぶらさせながら、りこを見ると、ひらひらと手を振る。
「もう交代の時間だよ〜」
気の抜けた明るい声。
「お疲れ〜」
りこも同じように手を振り返す。
「おつかれ〜!」
そのまま横にいるむぎの方を振り向き、
「この人——」
紹介しようとした、その瞬間。少女はむぎの顔を見て、ぴたりと動きを止めた。
「うおっ、家長むぎじゃん……」
ぽつりと呟く。りこが目をぱちぱちさせる。
「あっ、やっぱりナナも知ってるの?」
ナナは頬杖をつきながら、むぎをじーっと見て、
「あー……うちの学校の有名人の……腰巾着?だった人だよ」
さらっと言う。むぎの眉がぴくっと動く。ナナは構わず続ける。
「その有名人は『命が大事です〜』なんて言うお花畑さんでさ」
手をひらひらさせる。
「腰巾着さんもまあそんな感じだったらしいんだけど……」
少し身を乗り出して、興味深そうにむぎを見る。
「それが転校してから、血に飢えたようにじゃんじゃか人殺すから先生達は大騒ぎよ」「……」
むぎは無言で見返す。りこはむぎの肩にぽんと手を置く。
「そして今はしがりこの腰巾着!」
どや顔。
「んなわけあるか」
即座にその手を払いのける。ナナはそのやり取りを見て、くすっと笑った。
ナナはカウンター越しにむぎを見ながら、少し首をかしげた。
「で……何の用?家長むぎさん」
軽い調子だが、視線はしっかりと向けられている。むぎは一瞬言葉を選ぶようにしてから、
「その、有名人のことで相談があるんだけど……」
と切り出す。
——その時。ナナのスマホが震えた。
「……はぁ」
少し面倒そうに取り出し、画面を見る。そのまま通話ボタンを押す。
「今仕事中なんですけど……」
ぶっきらぼうに出る。
だが、次の瞬間。ナナの表情が、わずかに変わる。
無言で、電話越しの話を聞く。数秒。
それから短く答えた。
「……んじゃ、向かいますね」
静かな声だった。通話を切ると、すぐに立ち上がる。
「今日店仕舞いするよ」
りこに向かって言う。
「もねちに早閉めするって電話しといて」
「はーい!」
りこはすぐに動き出す。二人は慣れた様子で、案内所の片付けを始める。パンフレットをまとめ、電源を落とし、ドリンクバーも手早く処理する。その動きには無駄がない。
数分経つうちに、閉店準備は終わっていた。
「行くよ」
ナナがそう言うと、二人はそのまま更衣室へ走る。
むぎは少し遅れてその後を追い、扉を開ける。中を覗き、そのまま入る。
「私も行っていい?」
ナナは灰色のベストに袖を通しつつ、ちらっと見る。
「碧星院寄ってる暇ないから」
ロッカーを開け、中からガンケースを取り出す。
「ナナの銃使ってくれる?」
それをむぎに片手で渡す。
むぎは受け取り、ケースを開ける。中を確認する。
「S&W M&P」
「弾丸はりこのと共有できる」
むぎは一度だけ中身を見て、静かにケースを閉じる。
「わかった」
短く答えた。
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観光案内所の前。夕方の光が落ち始め、通りの人影も少なくなっている。
その中で——一人の女性が立ち止まっていた。
手にはビデオカメラ。肩には機材バッグ。
鏑木ろこは、案内所の入口をじっと見つめている。扉には札がかかっていた。
「準備中」
ろこは一歩近づき、ガラス越しに中を覗き込む。室内の電気は消えている。
人の気配も、音もない。あれだけ整っていた空間が、まるで最初から無人だったかのように静まり返っている。
「……いない?」
小さく呟く。腕時計をちらっと見る。それから、もう一度札を見る。
「今日、月曜日だよね……?」
少し驚いた顔。
本来なら、開いているはずの時間。それなのに、完全に閉まっている。
ろこはしばらくその場に立ち尽くし、ガラスに映る自分の顔と、暗い室内を交互に見つめていた。