FILE2-1:レオン・ヴィンセント
喫茶店の窓際。午後の光がガラスを薄く白けさせ、通りを行き交う人影をぼんやりと映していた。
鏑木ろこは、テーブルに突っ伏しそうな勢いで項垂れていた。
「……仕事クビになったわ……」
目の前のアイスコーヒーにはほとんど手をつけていない。
ストローだけが、氷に押されてかすかに揺れている。
向かい側では、栞葉が静かにコーヒーカップを口元へ運んでいた。
黒髪を揺らしながら、ゆっくりと一口。
苦味を確かめるように目を細め、それから淡々と言う。
「そのうち後ろから刺されないようにね」
「縁起でもないこと言わないでくれる!?」
ろこは顔を上げる。
だが反論に勢いはない。むしろ、本気でありえそうだと思っている顔だった。
「いやだってさぁ……! 私そんな悪いことしてないじゃん!? ちょっとだけ! ほんのちょっと!」
「自分で“ちょっと”って言うやつ、大体かなりやってる」
「偏見だろそれ!」
栞葉は特に笑わない。
ただスマホを取り出し、親指で動画サイトを流し見していた。
しばらく無言。
そのあと、不意に小さく鼻で笑う。
「……ふっ」
「なによ」
「“大暴れする大社長GB”だって」
「は?」
ろこが眉をひそめる。
栞葉のスマホ画面には、丁寧に切り抜かれた動画が映っていた。件の社長の暴れている映像をくり抜き、背景を緑色にして編集素材にしたもの。
「日本だと悪い事するとMAD素材になるらしいよ」
そう言って、栞葉はスマホを閉じた。ろこは呆れたように椅子へ背中を預ける。
「……取り締まらなくて良いの?」
「こんなん消しても増えるだけだよ」
栞葉は淡々としている。
「まあしばらくしたら落ち着くよ」
栞葉は窓の外を見た。
夕方前の街。
信号待ちの群衆。
笑っている学生。急ぎ足の会社員。
「騒いでるやつって、飽きたら次行くし」
「はぁ〜……」
ろこは大きくため息をつく。
「なんか、そういうの慣れてるよね……」
「見慣れてるだけ」
短い返答。
その声音には感情の起伏がほとんどなかった。
店内のスピーカーから、古いジャズが小さく流れている。カップ同士が触れる乾いた音。コーヒー豆を挽く機械音。
そんな静かな空間の中で、ろこだけが妙に落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
「……で、これからどうすんの?」
栞葉が聞く。
「いやそれを今考えてんのよ!」
「再就職?」
「軽く言うなぁ〜!?」
ろこは頭を抱える。
椅子にもたれたまま、大きくため息を吐いた。
「……もう終わりよ、私の人生」
「大袈裟」
栞葉は即答する。
テーブルの上では、スマホの画面が淡く光っていた。
ニュースサイト、動画アプリ、メッセージアプリ――いくつもの画面を流し見しながら、栞葉は不意に言う。
「仕事先紹介しよっか」
ろこの動きが止まる。
「……は?」
「だから仕事」
「いや、どうせどこの新聞社にも目つけられてるって……」
ろこは力なく立ち上がり、椅子の背に掛けていたバッグを手に取った。
「介護とかその辺なら雇ってくれるかなぁ……」
完全に覇気がない。
鞄に財布を雑に突っ込みながら、肩を落としている。
栞葉はそんな様子を横目で見ながら、スマホを操作したまま呟いた。
「ちょっと自信あるんだけどなぁ」
「えぇ……」
ろこは胡散臭そうな顔をする。
「私、他って言ったら遊園地のバイトくらいしかやったことないよ」
「へえ」
「その遊園地、三日で潰れたし……」
「最悪じゃん」
栞葉は淡々と返すが、少しだけ肩が揺れている。
笑っているのかもしれない。
「まあ任せときなさい」
そう言って、栞葉は胸を張った。
ろこはその顔をじっと見る。
「……妙な仕事……は、ないか」
一瞬だけ疑うように目を細める。
だが次の瞬間、何かを思い出したように表情を戻した。
「あ、いや……まあ栞葉だし……」
警察官をしている以上、変なことに繋げられることはない。ろこは小さく頷いた。
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東堂家の屋敷。
重厚な木材と白い石で統一された廊下は、昼間だというのに静まり返っていた。
大きな窓から差し込む陽光だけが、長い絨毯の上に淡く伸びている。
その一室――
東堂セツカは、革張りの椅子に腰掛けたまま、部屋の隅に置かれた大型のパソコン画面を見つめていた。
画面には、複数の証券チャート。
赤と緑の数字が高速で切り替わり、海外市場の情報が絶え間なく流れている。
その傍らには、折り畳まれた新聞。
経済欄には、大企業の不祥事と急落した株価の記事が載っていた。
静かなノック音。
「お嬢様」
老執事が、音を立てぬよう部屋へ入る。
「どうされるのですか?」
その問いに、セツカはきょとんとした顔で執事を見上げた。
「……?」
本気で何を聞かれているのか分かっていない顔だった。
数秒ほど沈黙。
やがて、ようやく思い至ったように、小さく「ああ」と呟く。
「もうだいぶ前に全部売りましたわ」
視線を再びモニターへ戻しながら、淡々と続ける。
「あの方……人の性別だけ見てコロコロ人柄を変えるんですもの」
その声音には、失望と嫌悪が半分ずつ混じっていた。
「まさか、あんなところで油を売っているなんて……」
そして、小さくため息。
「気持ち悪い」
冷え切った言葉だった。
執事は何も返さない。ただ静かに頭を下げ、数歩後ろへ下がる。
部屋には、パソコンの冷却ファンの音だけが残った。
セツカは頬杖をつきながら、証券画面をぼんやり眺める。
その時――
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてくる。
ノックもそこそこに、ひとりの男子高校生が部屋へ入ってきた。
細身の体格。
整った制服。
眼鏡の奥の瞳には、どこか飄々とした知性が浮かんでいる。
「災難でしたね」
その男――レオン・ヴィンセントは、どこか他人事のような口調で言った。
「あの代表が行うプロジェクトは、私も興味深いものばかりでしたので……残念です」
言いながら、室内のモニター群へ視線を向ける。
セツカはその言葉を聞き、深く、深くため息をついた。
「はぁ……」
頭痛を堪えるように額へ指を当てる。
「どうして皆、勝手に勘違いして“気遣い”を始めるんですの……」
その声には、心底うんざりした響きがあった。
レオンは肩をすくめる。
「違うんですか?」
「違いますわ」
即答だった。
セツカは椅子へ深く座り直し、冷めた目で天井を見上げる。
レオンは部屋の中央まで歩み寄ると、静かに眼鏡の位置を直した。
東堂家の応接室には、午後の淡い光が差し込んでいる。
窓の外では庭師が枝を整えているのか、時折はさみの乾いた音だけが聞こえていた。
そんな穏やかな空気の中で、レオンは淡々と言葉を続ける。
「物部家の一件以来、時間はずっと止まったままだと聞きます」
セツカは何も答えない。
ただ頬杖をついたまま、パソコン画面に映るチャートをぼんやり眺めていた。
「今回のジャーナリストが動いていただければ、より多くの方を救うことができるように思いますが……」
レオンはそこで少し間を置く。
「七次元審査会にも……」
その名が出た瞬間だった。
セツカはゆっくりと視線を上げる。
肘をつき、組んだ指先へ顎を乗せるような姿勢のまま、まっすぐレオンを見た。
「審査会は……Σのレジスタンス組織ではありませんわ」
静かな声音。
だが、その一言で室温が数度下がったような感覚があった。
「左翼的な行動を助長するなら、それはテロリズムと変わらない」
レオンは反論しない。
ただ静かに聞いている。
セツカは視線を窓の外へ流しながら続けた。
「それに……仮にΣが復活して動いていたとしても、そのΣを完全に葬り去るなんて不可能ですわ」
風が吹く。
白いカーテンがわずかに揺れ、涼しげな空気が室内を流れていった。
「もしそれをするなら、Σを作った世界の秩序そのものを正さなければならない」
その声には、妙な実感があった。
理想論ではない。
何かを長く見続けてきた人間だけが持つ、諦観に近い響き。
「麻薬カルテルや暴力団、闇金の追放みたいな活動と一緒ではありませんもの」
「……てっきり、Σを滅ぼしたいのだとばかり思っていましたが……」
どこか意外そうに呟いた。
「意外と弁えていらっしゃるのですね」
その言葉には、ほんの少しだけ棘が混じっていた。
セツカの眉がぴくりと動く。
「……失礼な方ですわね」
彼女は両手を組み直し、椅子へ深く背を預けた。その仕草は優雅だったが、目だけは笑っていなかった。
東堂家の屋敷を出ると、外の空気はひどく静かだった。
高い塀に囲まれた邸宅街。
整えられた街路樹。
遠くで小鳥が鳴いている。
レオン・ヴィンセントは石畳の歩道を歩きながら、スマホの通知を流し見していた。
海外の研究所からのメール。
大学教授からの査読依頼。
共同研究データの確認通知。
その量は、高校生が処理するものとは到底思えない。
七次元審査会――東堂セツカが立ち上げた、小規模な組織。
資産家、研究者、音楽家に道化師。一見無関係そうな人間たちが、それぞれの専門知識を持ち寄り、情報交換を行う場。
レオンも、その一員だ。
住宅街をしばらく歩いたところで、一台のタクシーが通りかかる。
レオンは軽く手を上げた。
静かに停車した車へ乗り込み、行き先だけを短く告げる。
タクシーが走り出すと、彼は肩に掛けていたバッグからノートパソコンを取り出した。
薄い金属製の筐体。
画面には大量の論文データと数式。
その中の一つを開く。
タイトルを見た瞬間、レオンの口元がわずかに緩んだ。
「……やっぱり面白い」
画面に表示されている著者名。
――葉加瀬冬雪。分子構造解析と生体適応実験に関する論文だった。
彼女は、結果のために研究する人間ではない。
名誉のためでも、金のためでも、社会貢献のためでもない。
ただ純粋に、“知りたい”から実験を続ける。
未知を解き明かしたい。
理解したい。
その欲求だけで前へ進み続ける。
それこそが、レオンの理想だった。
タクシーの窓の外では、街並みが後ろへ流れていく。
赤信号で車が止まる。
レオンは画面をスクロールしながら、小さく呟いた。
「無駄がない……」
論文の構成。
仮説。
検証。
失敗例の扱い方。
どれも見事に洗練されている。
そこには“研究者として良く見られたい”という欲望が存在しない。
あるのは、知識への執着だけ。
レオンは、その繊細な純度に魅了されていた。
本当に価値があるのは、“世界を前に進める知性”だった。
窓に映る自分の顔をぼんやり見つめながら、彼は静かに目を細める。
「……やっぱり、研究者は美しいな」
それは恋慕ではない。信仰にも近い、純粋な敬意だった。