本ページは、「もしも漂泊者に同行するのが追跡者でなかったら?」というIFを元に書いた、作者のお遊びです。基本的に続きません。
くれぐれもご了承ください。
第二章・第九幕 今宵は月の手のもとに
リナシータはセブン・ヒルズ、その遥か東――サングイス狩猟台地。
偽りの神王を打倒し、黒潮の撃退に成功したグラディエーターたちは、マルーンウッド狩り場にて凱旋の祝典に興じていた。主役は勿論、“新たな英雄王”ことオーガスタ総督と漂泊者だ。
だが――当の漂泊者は、その心にひとつの
(誰もユーノを覚えていない……何がどうなってるの?)
“諭しの女”ユーノ――月の矢を放って黒潮を浄化し、偽りの神王を丸裸にして、勝利に導いた重要人物。だというのに、その功績はおろか、彼女の存在そのものを誰も記憶していないのだ。漂泊者だけが、奔放な彼女の姿を覚えている。しかし“諭しの女”たちのみならず、親友オーガスタでさえ、「そんな人物は知らない」と言い切った。挙句の果てに、「黒潮による精神干渉がもたらした妄想だろう」とまで言われてしまったのだ。
いよいよ判断に窮した漂泊者は、凍り付いた精神と思考を必死に稼働させながら、傍らの人物に問いかけた。
「――
その人物――
「ふむ……事実を順番に整理しましょうか」
「“諭しの女”ユーノ……僕たちは必ずしも一緒に活動していたわけではありませんが、その間に接触した人物ではないのですね?」
「ああ。闘技大会でも、オーガスタと一緒にいた。私と個人的な関係を持っていたわけではなく、あなたも観客席から見ていたはずだ。
それに、確かに言っていた。『調査の必要がありそうです』と」
「ふむ……具体的な調査を? 手元の資料を確認しましょう」
漂泊者の返答に、学者は背嚢から分厚い手帳を取り出し、その内容を検め始めた。“諭しの女”という職業への単純な知的好奇心からか、それとも彼女自身に何かしらの謎を見出したか――いずれにせよ、何か調査を行ったのであれば、その記録が残っているはずだ。
「さて――あなた自身に明確な記憶が存在し、『月の矢を放って障壁を破った』という具体的な出来事として説明できる以上、
『歴史』という大きな時代のうねりを前に、個人の痕跡は容易く埋もれますが、しかし完全に消失することはありません。あなたの言う“諭しの女”ユーノは、何かしらの形で存在していた、と考えるのが妥当でしょう」
強く頷く漂泊者を前に、しかし学者は「一方で、オーガスタ総督の推測にも一定の説得力があります」と釘を刺した。オーガスタ自身が告白した、彼女にだけ聴こえるという『神王の囁き』――黒潮が編み出した妄想と囁きのことだろう。
「同化と融合の権能を有する、鳴式レビヤタン――かの存在は、リナシータ人の深層意識に干渉することが可能です。敵対的とはいえ多くの接触を持ったあなたに干渉し、『存在しない人間の記憶』を植え付け、何かしらの意識操作を試みている……というのは、そこまで飛躍的な推測でもないかと」
「あなたも一緒に戦ってきたはずだけど?」
「はは、あなたは冗談が上手い。かの鳴式ともあろうものが、こんな文弱の徒に目をつけるとでも?」
漂泊者の言葉に、学者はからからと笑った。「冗談じゃないよ」と漂泊者は冗談を重ねそうになった。学者自身は激しい戦闘を得意としないが、その共鳴能力は『神秘』――それに類する異常効果の付与に特化しており、漂泊者もよくよく支えてもらっている。何よりその刺剣さばきは、決して『文弱の徒』では済まされない鋭さを有している。
閑話休題。学者は話を戻すことにした。
「とにかく、“諭しの女”ユーノ自身は『存在する』あるいは『した』――これ自体は、確信を持っていいでしょう。
重要なのは、あなたの認識です。僕やオーガスタ総督ですら覚えていない事実を、あなただけが有している。結末は同じながら、過程に決定的な食い違いがある。この差異は一体何なのか?
“空白の者”という肩書に一筋の希望を見出し、思考を打ち切ることも可能ですが――現状の打開には遠そうです。漂泊者さん、
「私と彼女に関わる……? ――そうだ、これはどう?」
学者の問いに、漂泊者はあるものを思い出し、背嚢から取り出した。ルナオーラムを削り出した、月を象る青いブレスレットだ。
「ブレスレットですか。これ自体は、何か特別な
「そう。神王と対峙する直前に貰ったんだ」
「なるほど……では、
そう言うと、学者は
彼が有する
学者が左目の
だが――
「――……これは……」
しばらくブレスレットを見つめていた学者は、次第にその表情を驚愕に染めていった。
「――あなたの言う、ユーノという女性は……月のような青い瞳、それに青い髪を二つ結びにした、若い巫女のことで合っていますか?」
「うん。見えた?」
「――……これは……とても、不思議な事態だ……」
ブレスレットを隅々まで観察しながら、学者は半ばうわ言のように呟いた。目の前の事態、そして暴いた過去を、彼自身が信じられないかのようだった。
やがて学者は、
「何が見えた?」
「――事態が、複雑に絡まっている……テトラゴン真殿にも問い合わせなくては……
いえ、まずは順番に。今見たものを、つぶさに説明しなくてはなりませんね」
自らの裡で吹き荒れる焦燥を、学者は冷静に抑えつけた。重要なのは客観性だ。自分だけが捉えた主観的な視点ではなく、漂泊者に説明するために言語化し、彼女の意見を受けて客観視する。それが、文化史を研究してきた自らにとって、最も重要な価値観だ。
学者は深呼吸をすると、漂泊者の金瞳を見つめながら、静かに語り始めた。
「まず前提として、『ユーノという女がいた』というのは事実です。“諭しの女”として、テトラゴン真殿に在籍していたのも間違いありません。
ですが――彼女は、
「……え……?」
その言葉は、漂泊者の心を大きく揺さぶった。それに構わず、学者は冷静に語りを続けた。
「昨日今日の話ではありません。
「で、でも――そんな、はず……」
「ええ。
動揺する漂泊者を宥めるように、学者は説明を続けた。彼自身、深い動揺に支配されている様子だった。
「誰も覚えていない現状、死亡したという過去、しかしここに所有物がある現在、そしてあなたの記憶――過去と現在が錯綜し、説明不可能な
何がどうなっている――? 混乱を深める漂泊者の心を、鎮めることができる者は存在しなかった。
ユーノは死んでいる。それを覚えている者すらいない。でも、自分は覚えている。彼女は確かに生きていて、自分にこのブレスレットを託してくれた。あの朗らかな笑顔が、偽りであるはずがない――
動揺する漂泊者を見つめながら、学者は再び口を開いた。
「……一つ、光明があるとすれば――」
「なに?」
「彼女の最期に、不自然なノイズが存在しました」
一縷の希望に縋る漂泊者に対し、学者はあくまでも冷静に、慎重にその違和感を言語化した。
周波数エナジーの乱れ――それが、彼女の最期を曖昧にしていた。学者が「三年前に死亡した」と断言できたのは、そのノイズ以降の記憶が存在しないこと、そして直前に見つかった日付の記憶から推測したものだ。
彼自身、多くの過去に触れてきた。必要以上に感情移入しないよう、読み取る記憶は最小限にしてきたが、それでも『持ち主の最期』に触れてしまうことはままある。しかしブレスレットの記憶は、そこに刻まれたユーノの最期は、決定的に異なっている。
「海蝕現象のありふれた一例なのか、黒潮に呑まれた生命特有の事象なのか、それともユーノさん自身に何か異変があったのか――情報が少なすぎて、これと断定することはできません。
ですが、彼女の最期には
テトラゴン真殿に行きましょう、と学者は提案した。ユーノに関する記録――あるいは、この
◇ ◇ ◇
黒潮に呑まれた清泉。“諭しの女”ユーノが消失した、因果の特異点。
彼女の存在を取り戻すために、漂泊者は黒潮へと飛び込んだ。
『――……漂泊……さ――漂泊者、ん――!』
無数の情報が濁流する。過去と未来、存在と消失が交錯する暗闇の激流の最中、彼女はユーノの曖昧な意識を掴んだ。
『――……漂泊者さん、聞こえますか!?』
そんな漂泊者の耳に、学者の声が届いた。
『
漂泊者さん、あなたは今、
あまりにも儚げで、握っていなければ――いや、握った先から零れてしまいそうな淡い意識。存在を保てない、朧げな輪郭。
『僕は、この
過去と現在、生と死、存在と消失が錯綜する混沌――人間の手に負える代物ではありません。あなたが飛び込んでいなければ、見つけ出すのは困難でした』
ユーノとの因果の繋がりのない彼は、黒潮に飛び込むことができない。彼女を導くことができるのは、漂泊者だけ。
『あなたは、ユーノさんの意識に接触を続け、その記憶を辿ってください。
その記憶が整理され、鮮明になり、三年前の矛盾に辿り着いた時――僕たちが彼女の真実を
◇ ◇ ◇
辿る。
辿る。
辿る。
ユーノの意識の断片とともに、彼女の歩んできた人生を辿る。
鍛冶師の娘に生まれ、弓術を学び、“諭しの女”に選ばれた。それが自らの価値なのだと信じて邁進した――その記憶。
『――……彼女は、苦しい人生を辿ってきたようですね』
その最中、ふと学者の言葉が漏れてきた。
未来を憂い、“諭しの女”に縋る、幾人もの市民たち。彼らに予言を授けるユーノの記憶を傍観しながら、しかし彼は苦々しい表情を浮かべていた。
『
ですが……未来を見通すことができる彼女にとって、「未来」は
一代で財を築き上げた若い貴族がいた。
大火によって財産を失う未来を教えた。
――三週間かけて対策された彼の財は、僅かな煙草の失火から、ひとつ残らず灰塵と化した。
黒潮を堰き止めるために戦うグラディエーターがいた。
残像と戦った武器の痕跡から弱点を見抜き、残像を打倒する未来を教えた。
――残像は倒せたものの、隊員は癒えない傷を負った。
恋人との愛を信じる若い女がいた。
その結婚は不幸を生み、やがて別れることになるだろうと未来を教えた。
――その諭しを押し切って進めた結婚は、果たして二人の別離に終わった。
グラディエーターの兄の命を憂慮する双子の弟がいた。
家族に囲まれ、老いて死ぬ彼自身の未来を教えた。
――運命を謀ろうとした彼は、兄の命も、自らの人生をも失った。
どんなに抗っても、
彼女にとって、『未来』は価値のないものとなってしまった。
『どれだけ足掻こうと、人が生まれ持った宿痾から逃れられないように……彼女は、「確定した未来」を述べることしかできない。聞く者には絶望を与え、さらに足掻こうとする者にはより大きな絶望を――それらを見守ることしかできない、傍観者。とても……とても、辛いことです』
だからだろうか。
ユーノは、『運命』という言葉を嫌悪した。
最も未来を見通すことに長けていた彼女は、ゆえに最も未来に縛られている人間でもあった。
唯々諾々と従うことを嫌い、自由に生きることを渇望した。
――そして、運命の時は訪れた。
◇ ◇ ◇
運命を見た。
運命を見た。
運命を見た。
昼となく。夜となく。
あらゆる可能性を探し出した。
それでも、
七つの丘は闇に沈む。剣闘士の栄光は深淵に堕ちる。
全てを失い、何もかも無くした女を、月はただ照らすだけ。
――だったら、あとひとつ。
私が選べるのは――
◇ ◇ ◇
結末が決まっていたとしても。
避けられないとしても。
「今の私に、導きは必要ない――!」
月の巫女が吼える。
サングイス狩猟台地、黒い汚濁に穢された清泉に、ルナオーラムの弓がしなる。
『――……素晴らしい……!』
漂泊者の耳に、学者の感嘆が響いた。
――三年前の高潮。グラディエーターの部隊に同道したユーノは、全滅の運命を拒んだ。自ら弓を取り、戦うことを決意したのだ。
『漂泊者さん、彼女が何を成したか理解できますか!? 彼女がどれだけの蛮行を働いたか理解できますか!?
彼女は、「確定された未来」を
月の巫女は舞う。運命に抗うために。滅びの定めを覆すために。
『「確定された過去」と同じように、「確定された未来」を覆すことはできない。それは彼女自身によって
彼女は――“諭しの女”ユーノは、その大前提を覆した! 自らの魂をインクに変え、自らの存在をペンと化し、確定された
月はいよいよ輝きを増し、黒潮から溢れる残像たちを射貫いていく。その一筋一筋に、彼女自身の魂を込めて。
『何ということだ――運命を、摂理を、黄金律をも欺く冒涜! しかし彼女は成し遂げた! 誰もが当たり前に求める、「よりよい明日」を信じるために!!』
摂理を相手取る、大いなる反逆。永遠の女王マリカでさえ成し遂げられなかった大罪。彼女はそれを、たった一人で覆した。
夜空を照らす月光に、グラディエーターたちが立ち上がる。その槍穂の輝きを受けて、巫女はさらに高く舞う。
『何としても連れ戻しましょう、漂泊者さん! 彼女は、人間の宿命を超克する偉業を成し遂げた! その末路がこんな破滅など、あっていいはずがない!!』
学者の言葉に頷き、漂泊者は迅刀を高く掲げた。軋むルナオーラムの輝きが、混沌を切り拓く――
◇ ◇ ◇
そうして、漂泊者はユーノと再会した。
あとは、この混沌の深層から脱出するのみ。そのはずだったが――
「――ユーノ!?」
目覚めた漂泊者の目の前にいたのは、
二人は、黒潮の淵に取り残されていた。
「学者! ユーノは!?」
「分かりません。ここに辿り着いたのは、あなた一人のようです」
思わず肩を掴んで叫んだ漂泊者に、しかし学者は心苦しげに返すことしかできなかった。
「どういうことだ……『アンカー』は失敗したの?」
「分かりませんね……ここには、もう手がかりはなさそうです」
「
動揺の余り座り込み、茫然自失になりかけた漂泊者を、学者が咄嗟に支えた。
「どうか落ち着いて。『アンカー』に何かしらの成果があったのなら、ユーノさんにまつわる記録にも変化があるはずです。まずは、テトラゴン真殿に行ってみましょう」
その後、何とか冷静さを取り戻した漂泊者は、ひとまず学者とともにキャンプへ戻ることになった。
道中、奇妙な噂を耳にした。
何でも、「予言の書」に新たな痕跡が見つかったらしい。無秩序な混沌ではなく、全てを断線する破滅ではなく、あらゆる可能性を肯定する「空白」が現れたそうだ。
それと、青い髪を二つ結びにした少女の姿が見受けられたらしい。誰もその顔に覚えがないにも関わらず、彼女は全て了解済みのように、自由に振舞っているのだとか。
「――どうやら、僕たちの試みは成功したようですね」
キャンプでの聞き込みを終えた学者は、そう結論付けた。
「過去を書き換えることはできない。彼女はあくまで、『歴史の狭間に消えた人物』でしかない。
ですが、その存在を繋ぎ止めることには成功しました。まさに、あなたが望んだ通り」
それでも――不安を隠せない漂泊者の頭の上から、ひとつの声が降り注いだ。
「遠くから聞こえてきたわ……ユーノ、ユーノって。そんなに焦るなんてね」
飛び降りてきたのは、月のような青い髪を二つ結びにした少女。猫のようにしなやかに、悪戯っぽい笑みを浮かべるユーノだった。
感激に思わず胸が詰まる漂泊者の隣で、学者は恭しく礼をした。
「初めまして――と言っていいのでしょうか? 僕はしがない学者です」
「知ってるわよ。“空白の者”“闘技大会のチャンピオン”“もう一人の英雄王”――それにくっついてる、頭でっかちな文弱」
「はは、これは手厳しい。言い返せなくて悔しいと思ったのは初めてですよ」
「気を悪くしたなら謝るわ。あなたも、私の存在を取り戻してくれた一人なのだし」
学者の笑い声に、ユーノは悪戯っぽく笑った。往時の尊大な物言いとは異なる、柔らかさを伴う言葉だった。
そしてユーノは、全てを語り始めた。
――三年前のあの時、運命の冒涜を行ったことで、未来を見通す力が失われたこと。引き換えに黒潮の造物を『アンカー』する力を得たこと。彼女の渇望通り、全滅の運命は少しだけ変わったこと。運命を覆す力を確信した彼女は、オーガスタと共謀し、『英雄王を必要とする災厄』そのものを防ぐ策を弄したこと。『己の存在』という代償だけは、彼女に伏せていたこと……
「みんなは、ユーノに関する記憶を取り戻せたんだろうか」
「ここに来る途中、付き合いのある人たちに会ったけど、誰も覚えてなかったわ。たぶん、私に関する記憶は、代償として消えたままなんでしょうね」
漂泊者の問いに、ユーノは何でもないかのように答えた。その言葉の裏側に、一抹の淋しさを隠していた。
「けど、あなたたちは覚えてる。あの混沌から私を助けてくれたおかげで、この世界に戻ってこられた。だから、私は満足してる」
「ほとんど漂泊者さんのお陰ですよ。僕は、あの混沌の中であなたの過去を覗き見ただけですから」
気を取り直したユーノの言葉に、学者は謙遜した。
彼らの関係性は不可思議だ。関係性ごと混沌の彼方に消えた記憶と、彼女の半生を垣間見た学者。噛み合っているようで、噛み合っていない。混沌から直接掬い出した“空白の者”漂泊者とも異なる、奇妙な関係。
それでも、きっと、
「それに――友情とは、何も過去の積み重ねだけではない。もう一度言葉を交わし、心を通わせ、友となればいい。
もう一度、初めから。あなたは一度、成し遂げたのですから」
「……そうね。それくらいの魅力が、私にはあるものね」
そう言って、ユーノは朗らかに笑った。
漂泊者と学者――二人が全霊を懸けて、この世界に取り戻した笑顔だった。