その夜、漂泊者は辺庭の北棟で
今度は追跡者も同行していない。
僅か三日前、広報越しにしか見なかった
そして
――結論から言って、漂泊者の素性は明らかにならなかった。今州の全てを知る歳主“角”、その第一の臣ともいうべき共鳴者こと
しかしそれは、裏返せば、『瑝覧類書』が建築され記録が開始される前――すなわち瑝瓏と今州の歴史の始端となる人物、その本人である可能性が高いということ。それを確信した
現在、歳主“角”がこの今州にいないこと。
その真相を探るため、
スカーを捕えるために、漂泊者に協力を頼んだこと。
――漂泊者は、それを了承した。つまりそれが現在の状況ということであり、彼女たちの謀略はこうして結実した。
「スカー。瑝瓏領内で数十の重罪を犯した大罪人。
まだ十代の少女とは思えない、底冷えするような声で、
「弁明、ね……まあ物語の一つや二つ、用意できなくもないが……お前らは納得しない。いや、聞こうともしないだろう。
なあ、
「……いいだろう。その代わり、正確に答えよ」
まるで小娘の我儘をあやすかのように、スカーは薄笑いを浮かべたが、しかし
何から問おうか思案する漂泊者の様子を見たスカーは、虚飾を並べる理由を奪われたかのように、退廃的な笑みを深めた。猛獣の威嚇か、狂喜の歓迎か、それとも……
――何故“角”を狙うのか。
――“角”は『時』を司る歳主。未来の予知とその修正を可能とする歳主は、
――何故鳴式を復活させるのか。
――鳴式は新世界の扉を開く鍵。それらを集わせ、“真の悲鳴”をこの世に降臨させることで、新世界の扉が開かれる。
――悲鳴とは何なのか。
――災い? 呪い? 天罰? 浅慮、浅慮。
――摂理が崩壊したこのソラリスを新生させるには、無数の死と滅び、そしてそこから生まれる無数の残響が必要なのだ。
狂気的な
だが、
「何のために私を尾行した?」
「決まってるだろう。お前が欲しいからだ」
話題が漂泊者自身に移った途端、スカーは煙に巻くような言葉ではぐらかした。二人のやり取りを見守るだけの
「台風の目に身を置きながら、自分の価値の片鱗すら理解していないとは……鈍い、そして甘い。
ああ、心配しないでもいい。お前に対する興味は、何があろうと尽きないよ」
愛着か嘲弄か……スカーが浮かべ続ける薄笑いに、しかし三人は動じなかった。
――これだ。
問題は、それをどうやって問い質すか。瑝瓏のみならず世界各地で政治犯罪を起こし、幾多もの追跡を躱してきた手練れの“監察”、尋問程度では容易く口を割るまい。拷問でさえ、尋常な手段ではどこまで効果があるか。今この瞬間は、
(それよりも、問題は漂泊者だ)
逆に
「“角”の拘束、鳴式の復活、悲鳴の加速……今州に、いえ全人類に仇なす大罪だぞ。
だが、漂泊者の勧誘は諦めよ。大事な今州の客である以上、指一歩を触れさせはしない」
「はははっ! 見事、見事だ! 素晴らしい演説には賞賛を与えよう!
だが、鳴式の復活は目前に迫っている。今州が挟み撃ちされた時、果たしていつまでそんな綺麗事を話していられるだろうか?」
「一度はそちらの計画を破綻させた。ならば、何度だって同じことはできる」
スカーの挑戦的な言葉に、
だが
「最後にこれだけ聞こう。“角”の牽制、漂泊者に対する尾行、
「ああ、そのまさかだ」
自らの脳裏に浮かんだ予測に、
「今州にいる
データベースの群列に、狂気者の哄笑が反響した。たった一人の狂った嘲笑は、幾十幾百もの反響を伴い、哄笑の木霊と化して響き渡った。
「――以上、俺からの誠意溢れる回答だ。
まあ、とんだ茶番だったけどな。お前らに何を教えたって何も変わらない。いや、変えることなどできない。歴史はただ正しい方へと進むだけ」
衝撃冷めやらぬ
「そうだ、俺からも一つ質問させてくれ。
“角”の失踪は俺たちの仕業、お前らはそう信じ込んでいる――でもよ、そんな
「何が言いたい?」
スカーの謎めいた言い回しに、
「聞きたいか? ならおいで、
「いけません、
スカーの挑発に、
近づいた
――だがその内容は、
「――そんな……ありえない……」
「意外? それとも驚愕? だがこれはまだ序章に過ぎない。お楽しみはこれからだ」
思わず後ずさる
これが事実だとしたら――今州に待ち受けているのは、『破滅』以外の何物でもない。
「そう、これが“角”が下した予言。決められた運命だとしたら……『未来を司る存在である歳主がお前らを見捨てた』――その事実が何を意味するか、明白だとは思うけどな。
俺たちはただ、やがて燃えさかる大火に変わる種火に、薪をくべてやっただけのこと」
それだけ言い捨てると、スカーの興味は再び漂泊者に戻った。詳しい事情は分からないが、何か拙い事態が進行しているらしい――そんな悪い予感に表情を歪ませる漂泊者へと。
「なあ漂泊者、俺と賭けをしないか? 失った記憶を追うお前の、これからについて」
スカーは後ろ手で弄んでいたカードを操り、ひらりと漂泊者に向かって飛ばした。反射的に氷棘を形成した
「お前は、俺たちと肩を並べるべき黒ヤギだ。新世界へと辿り、その地を開拓する権利を持ち合わせている。
失くした過去を完全に取り戻す時、お前は俺たちの仲間になる……その未来に俺は賭けよう。
焦燥を見せる漂泊者の顔を見て、スカーの顔が喜悦に歪んだ瞬間、
「話は済んだか」
――ぞぶり、と。
追跡者の大剣がスカーの胴へと深く突き込まれ、その胸を貫いた。
「――っかは……ッ……!」
「追跡者!」
突然の暴挙に、漂泊者が思わず悲鳴を上げる。彼女たち三人とも――スカー本人でさえ予測していなかった一撃。追跡者はそれに構わず、さらに大剣を捻じ込んだ。肺を潰し心臓を抉り脊髄を穿つ一撃が、スカーからあらゆる抵抗の手段を奪い、その胸の傷から、ぼたぼたと夥しい鮮血を噴き出した。その姿を、追跡者はただ冷たく見下ろした。
「お前たちの長話には飽き飽きだ。下らない破滅思想にも興味はない」
がは、と口から血の塊を吐き出し、ぐったりと項垂れるスカーを見下ろしながら、しかし追跡者は僅かな、そして決定的な違和感を見出した。
まるで人型の泥を突いたかのような、奇妙な手応えの小ささ。これは――
「――ふん……この程度では死なないのか。
それでも構わない。一度で死なないのなら、
まさにそれが、己の使命であるがゆえに。
ざくり、とさらに深く押し込まれた刃が、スカーの傷を抉る。ぎちぎちと軋みながら悲鳴を上げる骨髄と筋肉が、ぼたぼたと流れ出て失われていく血液が、スカーの脳髄から思考力を奪っていった。
「――……は……はは……さすがは、よる、の――……」
それきり、スカーは白目を剥いて失神した。
だらりと全身を脱力させて昏倒するスカーに、その体躯に剣を突き立てたまま、追跡者は背後の
「――
「はっ!?」
「牢はどこだ。こいつを、どこに
「……こ……こちらに……」
予想だにしない暴挙、からの急激な理性的判断に付いていけず、
当然、追跡者もその後を追って歩き出す。――だらりと引き摺るように下ろされた大剣、その刃に引っかけられたスカーの体躯を引き摺り、ずりずりと真っ赤な血の軌跡を作りながら。
「――……その……そのまま、引き摺るの……?」
「どうせ汚れる。お前たちの得意な水責めで、まとめて洗い流せばいいだろう」
重罪人とはいえ、あまりにも容赦ない扱いにドン引きする
“狭間の地”にあって、『無辜であること』は『平穏無事な生涯』から最も遠いと言っていい。まして罪人など、あらゆる生命の最下層、いかなる侮辱をも許される最低存在として扱われる。ごりごりと床を削る大剣に貫かれたまま、だくだくと錆びた鉄の臭いを撒き散らして引き摺られるスカーの姿は、“狭間の地”における敗者の末路を、この上なく象徴していた。