大急ぎで今州城に戻ってきた漂泊者と追跡者を待っていたのは、大群をなす夥しい数の残像だった。
“残像潮”――言い得て妙とはこのことだろう。満ちては引く潮のように、恐ろしいほどの勢いで迫りくる残像の群れ。一体一体は雑兵でも、束となって襲い掛かればおそるべき脅威だ。まして市民たち非戦闘員を守りながらの戦いは、難易度が格段に跳ね上がる。
ただ、こういう非常事態に備えて
担当が終わったのか
無限かと見紛うほどに圧倒的な残像潮の攻勢は、漂泊者のみならず、追跡者にも相応の疲労を強いた。元より彼は“夜”を追う側、守ることより攻めることの方がずっと多かった戦士だ。目の前の敵を叩き潰すだけでなく、絶え間なく戦場全体を俯瞰し、防衛線の突破を試みる個体を見咎め、その動きを抑制する――夜渡りとしての経験が通用しない難戦に、彼は全身から汗を絞り出されるような疲労を強いられた。
一つの幸運は、残像の攻勢が止むのもまた、潮のように訪れるということだ。まるで怪物が息を吐き出しきったかのように、残像たちの出現が止み、戦況は夜帰軍側に傾き始めた。数の力に任せて攻めてきた側がその優位を失えば、趨勢は決したも同然だ。やがて全ての残像が征伐され、戦場に沈黙が訪れた頃には、とうの昔に日が暮れて、今州城は夜の闇に呑まれていた。
夜帰軍の兵士たちの顔を見ると、撃退成功の歓喜よりも、生還の疲労感の方が大きいようだ。引けばまた満ちるのが潮の道理、しばらくすればまた残像の攻勢が始まるだろう。それまでに体力を回復し、武装を補給し、防衛線の再構築を済ませなければならない。休みなく働く兵士たちの姿を見ていた漂泊者と追跡者は、ふと彼方を見やる
「どうした」
「月相が、満ちていく……」
月を指差す
(――何だ、あれは)
その光景に、追跡者は愕然とした。彼らの目に映ったのは、正常な月の姿ではない。まるで今にも墜落するかのように地表に接近し、地平線に埋もれかかっている。しかもその姿は、雨が降りしきる湖に映ったかのように滲んでおり、どろどろと歪んでいる。本物の月ではなく、天空海が映し出した幻像なのだろうか――?
「この
とそこで、ぴろりとデバイスが電子音を鳴らした。応答のスイッチを押すと、
『――市民の皆さん。演習の通り、落ち着いて避難してください――』
「事前に録画された映像だね。
「はー、これで一段落ついたかな? 一旦城内のみんなの様子を見に行こっか。
それにしても、さすがに残像多すぎ。漂泊者と追跡者がいてくれてよかった。じゃなかったらもっと大変なことになってたよ」
「そういえば、城門の方に
道中、見覚えのある者たちの姿が見えた。怪我人の治療をしているヴェリーナ、兵士たちの鼓舞をしている瑞獅団の者、有志の協力者として戦っている共鳴者たち……城門に辿り着くと、奇しくもアールトとアンコを見つけた。桃色の髪の官僚と話し込んでいる。あれが
「バリアはどうなってる?」
「最優先で修復中。ただ敵の構成次第では、すぐやられちゃう可能性も高い」
何やら防衛設備の状況に関してやり取りをしているようだ。漂泊者と追跡者の接近に気付くと、桃色の髪の官僚が柔和に微笑んで手を振った。
「そういえば初めましてだったわね。じゃあ自己紹介。天工の事務長:
改めまして、今州のために戦ってくれてありがとう」
二人はすっかり有名人になってしまったらしい。面映ゆい気持ちを抱くには、状況があまりに緊迫していた。
「お前たちが話していた、『ばりあ』というのは?」
「バリアは対
それで――バリアが破損すれば、城内に残像潮が発生することになる」
追跡者の問いに、
「
「
加えてその反響エナジーは、雨に濡れた者にかつての幻影を見せる。そいつがいわゆる『
漂泊者の問いに、今度はアールトが答えた。その『
「ただの幽霊なら、恐れることはないんじゃないの?」
「そうも言ってられないんだ。特にこの今州ではね」
漂泊者の疑問に、アールトは神妙な顔で答えた。
「古来より戦場である今州は、戦争を象徴する鳴式とセットの土地――つまりその裏には、数えれないほど犠牲があるというわけだ。
もしそんな場所に
「これが今州が抱え込んできた最大の問題――それもとびっきり危険な、ね。バリアはその対策として、
「でも、幽霊でしょ? 数の多さで変わる問題?
それとも――『
重ねられた漂泊者の疑問に、アールトと
「
霊体とは本来、『特殊な力場』がなければ、そもそも存在しえないものなのだという。神殿や霊廟、あるいは霊障に侵された場所でなければ、存在を保つことすらできず、まして生命に干渉することなど不可能なのだとか。生命が持つエネルギーとはそれだけ力強く、死者の残滓程度では、それに対抗できるだけの強靭さを持つことができないらしい。
裏を返せば――そんな力場を形成しうる強い存在がいれば、周囲の霊体は実体を持ち、現実に対して干渉ができるようになるのだと。
「それが、鳴式“
よりによって、鳴式――最悪の因果関係に、二人の表情が硬くなった。それを視界の端で見届けると、
「あの日起きたのは、夜帰軍と北落野原の残像、それと雨が生み出した残像と兵士たちによる四つ巴の大混戦。
特に
そして彼らの死もまた、無常の雨に記録されてしまった……今でも北落野原には、煉獄と化したあの日の兵士たちの悲鳴が木霊しているのよ」
「人類は、『鳴式の力によって強化された
雨が残像をもたらし、その戦いで兵士たちが死に、そして雨に囚われ幽霊となる――まさに煉獄だ。元を断たなければ、この煉獄は際限なく膨れ上がる。現状維持の手段の開発に成功したのは、不幸中の幸いというべきか、どうか。
「ブラックショアでは『鳴式』『月相』『
「――つまり、
アールトの説明に対し、漂泊者は少し考え込んで推測を述べた。これらの事物が一本の線で繋がっているのなら、それぞれの規模から、鳴式の復活を予期することができる――?
「正解。だけど、まだこれは推測にすぎない。いかんせんデータサンプルが足りないからね。
今分かってるのは、鳴式の復活と深く関わってるってことだけ……ま、
肩を落としたアールトに対し、漂泊者も追跡者も追及しなかった。未曾有の災害に対して、その無知を咎めていても始まらない。取り沙汰すべき問題は、今現在迫っている危機についてだ。
「――月相が満ちたのは、ほんの一瞬だけのことだった。本当にブラックショアの推測が正しいのであれば……」
「鳴式の復活は近い――?」
「ああ。今の今州の状況は、三年前と変わらないのかもしれない」
漂泊者と追跡者の推測を、アールトは全面的に肯定した。
三年前、湾刀の戦い――先代夜帰軍将:
「鳴式の復活は決して偶然ではない。それに鳴式がもたらす影響ってのは、どこの誰であっても他人事じゃ済ませられない。今州の鳴式の復活は連鎖反応を起こす。他への影響も計り知れないんだ。
だから俺たちは、一刻も早くテティスシステムに戻って、ここで起きたことを共有する必要がある」
「この状況で逃げるつもりか?」
アールトの説明に、追跡者は兜の奥でじろりと睨んだ。その恐ろしさを知っているアールトは、とんでもないとおどけた。
「逃げるなんてとんでもない。だけど、お兄さんほどの戦士なら、『銃後の守り』の重要さも分かってくれるだろう?」
「……? 何だそれは。今州の慣用句か?」
「分からないならいいよ……とにかく、二次被害に備えさせるための連絡要員も要るって話」
「お兄ちゃんもお姉ちゃんもがんばれー! アンコも応援してるからね!」
そんな言葉を置き土産に、アールトとアンコはひらりと城門を飛び降り、足早に駆けていった。どこか肩を落としたアールトが、アンコと「俺の言ってること、そんなに難しい?」「いっつもよく分かんないよ?」というやり取りをしていたのは気のせいだろう。
とにかく、この場に留まれない者を戦力のあてにはできない。のんびりと手を振って見送っていた
「現状は大体こんな感じね。
そのように言いつつも、
漂泊者がきりりと気を引き締めた途端、それを待っていたかのように、びーびーとけたたましい警報が鳴った。
「――報告! 前方に残像潮を視認しました!」
「はあ……噂をすればなんとやら……これが終わったら、目一杯お昼寝してやるんだから」
監視員の報告に、
焦燥は禁物、しかし油断も禁物だ。追跡者が咎めようとした矢先に、
「装甲中隊、狙撃中隊、猟兵中隊、配置に着け。工兵中隊、防御設備を起動。バリア強度70%を維持、第二防衛ラインを設置せよ」
鋼鉄の大盾を構えた装甲中隊、あらゆる角度から戦線を見下ろす狙撃中隊、迅刀と小銃を抱えて街道脇に潜り込む猟兵中隊。それらにがっちりと守られた城壁から、ぶおんと淡い色の周波数エナジーが放出され、今州城を覆い尽くした。
瑞獅団の者々が城門の天辺に陣取り、がらがらと獅子舞を揺らして雄叫びを上げた。勇ましき獅子の瑞哮が、絢々と真夜中の戦場に響き渡り、恐怖と緊張に強張る兵士たちを鼓舞する。閉ざされた夜空を照らす月さえも、いまや憎き鳴式の
ながき夜をこえて帰る。その暁に、勝利の歓喜を打ち上げるために。
「――今州と瑝瓏の未来は、この一戦にあると思え。長き夜を越え、無事の帰還を果たす!」