潮騒を追う夜雨   作:竹河参号

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幕間 新たな旅仲間

 “無相燹主(ムソウセンシュ)”との戦いから数日後。漂泊者、追跡者、秧秧(ヤンヤン)の三人は、華胥(カソ)研究院にいた。

 理由はもちろん、漂泊者の音痕から現れ、無妄者の残響エナジーを吸収した、あの謎生物ことちびっこの調査のためである。奇怪なものを見守る研究員に囲まれ、ちびっこは不安げな表情を見せていた。まさにそれが、研究員たちの興味を惹いているとも知らずに。

 

 

「――……これは……!」

 

 

 特に強い関心を示したのは、反響学主任研究員の白芷(ビャクシ)だ。彼女は普段の冷淡な様子をかなぐり捨て、食い入るようにちびっこを見つめていた。「放っておいたら、そのまま本当に食ってしまうんじゃないか」と追跡者が不安に思う程度には、興奮している様子だった。

 

 

「お、おい、なんだこの女は?」

「喋った!?!?!?」

 

 

 堪らず口をついて出たちびっこの言葉は、しかし白芷(ビャクシ)をいよいよ興奮させた。滅多に声を荒げない彼女の叫び声に、周囲の研究員はぎょっと目を剥いた。

 それを諫めたのは、相変わらず冷淡なモルトフィーだ。

 

 

「落ち着いてください、白芷(ビャクシ)さん。貴女らしくもない」

「だって、モルトフィーさん、こんな――こんな、もの……!」

 

 

 白芷(ビャクシ)の肩をほぐして宥める彼に、しかし彼女は縋るように振り返った。まさに彼女自身が、感情の置き場に戸惑っているようだった。交流の浅い追跡者はもちろん、同僚として付き合いの長いモルトフィーでさえ、「これは……ちょっと尋常ではないな」と内心驚嘆するほどだった。それを顔に出さない鉄面皮ぶりがすごいとも言う。

 

 

「要するに、こいつは何なんだ? すごいのか? ひどいのか?」

「『ひどい』ってなんだお前! この我に向かって失礼だぞ!」

 

 

 じれったくなった追跡者のぞんざいな言いように、ちびっこが噛みついた。「いや『この我』などと言われても知らないんだが……」という反論が正当なのか、どうか。少なくとも白芷(ビャクシ)の耳には入っていなかった。

 

 

「――喋る、音骸なんて……! 本部でも見られない、世紀の大発見よ……!」

 

 

 ああ……! と白芷(ビャクシ)は感極まったように零した。普段の冷静さからはまるで考えられない高揚ぶりだ。そろそろ頻脈で気絶してしまうのではないだろうか。というか音骸なんだなこいつ。みたいだね。

 

 

「そんなに珍しいの?」

 

 

 と、半分当事者の漂泊者が尋ねた。反響学にも音骸研究にも暗い彼女にとって、その異常さはいまひとつピンとこない。

 

 

「そもそも音骸が知性を持っていること自体、希少なんです。文字通り『音の骸』ですから」

「遠い海の向こうの“リナシータ”という国では、政府が管理する『公共音骸』というものも存在するそうですが……」

「再現存在でしかない音骸は、本質的に複雑な知性を持つことができないの。いわば『生前』の行動を繰り返す幽霊のような存在だから」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)、モルトフィー、白芷(ビャクシ)がそれぞれ説明した。霊体のようなものか、と追跡者は曖昧に理解した。同じ言霊を繰り返すだけの知性なき存在という意味では、あれが一番近い。

 

 

「お前の扱う『反響生物』とは何が違うんだ?」

「優曇(うどん)のこと? 純粋な反響エナジーが、周辺環境との反応で変化した生物よ。単一で完全な反響エナジーで構成されていて、『魂』の具現と捉える人もいる。

 音骸は、雑多な周波数エナジーの混成体が音核を失った後、その構成データを記録されて、人工的に再現されたもの」

「……別物だということは分かった」

 

 

 すらすらと述べられる白芷(ビャクシ)の説明は、しかし追跡者には難解に過ぎた。何がどう違うのかはともかく、明確に差異がある代物らしい。ぽりぽりと頬を掻く追跡者に構わず、白芷(ビャクシ)はちびっこに向けて身を乗り出した。

 

 

「あなた、名前はあるの? 漂泊者とはどんな関係なの? 北落野原のことは覚えている? “無妄者”のことは? いいえ、もっと前は? 雲陵谷(うんりょうだに)で“無貌者”を吸収したのはあなたの仕業?」

「ちょ、ちょっと待て! いっぺんに言われたら分からない!」

 

 

 息つく暇も与えないとばかりに捲し立てる白芷(ビャクシ)に、ちびっこは思わず身を捩らせた。ここまで興奮する彼女を相手に、回答する意思があるだけ誠実というべきか、どうか。ともかく、一旦落ち着いてもらわなければどうにもならない。

 だが――

 

 

「えぇそうねごめんなさい私としたことがつい興奮してしまってもう大丈夫落ち着いたわそれであなた自身のことなのだけれど回答はどうかしらもちろん回答してくれるわよね回答できないのなら無理矢理解析するしかないとだけ伝えておくわもちろん可能な限りあらゆるストレスを与えないように配慮するけれどなにぶん前例のない存在だからもしかすると私たちでも想像のつかない苦痛が発生する可能性は否定できないわそれで心の準備は整ったかしら」

「ギャーッ!? 漂泊者、我を助けろ!!」

「助けろと言われても……」

「白芷(ビャクシ)さん、落ち着いてください。それ以上は倫理規定に違反します」

 

 

 いっそう早口で捲し立てる白芷(ビャクシ)の言葉に、ちびっこは悲鳴を上げながら漂泊者の背後に隠れた。いつもの調子で冷淡に宥めるモルトフィーも、それはそれで怖い。というかよく聞き取れたな。

 こんな小動物で、まさかここまで興奮するとは……研究者という生態は、どこの国でも困りもののようだ。追跡者は深くため息をつくと、ちびっこに向けて口を開いた。

 

 

「おい、お前。このまま拷問にかけられたくなかったら、大人しく順番に答えろ」

「拷問!? この変な兜野郎、この女の仲間か!?」

「ちょっと困るわ追跡者私はあくまでも研究院の倫理規定に則って正当な手段で研究解析するつもりよ拷問なんて人聞きの悪いことは言わないで頂戴」

「白芷(ビャクシ)、お前は黙っていてくれないか」

「あ、あちらに行きましょう、白芷(ビャクシ)。ね。」

 

 

 話が一向に進まない。いよいよ見かねた秧秧(ヤンヤン)が、やや強引に白芷(ビャクシ)を連れ出したことで、一旦空気が落ち着いた。

 追跡者は意外と短気だし、モルトフィーは言葉の棘が気になるし……仕方なく、漂泊者が聞き取り役を務めることにした。

 

 

「じゃあ、順番に訊こうか。あなたは何者? 名前はあるの?」

「『名前』? なにそれ!」

 

 

 まさに今初めて聞きました、という顔をするちびっこに、漂泊者は思わずずっこけそうになった。

 名前が無いどころか、その概念も知らない――これだけ流暢に会話できる知性で、そんなことがあるだろうか?

 

 

「追跡者さん、ここに工業用ドリルがあります。反響課で整備された品なので、音骸にも通用すると思いますよ」

「殺す気か!? 我は真面目に言ってるんだぞ!?」

「これは失敬。まさか『名前もない存在』が、そこまで厚かましい顔をできるとは思わなかったので」

「お前も黙っていてくれないか……」

 

 

 しかめ面でとんでもない提案をしてくるモルトフィーに、追跡者は閉口した。というかこいつも、専門外なのにこの場に留まっている辺り、研究者としての好奇心に呑まれているのかも知れない。それはそれとしてそのドリルは仕舞え。コレの稼働テストに丁度よかったのですが。やめろ。

 

 

「覚えてないの? それとも最初から無いの?」

「分からん! お(・)前(・)の(・)中(・)で眠ってたことだけは覚えてる!」

「……あの時までずっと?」

「うん!」

「…………いつから?」

「知らん!」

 

 

 堂々と答えるちびっこに、漂泊者は頭がくらくらする思いだった。ここまで臆面もなく回答されると、訊いているこちらに非があるかのように感じてしまう。せっかくの記憶の手がかりだというのに、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう?

 

 

「じゃあ、何故出てきた。あの“無妄者”とやらについて、何か知っているのか」

「知らん! ただずーっとお腹が空いていて、旨そうな匂いがしたから出てきたんだ!」

 

 

 追跡者の問いに対しても、ちびっこは同じ調子で返した。『旨そうな匂い』とは、つまり無妄者のことか? 首を捻る追跡者をよそに、ちびっこは恍惚の表情を浮かべた。

 

 

「あの残像、すっごく旨かったぞ! また食えるのか?」

「……鳴式の眷属だから、滅多に戦うことはないと思うけど……」

「順当にいけば、次は数十年後でしょうね。百年以上経過する可能性も否定できません」

「そっかぁ……」

 

 

 思わず顔を引き攣らせた漂泊者と、変わらず鉄面皮で述べるモルトフィーの言葉に、ちびっこは分かりやすく落胆した。そんなに旨かったのだろうか? 『残像の味』などという奇々怪々な代物に、共感を抱けと言われても困るが。

 

 

「私、記憶喪失なんだ。あなたが何か知ってるなら、教えてほしいんだけど」

「そうか、大変だな。まぁ我もおんなじだから気にするな! 旨いものでも食べて元気を出せ!」

「それで解決するなら苦労しないよ……」

 

 

 漂泊者の懇願に、しかしちびっこはぽんと励ますように肩を叩くだけだった。「ひょっとして、これ本当に私が悪いの?」と疑い始めた彼女を、誰が責められようか。

 一方、ちびっこからの聞き取りに見切りをつけたモルトフィーが、手近な端末に移動した。コンソールを叩いて表示しているのは、何かの機材の使用申請か。

 

 

「当事者が何も知らないのであれば、これ以上の聞き取りは無意味でしょうね。白芷(ビャクシ)さんに解析してもらうことをお勧めします」

「あの女にか!? 我の人権は!?」

「人じゃないだろう、お前」

 

 

 モルトフィーの提言に、ちびっこはひぃっと震え上がった。そんなに白芷(ビャクシ)が恐ろしいのだろうか? まあ確かに、蛙の解剖のようなノリで五体をバラバラにされるかもと思えば、恐ろしくもあるだろうが……

 

 

「心配せずとも、彼女は反響学のプロフェッショナルですよ。万が一のことがあれば、あなたの宿主である漂泊者さんに悪影響を及ぼす可能性がありますから、慎重に解析してくれるでしょう」

「いや我の心配は!? ――おいこっちを見ろ漂泊者!!」

 

 

 ぎゃんぎゃんと喚き散らすちびっこの慟哭を、しかし誰も庇ってやることはできなかった。あとは、白芷(ビャクシ)がメスかチェーンソーを持ってやって来ることがないのを祈るしかない。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 

「――で、結局分かったことはあんまり無いってこと?」

「そうらしい」

 

 

 翌日、攀花(パンファ)食堂にて。熾霞(シカ)と合流した漂泊者たち三人は、互いの情報を共有していた。

 四人の視線が、食卓の上を浮遊するちびっこに集中した。当事者曰く、顕現してからずっと空腹感に苛まれているそうで、それを宥めるために、こうして食卓いっぱいに料理を注文してやったというわけだ。色とりどりの料理に目を輝かせるさまは、何というか、残像らしさも音骸らしさも感じさせない。この珍妙な生物(?)について、追跡者は正しく形容する言葉を持たなかった。

 

 

「白芷(ビャクシ)によると、この子こそが漂泊者さんの内側にあった『空間』あるいは『生物』の正体だそうです。

 いわばこの子は、『漂泊者さん自身に宿る、漂泊者さん専用の音骸』に相当するそうですね」

「データドックで使う音骸と、おんなじ感じってこと?」

「そこらの音骸と一緒にするな! 我は超々々々々々々々すっごいんだぞ!」

「いやなっが」

 

 

 口一杯に炒飯を頬張ったまま、ちびっこは熾霞(シカ)の言葉に噛みついた。「とにかく数を盛れば偉大に見えるはず」という短絡的な思考は、非常に子供っぽい。熾霞(シカ)でさえ苦笑することしかできなかった。

 ちなみに追跡者の想像に反し、白芷(ビャクシ)が行ったのは、ちびっこと漂泊者をそれぞれ大型機材の中に立たせ、ぐるりと透過スキャンをかけることだけだった。解剖どころか、ほんの数秒の間機械に通すだけで、様々な情報を獲得できるのだから、彼女が担当する反響学もなかなか侮れない、とどうでもいい感想を抱いた。

 

 

「ですが、あの“無妄者”の周波数を吸収――いえ、食(・)べ(・)て(・)しまったのは事実です。音骸の中でも希少な存在であることは間違いありませんね」

「むふふ~、お前はいいやつだな!」

「……本当にこいつが倒したの? ちょっと信じられないんだけど」

「うーん、食べたのは事実なんだけど……」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)の褒め言葉に気分を良くしたちびっこは、でれでれとだらしない表情を浮かべながら肉まんを頬張った。白い毛並みの小柄な体躯も相まって、「まるで共食いのようだ」という追跡者の感想は、心の奥にそっと仕舞うことにした。

 水風級の小型残像も満足に倒せなさそうな振舞いに、先日の戦果を訝しむ熾霞(シカ)の気持ちも無理はない。だが白芷(ビャクシ)の、慎重に慎重を重ねた解析の結果、漂泊者の体内に膨大な周波数エナジーが検出され、それが無妄者の残滓であることが判明した。つまりこのちびっこを通じて、漂泊者が無妄者を吸収したのは間違いないらしい。

 また、漂泊者とこのちびっこの間には強い『共存関係』が存在することも判明した。互いの周波数エナジーが互いに影響し合い、その生命を共有している状態だというのだ。片方が強くなれば他方の力も増す一方、片方が不調を患えば他方にも被害を及ぼす――無論、片方が死ねば他方も死ぬ、ということだ。

 

 

「いわば、こいつの分身ということか」

「かわいい分身ですね」

「それでいいのか秧秧(ヤンヤン)」

 

 

 事態の深刻さを理解しているのかいないのか、どこかずれた感想を述べる秧秧(ヤンヤン)に、三人は閉口するしかなかった。なおちびっこ自身は串焼き肉を頬張っている最中で、物理的に開口できない。

 ……“夜”の隷属たちの中には、二者あるいはそれ以上の複数存在として命を共有する、群体型の強敵もいた。螟ア蝨ー鬨主」ォのような、見た目がほとんど変わらない存在もいたが、中には繧ォ繝シ繝ェ繧「縺ョ隕ェ陦幃ィ主」ォのような人馬一体の存在もいた。それと似たようなモノだと理解すればいいのだろう。

 ちなみに、無妄者と対面するまで出てこなかったのは、一般的な音骸の性質として理に適っているらしい。ちびっこ自身の言うところの『空腹』、つまり稼働するエネルギーが枯渇していたため、碌に出てくることができなかっただけのようだ。無妄者が音核を失い膨大な周波数エナジーの塊となったことで、補給できる好機として出現した――というのが、事の真相らしい。

 課題は前進しているような、していないような。この場合、一通りの素性を検めたことで、もう一つの課題が生じた。

 

 

「それで――結局、こいつの名前はどうするんだ? いつまでも『この子』だの『そいつ』だのと呼んでいるわけにもいかないだろう」

 

 

 追跡者の問いに、三人が一斉にちびっこへと視線を向けた。当のちびっこは、羊肉の王者ラージャン煮込みを食べている真っ最中で、口周りを真っ赤にしながら「んぅ?」と四人を見返した。

 

 

「『ちびっこ』じゃダメなの? みんなそう呼んでるから、それが名前なのかと思ってた」

「そんなわけあるか! もっと覇気があって、特別で、すごく強い感じの名前がいい!」

「厚かましい奴だな……」

 

 

 熾霞(シカ)のぞんざいな言葉に対し、ちびっこは大仰にいきり立ち――もともと浮いているが――、力強く要求した。出自も来歴も不明なくせに、ここまで高慢に振舞うことができるのだから、面の皮が厚いというか何というか。モルトフィーがいれば、「今まさに分厚くしている最中なのでしょうね」などと言いそうだ。

 ちなみに、最も早く名前を知りたかったであろう人物――ちびっこの解析を担当した白芷(ビャクシ)は、しかし名付けを拒否した。曰く、「名前は、その生命が最初に与えられる贈り物。『自分が何者であるか』を定義する第一証明。薬品のラベル付けのように、安易な考えで付けてはいけないのよ」とのことらしい。

 ともかく、と熾霞(シカ)は考え込んだ。そんなに強い要望があるのなら、せいぜい知恵を捻ってやろう。覇気があって――特別で――強い音骸といえば――

 

 

「……じゃあ――『スーパースペシャルダイナミック音骸』! これはどう?」

 

 

 まさに名案、とばかりに閃いた熾霞(シカ)の提案は、

 

 

「長い」

「ださい」

「却下で」

「秧秧(ヤンヤン)!?」

 

 

 あからさまに嫌そうな顔をする追跡者と漂泊者、何より硬い笑顔を貼り付けた秧秧(ヤンヤン)に否定され、熾霞(シカ)は激しいショックを受けた。あの気性穏やかで優しい秧秧(ヤンヤン)がここまで拒絶するなんて……そんなにひどい名前だろうか?

 残念ながら、彼女の案に同意できる者はこの場にいないらしい。名を与えられるこのちびっこ自身もそうだ。

 

 

「絶対嫌だ! なんだその安直なネーミングセンスは! 『ちびっこ』と変わんないじゃん!」

「えぇー? 『スーパー』『スペシャル』って、変身の時とかのお決まり文句じゃん」

「なんだ変身って! 我はそんなことしないぞ!」

 

 

 熾霞(シカ)とちびっこのトンチキなやり取りを、漂泊者たちはしばらく無言で見守った。熾霞(シカ)が絡むと掛合噺(コント)になることが多いな、と考え込む三人の失礼な思考を、どう咎めるべきか。

 

 

「うーん、じゃあ……耳がなんか変で……飛べるから……『空飛ぶヒーロー』!」

「やだ!」

「『空飛ぶ戦士』!」

「やだ!!」

「『空飛ぶ義賊』!」

「やだ!!!」

「今の三つ、何が違うんだ?」

「さぁ……?」

 

 

 ……読者諸兄は、「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」という格言をご存知だろうか。追跡者がその言葉を聞けば、まさに今この状況がそうだと納得することだろう。方向性が違うだけで似たり寄ったりの言語センスをぶつけ合い続けても、果たしてちびっこのお眼鏡にかなう名前が見つかるのか、どうか。案の定、ちびっこは空中で地団太を踏むばかりだった。

 

 

「やだやだやだ! お前は何言ってるんだよ! 我が求めてるのはな、こう……」

「『こう……』ってなんだよー! 私は『翼の英雄』って呼ばれてすごく嬉しいよ! 覇気だってあるし!」

「お前のそれは少し違うと思うが……」

 

 

 彼女に『翼の英雄』という二つ名を与えた人物を称えるべきかもしれない、と追跡者は考えた。彼女の容姿に引っ張られず、行動特徴を賞賛する表現を用い、何より彼女自身に気に入られている。本人に自由に名乗らせると、どれだけ長い肩書が出てくることだろうか。拳法試合の闘技者のような、いかつい形容詞をごった煮にした、長い長い肩書が出てきそうだな、と思った。

 なお『熾霞(シカ)』という名前自体が彼女の字名(あざな)であることを知り、ひどく驚かされるのは後日のことである。いったい誰が、彼女の望む在り方をたった二文字に凝縮することに成功したのだろうか?

 むむむむむ……と睨み合う熾霞(シカ)とちびっこの横で、ずっと沈黙を守っていた漂泊者が、ふと口を開いた。

 

 

「じゃあ――『アブ』なんてどう?」

 

 

 はて? と三人と一匹が、揃って首を捻った。

 

 

「何か由来があるんですか?」

「いや、何となく。今ぱっと思いついただけ」

 

 

 秧秧(ヤンヤン)の問いに、漂泊者は堂々と言い切った。つくづく度胸のある奴だ、と追跡者は呆れるしかなかった。一人と一匹が『特別感』だの『覇気』だの『強さ』だのを取り沙汰している横で、まさか『音の響き』のみをもって立ちはだかるとは。面の皮が厚いというべきか、幼稚な言い争いに付き合わない冷静さというべきか。

 どのみち、またちびっこ本人に否定されるのだろうが――と思っていた追跡者は、

 

 

「――『アブ』……『アブ』……アブラクサス? ア(・)ブ(・)ラ(・)ク(・)サ(・)ス(・)?」

 

 

 うーむ……と考え込むちびっこの姿に驚かされた。

 これは予想外だ。てっきり「もっとかっこいい名前にしろ!」と文句を垂れると思っていたが、思いのほか好感触らしい。伝説か何かに由来する名前なのだろうか? そう思って秧秧(ヤンヤン)の方へ振り向いてみたが、彼女も特に覚えはないらしく、困惑しながら首を振るばかりだった。

 まるで己に刷り込むように、繰り返し名前を声に出した後、ちびっこは納得いったかのように顔を上げた。

 

 

「まぁ、いいぞ。短いし、覚えやすいし、あんなスーパーなんとかよりは全然いい……ただ、あんまり特別感と覇気がないけど……」

「嫌? そんなに文句を言うなら、別の名前も考えてあげるけど」

「じゃあ『デラックス――」

「いや、いい! これでいい! 今から我は『アブ』だ!」

 

 

 気にした様子もなく話を振る漂泊者、さっそく手を挙げようとする熾霞(シカ)の言葉を遮りながら、ちびっこもといアブは慌てて首を振った。

 

 

 こうして、漂泊者の身の上に、謎が一つ増えた。

 その命を共有する相棒こと、謎の音骸アブである。

 

 

 

 

 

 

 

 

  『備忘録』

  ・白芷(ビャクシ)に“アブラクサス”について訊く

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 北落野原、破陣営駐屯地にて。

 忌炎(キエン)は私室にて、機密の通信回線を開いていた。内容はもちろん、先日の“無相燹主(ムソウセンシュ)”との戦闘における戦況報告である。

 戦争とは、勝てばそれで終わりではない。施設や兵器兵士の被害状況、損失の計上、補填の目途、それらが政庁に与える影響。良きも悪きも一切合切を集計し、分析し、次なる戦闘行動における指標にしなくてはならない。まして相手は、実質的に絶滅も和解も成立しない鳴式である。絶えず消耗され続ける兵力(リソース)を、何とかやりくりしながら戦線を維持し続けなければならない。

 一つ幸運なのは、今回差し向けられたのが、津波級の大敵“無妄者”であったことだ。相手側も膨大とはいえ無限の周波数(リソース)を有しているわけではなく、つまり多くの周波数(リソース)を注ぎ込んで生み出された端末を撃破したことで、次の行動までの猶予を稼ぐことに成功したということだ。

 そんな朗報を、しかし徹底的に俯瞰する夜帰軍将:忌炎(キエン)の報告。それを聴いているのは――今汐(コンシ)ではなく、散華(サンカ)だった。今州の最高指導者である令尹(レイイン)ではなく、その近衛である。「今汐(コンシ)様は政務によりご不在のため、近衛(わたし)が代理で受理します」とのことだったが――何か裏があるな、と忌炎(キエン)は直感した。

 

 

(おそらくは、“角”に……あるいは、漂泊者にも関係するのだろうか)

 

 

 今汐(コンシ)が、歳主の共鳴者であることが災いした。あくまでも歳主の代弁者、政治的代行者である『令尹(レイイン)』という立場だけでなく、『共鳴』という深い関係にある今汐(コンシ)が、北落野原という要衝の戦況を直接把握できない窮地とは、ただの政務ではない。つまり“角”自身の身に何かあったのだと、容易に推測できてしまうのだ。しかも『時』を司り未来を見通す“角”が、それでもその状況を避けられなかったということは、直近の予言が関連する可能性が高い。だとすれば――「失われた力を取り戻す」と言及された、漂泊者の存在が鍵になる?

 そんな推測は心の底に仕舞ったまま、忌炎(キエン)は報告を終えた。“角”の状況はともかく、こちらの戦場はこちらの支配下で上手く管理していなければならない。それこそ今汐(コンシ)がお題目として語ったように、歳主に縋りきりではなく、いざという時に人間の力で切り抜ける必要がある。

 

 

『――忌炎(キエン)将軍』

「何か」

 

 

 そんな忌炎(キエン)に対し、散華(サンカ)が通信越しに冷ややかな視線を向けていた。

 冷徹で知られる今令尹(レイイン)の懐刀だが、この視線には別の色がある。「ただの近衛が、夜帰軍将に口答えするか」などとは言えないのが、今州の、そして今汐(コンシ)の政治構造だった。奇妙に思いつつ、素知らぬふりで流そうとした忌炎(キエン)は、

 

 

『令(・)尹(・)様(・)を(・)謀(・)る(・)お(・)つ(・)も(・)り(・)で(・)す(・)か(・)』

 

 

 一言でずぶりと貫く核心的な言葉に、思わず二の句が継げなかった。

 

 

「――それは……!」

『もし先の報告が真ならば、あなたは夜帰軍将の任を剥奪されなければなりません。偶然と幸運に縋り、無謀な策を執り、夜帰軍と今州全体を危機に晒した無能として、あなたを弾劾しなければなりません。

 あなたが第二の哥舒臨(カジョリン)とならずに済んでいるのは、偏に幸運によるものです』

「――っ……」

 

 

 よりによって哥舒臨(カジョリン)の名を出され、忌炎(キエン)は反論の言葉を失った。

 先代夜帰軍将:哥舒臨(カジョリン)――忌炎(キエン)にとって、夜帰軍にとって、彼の名は急所に等しい。彼らにとって哥舒臨(カジョリン)とは、『無数の兵士を犠牲にした挙句、鳴式を倒しもせずに行方を晦ませた無能』というだけではない。少なくとも逐電の寸前まで、彼は夜帰軍における唯一の希望であり、今州を守る最後の砦だった。「すでに積み上げた骸の山に報いるために、新たな屍の山を築く」――残酷だが、それが今州の真理だったのだ。それを実現するために、彼の戦力は必要不可欠だった。そんな彼の晩節を汚す、最後の失策――そんなものを持ち出されては、反論のしようがない。

 だが、散華(サンカ)の追撃はここからだった。

 

 

『ですがそれを偽とするならば、あなたは隠し事をしています。あなたは、“無相燹主(ムソウセンシュ)”に対峙した「鳴式相当の残像」の正体を――中(・)核(・)と(・)な(・)っ(・)た(・)共(・)鳴(・)者(・)の存在を知っているはずですね?』

「散華(サンカ)、それは――!」

『それを伏せるつもりならば、それは嘘偽りを以て今汐(コンシ)様を謀り、令尹(レイイン)様への謀反を企んでいる証となります。夜帰軍将としての背任に値します』

 

 

 思わず身を乗り出した忌炎(キエン)を叩き伏せるように、散華(サンカ)は淡々と言い放った。

 昏い雨とともに戦場に現れ、そして“無相燹主(ムソウセンシュ)”を撃退すると、跡形もなく消失した“無貌の王”――忌炎(キエン)が意図的に説明を避けた存在を、しかし散華(サンカ)はしっかりと見抜いていた。それはただの疑惑に留まらず、かの王の正体にまで行き着いていた。

 今回、この戦場で、どんな視点であっても絶(・)対(・)に(・)ア(・)リ(・)バ(・)イ(・)が(・)成(・)立(・)し(・)な(・)い(・)例外――すなわち追跡者である。

 まずいことに、忌炎(キエン)は散華(サンカ)の“盲覚”を失念していた。光とその反射によって世界を象る視覚、それらを欺瞞することで簡単に覆い隠される色覚ではなく、周波数エナジーを直接見抜く、特別な眼――そんな者が、追跡者の異常周波数を見抜いていないはずがない。

 明庭(めいてい)が相手ならば、中央の一官僚程度ならば、いくらでも誤魔化すことができた。決して謀略が得意ではない忌炎(キエン)でさえ、そう言い切ることができる。しかし、そうまでして隠さなければならない最も重要な真相が――よりによって、彼女に見透かされている。

 忌炎(キエン)は脳裏で言い訳を探した。散華(サンカ)を何とか言いくるめる論理を、必死になって探した。しかし、いくら思考を回転させても――通信の向こう側で炯眼を怜悧に光らせる彼女を、説き伏せる方法が思いつかず、

 

 

「――……許せ、散華(サンカ)」

 

 

 ついに彼は、沈黙を以て降伏した。

 決定的な一言は、言えない。散華(サンカ)もそれは承知している。当事者である忌炎(キエン)が自ら言及しない限り、それはずっと疑惑止まり、どこまで暗くとも灰色のままである。だからこそ散華(サンカ)は決定的な名前を出さず、忌炎(キエン)の口から出てくるのを待っている。そして、沈黙以外に切り抜けるだけの弁舌を、忌炎(キエン)は持っていなかった。

 

 

「我が名誉、そして令尹(レイイン)様と今州への忠心を以て、沈黙させてもらう。

 彼の貢献なくば、我ら夜帰軍は鳴式に敵わず、今州は滅びを迎えていた。この命に代えても、その恩を裏切ることはできない」

 

 

 忌炎(キエン)はそれきり口を噤んだ。追跡者の冒涜的な仕業を、何よりも雄弁に肯定する沈黙は、しかしずっと沈黙のままであり続けた。

 そうは問屋が卸さないと、散華(サンカ)は忌炎(キエン)をせっつこうとしたが……しかし頑としても譲らぬといった様子を通信越しに見届け、

 

 

『……いいでしょう。今汐(コンシ)様には、私から忠言しておきます』

 

 

 仕方なく、引っ込めることにした。

 あるいは“無相燹主(ムソウセンシュ)”の次なる攻勢まで、意地でも口を開かない腹積もりかも知れない。地蔵の頑固さを無理に砕こうとしても、骨折り損のくたびれ儲けといったところだろう。少なくとも今州に利する場面の方が多い現状、藪を突いて蛇を出すこともない。

 

 

『夜帰軍将としての、あなたの判断を信じます。かの者は、我ら今州の命運を託すに値すると』

 

 

 「鳴式の脅威から瑝瓏を守る関」――それが、今州そのものの存在意義と言っても過言ではない。必然的に、その軍事総指揮を担う夜帰軍将は、他州よりも扱いが重く、令尹(レイイン)に次ぐ重責の担い手だ。そんな彼がこのような判断を下す以上、あの『追跡者』という謎の戦士は、今州に利する存在なのだろう。……そう信じるしかない。

 そこで話題は途切れた。今回はここまでと、双方は合意の上通信を切ることにした。

 

 

『――……追跡者……いよいよ、見極めが必要な時が来ましたか……』

 

 

 そんな散華(サンカ)の苦々しい音声が、残響のように滞留した。

 

 

 

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