潮騒を追う夜雨   作:竹河参号

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第六幕 千里の猛襲(5)

 雨が降る。

 

 

 さかしまに降る。

 

 

 荒涼たる大地から音もなく染み出し、その記憶(エナジー)をたっぷりと吸い上げた幻想の雨が、空に浮かぶ海へと還るように降り注ぐ。多くの詩人が悲嘆の情を表現するために用い、そしてある詩人が天地の断絶を繋ぐ架け橋を表現するために用いた雨が、しかしさかしまに遡る光景は、何に例えるのが適切だろうか。

 少なくとも、詩人が吟ずるに相応しい状況でないことは確かだろう。その雨がもたらす膨大な反響エナジーを求めて、人ならざる残像が跳梁跋扈し、さらにその暴虐に立ち向かわんと、兵士たちが武器を執り戦い続けているのだから。

 

 

 雨が降る。

 

 

 さかしまに降る。

 

 

 しとしと、ぽたぽた、ざあざあ――遠き東の葦ノ原では、雨の降るさまを表現する言葉が数多くある。しかしそのいずれも、遥かな雲より降り注ぐ雨が大地を敲く音であり、つまり天へと遡るこの超常の雨に相応しい表現などない。

 むしろ過酷な戦場を形容する言葉の方がずっと相応しい、地獄のような光景が広がっている。ぎゃりぎゃりと鋼鉄が軋む音、だだだと銃弾が放たれる音、ゆらゆらと周波数エナジーが歪む音、そしてどさりと犠牲者が倒れる音。

 大地に這い出る幻想の波紋が、その全てを蓄積し、天へと投げ返す。戦う者たちの激昂、斃れた者たちの慟哭、遺された者たちの恐怖――絶望に泣き叫ぶ贄の声は、いつだって極上の捧げものだ。

 あらゆる“悲鳴”を飲み込んで、ただ雨はさかしまに降る。

 

 

 ――ぴちょん、と、雨粒が中(・)空(・)で(・)弾(・)か(・)れ(・)た(・)。

 

 

 それは、雨にありえざる異常。

 通常の雨であれ溯洄雨(そかいあめ)であれ、力の流動に従って一方向に流れゆくものだ。吸い上げられる反響エナジーに沿って天へと遡る雨粒が、真(・)反(・)対(・)か(・)ら(・)降(・)り(・)注(・)ぐ(・)別(・)の(・)雨(・)粒(・)に衝突し相殺されるなど、それこそ天地がひっくり返ってもあり得ない。

 

 

 一滴、二滴、四滴、八滴――雨粒を弾く音が、加速度的に広がっていく。

 

 

 その異常に、最初に気付くことができたのは何者か。恐怖と絶望に抗いながら武器を握る人間の兵士たちか、ただ本能のままに貪り暴れ狂う残像たちか――それとも、大彫像の奥底からそれらを睥睨する悲鳴の君主か。

 やがて溯洄雨(そかいあめ)の雨滴が覆い尽くされ、掻き消され、大地へと降り注ぐ昏い雨に塗り潰されていった。それもまた、正常な雨ではない。油を溶かしたような、どろりと青く燃える雨だ。

 最初に行動を起こしたのは、破陣営第二監視塔の管制兵士だった。彼は『異常な雨が別なる異常に塗り潰される』という悪夢のような光景に気付くと、速やかにマイクを掴み、広域放送用のスピーカーを最大出力にして叫んだ。

 

 

『――第二監視塔より、総員に伝達!

 “燃える雨”の発生と、溯洄雨(そかいあめ)の相殺を確認! 忌炎(キエン)将軍の指令に従い、第二戦闘配置に就け!』

 

 

 ぴぃーんとハウリングする怒号の放送に、兵士たちは速やかに反応した。伊達に瑝瓏の中でも『関外』の最北、残像潮を食い止める最前線の地獄を生き抜く、百戦錬磨の戦士たちではない。

 

 

「合図だ! 合図が来たぞ!」

「総員、第二戦闘配置! 信号塔の防衛に移れ!」

 

 

 ざあざあと轟音を立てて降り注ぐ雨の中、兵士たちは次々に駆け出した。無論、その背を残像に突かれるような惰弱者はいない。互いに背中を庇い合いつつ、兵士たちは昏い雨の下を走り抜けていく。

 それはそれとして、「眼前の敵を放置して撤退しろ」などという前代未聞の指令に、素直に頷けない者も少なくはない。

 

 

「ほ、本当に撤退するのか!?」

「まだやれる! 俺はまだ戦えるぞ!」

「忌炎(キエン)将軍の命令だ! 将軍を信じろ!」

 

 

 各小隊指揮官は、部下たちを叱咤して駐屯地へと引き上げさせるのに苦心した。その中には、まさに湾刀の戦いを知る者もいる。あの時の絶望に比べれば、このくらいの異常事態は屁でもない。

 夜帰軍破陣営の全部隊が、青く燃える雨に飲み込まれることなく駐屯地まで撤退完了したのは、指令発動から僅か四半刻のことだった。まさに忌炎(キエン)将軍が三年がかりで練兵した成果、瑝瓏軍事史上でも指折りの練度である証明だと言っていい。

 そして同時に、霑ス霍。閠にとっては感嘆を禁じ得ない事実でもあった。雨に呑まれず、夜に狂わず、将を信じて行動する――ただそれだけのこと、と語るのは簡単だ。だが、かつて遥か遠い星で、無数の軍兵が挑み、しかし誰一人成しえなかった偉業だった。彼(・)ら(・)は(・)本(・)当(・)の(・)絶(・)望(・)を(・)体(・)験(・)し(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。

 

 

「――痛(いた)っ!?」

 

 

 駐屯地の外郭、城塞越しに残像の動きを監視していた兵士の一人が、痛苦に悲鳴を上げた。

 不思議な痛みだった。残像との戦いで、夜帰軍の青い軍服はそこかしこが破れているが、肉に届き皮膚を破るほどの傷は受けていない。しかし、その軍服の上から、ま(・)る(・)で(・)魂(・)を(・)直(・)に(・)焼(・)か(・)れ(・)る(・)よ(・)う(・)な(・)痛(・)み(・)を感じるのは、どう考えたって不可解だ。

 痛みを覚え始めたのは、その兵士だけではなかった。軍用ヘルメットを被ったその頭が、堅牢な鋼鉄装甲を身に着けた装甲中隊の肩が、皮膚を焼き筋肉を貫き骨髄を溶かすような、じくじくとした疼痛を訴え始める。すわ鳴式の攻撃かと、不可解な痛みに当惑する兵士たちの中で、やがて多くの者が共通点を見出した。

 雨(・)に(・)濡(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)。悲惨の記憶を呼び起こす鳴式の溯洄雨(そかいあめ)ではなく、何もかもをどろどろと塗り潰す暗青の雨に、びっしょりと全身が濡れそぼっている。

 

 

「こ、この雨、肌を焼くぞ! 気を付けろ!」

「防衛陣形急げ! 怪我人の治療を優先しろ!」

 

 

 駐屯地内は、慌ただしく走る兵士たちで溢れ返った。じりじりと魂を焼く雨滴の下、兵士たちは右往左往しながら駆け回った。やがて、予定通りに第二戦闘配置が完了するまでに、さらに四半刻を要したのは、長いというべきか短いというべきか。

 

 

 

 

 暗青に燃える呪いの雨は、“災いの夜”の前触れ。

 暗闇とともに、絶望が命を駆り立てる。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 駐屯地を出た東の丘、“無相燹主(ムソウセンシュ)”の大彫像を望む断崖。

 昏い雨とともに暗青の暗闇が降り注ぎ、北落野原をびっしりと埋め尽くす光景を見下ろしながら、忌炎(キエン)たちはその向こうにいる大彫像を睨み据えていた。周囲には、作戦開始まで待機するため、防御能力に特化した共鳴者たちの防衛小隊が護衛している。

 

 

「――始まったようだな」

 

 

 忌炎(キエン)は、眼下の惨状になるべく動揺しないように、自らの心胆を厳しく鎮めながら呟いた。周囲の防衛小隊が共鳴能力を全開にして昏い雨を凌いでいる最中、彼は目の前の地獄を受け入れるのに、多大な気力を要した。

 無数の残像たちが、雨に打たれる痛苦に絶叫している。戦士たちが、狩人たちが、守り手たちが、楽手たちが――ありとあらゆる局面で夜帰軍を苦しめてきた無数の怪物たちが、一様に雨に打たれ、その激痛に発狂し、我が身を掻き毟っている。ただ本能のままに戦い貪るだけの残像が、『ただ雨に打たれている』というだけで、その破壊衝動を手放し、訳も分からぬままに荒れ狂っている。終いには、互いに得物を向け合い、傷付け合っているのが見えてきた。生命を模倣するだけの命なき怪物たちが、底なしの絶望に我を忘れ、互いに仮初の命を削り合っている。

 ――まさに地獄。まさに煉獄。黒洞々たる夜が北落野原を覆い尽くし、悪夢のような光景を顕現させていた。

 

 

「……これが……こんな、ものが……」

 

 

 ――追跡者の本領なのか。

 その言葉を、秧秧(ヤンヤン)は言い切ることができなかった。眼下の地獄に恐れをなし、身が竦むような思いに囚われた彼女に、それを口にしてしまうことはできなかった。こんな地獄を創り出したのが、本当にあの追跡者なのか――秧秧(ヤンヤン)は、思わずぶるりと身を震わせた。

 ――それでも。

 秧秧(ヤンヤン)は、隣に立つ漂泊者の姿を見て、少しだけ勇気を取り戻した。その横顔は真剣そのもので、眼下の地獄には目もくれず、まっすぐに大彫像を見据えている。恐れを知らないのではない。怯えを忘れているのではない。その感情すら受け入れ、前に進むための力に変える。ただ一点――“無相燹主(ムソウセンシュ)”を討ち取る、そのために。

 一方、防衛小隊による防御陣の中心で、鑑心(カンシン)はただ無心に演武を重ねていた。手を翳し、足を運び、『内なる気』と『外なる気』を、その流動を掌中に納める。

 支配してはいけない。占領してはいけない。世界とは変幻自在であり、奪い尽くそうと握りしめても、その掌の端から砂粒のように溢れてしまう。

 

 

(――欲を無くせば、心は自然と静まる。心が静まれば、人は自然と悟りを開く……)

 

 

 気を運ぶ。気を廻す。気を流す。世界を巡る気は、ただあるがままに流れゆく。それを堰き止めるのではなく、歪めるのではなく、ただ僅かに借り受けるだけ――

 

 

「いざ――混元一気・大周天!」

 

 

 どぉん――と空気を叩く重い音ともに、四人が淡い光に包まれた。深緑の周波数エナジーがゆったりと循環し、全てを呪う暗青すら受け入れ、たおやかに躱し、受け流す。激しい雨は深緑の光に遮られ、四人を万全に守り切っていた。

 機は熟した。準備は整った。ならばあとは戦い、勝つだけ。忌炎(キエン)は翡翠色の長槍を振り上げ、高らかに叫んだ。

 

 

「行くぞ! この機を逃さず、鳴式を討ち取る!」

 

 

 応、と叫ぶ三人の気勢に乗り、突撃小隊の四人は崖を駆け下りていった。

 

 

 

 

 昏い雨は、ただ滾々と降りしきる。

 果てしない暗闇に、晩鐘を鳴らすように。

 

 

 “夜”はまだ始まったばかり。

 “王”が降り立つは、これから。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 駆ける。

 

 

 駆ける。

 

 

 駆ける。

 

 

 腕を振り、脚を振り、ただひたすらに地面を蹴りながら疾走する。

 北落野原の島嶼までは、ただ一直線に駆け下りる下り坂だ。恐れずに飛び込めば、重力の後押しで加速することができる。まさに鹿道落としの如き急降下に、四人の戦士たちが挑んでいる。

 暗青の暗闇の中、漂泊者たちはただ疾走する。事前に想定していた、残像との戦闘は発生していない。その絶叫は聞こえてくる。ざあざあと激しく降る昏い雨の音に混ざり、互いに戮(ころ)し合うさまが聞こえてくる。それらを極力意識しないように、彼女たちはただ疾走に集中した。怪物たちが絶叫しながら互いに武器を突き立て合い、血と肉を飛散させ、離散する周波数エナジーとして崩壊していくさまを、一度でも目撃してしまえば、それがそのまま自分たちの一瞬先の未来になる。そうならないために、鑑心(カンシン)が防御膜を張ってくれた。深緑の周波数エナジーによる防御膜、この薄皮一枚の向こうで、無間地獄が顎門(あぎと)を開いて待っている――

 

 

 事態が動いたのは、崖下の坂道が終わり、北落野原の島嶼に辿り着いたその時だった。

 ここからは島嶼と海峡を乗り越え、空中に浮遊する旧時代の廃墟を足場にして、いよいよ大彫像へと接近する。まさに追跡者が危惧していた、大彫像による迎撃を警戒しながら進まなければならない。幸いにして、その兆候は未だ見えないが……

 ――そんな油断が、天に見咎められたか、どうか。

 

 

「あれは――」

 

 

 漂泊者が顔を上げた時、まさにその瞬間に、大気がぐわりと揺れた。

 ずどぉんと大気を重く叩き、ぐらぐらと地面を激しく揺さぶり、ざぶりと海面を波立たせる。まるで世界という紙面を力ずくで引き裂いていくかのように、強引に押し退けながら這いずり出てくる――他ならぬ、“無相燹主(ムソウセンシュ)”の大彫像。『戦争』という災厄の具現が、兵器の残骸を組み上げて腕を構え、兵士の亡骸を重ね上げて足を踏みしめる。ごりごりごりごり、と天地を軋ませながら、ヒトの姿とヒトの業を重ねて生まれた化物が、ついに北落野原の海岸線に降り立った。

 

 

 岩石と鉄塊を継ぎ合わせた大彫像には、口などない。

 喉も肺も肋骨も横隔膜もなく、ただ鉄と岩と錆が、絡み合うように堆積されているだけだ。当然に脳神経など存在しない頭部も、その顔面はのっぺらぼうであり、兵器の残骸がそれらしい形を成すべく圧し固められているに過ぎない。ヒトの被造物を累積し、ヒトの悪業を濃縮し、ヒトを滅ぼすべく生み出された脅威が、『ヒトの似姿であること』以外に何の機能性も有していないとは、何たる皮肉か。

 だがその姿こそが、天地万象を震え上がらせた。

 大彫像が屹立する――それだけで大海が戦慄(わなな)いた。大彫像がその身を起こす――それだけで大気が軋んだ。大彫像が前進する――それだけで大地が鳴動した。

 何者かを滅ぼすための行動は、一切取っていない。その準備の準備、ただ天地に降り立ち存在するだけ――それだけで世界を軋ませ、北落野原の各地で戦う兵士たちの注目を集め、そして漏れなく震撼の情を呼び起こしている。漂泊者は大彫像の胴体の中心に、暗紫に輝く音痕を見た。あそこに、“無相燹主(ムソウセンシュ)”がいる。まさに臨界いっぱいまで湛えられた周波数エナジーに、彼女は思わず瞠目し、足を止めてしまった。

 

 

「――まさか……間に、合わなかっ」

 

 

 漂泊者の言葉は、そこで途切れた。最後まで言い終えることができなかった。

 その前に、“無相燹主(ムソウセンシュ)”に滅ぼされたからで(・)は(・)な(・)い(・)。絶望が全身を支配し、喉を動かして音声を発することすら諦めさせてしまったからではない。まったく別の衝撃によって、文字通り横合いから殴りつけられたのだ。

 

 

 他(・)な(・)ら(・)ぬ(・)大(・)彫(・)像(・)が(・)。

 

 

「え」

 

 

 その間抜けな声は、いったい誰が発したものか。それを問い質すことに意味があるか。少なくとも、そんな暇はなかった。

 黒々としたナニカが、大彫像ののっぺらぼうの顔面に衝突し、ずどぉんと轟音とともに突き飛ばした。大彫像は明らかにその攻撃を予期していなかった様子で、ぐらりと身を崩しかけ、ざぶりと海面を高く打ち上げた。

 二つの巨塊の衝突が波となって大気を振動させ、北落野原に着いたばかりの漂泊者たちに襲い掛かった。びょうと吹き荒ぶ暴風が、海面を揺らし汚泥を撥ね上げながら、四人を突き飛ばすような斥力を運ぶ。一瞬ながら重厚な一撃に、四人は何とか身を支え合って凌いだ。撥ね上げられた海水と汚泥に塗れながら、彼らは分厚い壁そのものが飛んでくるかのような重い衝撃を耐え切り、再び顔を上げ、大彫像を襲った異物の正体を見た。

 

 

 黒々とした巨人が、昏い雨に打たれていた。

 まさに大彫像に匹敵する巨躯の、しかしその体組織を構成するモノの質感を、漂泊者はどう表現すればいいか分からなかった。錆びた鉄のようであり、重厚な大樹のようであり、風化した巌のようである。それが樹々のように生い茂り、蔦のように絡み合い、不格好なヒトガタを成している。生い茂る樹の幹のような頭頂は、縦格子の大兜のような、割れた王冠のようなものを象っている。その下にあるべき貌はない。大彫像のような混沌の堆積ではなく、ただ昏々とした虚無が体躯の中心に居座り、ありうべからざる芯として巨人を屹立させているのだ。

 轟々と降りしきる雨音が反響しているのか、巨人の体躯からごおおおと唸り声のような重低音が鳴り響いた。大彫像が抗いがたい震撼を呼び起こす混沌だとすれば、この巨人は形容しがたい畏怖を呼び起こす虚無だ。何を見下ろしているのかいないのか、何に狙いを定めているのかいないのか、いやひょっとして、そ(・)の(・)虚(・)無(・)を(・)捉(・)え(・)る(・)全(・)て(・)の(・)モ(・)ノ(・)を(・)呪(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)の(・)か(・)。

 

 

 北落野原の総てのイキモノが、ただ屹立する虚無の巨人に戦慄を覚えている最中――最初に動いたのは、“無相燹主(ムソウセンシュ)”の大彫像だった。

 ごろごろと鳴動しながら片腕を掲げ、ごうと大気を叩き割りながら振り抜く。緩慢だが強烈な一撃が、無防備な巨人の顔面に叩きつけられ、ごぉんと重厚な衝撃波が生じた。ぐらりと巨人が身を崩しかけるほどの衝撃が、再び大気を叩き周囲を吹き飛ばす。北落野原の兵士たちがその重圧に怯む中、今度は巨人がその腕を振り上げた。

 そこに、一本の巨剣が握られていた。

 緩慢な動きで振り上げられるそれが、いったいいつからそこに在り、いつ巨人の手に握られたのか、誰にも分からなかった。枯れた大樹のようなぼろぼろの刀身に、びっしりと異郷の紋章が刻まれた、暗青の輝きを放つ巨剣。巨人自身の背丈にさえ匹敵する特大の刃は、もはや人類を基準とする兵器の大きさでは測れない。夜雨と暗闇に覆われた北落野原にあって、大彫像の音痕と巨人の巨剣、その二つだけが、煌々と輝きを放っている。巨人は緩慢な動きで巨剣を振り上げ、その切先をどろりとした曇天へ高く掲げると――

 ぐおんと空気を斬り、巨剣を振り下ろした。

 がぁん、と北落野原に衝撃波が轟いた。技巧も何もない、ただ力任せの一撃が大彫像に衝突し、その頭頂から足元まで余すことなく透徹した。その衝撃は海を割り、大地を震えさせ、まさに世界を破砕する波となって伝播した。もはや本日何度目になるか分からない衝突の衝撃に、北落野原のあらゆる生命が怯み、その波からわが身を守る辛抱を強要された。

 文字通り桁違いの超重量を真正面から受け、ぐらりと身を崩し――それでも踏ん張った大彫像を賞賛すべきか、どうか。大彫像は再び姿勢を戻して立ち上がったかと思うと、その胸の中心で輝く暗紫の音痕がきぃぃぃと金切り音を轟かせ、大彫像の四肢を動かし、今度は両腕を振り上げさせた。片腕ずつ突き出し、巨人の胴体を右に左に殴りつける。巨体ゆえの緩慢な殴打は、しかしそれ自体の超重量と衝撃波によって、回避も迎撃もままならない質量兵器と化していた。巨人もまた負けじと、片腕を振り上げて殴り返し、もう片腕で巨剣を振り上げている。

 どぉん、どぉん、どぉん――と、重い衝撃波が鳴り響く。人外の大怪物が繰り広げる野蛮で重厚な殴り合いに、北落野原の天地海が悲鳴を上げながら揺るがされる。文字通り桁違い、人の介入する余地などまるでない、闘争と呼ぶにはあまりに荒唐無稽な災害が繰り広げられた。

 ――それに心を打ち砕かれ、膝から頽(くずお)れてしまった兵士たちを、惰弱と呼ぶのはあまりに酷だろう。

 

 

「――ば、化物……」

「こんなの、勝てっこねぇよ……」

「終わりだ……みんなここで死ぬんだ……」

 

 

 思わず全身が脱力し、その手に握っていた武器を取り落としていく兵士たちの様子を、秧秧(ヤンヤン)もまた、流れ息で感知してしまった。

 人外の闘争を繰り広げる巨大な怪物が、二つ。たとえそれに決着が付き、どちらかの怪物が消滅したとして――つまり、勝ち残ったほうが彼らの脅威になるだけだ。た(・)だ(・)そ(・)こ(・)に(・)在(・)る(・)だけでどうしようもない恐怖を呼び起こす怪物を相手に、よしんば戦意を維持して戦いを挑んだところで、まともに傷がつくかどうかすら怪しい。勝利どころか生還の見通しさえ立たない大敵を相手に、絶望するなと言う方が無理だろう。そう叱咤する者さえ、現れなかった。今州の仇敵を前に、しかし彼らは何もできず、ただただ身勝手な闘争の巻き添えとして、諸共に轢かれるだけ。そんな無常の悲劇が、彼らに残された末路――

 

 

 そ(・)の(・)程(・)度(・)で(・)諦(・)め(・)ら(・)れ(・)な(・)い(・)者(・)が、立ち上がった。

 

 

「――行こう!」

「漂泊者!」

 

 

 だんと海岸を踏みしめて、前に進むべく立ち上がった漂泊者を、忌炎(キエン)が呼び止めた。

 彼女は振り向きもせず、ぐっと両脚に力を込めて跳躍し、海岸の廃墟へ降り立った。残る三人を呼び寄せるように振り向いたその顔に、怯懦は――ある。轟音と衝撃を散らしながら殴り合っている怪物たちの懐へと、先陣を切って飛び込むことに恐怖はある。今だってそうだ、握った拳がぶるぶると震えている。

 

 

「漂泊者さん! ですが――」

「行かなきゃ。行って、倒して、全部終わらせなきゃ。

 そうじゃないと、これまでの努力が――みんなの努力が、全部無駄になる!」

 

 

 ほとんど反射的に止めようとした秧秧(ヤンヤン)へ、しかし漂泊者は振り切って叫んだ。

 今日、この日、この時に至るまで、無数の努力と献身が積み上げられてきた。雲霞の如く湧いてくる残像潮を止めるため、無数の兵士が決死の覚悟で戦ってきた。残像たちの行動パターンを把握し兵士たちの犠牲を減らすため、無数の研究員が危険を顧みず挑んできた。かつて喪った戦友の亡霊に討たれ、無数の兵士が無念のうちに死んだ。悲劇の連鎖を止めるため、無数の研究員が命懸けで解析を進めた。すべては鳴式という絶望の化身を倒し、悲鳴の降臨を防ぎ、安寧を掴み取るために――

 その最前線に、彼女たちがいる。無数の兵士の犠牲によって守られた戦場を走り、今なお戦う兵士たちに送り出され、“無相燹主(ムソウセンシュ)”を討ち取るべく駆けている。だったら後は、それをやり遂げるだけだ。おかわりの一つ二つ程度で、心折れている暇などない!!

 ぎりりと拳を握り、震える喉を涸らして叫ぶ漂泊者に、忌炎(キエン)もまた立ち上がった。

 

 

「――そうだ。全てはこの一戦、この瞬間のために積み上げてきた! 過去戦ってきた戦友たちの奮闘に報いるために!! 未来に生まれる子供たちの幸福を守るために!!」

 

 

 翡翠色の長槍をびたりと暗紫の音痕に向け、迷妄も恐怖もかなぐり捨てて睨み据える。ただ勇気だけをその槍穂に乗せて、怨敵を穿つのみ。

 猛り立つ二人の戦士の咆哮に、秧秧(ヤンヤン)と鑑心(カンシン)も勇気を振り絞って立ち上がった。止まっていては、諦めては、絶望に押し流されるだけだ。この道の先にしか、今州の活路はない。

 

 

「往くぞ! ここで全ての戦いに、けりをつける!!」

 

 

 再起叶った突撃小隊が、忌炎(キエン)の叫喚とともに再び走り出した。

 

 

 

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