アパートの大家が、気の強そうな
小さな芦毛のウマ娘を自分の元へ
連れてやってきたのはある夜勤明けの冬の日だった。
「悪いな、寝とったか」
「いえ、起きたところです。その子は?」
「ウチはタマモクロス言います!!」
自分がトレーナーの勉強をしているのを聞きつけ、
家賃をまける代わりにこの子供の
指導してほしい、とのことであった。
収入を考えればここの家賃など負担ではないが、
戯れに面倒を見てやることにした。
トレーナー業の練習にもなるだろう。
「ほな、頼むわ」
それにしても大家直々とはいえ
今日び成人した一人暮らしの男性のもとに
幼女を一人寄越すのはさすがに無防備ではないか。
─大阪の下町ってこんなもんなのかなあ。
「…いいのかなあ。親はなにやってんだ??」
「仕事しとるに決まっとるやんけ。
にいちゃんこそ昼まで寝ててなにしとんの」
子どもはいきなり生意気な口を利く。
「警備で夜働いたりしてるからだよ」
嘘は言っていない。
実際、普段はURAの施設警備だ。
現在は阪神レース場が仕事場である。
「へえ。ほな、にいちゃん強いのか?」
「普通だよ。タマちゃんは歳は幾つなの?」
「6歳や」
「4つくらいかと思った」
「誰がチビや!!!」
ぽこぽこと怒る子供を適当にあやしながら
散歩がてら、近所の公園に連れて行った。
「じゃあちょっと走って見せてよ。
あの滑り台のとこまで」
「おう!!」
彼女は軽やかに駆け出した。
「………!!!」
荒削りだが重心が低く沈み込むような
力強いフォームは目を見張るものがある。
まるで猟犬のような走りだ。
─これはひょっとしたら。
「なあ、ウチ日本一のウマ娘になれそうか?」
ぴょこぴょこ子供らしく
跳ねながら戻ってきた彼女は、無邪気に問うた。
─でもなあ。
彼女の家庭環境を考えると
レースクラブに入ることは経済的に難しい。
トレセン学園に入るウマ娘はほぼ
どこかしらのレースクラブに所属して
レースを学び、受験に挑む。
それを考えると─
『タマモクロスはどえらい奴や』
─??????今のはなんだ?
さて、この歳の子に今から
そんな現実を伝えるのも…と
お茶の濁し方を色々考えていたはずが、
口から出た言葉は真逆だった。
─今のは誰がしゃべったんだ??
「ホンマに??ウチめっちゃ
どえらいウマ娘になれる?」
はしゃぐ彼女を見るうちに何故か、
タマモクロスは本当に
強いウマ娘になるような気がしてきた。
それからすぐ、トレーナー資格を取得したが
自分はトレセン学園にはすぐに所属せず、
タマモクロスの指導に没頭した。
ある時、あまり元気がない様子で
タマモクロスがトレーニングに現れた。
「どうした?具合悪いか?」
タマモクロスは首を振る。
なんとなく、自分には心当たりがあった。
「わかった。お父ちゃんお母ちゃんが
ポピーちゃんに構いっきりだから寂しいんだろ」
ポピーは、この前生まれた彼女の妹だ。
「ちゃうわ!!ただ、ちょっと……
妹羨ましいときは………あるわ。
ウチ、お姉さんなのに……」
ぎゅう、っと小さな手を握りしめる。
「でもタマには俺がいるだろ?」
彼女の父母は今、妹にかかりきりだが、
タマモクロスにはその分
トレーナーである自分がいる。
「何があっても一人にしない。必ず守る」
「………!!!」
何故かタマモクロスの顔が赤くなった。
「そ、そ、そういえばにいちゃん、兄弟おるん?」
「いないよ」
「一人っ子なんやね」
「さあね。親もいないからわからん」
「……え?」
聞いてはいけないことを聞いてしまった、
という戸惑いが伝わってきた。
別段、こちらは気にしてはいないのだが。
「ほら、一本走るぞ。
この前言ったように足の上げ方
もうちょい意識しろよ」
「…う、うん」
自分には4歳から前の「記録」も「記憶」もない。
冬の日、気がついたら中京レース場にいた。
親が置いていったのかもしれない。
あるいは別の保護者にあたる存在か。
防犯カメラでも置き去りにされた状況は
分からなかった。
各入場ゲートの防犯カメラにも
自分が誰かと入ってきた映像は
全く映ってなかったそうだ。
この仕事に就いてから改めてわかったが
ゲートをはじめ各所設置された
カメラに全く映らずに保護された地点まで
行くのはまず不可能だった。
だが、忽然と現れたように、自分はそこにいた。
自分にそれ以前の「記憶」が全くない。
歳についても正確かは知らない。
よく覚えてないが自分は歳をきかれて
黙って4本、指を出したらしい。
それと外見や歯の様子等から
そう判断されたのである。
歳は応えたが名前は答えられなかった。
身なりも冬場にしては薄着であったという。
レース場で見つかった身元不明の子ども、
という縁で中京レース場にある三女神を祀る廟で
神託という形で今の名前が降ろされた。
家族を知らないため、
貧しいながらも仲良く支え合う
タマモクロスの家族が
少し羨ましくなるときはある。
とても温かい家庭で彼女は育ったのだ。
「…タマは将来、いいお嫁さんになるよ」
「さっきから何言うてんの!?」
はて、さっきとはなんだろう。
その後も自分たちなりに
工夫してトレーニングを重ねた。
そして。
「合格やー!!」
「やったなあ、タマ!おめでとう!」
「にいちゃんのおかげやで!ホンマおおきに!!」
トレセン学園に入学が決まった時、
タマモクロスの家族や
アパートの大家とともに
手放しで歓喜した。
人生でこれだけ喜んだことはないくらいだ。
正直泣きそうにすらなった。
「じゃあ、先に府中で待ってるよ」
彼女の入学に合わせて、
自分もトレセン学園所属の
トレーナーとしての登録を済ませた。