(完結)屑王太子殿下の優雅なる廃嫡   作:埴輪庭

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ユージンという男

 

王太子ユージン・フォン・アストレアは、執務室の豪奢な椅子に深く身を沈めながら分厚い書類の束に目を通していた。

 

ずきり、と鈍い痛みがこめかみを穿つ。

 

三日前の夜、場末の娼館で身分を偽って過ごした時間の代償だった。

 

安酒と女の安っぽい香水の匂いがまだ脳の奥にこびりついているかのようだ。

 

しかしその放蕩の残滓とは裏腹に、彼の思考は剃刀のように鋭利だった。

 

ユージンは側近たちに聴こえない様にぽつりと呟く。

 

「草」

 

草、とは安娼婦のメアリィから教えてもらったスラングである。

 

相手を嘲笑したり単に面白いという意味だったり、様々な意味で使える便利なスラングだ。

 

ユージンは羽根ペンをインク壺に浸した。

 

目の前にあるのは、喫緊の課題である税制改革案。

 

幾人もの高官や学者が練り上げたはずのその法案は、ユージンに言わせれば穴だらけの欠陥品だった。

 

「第三条項、奢侈品に対する税率を一律に引き上げる、か。これでは辺境の商人たちが立ち行かなくなる。毛皮や宝石の類は辺境にとっては生活必需品であり、交易の要だ。これを都市部の基準で課税すれば物流が滞り、結果として王都の経済をも圧迫する。税率は地域ごとに段階的な適用を検討させろ。五年を一つの区切りとし、三段階で調整するよう修正案を起草するように言え」

 

淀みない指示に、背後で控えていた側近たちが息を呑む音が聞こえた。

 

二十歳を少し過ぎたばかりのこの王太子が、時に老練な政治家をも凌駕する洞察力を見せることに彼らは未だに慣れることができずにいた。

 

ユージンはそんな畏敬の念が混じる視線を感じながらも、内心では冷めた笑みを浮かべていた。

 

彼らが賞賛するこの能力こそが、自分をこの息苦しい椅子に縛り付ける最大の枷なのだから。

 

 

──そろそろアリウスが来る頃かな

 

そんな事を思っていると控えめなノックの音。

 

「入れ」

 

短い応えの後に一人の青年が入ってきた。

 

柔らかな金髪を揺らし、ユージンとよく似た紫色の瞳を輝かせている。

 

弟のアリウスだった。

 

「兄上、おはようございます。……随分お疲れの様ですが……また徹夜をされたのですか?」

 

ユージンは首を振る。

 

──態度には出していないはずだが、やはりアリウスの前では油断は出来ないな

 

「おはよう、アリウス。少し考え事をしていただけだ」

 

「兄上は本当にご立派です。いつも国のことを第一に考えていらっしゃる」

 

眩しいほどの賞賛が罪悪感となってユージンの胸に突き刺さる。

 

この実直で心優しい弟に兄が週に三度は娼婦の胸を枕に眠っているなどと、どうして言えようか。

 

アリウスのこの純粋さは、ユージンが守りたいと願う数少ないものの一つであり、同時に彼を苛む呪いでもあった。

 

「王太子としての務めだよ。お前もいずれこの重みを理解する日が来る」

 

「はい。兄上のような立派な人間になるため、私も日々精進します」

 

その真っ直ぐな瞳から逃れるように、ユージンは再び書類に視線を落とした。

 

──もし互いに王族でなければ

 

ユージンは思う。

 

毎晩娼館で“精進”の手助けをしてやっただろうに、と。

 

そう、このユージンという男は能力はある。

 

あるのだが、その趣味は宜しくない。

 

いや、悪い。

 

酒、女、博打が大好きで、違法すれすれの興奮剤を飲んで朝まで娼婦を抱くなど、これはもう非常に悪い趣味だと言えよう。

 

しかしそれはそれとして、王族としての責任感もそれなりにあるという奇妙な男でもあった。

 

 

その日の午後、ユージンは恒例行事となっている婚約者との茶会に臨んでいた。

 

エリナ・フォン・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。

 

銀糸のような髪を寸分の乱れもなく結い上げ、背筋を凛と伸ばした姿はまるで精巧な磁器人形のようだった。

 

彼女は、いついかなる時も完璧だ。

 

「殿下、先日の貴族議会における税制改革案へのご指摘、実に見事でございましたわ。わたくしの父も、殿下の先見の明に感服しておりました」

 

「君が事前にまとめてくれた辺境諸都市の交易データがあったからこそだ。礼を言うのはこちらのほうだよ、エリナ」

 

形式的な言葉が優雅なティーカップの音と共に空虚に響く。

 

二人の間に流れるのは親密さとは程遠い、ビジネスパートナーとしての緊張感だけだった。

 

ユージンはエリナの完璧に作り上げられた微笑みの下に、微かな疲労の色が浮かんでいるのを見逃さなかった。

 

──エリナも可哀そうに。なまじ優秀なばかりに、私が無意識に発する気配に気付いているな

 

この男は人の気持ちも敏に察する。

 

これは生まれついての才能というよりは、娼館で鍛えた洞察力が大きい。

 

娼婦が本当の意味で気をやっているのか、あるいはフリをしているだけか──男にとっては大きな問題だ。

 

竿を女陰にぶち込めばよい、という愉しみ方も嫌いではないが、ユージンはせっかくなら二人で気持ちよくなりたいと思うタイプの遊び人であった。

 

だからわかるのだ。

 

エリナが察しているという事実が。

 

ユージンがエリナを少しもこれっぽっちも好きでもなんでもない、こうしてここにいる事すら苦痛──と思っている事を。

 

そして、ユージンもまたエリナがそれを察している事を察している。

 

まさに茶番であった。

 

「来月に控えた収穫祭の件ですが、今年は民衆への食糧配給に加え、王立劇場を数日間無償で開放するというのはいかがでしょう。文化的な施しは、民の心を豊かにしますわ」

 

またか、とユージンは内心で深く溜息をついた。

 

収穫祭。民衆。施し。

 

──そんなもの、正直言ってどうでもいい

 

そんな事を思うユージン。

 

無論思うだけだ。

 

同時にユージンの頭の中では、エリナの提案がどのような効果をもたらすかが瞬時に試算されている。

 

人格を抜きにすればこの男の能力はピカ一であった。

 

──まあ、悪くはないな。ただ、いくつか修正点もある

 

試算した費用対効果を鑑み実施を決める。

 

その次の瞬間には、頭の中で下町の薄汚れた酒場で豊満な踊り子の尻でも眺めながら安酒を呷る光景が明滅していた。

 

そんなユージンの口から紡がれるのは完璧な王太子の言葉である。

 

「素晴らしい提案だ。だが、劇場の警備体制を強化する必要があるな。無償開放となれば、普段は劇場に足を運ばない層も多く訪れるだろう。混乱を避けるため、騎士団の一部を動員し、入場制限も設けるべきか……」

 

真面目な顔で国家の安寧を語る自分が滑稽でたまらない。

 

エリナもまた淀みなく返答を続ける。

 

二人はまるで、見えざる観客のために完璧な劇を演じ続ける役者のようだった。

 

茶会が終わり一人執務室に戻ったユージンは、窓の外に広がる王都の夕景を眺めながら、息苦しさに胸を押さえた。

 

このままでは窒息する。

 

王位も、エリナとの結婚も、アリウスの期待も、すべてが鉛のように重い。

 

いっそすべてを投げ出してしまえたら。

 

だがそんな無責任な行動が許されるはずもなかった。

 

ユージンが単純に王位を放棄すれば、国は確実に混乱する。

 

貴族たちは後継者を巡って醜い派閥争いを繰り広げ、その渦中で最も苦しむのは、心優しい弟のアリウスに他ならない。

 

エリナとて婚約を一方的に破棄されれば、その名誉は大きく傷つくだろう。

 

ユージンはアリウスもエリナも嫌いではない。

 

アリウスは愛する家族だ。

 

エリナに関しては別に好きではないが、その理由は単純である。

 

堅苦しいのだ。

 

淑女の中の淑女であるエリナと一緒に居ても全く楽しくもなんともない。

 

美しく賢い女性だとは思うが、ユージンにとってはだからなんだという話であった。

 

ユージンの好きなタイプは馬鹿でエロくて、一緒にいて楽な相手だ。

 

だからと言って傷つけてよいなどとは欠片も思っていない。

 

王太子の婚約者として日々努力するエリナへの敬意はユージンにもある。

 

そんな彼女を傷つけるなど許されない──そうユージンは思っている。

 

──駄目だ。逃げるにしてもやり方がある

 

必要なのは誰もが納得し、祝福さえするような形での完璧な王位離脱。

 

アリウスが正当な後継者として即位し、エリナが彼の妃として国母となり、そして自分は自由の身となる。

 

そんな都合の良い結末。

 

そのためには、周到な準備と、強力な駒、そして絶好の舞台が必要だ。

 

ユージンは書庫の奥深くへと足を向けた。

 

埃っぽい書架の中から、彼は一冊の古びた法典を取り出す。

 

そこには忘れ去られた古代の法律や、前例のない爵位についての記述があった。

 

指先で乾いた革の表紙をなぞりながら、口元に笑みを浮かべる。

 

 

それから二ヶ月の歳月が流れた。

 

王都に春の訪れを告げるライラックの花が咲き誇る頃、王宮では年に一度の最も華やかな催しである大舞踏会が開かれていた。

 

磨き上げられた大理石の床にシャンデリアの光が乱反射し、着飾った貴族たちの宝石がきらびやかな光の粒子を振りまいている。

 

ユージンは非の打ち所のない完璧な王太子として、その喧騒の中心に立っていた。

 

優雅な笑みを浮かべ各国の使節や有力貴族たちとそつなく言葉を交わしながらも、その頭脳は冷徹に計画の次の段階を計算していた。

 

彼は群衆の中にエリナの姿を見つけると、そっと彼女のそばへ寄った。

 

「エリナ、少し頼まれてくれないか」

 

「何でございましょう、殿下」

 

「あそこにいるアリウスと、辺境の治水について話してみてほしい。先日君がまとめてくれた報告書について、彼も非常に興味を持っていた。君の専門的な知識が彼の助けになるはずだ」

 

ユージンの言葉にエリナはわずかに眉を寄せた。

 

「わたくしがアリウス殿下と?殿下が直接お話しされた方がよろしいのでは?」

 

「いや、私ではどうしても兄としての意見になってしまう。第三者としての、そしてこの国で最も治水に詳しい君の見解が聞きたいとアリウスは言っていたんだ。頼む」

 

有無を言わせぬ穏やかな口調。

 

エリナは不審に思いながらも王太子の頼みを断ることはできず、静かに頷いた。

 

ユージンはアリウスが一人でたたずむテラスへとエリナを導き、二人が少しぎこちなく会話を始めるのを見届けると、満足げにその場を離れた。

 

最初の布石は打たれた。

 

誠実で真面目なアリウスと、知的で義務感の強いエリナ。

 

共通の目的を与えれば、彼らが互いに惹かれ合うのは時間の問題だろう。

 

ユージンが会場を支配するオーケストラの調べに耳を傾けていると、その時だった。

 

「きゃーっ!」

 

甲高い悲鳴が音楽を突き破った。

 

視線を向ければ会場の入り口近くで、ショッキングピンクという表現がぴったりの派手なドレスを着た女が見事にすっ転んでいた。

 

裾を踏んだのか、ワイングラスが宙を舞い、床に派手な音を立てて砕け散る。

 

「あーん、あたしったらなんてドジなのかしら〜!誰か助けてくださる方はいないかしら……」

 

媚を含んだ甘ったるい声が、周囲の顰蹙を買っているのが空気でわかった。

 

貴族たちは侮蔑と好奇の入り混じった視線を投げかけ、誰も助け起こそうとはしない。

 

ユージンはその女を獲物を見つけた狩人のように観察した。

 

はちきれんばかりに豊満な肉体。

 

貴族令嬢としてはあまりに品のない大げさな仕草。

 

そして何より――その瞳の奥に宿る、剥き出しの強欲さ。

 

まさに理想的だった。

 

ユージンは完璧な王太子の仮面を再び被り、優雅な足取りで彼女に近づいた。

 

「大丈夫ですか、レディ」

 

彼は恭しく手を差し伸べた。

 

女は顔を上げ、目の前の男が誰かも気づかずに歓喜する。

 

「ま、まあ!レディだなんて──ありがとうございます!あたし、カザリアと申します!ベルトラン男爵家のカザリアですわ!」

 

差し出された手を取るというより、鷲掴みにする勢いでカザリアは立ち上がった。

 

その指先に光る安物の指輪が、ユージンの目に留まる。

 

ベルトラン男爵家。

 

確か辺境の弱小貴族だったはずだ。

 

使える。

 

ユージンは内心でほくそ笑みながらも、あくまで紳士的に続けた。

 

「お怪我は?もしよろしければ、気分直しに一曲お相手願えませんか」

 

「喜んで!一生の思い出にしますわ!」

 

ダンス自体は下手ではない。

 

ただ、時折こちらへ体を押しつけてくるのは、一言で言えば下品極まりなかった。

 

しかしユージンはそういうのも嫌いではない。

 

──中々良いな

 

柔らかい胸の感触にほくそ笑むユージン。

 

この女の体はどんな味がするのだろうか?などと考える。

 

一曲を終えるとユージンは丁重に彼女から離れた。

 

今はまだ深く接近すべき時ではない。

 

計画には慎重な下準備が不可欠だ。

 

翌日からユージンは腹心の密偵を使い、カザリア・ベルトランの身辺調査を徹底的に開始させた。

 

あるいは他国のひも付きという可能性があるからだ。

 

そして一か月後。

 

 

一ヶ月をかけて集められた情報は、彼の期待を裏切らない実に興味深いものだった。

 

ベルトラン男爵家はやはり財政的に困窮している弱小貴族だった。

 

しかしそのわずかな領地は、隣国との交易路における重要な中継点に位置していた。

 

そしてカザリアの叔父はその交易路を利用して成り上がった野心的な商人であり、姪を利用して中央政界への足がかりを得ようと画策している節があった。

 

さらに決定的なのはカザリア本人の情報だ。

 

過去には複数の男性と金銭を介した交際歴がある。

 

彼女の思考は驚くほど単純で、欲望に忠実。

 

そして貴族としての矜持は希薄。

 

「完璧だ」

 

報告書を暖炉の火に投じながら、ユージンは呟いた。

 

遊び慣れていて、欲しいものが明確。

 

まさにセフレ向きの女と言えるだろう。

 

 

舞踏会から三ヶ月が過ぎ王都が夏の強い日差しに焼かれる頃、ユージンは計画の第二幕を開始した。

 

彼は王宮を抜け出すための巧妙なアリバイを作ると、安物だが仕立ての良い麻の服をまとい、日焼けで肌の色を濃く見せる化粧を施した。

 

王太子ユージンの面影は消え、そこにいたのは精悍でどこか訳知り顔の織物商「ユーリ」だった。

 

「ユーリ」は、カザリアが頻繁に訪れる王都の高級ブティックの前で、完璧な「偶然」を演出した。

 

店の前で商品の陳列を眺めていたカザリアが、無理な値引きを要求して店員と口論になりかけている。

 

まさに、ユージンが密偵からの報告で予測していた通りの状況だった。

 

「お困りのようですね、お嬢さん」

 

落ち着いた低い声で、ユーリは割って入った。

 

「あなた、誰よ?」

 

「しがない織物商です。その生地、確かに素晴らしいものですが、お嬢さんのような美しい方には、もっと鮮やかな色のものがお似合いになるでしょう。あちらの店の新作なら、きっとご満足いただけます。私が顔見知りですので、少しは勉強してくれるかもしれませんよ」

 

胡散臭げに見ていたカザリアだったが、「安くしてくれるかもしれない」という言葉にぱっと顔を輝かせた。

 

ユーリの巧みな口車に乗せられ、カザリアは彼と共に別の店へ向かい、結果的に望んでいた以上のドレスを予想外の安値で手に入れることに成功した。

 

もちろん差額はユーリが裏で支払っている。

 

この日を境に織物商ユーリと男爵令嬢カザリアの関係は急速に深まっていった。

 

最初は月に一度。ユーリは珍しい織物や異国の装飾品を手土産に、カザリアを訪ねた。

 

次第に週に一度。二人は下町の気取らない酒場で会い、他愛のない話に興じた。

 

そして夏が盛りを過ぎる頃には週に二度、三度と会うのが当たり前になっていた。

 

「あはは!ユーリさんといると、すっごく楽しい〜!」

 

ガヤガヤと騒がしい酒場でカザリアは頬を赤らめ、無邪気に笑った。

 

ユージンは王宮では決してすることのないくだらない冗談を言い、彼女のどうでもいい自慢話に相槌を打った。

 

難しい政治の話も息の詰まるような儀礼もない。

 

ただ飲んで、笑って、帰り道には人目を忍んで軽い口づけを交わす。

 

それは、ユージンが心の底から求めていた無責任で享楽的な関係だった。

 

一方で王宮というもう一つの舞台では、ユージンの描いた脚本通りに別の戯曲が静かに進行していた。

 

治水計画という共通のプロジェクトを与えられたアリウスとエリナは、王宮の書庫や図書室で顔を合わせる機会が格段に増えていた。

 

「エリナ嬢のこの分析は素晴らしい。河川の流量だけでなく周辺地域の土壌の質まで考慮に入れているとは」

 

「いいえ、アリウス殿下の着眼点こそ。過去の文献から百年前の治水工事の失敗例を教訓として見つけ出すなんて……わたくしにはできませんでしたわ」

 

最初はぎこちなかった二人の会話は共同作業を通じて熱を帯びていった。

 

互いの知性、誠実さ、そして国を思う真摯な心に触れるうち、彼らの間には尊敬から始まった淡い恋心が芽生え始めていた。

 

ある夜、膨大な資料に囲まれた書庫で二人の意見が完璧に一致した瞬間──思わず見つめ合った彼らの間には甘やかな空気が流れる。

 

もちろん二人とも自身の本心を相手に告げたりはしない。

 

それこそ死ぬまで秘しておくべき感情だからだ。

 

そんな二人の細やかな感情を──ユージンは側近からの報告で二人の関係性の変化を正確に把握していた。

 

 

季節は移ろい、王都の街路樹が赤や黄色に色づく秋になった。

 

ユージンとカザリアの関係は、誰が見ても恋人同士と呼べるほど親密さを増していた。

 

彼らの逢瀬の場所は、いつもの酒場の二階にある人目につかない個室が常となっていた。

 

そんなある夜、情事の後。

 

乱れたシーツの上で寄り添っていた時のことだった。

 

カザリアが、天井を見上げながら不意に口を開いた。

 

「ねえ、ユーリさん。あなたって、本当にただの商人なの?」

 

その問いにカザリアの髪を撫でていたユージンの指が一瞬だけ止まった。

 

「……どうして、そんなことを聞くんだ?」

 

「だって……」

 

カザリアは体を起こし、ユージンの手をまじまじと見つめた。

 

「商人の手じゃないもの。こんなに綺麗で、マメの一つもないなんて。それに、言葉遣いも時々、すっごく上品になることがあるわ。普段読んでる本だって、難しい歴史の本ばっかりじゃない」

 

意外な観察眼だった。

 

ただ欲望に忠実なだけの単純な女だと思っていた。

 

ユージンは内心の驚きを悟られぬよう、ゆっくりと体を起こした。

 

嘘で固めた関係にも少しばかりの真実を混ぜ込む時が来たのかもしれない。

 

「……驚かないで聞いてくれるかい」

 

ユージンは憂いを帯びた表情を作り、遠い目をした。

 

「実は、私は貴族の血を引いているんだ。だが、家の事情で勘当同然の身でね。今はこうして、自分の力だけで生きている」

 

「やっぱり!そうじゃないかと思ってたの!」

 

カザリアは目を輝かせた。

 

彼女にとってユーリが単なる商人でないことは、彼の価値をさらに高める要素でしかなかった。

 

悲劇の貴公子。

 

その響きは彼女の単純なロマンス趣味を大いに刺激した。

 

それに、とカザリアは思う。

 

もうこうして何度も体を重ねているうち、カザリアはユージンに本気になってしまっていた。

 

「でも、いいの!あたしは今のユーリさんが好きだもの!貴族だろうが商人だろうが、関係ないわ!」

 

 

同じ頃、王国を取り巻く情勢はユージンの計画に追い風となる形で動き始めていた。

 

隣国バルドスとの国境線に位置する辺境地帯で小規模な紛争が頻発し、緊張が高まりつつあったのだ。

 

もともと交易の利権を巡って対立の火種があったが、それが今現実的な脅威として王宮を揺るがし始めていた。

 

ユージンはこれを絶好の好機と捉えた。

 

彼は貴族議会の席で、満場の重臣たちを前に新たな提案を堂々と行った。

 

「諸君、ご承知の通り我が国の辺境は今バルドスの脅威に晒されている。これは単なる小競り合いではない。国家の存亡に関わる危機の前兆と見るべきだ。そこで私は新たな爵位の創設をここに提案する!」

 

議場がざわめく中、ユージンは声を張り上げた。

 

「その名も、『辺境公爵』。王位継承権は完全に放棄する。その代わり辺境伯のさらに上に立ち、辺境地帯の軍事、行政、司法のすべてにおいて絶大な権限を持つ防衛専門の特別公爵位である!」

 

王位継承権を持たない、という一文が、重臣たちの警戒心を和らげた。

 

彼らは、王太子の影響力がこれ以上増すことを快く思っていなかったからだ。

 

しかし国境防衛という喫緊の課題に対し、これは有効な一手かもしれない。

 

ユージンの理路整然とした説明は軍事的、経済的側面からその必要性を雄弁に語り、反対しようとした者たちをも沈黙させた。

 

重臣たちは興味を示し、その創設に前向きな議論を始めた。

 

だがその時点ではまだ誰一人として、そのあまりに強大な権力を持つ地位に誰が就くことになるのかを想像だにしていなかった。

 

ユージンを除いては。

 

 

厳しい冬が到来し、王都が雪のヴェールに閉ざされる頃。

 

辺境の緊張はついに臨界点を超え、国境紛争は本格的な戦争へと発展した。

 

バルドス王国が公然と領土的野心を露わにし、国境の砦に攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

王宮内は連日、軍議と対策会議で緊張に包まれた。

 

ユージンはこの時を待っていた。

 

そして満を持して、彼は最後の行動を起こす。

 

まず彼はエリナを密かに自室へ招いた。

 

人払いされた部屋で、二人は暖炉の炎を挟んで向かい合った。

 

「単刀直入に言おう、エリナ。私は王位を継ぐつもりはない。そして君も私との婚約を──この空虚な婚約を心の底から望んでいるわけではあるまい」

 

切り出された言葉にエリナは表情を変えずにユージンを見返した。

 

瞳は冬の湖のように静かで、底が見えない。

 

「……何を仰りたいのですか」

 

「君も、この退屈な茶番には飽いているだろう? 私たちは似た者同士だ。義務と体面に縛られ、本当の自分を殺して生きている」

 

ユージンの言葉はエリナが長年心の奥に封じ込めてきた感情を的確に言い当てていた。

 

完璧な仮面に初めて微かな亀裂が入る。

 

「……次の王に最も相応しいのはアリウスだ。彼の誠実さと清廉さは、この国を正しく導くだろう。君も本当はそう思っているのではないか?」

 

エリナは長い沈黙の後、ゆっくりと目を伏せた。

 

彼女の脳裏に、書庫で真剣に議論を交わしたアリウスの姿が浮かぶ。

 

真っ直ぐな瞳、国を思う純粋な情熱。

 

アリウスとなら偽りではない、本当の意味でのパートナーシップを築けるかもしれない。

 

「……協力していただけますか、殿下」

 

エリナが顔を上げた時、その瞳には覚悟の光が宿っていた。

 

「もちろんだ。利害は一致している」

 

「アリウス様は、あなた様よりも扱いやすいでしょうから」

 

そう言って微かに笑ったエリナの瞳にはもはや凍てついたものはなかった。

 

轟轟と燃える炎に似た何かが宿っている。

 

この時、二人の間に強固な共犯関係が成立した。

 

 

数日後、国王臨席の御前会議が開かれた。

 

辺境への派兵と防衛策が議題の中心だった。

 

重臣たちの議論が白熱する中、ユージンは静かに立ち上がり父王の前へと進み出た。

 

「陛下、そしてご列席の皆様方にご報告したい儀がございます」

 

満場が静まり返り、すべての視線がユージンに注がれる。

 

「私は、この身を以て辺境を守る盾となりたく思います。つきましては先日創設が決定した辺境公爵の地位に、この私を任じていただきたい。そしてその任に専心するため、本日この場を以て、王位継承権の一切を返上いたします!」

 

その宣言は議場に爆弾が投下されたかのような衝撃を与えた。

 

騒然となる一同。父王は驚きと怒りで顔を赤くし、アリウスは「兄上!」と悲痛な声を上げて立ち上がった。

 

しかし混乱はエリナの事前の根回しによってすぐに鎮められた。

 

彼女の父であるヴァレンシュタイン公爵を筆頭に、エリナが説得した有力貴族たちが次々とユージンの決断への賛同を表明したのだ。

 

「王太子殿下のご決意、見事である!」

 

「国を思うその忠誠心に、我らも続かねば!」

 

そんな声が上がる。

 

王太子自らが最も危険な辺境へ赴き王位まで手放すという自己犠牲の物語は、貴族たちの心を掴んだ。

 

父王もこれだけの支持を前にしては息子の覚悟を認めざるを得なかった。

 

アリウスは突如として背負わされた王冠の重みに戸惑いながらも、最終的に次期国王として満場に認められた。

 

すべてが終わった。

 

ユージンの思う通りに。

 

 

その夜、ユージンは豪華な隠れ家にカザリアを呼び出した。

 

使者によって何も知らされずに連れてこられた彼女は、その絢爛な内装に目を白黒させている。

 

「ユーリさん、よね……?」

 

背を向け立つ男──ユージンに、カザリアは心許なげに問いかける。

 

ユージンはいつもの商人の服ではなく貴族としての正装に身を包んでいた。

 

振り返るユージン。

 

変装はもはやしていない。

 

驚愕するカザリア。

 

ユージンはカザリアの前に静かに跪くと、ゆっくりその手を取った。

 

「すまなかった、カザリア。ずっと嘘をついていた」

 

「え……?」

 

「私の本当の名は、ユージン・フォン・アストレア。この国の王太子だ」

 

「えええええええええええええええ!?」

 

腰を抜かさんばかりに驚くカザリア。

 

ユージンはその反応を予測していたかのように優しく彼女を抱き起こすと、最高の笑顔で言った。

 

「だがもう王太子ではない。私はこれから辺境公爵として生きる。カザリア、私と一緒に辺境へ来てくれないか。私の妻として。言っていただろう?お金持ちのお嫁さんになりたいけど、ユーリさんで我慢してあげるよ、と。どうか私で我慢してくれないか?」

 

一瞬の沈黙の後、カザリアの顔が歓喜に輝いた。

 

「やったあああああ!公爵夫人!?本物の貴族!お金持ちと結婚できるのねーっ!」

 

相変わらずの欲望に忠実な反応。

 

だがその単純さが今のユージンには心地よかった。

 

彼は心からの笑い声を上げた。

 

すべての計算が、欺瞞が、策略が、この瞬間のこのどうしようもなく馬鹿で愛おしい女の笑顔のためにあったのだと彼は思った。

 

 

辺境公爵となって半年。

 

ユージンが治める地はかつての緊張が嘘のように静まり返っていた。

 

いや、正確に言えば静まり返らせたのだ。

 

隣国バルドスが新たな公爵の着任を好機と見て大規模な侵攻の構えを見せた時、ユージンは冷たく嗤った。

 

「アリウスの王国に手を出すというのなら、容赦はしない」

 

彼の執務室からは、連日冷酷極まりない謀略の指令が放たれた。

 

敵国の将軍に偽の情報を流して内部分裂を誘発し、主戦派の要人を素性の知れぬ暗殺者に始末させ、バルドスの経済を支える交易路をカザリアの叔父の商会を使って裏から締め上げる。

 

あらゆる汚い手、卑劣な罠を駆使し、ユージンは戦火を交えることなく敵国を内部から徹底的に腐らせ、崩壊させた。

 

「公爵閣下、さすがにこのやり方は……あまりに非情では」

 

古参の側近が顔を青くして諫言する。

 

ユージンは地図を睨んだまま冷たく言い放った。

 

「私は敵国の人間がどうなろうと何とも思わない──弟と違って。私は自身の平穏を何より愛するが、“自身の平穏”の中には愛する家族も含まれている。私の目の黒いうちは、弟が、アリウスが治めるこの国に手出しをするものは誰であろうと許さない」

 

それに、とユージンは続ける。

 

「加減はしている。バルドスそのものをこの世界の地図上から消してしまっても良かったのだ。あらゆる補給路を塞ぎ、国全体を飢えさせ、貴族平民関わりなく餓死させてしまってもよかった。それをしないのはアリウスが気に病むのが目に見えているからだ」

 

その瞳にはかつての怠惰な王子の面影は微塵もなかった。

 

冷徹、残忍、非情──それもまたユージンの本性である。

 

しかしそんな彼も妻の顔を見れば、ただのオスに戻るのだった。

 

「ユージン様〜、今日もすっごく遅かったじゃないですか〜」

 

豪華なベッドの上で頬を膨らませるカザリア。

 

彼女はこの半年で、さらに豊満に、そしてさらに華美になっていた。

 

「すまない、仕事が立て込んでいてね」

 

「もうっ。そんな仕事ばっかりしてたら倒れちゃいます!それに、えーと……あたしとエッチする時間も減っちゃうし」

 

そう言って無邪気に甘えるカザリアを、ユージンは愛おしげに抱きしめ──押し倒した。

 

 

その頃、遥か離れた王都では若き国王アリウスとその妃エリナが理想的な君主夫妻として民衆から絶大な支持を集めていた。

 

誰もが彼らの治世を祝福している。

 

辺境では狡猾な公爵が鉄壁の守りを築き、その腕の中では無邪気な妻が享楽的な日々を送っている。

 

王都では清廉な国王夫妻が理想の政治を行っている。

 

二つの地、二つの統治。

 

怠惰に生き、好きな女を抱き、面倒事から解放されたいという己の欲望のために屑王子が編み出した、完璧すぎる策略の結果であった。

 

ユージンはカザリアを抱きしめながら満足げに微笑む。

 

なおこの晩、ユージンは三度達した。

 

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