FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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最終章:悪夢のリフレイン

 幾度となく見てきた悪夢を、少年はまた見ている。

 

 かつてイルシオンとブロディアの国境沿いに静かに佇んでいた、名もなき故郷の終焉。

 

 視界を埋め尽くすのは、目に刺さるような鮮血の赤と、すべてを呑み込む業火。肌を焦がす熱気と共に、肉が焼け焦げる異臭が鼻腔(びくう)を犯す。

 

 平和だった家々が、家畜たちの悲鳴が、そして愛する人々の生きた証が、無慈悲な暴力によってただの灰へと変えられていく。

 

 天を突く火柱の向こう側、悦びに歪んだ顔で惨劇を見下ろす男がいた。

 

 イルシオン国王、ハイアシンス。彼の呪詛のような宣告が、燃え盛る爆ぜ音を切り裂いて耳を打つ。

 

「神竜なんぞを崇めるからこうなるのだ。ソンブル様の供物となるがいい」

 

 

「──ハイアシンスッ!!」

 

 

 ……自身の絶叫と共に、世界が切り替わる。

 

 生き延びたわずかな者たちと共に、泥濘(でいねい)の中に名もなき墓標を立てた。

 

 凍てつく寒さの中、手の感覚がなくなるほど、爪が剥がれて血が(にじ)むほどに土を掘り、骨さえ残らぬ肉親を(とむら)った。

 

 その時の、肺の奥まで凍りつくような喪失感と、それを燃料にして燃え上がった黒い決意。

 

 かつての少年は、降りしきる雪の中で、呪いのような言葉を吐き出した。

 

「あの暴虐の王を殺す。奴にも同じ苦しみを味わわせるために、その女も、子供も、皆殺しにしてやる」

 

 その直後、同年代の少女が、泥と涙にまみれた顔で自分に(すが)り付いてきた。

 憎しみに呑まれかけた少年の服を力強く掴み、獣のような嗚咽(おえつ)を漏らして泣きじゃくる少女。

 

 だが、少年はその細い腕を冷酷に振り払った。彼女の体温すらも、あの日は鬱陶しかった。

 

 降りしきる白。すべてを覆い隠す雪。

 希望も、未来も、人間としての誇りさえも、その白に捨て去るようにして、復讐のために少年は歩み出したはずだった。

 

 いつもなら、このあたりで喉を焼くような渇きと、全身を貫く悪寒と共に目を覚ましている。

 

 

 

 ……だが。今回は続きがあった。

 

 

 

 底知れぬ、重い真っ暗闇の中に自分は立っていた。

 上下左右の感覚さえ失われた無音の世界。そこに、地を這うような反響音が届く。

 

 それは、紛れもない、自分自身の声だった。

 

『ヤツの言葉は、今の貴様にも向けられているぞ』

 

 その声は、鋭利な剣のごとく、少年の良心を真っ向から切り裂いた。

 

 見も知らぬ神竜の行軍に一縷(いちる)の望みを託し、あの日、愛しき少女を戦地という名の地獄へと送り届けるべく策を弄した。

 あれほど戦争を好む愚王を(さげす)んでおきながら、結果として彼女を再び血の匂いがする場所へと突き出したのは、他の誰でもない、自分だ。

 

『貴様こそが、新たな暴虐の王だ。奴は邪竜に噛み砕かれて果てた。それは、未来の貴様の姿そのものではないか』

 

 暗闇の中で、過去の亡霊たちが一斉に嘲笑(あざわら)う。

 

 地図から消された友人たちの、隣人の、両親たちの無念を晴らすこともなく、復讐の誓いさえ忘却の彼方に追いやった。

 あろうことか、仇敵(きゅうてき)の娘と肌を合わせ、安寧(あんねい)の中に浸り、挙句の果てには新たな命を育むような真似をしている。

 

『愛する者のためなら、他の人間を盾にしても構わない。そう言ってセピアと取引をしたな。大義名分のために無辜(むこ)の民を切り捨てる……それはまさに、ハイアシンスと同じ狂気だ』

 

 亡霊の指弾が、少年の胸を残酷なまでに抉る。

 ロサードやゴルドマリーといった彼女の親友たちでさえ、生き延びるための盤上の駒として差し出した。

 その身勝手な罪悪感が、今になって呪いのように首を絞めてくるのだ。

 

 かつてのハイアシンス王が、賢王と呼ばれながらも多くの女を(はべ)らせ、最後には(まつりごと)すら捨てて狂信の深淵に没頭したように。少年もまた、たった一人の王女への愛という狂信に溺れ、すべてを犠牲にしている。

 

『貴様も、愚王のようになる。いや……一致してるのは好色だけか? 貴様の場合、その好色ゆえに、(みじ)めに破滅するのだ』

 

「馬鹿な。そんなことあるものか」

 少年は抗った。だが、放たれた言葉は実体を持たず、闇に溶けていく。

 

『そうかな』

 声は、冷徹に、そして確信に満ちた嘲笑を伴って続けた。

『当のオルテンシアが、貴様を一人占めすることを望まなくなるというのに』

 

「馬鹿な……! ありえない!」

 

 否定の叫びは、己の鼓膜を震わせることもなく、果てしない虚空に吸い込まれて消えた。

 抗う術を持たない無力な精神が、真っ逆さまに闇の底へと墜落していく。

 

 

 

 ……そこで、少年は目を覚ました。

 

「はっ……! あ……っ」

 

 激しい動悸が、肋骨の裏側を叩き壊さんばかりに暴れている。

 荒い呼吸を繰り返すたび、冷たい空気が肺を刺す。全身を覆う冷や汗が、薄い寝着を肌に不快に張り付かせていた。

 

 この類の夢を見ると、しばらくは現実との境界が曖昧になる。だが、今回受けた衝撃は格別だった。

 ただの「過去の清算」という痛みを通り越し、もっと得体の知れない、粘り気のある(なまり)のような不吉が、心臓に重くのしかかっている。

 

(オルテンシア様が、僕を独り占めしなくなる……? なんなんだ、今の……)

 

 その不穏な予言を反芻(はんすう)するたび、少年の思考は泥沼へと沈んでいく。

 

 それは、自分自身の深層心理に潜む、醜悪な願望の裏返しなのだろうか。彼女への愛に飽き、新たな刺激を求めようとしている自分の浅ましさが作り出した幻影なのか。

 それとも。オルテンシアが戦いの最中、極限の緊張と(たかぶ)りの中で、自分以外の誰かと魂を重ね、別の男と結ばれるという意味なのか。

 

「そんなはずはない……!」

 少年は、暗い部屋の中で首を激しく振って、その低俗な思考を物理的に振り払った。

 

 聞いているだけで胸が締め付けられるような、孤独なオルテンシアの幼少期。

 

 その中で、「あざとさ」さえも武器にして必死に生き抜いてきた彼女。その健気で、誰よりも頑張り屋な姿を、これほどまでに慕い、愛しているというのに。

 

 彼女もまた、一点の曇りもなくこちらを求めてくれている。「彼氏くんじゃなきゃダメ」と、甘えるように、けれど切実に囁いていた彼女の心変わりなど、天地がひっくり返ってもあり得るはずがない。

 

 だとしたら、あの言葉は──。

 

(オルテンシア様が……「あたしが一番」という、彼女自身の自我を手放してしまうということか……?)

 

 そうだ、それこそが最も恐ろしい。

 

 独占欲を失うということは、彼女が生きる気力そのものを放棄し、精神的に壊れてしまうことを意味する。それは、彼女の死以上に、少年の心を粉々に砕く絶望だった。

 

 夢の中の冷酷な予言は、呪いのように耳底に張り付き、心臓の音に合わせて執拗に囁き続けていた。

 

「……っ……」

 

 いつものことながら、二度寝など到底できそうになかった。

 

 けれど今日だけは、いつものように自分の罪深き過去を振り返ることはしなかった。

 

 ただし……。

 

 一年半前、学園へ入学するために王城から姿を消したあの門出の日から。

 この手の夢を見るたびに、彼が欠かさず行っていることがある。

 

 そう、祈りだ。

 

 彼はベッドから這い出し、冷たい床の上に膝をつき、両手を組んで一人静かに祈りを捧げる。

 

 神竜でも、この国が崇める邪竜でもない。

 

 たった一つの『よすが』のために。

 

「オルテンシア様……どうか、ご無事で……っ」

 

 

*****

 

 

 彼女が紋章士ベレトの指輪を手に、王城の窓から逃げ延びた日から、半月あまりが経過した。たった半月、されど果てしなく長い半月。

 

 その後の彼女の足取りは、完全に霧に包まれている。

 

 無事に神竜リュールと合流できただろうか。アイビー王女とは和解できているのだろうか。

 

 国内の情勢は、日に日に悪化の一途を辿っている。

 

 以前にも増して「異形兵」なる化け物が野に溢れ、かつては賑わっていたはずの村や町が、一夜にして地図から消えたという不吉な噂が絶えない。

 

 嫌な想像は、放っておけば際限なく膨らみ、少年の精神を確実に蝕んでいく。

 

 あれ以来、彼女の忠実な臣下であり友人であったロサードやゴルドマリーとも会えていない。

 

 セピアとの取引通り、彼らは最前線へと回されたのだろうか。

 それともすでに……。

 

 確かめる術は今の彼になく、兵士たちの噂話の種になることすらなかった。

 

 そして、少年の生きるイルシオン王城の日常もまた、極めて歪な形へと変貌を遂げていた。

 

 城の機能そのものは、あの日から変わらずに回っている。

 

 官吏(かんり)たちは顔色を悪くしながらも政務をこなし、兵士たちも持ち場を守っている。少年たち侍従もまた、早朝から清掃や給仕に奔走していた。

 

 同僚たちとの関係も変わらない。厳しい先輩や、そばかすの同僚、子爵令嬢、恰幅のいい同僚、双子の姉妹たち。

 

 仕事の合間に詰所へ集まれば、侍従長たちと紅茶を囲み、皆で励まし合う温かな時間が確かにそこにはある。

 

 だが、それはあくまで薄氷の上に成り立つ「かりそめの日常」に過ぎなかった。

 

 不気味で幼い少女ヴェイル。そして、彼女に(はべ)る『四狗(しく)』たち。

 彼らは神竜の軍勢を追うためか、あるいは各地の侵攻指揮をしているのか、城を空けることも多い。

 彼らが不在の間だけは、城内にわずかな安堵の息が漏れる。

 

 しかし、彼らが不意に帰還し、その足音が廊下に響き渡った瞬間、城の空気は文字通り凍りつくのだ。

 

 気まぐれに誰かの首が()ねられるのではないか。

 ささいな不興を買って、得体の知れない化け物の餌食にされるのではないか。

 

 絶対的で理不尽な恐怖が、常に頭上を覆い尽くしている。

 笑顔で語り合っていた同僚が、明日はそこにいないかもしれない。

 そんな極限の緊張感が、真綿で首を絞めるように人々の心を削り取っていた。

 

──不気味なほど、自分自身には何も起きない。

 

 去り際にこちらを呪ったセピアの、あの凍てつくような視線と共に浮かんでいた妖艶(ようえん)な笑みを思い出すと、身体の芯から底冷えする感覚に襲われる。

 

『逃げも隠れもしない絶望の中で、泥水を(すす)って、血反吐(ちへど)を吐きながらこの城を支えなさいな』

 

 あのときの彼女の言葉の真意を、少年は今、嫌というほど噛み締めていた。

 少年の身の回りに、直接的な破滅は訪れない。自分も、そして同僚たちも、今のところは誰も殺されていない。

 だがそれは、彼らが城の機能を維持するための「便利な歯車」だからに過ぎないのだ。

 

 いつ弾け飛んでもおかしくない張り詰めた糸の上で、怯えながら明日をやり過ごし、かりそめの日常を必死に演じさせられること。

 

 これこそが、セピアの言った「逃げも隠れもしない絶望」なのだ。

 

 自分が気づかぬうちに、遠く離れたオルテンシアへ、自分の罪の報いが及んでいるのではないか。

 それとも、こうして疑心暗鬼に陥らせ、じわじわと心を削ることこそが、連中の真の目的なのか。

 

 何もわからなかった。

 

 ……8の月、中旬。

 

「嵐の前の静けさ」という言葉さえ生温い。そこにあるのは、首の皮一枚で繋がった死刑囚たちが見る、緩やかな悪夢だ。

 

 少年は、自らの策で戦地へと送り出した、唯一無二の、愛しき王女の無事をただひたすらに祈り続ける。

 

 王族を失い、得体の知れない者たちに首根っこを掴まれた城で。

 彼は、来るはずのない朝を待ちわびるように、首筋に冷たい刃を当てられたままの、生殺しの侍従としての日々を、ただ淡々と消化し続けたのだった……。

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