FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第1部 - 氷雪の国が滅びを拒んだ理由
第1章:第二王女より愛を込めて


 謎の悪夢に苛まれ、胸のざわつきが収まらぬまま更に二週間が過ぎた頃。

 停滞していた少年の時間に、一筋の光明が差し込んだ。

 

 それは、イルシオン城へ物資を運ぶグリフォン便に紛れていた。

 荒々しく羽を休める獣の(かたわ)らで、運送業者が無造作に差し出した一通の封書。

 

 宛名に躍る「彼氏くんへ」という、あまりにも場違いで、けれど愛おしさに満ちた筆跡を見た瞬間、少年の心臓は大きく跳ね上がった。

 

 見慣れた、丸っこくて可愛らしい文字。

 

 一文字一文字に、彼女の温もりと香りが宿っているような気がして、少年は震える指先でその紙を握りしめた。

 

 先月、命を懸けて渡った今にも千切れそうな綱の先に、彼が死に物狂いで望んだ光は、確かに灯っていたのだ。

 

 周囲では事情を知らぬ同僚の侍従たちが、あの日、突如として城に現れ、そして去っていった第二王女の行方をしきりに尋ねてきた。

 

 少年はそれらを器用な笑顔ですべて(けむ)に巻き、誰にも中を覗かれぬように気を配りながら、詰所の隅で大切に手紙の封を切った。

 

 全文を読み進めるまでもなく、行間から溢れ出す彼女特有の愛嬌が、少年の乾いた心を潤していく。

 

 溢れそうになる涙を、せっかくの文面を汚すまいと必死に堪え、彼は宝物をなぞるように視線を落とした。

 

 手紙には、彼女の足跡が克明に記されていた。

 まずは無事であること。そして、今日まで連絡を絶っていたことへの、彼女らしい真っ直ぐな謝罪。

 

「……そんなこと、お気になさらずともいいのに」

 

 呟きながら、少年は切なげに口角を上げた。

 

 他人の機微に敏感で、自らの振る舞いが誰かを傷つけていないかと常に心を砕く。

 そんな彼女の優しさを誰よりも知っているのは、自分なのだ。

 

 安否を案じるあまりか、たびたび故郷が燃える悪夢にうなされてきた少年。

 この一通の手紙さえあれば、その焦燥を鎮められた。

 

『今、あたしはお姉様と一緒に神竜サマの軍に参加して、ソラネルを拠点に指輪を集めるために戦っているの』

 

──ソラネル。

 

 神竜リュールの意志ある者しか足を踏み入れられないという、聖地リトスの上空に浮かぶ伝説の浮島。

 そこは神竜と共に歩む者たちの休息地であり、邪悪を寄せ付けぬ聖域なのだという。

 

 全軍を瞬時に転移させる神竜の力をもってしても、負の気が満ちた戦地からの緊急脱出には使えず、各地への自由な往来には制限があるらしい。

 

 手紙を出すのにも特殊な手順を要したようで、封筒に押された消印は、熱砂の国ソルム王国からになっていた。

 

 気候は穏やかでプールもあり、食事も仲間たちが丹精込めて作るため非常に美味しいのだとか。

 常に死線に身を置いているわけではないという報告に、少年の肩からようやく力が抜けた。

 

『ソルムに着いて、神竜サマから指輪を奪おうとしたあたしは、ソルム王城に堂々と正面から乗り込んで、スフォリア女王を人質に取ったわ』

 

 これには思わず、声を出して笑ってしまった。

 

 オルテンシアは頭の回転が速い以上に、時に周囲を置き去りにするほどの行動力の塊だ。

 

 だが、一人で考え抜いた末の結論が「女王を人質に取る」という暴挙だったとは。

 

 「姉とはぐれた」と言って疑いもなく城内に招かれたそうだが、ソルムの衛兵の警戒心のなさに呆れると同時に、もし四狗(しく)の手先と疑われてその場で斬り捨てられていたらと思うと、今更ながら背筋が凍る思いだった。

 

 もっと安全な合流手順を授けてあげるべきだっただろうか。

 いや、結果論ではあるが、これで良かったのかもしれない。

 そこでアイビー王女と正面から激論を交わし、断たれそうになっていた絆を取り戻せたのであれば。

 

『「指輪をくれなきゃ殺す」って神竜サマとお姉様に言ったのだけど……本当は、そんなことできる気がしなかったわ。彼氏くんがあたしを殺せなくなっちゃった気持ち、少しだけわかったかも』

 

 理知的な彼女らしからぬ、子供じみた脅し。

 神竜もアイビー王女も、きっとそんな彼女の背後にある必死さを察し、優しく諭したに違いない。

 

──自分は、当初は本当に殺すつもりだった。

 

 少年は、窓の外に広がる灰色の空を仰ぎ、静かに思い返す。

 

 ハイアシンスへの復讐。その血族を絶やし、王に自分と同じ地獄を味わせる。

 その誓いが嘘だったわけではない。

 

 だからこそ、生きる術を泥の中から拾い集め、笑顔の仮面を張り付け、手先を器用に鍛え上げてまで、無策のままイルシオン王城という魔窟へ潜り込んだのだ。

 

 それが今では、彼女の無事を祈らぬ日はない。

 

『そうしたら、セピアが来て──』

 

 セピア。

 その名を目にしただけで、先日対峙した際の禍々しい魔力と威圧感が蘇り、手紙を握る手に力がこもる。

 

 セピアは四狗(しく)にすら盲目的に従う自国の兵を率いて、ソルム王城を強襲したという。

 彼らとその(あるじ)ヴェイルが姿を見せないとは思っていたが、まさか砂漠の果てにまで触手を伸ばしていたとは。

 

 その目的は、冷徹なまでに明確だ。

 奪われた指輪の奪還、ソルムにある指輪の強奪、そして女王スフォリアの拉致。

 

 邪竜ソンブルに捧げる「供物」には、正統な王家の血が必要なのだ。特に現王の血であればよいらしい。

 

 四狗(しく)にしてみれば、女王さえ手に入れば、利用価値のなくなったオルテンシアやアイビーの生死などどうでもいいのだろう。

 ……わかってはいたが、こちらとの約束を果たす気はなかったということだ。

 

 王女を盾にする必要すら感じさせぬ、力尽くの蹂躙(じゅうりん)

 そうして連中も正面から王城に突入したに違いない。

 なりふり構わぬ凶行に、少年は底寒い失笑を禁じ得なかった。

 

 さらにセピアは、神竜軍とオルテンシアを同士討ちさせるため、卑劣な洗脳を施したらしい。

 

『彼氏くんに言われた「お父様を復活させられる」という話に執着する気持ちが強くなって……』

 

 その記述に、少年の喉の奥が引き()る。

 

 自分の吐いた嘘が、彼女の純粋さを歪め、苦しめるための引き金になってしまったのか。

 黒い自己嫌悪が、心臓を直接掴まれたように胸を焼く。

 

『だからって、彼氏くんのせいじゃないからね! あたしが悪かっただけだから!』

 

 だが、そんな少年の懊悩(おうのう)を先読みしたかのように、続く文面はおどけてみせた。

 

 ああ、これこそが彼女だ、と少年は思う。

 自身の傷よりも、相手の心の平穏を優先する強さ。

 その慈愛に、彼は改めてどうしようもなく惚れ直していた。

 

 神竜たちの奮戦により救われた彼女は、今はペガサスを駆る魔道兵として仲間を支援しているという。

 

 イルシオンの兵として戦っていた時以上に、「正しいもの」のために戦っている実感があり、心は満たされている──。

 

 その一文を読み、少年は複雑な感慨に耽った。

 

 

──本当なら、今すぐ迎えに行って、二人で世界の果てまで逃げ出したい。

 

 

 だが、彼女はイルシオンの王族であり、その責務を背負って立とうとする気概を持っている。

 それを阻む権利など、侍従である自分にはないのだ。

 

 彼女が放つ炎が、たとえ狂信者であっても、同胞──自国の兵を焼き払う。

 女王スフォリアにさえ情をかけてしまう彼女が、無傷でいられるはずがない。

 

 手が緩めば殺される。

 意志を持たぬ異形兵の刃にかかれば……。

 

 不安の芽は摘んでも摘んでも生えてくる。

 

 そんな過酷な場所へ送ってしまった後悔が、少年の胸に鈍い痛みとなって残る。

 

 しかし、それ以上に誇らしくもあった。

 彼女の戦いに、胸を張れる「大義」が得られたことに。

 

 かつて危惧した、復讐に身を焦がしたまま戦場を彷徨(さまよ)う未来は、もう潰えたのだ。

 彼女ならきっと、光を失わぬまま、イルシオンを蝕む邪悪すら打ち払ってくれる。

 

『すぐにイルシオンに戻れなくてごめんね。世界各地で町を襲う異形兵が、前よりも増えてるって聞いてるから、心配で仕方ないわ』

 

 この短期間でイルシオンが荒廃していく様は、城内にいても嫌というほど伝わってくる。

 官吏(かんり)や兵士の顔ぶれは日ごとに減り、廊下ですれ違う顔も生気を失い、同僚たちも戦々恐々としていた。

 

 やはり、これも異形兵の仕業なのだろうか。

 あるいは四狗(しく)たちが人知れず「供物」を捧げている結果なのか。

 

 少年は華奢(きゃしゃ)で、武力も魔力もない。

 襲われれば逃げるしかないが、逃げ切れる自信などどこにもなかった。

 

(彼女が帰ってくるまで、僕は生き延びられるだろうか)

 

 嫌な汗が背筋を伝った、その時だった。

 

『でも、必ず近いうちに戻るわ。手紙の返事、あたしに送れないと思うけど、許してね。それと、再会したら……今までしてない分、いっぱいラブラブしましょ。最後に愛し合った時はちょっと上の空でなすがままだったけど、次は死ぬほど声出させるんだから』

 

 不意に、脳裏にオルテンシアの悪戯っぽい笑顔が鮮やかに浮かんだ。一年半前の、あの肌が焼けるような甘美な熱、乱れる吐息。

 

 

──生き延びられるか、ではない。生き延びるんだ。オルテンシア様をもう一度、この腕に抱くために。

 

 

 少年の瞳に、かつての復讐心とは違う、強く熱い決意が宿った。

 

 

 

『世界で一番大好きよ、あたしの彼氏くん。あなたのオルテンシアより』

 

 

 

 かつて学園から届いていた手紙のように、情熱的な一文で締めくくられた結びを見て、少年は感涙した。

 

 何度も、何度も、文字が擦り切れるほど読み返す。

 情緒をめちゃくちゃに掻き乱され、視界が滲む。

 

 読み返すたびに、彼女への愛おしさが、そして執着が、激しい波となって押し寄せた。

 

「よっぽど愛情の込められたお手紙みたいね」

 

 ふいに背後から声をかけられ、少年は肩を跳ねさせた。

 

 花嫁修業のため侍従として仕事をしている子爵令嬢が、顔を赤くしたり青くしたりと忙しい少年を見つめ、楽しげにクスクスと笑っている。

 

 見れば、他の同僚たちも、呆れながらも温かい眼差しを彼に向けていた。

 

「い、いえ、愛情なんて、そんな……」

 

「トボけなくたっていいのに。今まで黙ってたけど、私たち、みんな知ってるんだよ? あなたとオルテンシア殿下が、情熱的に愛し合っていることくらい」

 

 そばかすの少女が茶目っ気たっぷりに笑う。

 周囲からの皮肉が一切通じない恰幅のいい同僚も、次期侍従長と目される気立ての良い先輩も、幼き双子の姉妹も、深く頷いている。

 

 自分たちの秘め事が、とっくに同僚の女性たちの間で公然の秘密となっていた事実に、少年は顔を耳まで真っ赤に染め、「あはは……」と力なく笑うしかなかった。

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