良いことは続くものだ、と少年は思った。
オルテンシアからの手紙に心を震わせたその日の夕方、彼はロサードとゴルドマリーに一ヶ月ぶりの再会を果たしたのである。
二人は、案じていたようなみすぼらしい格好をさせられている風でも、酷く
それどころか、どこか悠々自適とした風情で城外の警備にあたっている。
イルシオンの短い夏は音もなく去り、大地にはもう既にうっすらと雪が積もり始めていた。
肌を刺す風の冷たさは冬の到来を告げていたが、二人はそんな過酷な気候など
こうなると、先日こちらの提案に乗り、彼らを一兵卒として使役しているセピアの意図がますます読めなくなる。
王女を始末し、残された騎士たちに絶望を与えて飼い殺しにするつもりだったのかもしれないが、もしそうなら彼女の目論見は大きく外れていると言わざるを得ない。
いや、外れているのはそれだけではない。
オルテンシアの手紙によれば、
それが叶うとすれば神竜軍をおいて他にないとは予測していたが、彼らが逃避行を続けていると聞いた当初は、正直なところ五分以上の分があるとは思えなかった。
しかし今は、その悲願が現実味を帯びた「希望」として少年の胸に灯っている。
少年が小さく手を振ると、二人の顔がぱあっと明るくなった。
「彼氏くーん!」
駆け寄ってきた二人は、驚くほど以前のままだった。
ゴルドマリーは相変わらず自分自身を誇らしげに称えながら少年の無事を
鏡に映る自分の顔は、ここ一ヶ月の不安と悪夢による精神的な疲労で、ひどくやつれているように見えていた。
彼の言葉は、お世辞かもしれない。
それでも、その軽口が今は何よりも心地よく、彼らがオルテンシア同様に健在である事実に、少年は深い喜びを噛み締めた。
城の外では、飛竜やペガサス、グリフォンに跨った兵たちがひっきりなしに上空を旋回している。
その中には、
切り立った岩壁と城壁に挟まれたその場所は、空を駆ける者たちの視線からも逃れられる隠れ家のような空間だった。
それでも、どこで聞き耳を立てられているか分からない。
少年は声を潜め、最低限の情報だけを二人に告げた。
オルテンシアが生きていること。そして今、ソルムにいること。
その瞬間、二人の表情に歓喜の色が弾けた。
ここまで表向きは
……ただ、オルテンシアが現在、神竜軍に身を置いていることだけは、
それは少年の目論見通りではあったが、彼らに一ヶ月前に伝えた作戦は、あくまで「
それがなぜ「神竜軍への合流」に至ったのか。
その経緯を説明するには、今の場所はあまりに無防備すぎる。
誰かに聞かれるリスクを考えれば、手紙で得た間接的な情報を克明に語ることは避けるべきだった。
幸い、彼らにとっては「王女の生存」という事実だけで十分だったようだった。
「ホント、ベストタイミングだよー。どっちにしろ、そろそろ動くつもりだったしさー」
「……え、動くって、どういうことですか?」
少年の問いに、ゴルドマリーが重苦しい溜息をついた。
「はい……ちょうど良い機会ですので、既にロサードと二人で作戦を練っていました。あまりに美しい切れ者で、すみません……」
彼女の話によれば、イルシオンはほぼ全兵力を動員し、フィレネ王国へ攻め込む準備を進めているという。軍船の大半を投入する、文字通りの総力戦だ。
それは少年も耳にしていた情報だったが、彼女たちが付け加えた二つの事実は、少年の血の気を引かせるに十分だった。
決行は明後日であること。そしてその目的が、フィレネ国民の「皆殺し」にあるということだ。
「バカげてるよねー」
ロサードの言葉に、少年は強く同意した。
イルシオンの兵士とて一枚岩ではない。
自分であれば、たとえ偽りであっても進軍のための大義名分をでっち上げるだろう──彼はいつものように思考を巡らせた。
「……人殺しが目的のような方々を、意図的に最前線へ送り出す手筈のようです……」
かつてセピアがバルコニーで演説した際、少年が感じた「品性の欠如」という直感は正しかったのだ。
そんな凶行に付き従う者が少なからず存在するという事実に、
「ただ、その戦いでも紋章士の指輪を使うんだって。船で大事に運ぶらしいよ。無防備だよねー」
ロサードは軽く言ったが、少年は首を振った。
玉座の間に安置されていた指輪には、容易に触れさせぬよう強力な封印が施されていたはずだ。
それを盗み出すつもりだろうが、果たして。
「……お忘れでしょうか、彼氏くん? あの結界は、私たちの力を持ってすれば、無理矢理こじ開けることも可能なのです。剛力なのに美しすぎて、本当にすみません……」
確かに、先月はそうして紋章士ベレトの指輪を強奪した。
だが、二度目が同じようにうまくいく保証はない。
機会があるとすれば船上だろうが、厳重な警備を潜り抜け、どうやって指輪に近づくつもりなのか。
「オレたちさー、指輪を守る護衛に志願したんだ。機会ならいくらでもあるはずだよー」
「護衛、ですか? ですが、かつて玉座の間に忍び込んだ二人を、そんな重要な任に当たらせるものでしょうか」
「それがさー。あのおばさんたち、具体的な軍事作戦にはほとんど関わってないんだよね。笑えるでしょ? 現場は兵士たちに丸投げ。つけ入る隙がありまくりじゃん?」
……なるほど、と少年は納得した。
その傲慢な油断こそが、二人が見出した勝機だった。
「一隻につき一つずつ運ぶらしいから、二個以上は取れないけどねー。無茶はしないよ、無理そうなら指輪を無視して逃げるつもり。オルテンシアと合流できなきゃ意味がないしさー」
「それに……一刻も早く、このイルシオンを離れたい理由もできてしまいましたので……」
その「理由」を問うと、二人の眼差しがにわかに険しいものへと変わった。
「彼氏くん、ここ三日ほど、玉座の間の方には近づいてないんだねー?」
「え、あ、はい……兵士以外は近寄るなと厳命されていましたから」
セピアの出した通達を律儀に守る必要はないが、不用意な行動で目をつけられるのは避けたかった。
侍従長や同僚に不審に思われるリスクも高い。
「では……知らなくても仕方がありません。他人を
いつものように自らを称えながらも、ゴルドマリーの表情は
彼女は、自分を感嘆させるための溜息とは似て非なる、重々しく、湿った息を吐き出した。
その唇から零れた言葉に、少年は凍りついた。
「──あそこに、邪竜ソンブルがいるんです」
*****
翌日、フィレネ侵攻のために集結した軍勢が、城のバルコニーから一望できる広場を埋め尽くした。
王なき国の実質的な支配者となった
広場に集った兵士たちの間には、これまでにない異様な熱気が渦巻いていた。
焦らすように姿を見せぬ彼女の登場を、今か今かと待ち焦がれている。
少年は、その様子を使用人仲間と共に遠巻きに眺めていた。
いつもなら「私語を慎み、持ち場に戻れ」と厳しく咎めるはずの侍従長までもが、今はぼうぜんと広場を注視している。
城内には、もはや日常の職務を全うできるような空気は微塵も残っていなかった。
熱狂に沸く兵士たち。
だが、その狂乱の渦に馴染めず、石像のように硬い表情を浮かべる者もまばらに見受けられた。
少年はその中に、隊列に加わりながらも冷徹な真顔を保ち続けているロサードとゴルドマリーの姿を捉えた。
ふと見渡せば、隊列には血気盛んな若者だけでなく、一度は兵を退役したはずの年配者の姿も混じっている。
戦える者はすべて邪竜の供物として捧げよと言わんばかりの、強引な動員だ。
総力戦を仕掛けるとは聞いていたが、フィレネ国民の惨殺というあまりに血生臭い目的に、彼らは何を思っているのだろうか。
「あ、あれ……リンデン様!?」
花嫁修業中の子爵令嬢が、驚愕に目を見開いて声を上げた。
彼女の指さす先、兵士たちの群れの中に、白いローブを纏った一人の老人が立っていた。
深く刻まれた
この戦争に大義を見出せず、周囲の熱気に当てられて疲弊しているのは明らかだった。
令嬢は、彼を知らない少年に「リンデン」なる老兵について囁くように教えてくれた。
彼はこの国の宮廷魔術師団における最高峰、「賢者」の称号を冠する伝説的な人物だという。
かつて権力闘争に敗れて城を去ったハイアシンス王の『兄』に直属していた臣下であり、長年にわたるブロディアとの国境戦では、その放つ
今なお若き魔道士たちの憧れの的として、その名は語り継がれている。
王兄が姿を消した後も城に留まっていたが、少年がここに辿り着くよりずっと前に引退し、静かに余生を過ごしていたはずだった。
そして何より──彼は幼き日のオルテンシアの、良き遊び相手でもあったという。
「生きておられるオルテンシア殿下がこの光景を見たら、どれほど心を痛められるか……」
そばかす顔の同僚が、ぽつりと呟いた。
オルテンシアが今、神竜軍と共に歩んでいることを知る者は、この城内では少年ただ一人だ。
──いや、
(もしかしたら……)
少年の胸に、小さな希望の火が灯る。
もし、王族の血を引く彼女たちが彼を説得できたなら。
その恐るべき雷の矛先が、
……そんな密やかな会話を断ち切るように、突如として場を静寂が支配した。
バルコニーに
ただ、ハイアシンス王の最期を
鎧を纏った少女と、無骨な騎士然とした男。
そして、中央で
セピアは仰々しい手振りで、広場を埋める兵士たちの勇気を讃え始めた。
「かつて我らが神が与えもうた自由の意志は、今もなお脈々と受け継がれ、こうして気高き精神を伴って集結いたしました。その美しさに、亡きハイアシンス陛下に代わり敬意を表しますわ。……ソンブル様も、お喜びになられています」
……かつてただの村人だった頃、少年はこの国がなぜこれほどまでに邪竜信奉を推し進めるのかを知らなかった。
復讐の牙を剥いていた間も、その信仰の根源に興味などなかった。
だが、現在の彼は一つの真実に辿り着いていた。
セピアが実権を握って以来、それまで厳格な立ち入り審査がなされていた書庫の管理は驚くほど
もはや誰の目も
文字を読むのには苦労したが、学識のある同僚の助けを借りて歴史書を読み漁り、この国が崇めるものの正体を考察し続けてきたのだ。
──この場にいる誰もが生まれるより、その父祖すら生まれるより遥か昔。
イルシオンという地は、他国からの苛烈な隷属を強いられる国だった。
それがどの国の仕業だったのか、今となっては定かではない。
外海を隔てた遠き異国によるものだったという説もある。
とにかく、当時のイルシオンの民は、人を人とも思わぬような非道な扱いを受けていたという。
その地獄を終わらせたのが、かの邪竜ソンブルであった。
世界を支配するためにその力を振るい、暴虐の限りを尽くさんとした邪竜。
決してイルシオンを救うための、正義の戦いではなかっただろう。
しかし、その苛烈な力によって救われた者たちがいたのも、また事実だった。
ソンブルによって多くを奪われた他三国家は邪竜を忌み嫌い、神竜を救世主として崇め、共に戦って邪竜を封印した。
しかし、イルシオンにとっては違った。
奪われたものより、得たものの方が大きかったのだ。
ソンブルの思惑がどうあれ、民はその「救済」への感謝を忘れなかった。
この伝説のどこまでが真実かは、今となっては生き証人であるソンブル本人すら忘れていることだろう。
だが、現代に至るまでイルシオンの血にはその信仰が深く根付いている。
国家がそれを正義とし、神竜を「封印の元凶」として忌み嫌う者がいても、それはこの国においては必然であった。
あの村で平穏に生きたままなら、こんな歴史を知る由もなかっただろう。
ハイアシンス王は神竜信仰を口実に村を焼いたが、そもそもあの村は特定の神を持たぬ自由な気風だったのだ。
何もかもが遠い記憶だが、復讐の原動力となっていたその不条理さだけは、今も鮮明に覚えている。
「これから行われるのは『聖戦』ですわ。かつて我らをお救いくださった神を、卑劣にも封印した憎らしき神竜の血族とその協力者たちを、今こそ討ち果たす時が来たのです。さて──そんな歴史的な局面に」
セピアは隣に立つ騎士然とした男に目配せを送った。
男は静かに頷き、バルコニーの奥へと消えていく。
次にセピアが放った言葉に、少年は思わず唾を飲み込み、全身を硬直させた。
「我らが神、ソンブル様がその御姿を現し、イルシオンのために戦う皆様を直々に鼓舞してくださいますわ」