FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第2章-2:邪竜ソンブル・後編

 事前にロサードたちからは聞いていた。

 

 玉座の間で石像のように動かず、人を襲うでも城を壊すでもなく、ただそこに「在る」だけなのだという邪竜ソンブル。

 

 だが、その怪物が公に姿を現すという宣言に、少年は思わず息を呑んだ。

 

 広場を埋め尽くす兵士たちからもどよめきが沸き起こり、隣に並ぶ同僚たちもまた、一様に驚愕の色を隠せずにいた。

 

 波打つ群衆の動きに阻まれ姿を見失ったが、隊列にいるロサードとゴルドマリーも、険しい表情を浮かべているに違いない。

 

「静かにして! ソンブル様がびっくりしちゃうじゃないか!」

 

 バルコニーから兵士たちを見下ろし、鎧の少女が子供のように地団駄を踏む。

 その叱咤に応じるように、広場は急速に静まり返っていった。

 敬愛する神をその目に焼き付けんと、多くの者が期待と緊張に身体を強張らせている。

 

 やがて、騎士の男に随伴される形で、ソンブルはその威容を衆目の前に晒した。

 

 その姿は、少なくとも「人」の範疇に収まるものではなかった。

 

 四肢を持ち、直立するフォルムこそ人間を模してはいるが、額には第三の目が据えられ、三つの瞳がいずれも赤い宝石のような不気味な光を放っている。

 

 紫がかった筋肉質な肌はこの世の生物とは思えぬ質感を(たた)え、赤茶色の髪を割って生え揃う巨大な角は、顔を包み込む禍々しい冠のようにも見えた。

 

(蛇だ……本当に。あれは、人を喰らうための強大な蛇だ)

 少年の身体が小刻みに震え始めた。

 

 一ヶ月前、父を噛み砕かれたと泣きじゃくりながら報告したオルテンシアの言葉が蘇る。

 

 ソンブルが変身した姿……二股に分かれた舌、長い尾、鋭い爪。

 世に言う「竜」という概念を超越し、彼女にはそれが「巨大すぎる蛇」に見えたのだという。

 

 読み耽った文献の記述が脳裏をよぎる。

 

 

 

 

 

 神によって救われたイルシオンの民は、かつて彼を蛇の竜──「蛇竜(じゃりゅう)」として崇めていた。

 

 しかし、他国はそれを断固として「邪竜」と呼び続けた。

 

 いつしかその真の姿への言及が途絶えた頃、強大な力を持つ者への畏怖を込めて、国全体にも「邪竜」という呼称が根付いたのだという。

 

 彼らは自らを「邪悪」と定義しているわけではない。ただ、絶対的な力をそう呼称したに過ぎないのだ。

 

 

 

 

 

 ……実際にその身を目の当たりにした少年は、それこそ蛇に睨まれた蛙のような戦慄に包まれていた。

 

 あの怪物が気まぐれに視線を向け、指先を動かすだけで、自分などは跡形もなく消し飛ばされるだろう。

 そんな根源的な恐怖が、少年の思考を白く染めていく。

 

 あの、人の形を辛うじて保っている姿ですらこれほど恐ろしいのだ。

 本性を現し、戦闘用の姿へと変貌すれば、この場の全員を皆殺しにすることなど造作もないだろう。

 

 セピアに抱いていた恐怖など、これに比べれば児戯に等しかった。

 ロサードも、ゴルドマリーも、歴戦の賢者であるリンデンですら、あの「深淵」には敵うはずがない。

 

 そして、少年はもう一つの事実を思い出し、絶望に沈んだ。

 

 

──神竜の軍勢は、あの怪物に一度敗北している。

 

 

 オルテンシアたちがいつか四狗(しく)と邪竜を打ち倒す日が来る──そんな希望が、いかに甘く、身の程知らずな妄想であったかと思考を改めざるを得ない。

 

 それほどまでに、彼の放つ威圧感は強大で、少年の足は止める術もなく震え続けていた。

 

 実際、隣にいた同僚たちは恐怖のあまり完全にすくみ上がっていた。

 隣に居たそばかすの同僚が意識を失いかけたのを見て、少年は反射的にその身体を支えた。

 

 兵士たちもまた、沈黙の中で思い思いの衝撃に打たれていた。

 その静寂を切り裂いたのは、やはりセピアだ。

 

 

「気高きイルシオンの国民たちよ。ソンブル様はすべてを知っておられます。貴方たちが神のため、身を砕いて戦い続けてきたその輝かしき魂を。我らが神は確かにここに在られ、世界の存亡をイルシオンの民へと託す慈悲を与えてくださいました。それに応えることこそが、信徒たる貴方たちの使命なのです。たとえ戦場に命を散らそうとも、決して無駄にはなりません。その死がどれほど誇り高いものであったか、いつか歴史が証明してくれるでしょう。そうして命懸けで戦い、愛するイルシオンを豊かにすることこそが、神竜と最期まで戦われたハイアシンス陛下のご遺志なのです」

 

 

 セピアの仰々しく、熱を帯びた演説とは対照的に、ソンブルは終始無言を貫いていた。

 

 だが、その三つの瞳は雄弁に語っていた。

 こんな茶番に何の意味があるのか──そう吐き捨てるような、絶対的な虚無と(さげす)み。

 

 しかし、熱狂の渦に呑まれた兵士たちに、それを見抜く術はない。

 セピアの言葉に突き動かされ、感激のあまり涙を流す者すら現れ始めている。

 

「我ら四狗(しく)も参戦いたしますわ。陛下の無念を晴らすべく。神竜と──あの忌まわしき花の王家を、今こそ根絶やしにして差し上げましょうッ!」

 

 セピアが高らかに声を張り上げると、狂信者たちは彼女らが初めて姿を現した時以上の、地を揺るがすような大歓声で応えた。

 

 兵士たちの瞳に、どす黒い魔の炎が灯っていく。

 フィレネの民を惨殺することへの良心の呵責など、もはや彼らの内からは消え失せていた。

 

 セピアは「ソンブル」という名の至高の餌を提示することで、イルシオンの民に、偽りの聖戦という大義を与えてしまったのだ。

 

 ()しくも少年が「自分ならそうするだろう」と考えていたことを、彼女はやってのけたのである。

 

 その狂乱の熱狂を浴びながらも、ソンブルの表情は一片の揺らぎも見せなかった。

 

 足元でうごめく愚かな羽虫を見下ろすような、冷徹な緋色の眼差しを、ただ静かに広場へと注ぎ続けていた。

 

 

*****

 

 

 イルシオンを救った「神」が衆目に姿を現した余波は、城内のみならず(ふもと)の城下にまで波及していた。

 

 広場にいた兵士たちは今なお、興奮冷めやらぬ様子で、遠く兵舎からは騒がしい歓声が聞こえてくる。

 

 だが、それとは対照的に侍従たちの空気は冷ややかだった。

 

 少年以外が女性ばかりの宿舎には「明日からも普通に仕事があるんだから」という、生活者としての淡々とした空気が支配している。

 

──いつまでも邪竜の残光に怯えていたくない。

 

 少年はあえてその事務的な空気に身を沈め、城の歯車としての日常を擬態することにした。

 

 ロサードとゴルドマリーとは、今日は言葉を交わすことさえできなかった。

 

 だが、それで良かったのかもしれない。

 熱狂的な信奉者たちがひしめくこの状況下で、指輪強奪の密談など聞かれようものなら、二人は瞬く間に断罪されてしまうだろう。

 

 静まり返った夜の廊下。勤務時間は(とう)に過ぎていたが、少年は欠かさぬ日課のために愛する第二王女の部屋へ向かっていた。

 

 彼女は必ず帰ってくる。その時、この部屋はいつだって綺麗に、「可愛く」整えられていなければならない。ベッドの(しわ)を伸ばし、一分の埃も見逃さない。

 

 納得ゆくまで掃除を終え、扉の外へ出た。

 

 その時だった。

 

 

 

「……全て貴方の作戦だった、というわけかしら? オルテンシア王女殿下が神竜に加わったのも、あの時奪われた『導き手の指輪』が神竜の手に渡ったのも」

 

 

 

 不意に背後から響いた声に、心臓が口から飛び出しそうになる。情けない声を漏らした少年を見て、暗闇から現れた女が低く笑った。

 

 この肌を焼くような威圧感。振り向かずともわかる。

 

 セピアだ。

 

「……何のことでしょうか。王女殿下は陛下を蘇らせようと必死でした。僕はそのお手伝いをしたまでです。神竜に(くみ)したとでも言いたいのですか? あり得ない。僕だって、この国の民ですから」

 

「白々しい」

 

 吐き捨てるように睨みつけるセピアには、普段のような澄ました余裕がなかった。

 

「王女が本気で蘇生を望んでおられたからこそ、それを利用して洗脳を施したのですけれど。アテが外れましたわ。愛する姉上と殺し合わせるつもりでしたのに……」

 

「そんな話を、僕に聞かせてどうなさるのです?」

 

「運がよろしくて結構ですこと、と言いたいのですわ」

 

 セピアはカツン、カツンと硬い靴音を響かせ、逃げ場のない廊下を詰めてくる。

 

 殺されるのか。いや、魔道の達人である彼女がその気なら、遠方からあの雷魔法で貫けば済むはずだ。

 

 冷静さを失うまいと足を踏ん張るが、本能が凍りつき、一歩も動けない。セピアはくすくすとなぶり笑い、少年の顎を長い爪でクイと持ち上げた。

 

「ですが、幸運もここまで。不敬に不敬を塗り重ねたこと、到底見過ごせませんわ。貴方には……死より厳しい罰を与えることにいたしましょう」

 

 面白い趣向を思いついた、と言わんばかりの、嗜虐的(しぎゃくてき)な眼差し。

 

 額から汗が滴り、喉が焼けるように乾く。

 

 それでも怯むわけにはいかない。

 戦地に身を投じているオルテンシアに、情けない顔は見せられない。

 

「一思いに殺してはどうです? 兵たちの多くを味方につけた今、僕の言葉などもう誰も信じない。僕を大義なく殺しても、『邪竜の部屋に忍び込もうとした賊だ』と言えば皆が納得するでしょう。貴方の勝ちです。それほどの信頼を、この短期間で勝ち得てしまった」

 

「まあまあ。力を持たぬ侍従の分際で、度胸だけはおありですのね」

 

 セピアの表情から、わざとらしい笑顔が消えた。

 肌を刺すような、濃密な殺意が放たれる。

 

「言ったでしょう? 死より厳しい罰を、と。あの時は貴方のことを、弁が立つだけのつまらない鼠だと思ったから見逃してあげましたのに……。それゆえに私たちは慢心してしまった。取るに足らない鼠が、巨大な蛇に勝てる道理はないのだと。貴方を見くびっていたせいで、指輪を神竜に渡す羽目になった」

 

 一体どこで気づかれたのか。

 

 ……おそらく、ベレトの指輪を盗み出した際に頭を回しすぎたのがいけなかったか。

 

 あの時、ただ無様に「殺さないでくれ」と泣き喚いていれば、神竜へ渡すというこちらの意図を悟られずに済んだかもしれない。

 

 そう考えると──

 

 

 

 不思議と、口角が持ち上がった。

 

 自分の(つたな)い作戦が、この国を簒奪(さんだつ)した怪物を歯噛みさせている。

 

 これほど愉快なことが他にあるだろうか。

 

 

 

「だからこそ、私たちはどんな羽虫をも見逃さないことにいたしましたの。あの時私が何を言ったか……思い出して、後悔のまま果てるといいわ」

 

 それだけを残し、セピアは踵を返して闇へと消えていった。

 

 意味ありげな脅しだったが、今すぐ殺す気はないらしい。

 

『死より厳しい罰』

 

 その言葉通り、向こうはこちらを生かす気でいる。

 

 それだけで十分だ。挑発した甲斐はあった。

 飽きられて殺されてしまえば、愛する王女との再会は永遠に閉ざされる。

 

 故郷が燃え尽きたあの日、少年は一時的に死を恐れなくなった。

 

 だが、今は違う。

 死ぬことは、絶対に避けなければならない。

 

 自分自身のため。それは否定しない。

 幸運に縋って生き延びてきた今、今更ながら死への恐怖が生まれたのは事実だ。

 

 だが何より怖いのは、自分を愛してくれるオルテンシアから「生きる理由」を奪ってしまうことだ。

 

 彼女が今、戦場で気力を保っていられるのは、姉のため、そして何より「僕」のためでもあるのだと、自分で言うのも烏滸(おこ)がましいが理解している。

 

(何をされても耐えてやる。僕が死ぬより先に、貴様らが滅びるはずだ)

 

 昼間にソンブルの威圧に晒されてなお、少年の心は折れていなかった。彼は神竜の『奇跡の行軍』を、そしてオルテンシアとアイビーの力を信じている。

 

 一度敗れても、彼らは怯むことなく進み続けているのだ。

 

 「祈りは力だ」とかつてセピアは演説した。

 

 ならばこちらも、その言葉を逆手に取ってやろう。

 少年は、遠く戦地をゆく者たちのために祈った。

 

 

 

 

──8の月が終わろうとしていた。

 

 

 

 

 セピアの呪いのような言葉を、少年は精神の最奥で、力強く跳ね除けていた。

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