振り下ろされるたびに肉が裂け、骨が砕け、噴き出す血の音が少年の耳を
その執拗な猛撃を受けているのは。
……いつも厳しく、けれど温かかった侍従長だった。
長年の無理が祟って腰を痛め、「来年には後継を指名して引退するつもりです」と笑っていた、その矢先だったのに。
『落ち着いたら、みんなで私の故郷にいらっしゃい。息子夫婦が淹れてくれる紅茶は、世界一美味しいんだから』
自慢げに語っていたあの姿は、今も記憶に新しい。
それが今は、鉄の塊で原型を失うほどに打ち据えられ、赤い染みと化している。
辛うじて元の面影を残す顔だけが、信じられないほどの苦悶と絶叫を浮かべたまま凍りついていた。
「あ……ああ……ああああ……」
口元を両手で押さえ、少年は目の前の現実を拒絶するように立ち尽くした。
あの化け物は、一体何だ。
仕事の邪魔になるからと短く整えた茶髪。
欠点のはずのそばかすを「私のチャームポイントなの」と言い切っていた彼女。
その出立ちに、あまりにも、あまりにも似すぎている。
だが。
侍従たちが知る彼女であるはずがない。
あんなに侍従長を──口うるさいと文句を言いながらも。
実の母親のように慕っていた彼女が。
こんな真似を、するはずがない。
セピアが彼女に似せた人形を造り、差し向けたのか。
いや、そんな回りくどい真似をする必要などないはずだ。
適当な異形兵を城に放てば、それで済む話なのだから。
少年は、絶望の淵でも思考を止めることができない。
『自分だったらどうするか』
趣味であり、人生のルーティーンとも言えるその「推論」が、最悪の真実を導き出した。
それは、身を裂かれるような罪悪感と共に少年の心に突き刺さる。
──あれは、
セピアか、あるいは邪竜ソンブルが、その禍々しい魔力で彼女を変質させたのだ。
思い返せば、彼女は今朝言っていた。
『朝の雪かきがあるのにさあ、セピア様に呼ばれて
少年はセピアに会いたくなかった。
だから「頼まれた仕事は自分でやるのが筋だ」と、もっともらしい正論で彼女を送り出した。
その結果が、これなのか。
自分の臆病さと冷淡さが、彼女を変異させ、仲間たちを死に追いやったのか。
──『死より厳しい罰』とは、こういうことだったらしい。
オルテンシアのために指輪を強奪し、
『貴様こそが、新たな暴虐の王だ』
いつかの夢で反響した自分自身の声が、正しかったのだと自嘲する。
愛する王女以外の命を切り捨て、盾にした愚者への、これが「因果」。
「グアアアアアアアアアアッ!!」
茫然自失とする少年の存在に気づき、そばかすの異形兵が、それまで弄んでいた亡骸を放り投げて突進してきた。
常人には持ち上げることすら叶わぬ大剣を、軽々と振り回して。
ガン、と鈍い破砕音が石床を震わせた。
そこは、一瞬前まで少年が立ち尽くしていた場所だ。
オルテンシアのために死ねないという強迫観念めいた意志が、本能を叩き起こし、強制的に身体を突き動かした。
倒れ込むように右へ転がった先には、既に事切れている、かつての意地悪な先輩の姿があった。
彼女を守ろうとして失敗したのだろう、軽鎧の兵士もまた物言わぬ骸と化している。
その力なく開かれた右手から、一振りの小振りの剣が零れ落ちていた。
ろくに筋肉もつかぬこの身体で、制御を失って暴れ狂う彼女を止められるはずもない。
戦闘経験など皆無の自分が立ち向かったところで、結果は火を見るより明らかだ。
だが。そんな道理で怯む性格だったなら。
──そもそも、愚王の血族を根絶やしにする復讐など誓いはしなかった。
少年は迷わず、石床の剣を握りしめた。
かつてオルテンシアを殺すために懐に短剣を忍ばせていた時とは、比較にならないほどの重圧。
柄を握りしめるその手に、拭い去れぬ恐怖が伝う。
戦うしかなかった。
才覚などなくとも、今この地獄で動けるのは、自分一人なのだから。
そばかすの同僚には、もう意志など残っていない。
培ってきた思い出も、少年に対する友人としてのささやかな愛情も、その全てを異形兵としての本能がかなぐり捨てている。
彼女はただ、獰猛な獣のように大剣を振りかざし、慈悲もなく襲い掛かってくる。
それを、今しがた拾った剣で受け止めようと……。
(ダメだ。こんななまくらで受け止められるはずがない!)
戦闘の才覚など皆無だが、物理的な法則だけは無学なりに理解していた。
少年は必死に身を
もしこれが歴戦の猛者であれば、このわずかな隙に脇腹を突き、怯んだところへトドメを刺すのだろう。
だが、少年には何もかもが足りていなかった。
願う通りに身体が動くのであれば、この世に筋肉も鍛錬も必要ない。
「ガ、アア……アア……」
唸り声を上げるだけの彼女の喉からは、攻撃をかわされたことへの苛立ちが
『へえ、キミでも仕事でミスすることがあるんだね。意外! 私が代わりにやっておくから気にしないで!』
いつか彼女がかけてくれた優しい言葉が、幻聴となって脳内を支配する。
喜怒哀楽の激しいタイプだったが、こちらに殺意を向けたことなど一度もなかった。
それどころか、「怒るとシワが増えるから嫌なんだよね」と笑っていた彼女は、激昂という感情から最も遠い場所にいたはずだった。
それが今は、間違いなく剣に殺意を乗せている。
本来の細い身体では、その巨大な鋼鉄を
無理な負荷に耐えかねて、彼女の肉体に、ピシピシと音を立てながら、わずかな亀裂が走るのを少年は見た。
「……そんな重いもの、持てたんだね。凄いよ。だったらあの時の
かつて、あまりの人手不足ゆえ駆り出され、重い資材を総出で運んだときの思い出が蘇ってくる。
あの日、彼女は「腰が砕けちゃう」と
結局、少年一人の力ではビクともせず、
そんな……ありふれた穏やかな日常の追憶が少年の心を切り裂き、瞳から涙が溢れ落ちた。
──もう、あの日常には二度と戻れない。
石床に転がる骸、鼻を突く血の匂い、そして暴れ狂うかつての仲間。
その全てが、無情な現実を突きつけてくる。
咆哮を上げ、彼女が再び肉薄する。
足がもつれ、もはや逃げ場はない。
無理を承知で、少年は拾い上げた剣を盾にするように構えた。
「──がああっ!」
凄まじい衝撃。
小振りの剣は赤子の手をひねるように粉砕された。
そのおかげで直撃こそ免れたものの、右腕に走った反動は凄まじかった。
手首に走る、焼けるような激痛。しばらくは剣を握るどころか、食器を持つことさえ叶わないだろう。
そもそも、落ちた得物を拾い上げる時間的猶予など、どこにもなかった。
目の前の彼女を救う方法はないのか。
異形兵と化した人間が、元に戻る術はあるのか。
もし意識を取り戻したとしても、彼女は自ら犯した凄惨な光景に心を病み、狂ってしまうかもしれない。
だが、死ぬよりはいい。
生きてさえいれば、いつか
そもそも、今の彼女は意志を奪われた人形でしかないのだ。
振り回される力に抗えなかったことを罪だと叫ぶ者がいるなら、自分がそれを否定してやる。
友人として、彼女の杖となろう。
だが。
どれほど脳細胞を加速させても、「異形兵を人間に戻す方法」など思い浮かぶはずもなかった。
そもそも、異形兵が人間を素体にしていることすら、今知ったばかりなのだ。
たとえ方法があったとしても、今この瞬間に実行する手段など皆無だろう。
つまり。
──
「……はは」
腕を焼く激痛のせいか、それとも全ての希望を断たれた絶望のせいか。
少年は力なくその場にへたり込んだ。
もし自分に力があったなら。
これまで幾度となく繰り返した無意味な仮定を、最期まで抱いて死ぬのか。
こんなとき思う。
美貌など、死神の前では何の価値も持たない紙屑だ、と。
──いや、よしんば僕に力があったとしても。
どうせ、無理だった。
異形に成り果てたとはいえ、少年にはできない。
見知った同僚を、この手で殺めることなど。
それができる冷徹さがあったなら、とっくにオルテンシアを殺し、自分も処刑台に上っているはずなのだから。
(申し訳ございません、オルテンシア様。貴女を置いて先立つ不義をお許しください)
そばかすの同僚は止まらない。大剣を高く振りかざし、逃げ場のない少年へと振り下ろす。
(……幸せでした。どうか、ご無事で)
死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
少年の頬に、熱い鮮血が激しく飛び散った。