少年がオルテンシアの部屋を掃除していたときはまだ正午にも届かぬはずだったが、すっかり日は傾いている。
世界が闇に包まれようとする中での、あまりに絶望的な強行軍。
しかし、不運ばかりでもなかった。
天井の開けた中庭を仰げば、吹雪の兆しはない。
怪我人や老人を抱えて雪山を下りる彼らにとって、この静かな空は唯一の
さらに、城の特異な構造と
重厚な城の
城が山頂にある構造上、他国から直接侵攻される懸念が薄かった故の、過去の王による合理的な設計だ。
高山の過酷な環境で育ったイルシオンの軍馬たちは、急な階段だろうと平地のように駆け上がることができる。
そのおかげで、背後から迫る異形兵の脅威に晒されながらも、馬を解き放つという作戦が決行可能となった。
今回のフィレネ遠征に海路が用いられたことも幸いした。
輸送の負担に耐えうる馬は限られており、城には待機状態の馬が数多く残されていたのだ。
そして──これは邪竜ソンブルの慢心によるものだろう。
先程見せられたような俊敏な動きで一気に距離を詰められていれば、作戦を立てる余地などなかった。
絶望を与え、じわじわと追い詰めてから皆殺しにしようとするその悪趣味な「亀の歩み」こそが、今の彼らにとって唯一の付け入る隙だった。
しんがりを無骨な重騎士と子爵令嬢が務め、階段を下りきった先の広場で敵を迎え撃つ手筈となり、作戦が開始される。
少年の決意に突き動かされ、合計二百人弱の行進が始まった。
死の恐怖に比べれば、傷や心の痛みなど些事だと言わんばかりに、各々が自分を鼓舞して城を出る。
自力で歩けぬ怪我人や老人は、無傷の男たちが歯を食いしばって背負い上げ、凍てつく大階段を転がるような足取りで必死に駆け下りていく。
重厚な
「……だが、連中はもう階段を下りてきている。一刻の猶予もないぞ」
耳の良い重騎士が淡々と報告する。
城の奥から響く不気味な足音は、確実に近づいていた。
少年の指示の下、広場左手の
赤髪、緑髪、老紳士、そして天馬兵だ。
特に天馬兵には、自身の天馬に騎乗した後は追い立てには参加せず、馬小屋のランタンを手に最速でアーチ状の城門へ向かうよう命じてある。
彼らは一目散に
体の痛む老紳士ですら、若者の速度に遅れることはなかった。
……少年のもう一つの幸運。
それは侍従の仕事を通じ、城の構造を熟知していたことだ。
かつて、そばかすの侍従と共に運んだ重い
あの中には、万が一の防衛用の油が入っている。
そしてその
「時間がありません! 動ける人は急いで
少年自身に腕力はない。
だが、進むべき道を示すことはできる。
アーチの頭上に鋭い鉄柵が覗く境界線に立ち、その身を危険に晒しながら声を張り上げた。
まだ広場に残る多くの避難民を一人でも多く、一秒でも早く山道へと導き出すために、その瞳は絶望の奥にいる同胞たちを捉えて離さない。
その指示に従う以外、生存の道はないのだと理解した避難民の男たちと城兵たちが、必死の形相で樽を城門の内側へと運び込んだ。
……不気味なくらいに順風満帆だった。
当然──皆殺しにした者を眷属に変えることが目的であろうソンブルが、いつまでも児戯に興じ続けるはずもなく。
ガンッ!
という、金属同士が激しくぶつかり合う轟音が、階段の方から響く。
「っ……!?」
思わず振り向くと、そこには既に階段を駆け下り、広場へと到達した数体の異形兵の姿があった。
重騎士が大盾で斬撃を受け止め、手にした戦斧で牽制している。
その隙を突き、子爵令嬢が鋭い刺突で一体を葬った。
「もう追いつかれたのか、まずい!」
まだ
何より、油の散布がまだ終わっていない。
しんがりの二人と交戦状態にあるのは、十体にも満たない数だ。
百を超える軍勢を一気に走らせれば扉や階段で詰まると判断したのか。
あるいは、この数で十分と見くびられたのか。
いずれにせよ、先行部隊が牙を剥いたのは間違いなかった。
絶望的な光景だった。一体を倒しても、次が止まらない。
「ああ、っ……!」
ついに、異形兵の槍が子爵令嬢を捉え、その左肩を深く貫いた。
あまりの激痛によろめき、彼女の得物が石畳に音を立てて落ちそうになる。
それでも負けじと槍を突き出し、相手の心臓を穿って相打ちに持ち込んだが、槍を抜き放つと同時にその場に膝をついた。
「ライラ殿!?」
重騎士が連撃を受け止めながら、焦燥に駆られて彼女の方を振り向いてしまう。
だが、それが致命的な隙となった。
「! カラバッシュさん、ダメッ!」
子爵令嬢が顔を青ざめ、重騎士の上方を向いている。
一体の異形兵が、人間には到底不可能な跳躍を見せ、階段の段差を利用して金切り声を上げて高々と舞い上がっていた。
その手には、重騎士の天敵であるハンマーが握られている。
ハンマーとは。
鎧を叩き割る衝撃を内部で何度も反響させ、臓器を粉砕し骨を砕く凶器である。
かつて戦術書を共に読み耽ったオルテンシアと、二人で顔を青ざめさせた記憶が蘇る。
「く、ここまでか……!」
当然、当の重騎士もそれを理解していた。
遠巻きから見ているしか出来ない少年は絶望した。
(ここで終わるのか。誰も死なせないなどと大言壮語を吐きながら、何も成せないまま……!)
負傷した子爵令嬢に次の攻撃を阻む術はなく、戦闘能力のある者は皆、
無謀な賭けを強いた己の後悔が、全滅の予感と共に少年の喉を焼く。
そのとき。
何かが少年の背後から、風を切って真っ直ぐに飛んでいった。
それは、空中でハンマーを振り下ろそうとしていた異形兵の胴体を、正確に貫いた。
怪物は武器を取り落とし、痙攣しながら下に叩きつけられる。
──矢だ!
次なる矢は止まらない。
子爵令嬢へ追撃をかけようとした剣士の喉を射抜き、重騎士の戦斧による風圧で転倒していた別の個体をも、起き上がる隙を与えず縫い留めた。
少年が弾かれたように振り返ると、そこには双子の侍従より少し背の高い、薄緑髪の男の子が立っていた。
険しい表情で次の矢を引き絞るその弓と矢筒は、樽の置かれていた部屋の壁に立てかけられていた備品だ。
これを見つけ、勇気を振り絞って戦力に加わったのだ。自分よりも背が低く、戦場に立つような年齢には見えない子が、だ。
しかし──異形兵は怯まない。
仲間の死を意に介さず、体勢を崩した重騎士と子爵令嬢へと再度牙を剥く。
次の瞬間。
「離脱してください、ライラ殿、カラバッシュ殿ッ!」
絶望の淵を切り裂くような、鋭い号令が広場に響き渡った。
緑髪の兵士が馬を駆り、
その後方では少し遅れて赤髪の兵士が、同じように馬で駆けている。
「遅いぞ、ローレル! 死ぬかと思ったではないか!」
物静かな口調をかなぐり捨て、重騎士が勝機を確信して笑う。
彼は大盾を背に括り付けると、負傷した子爵令嬢を抱きかかえ、その重装備からは想像もつかぬ俊敏さでアーチ状の城門へと駆け出した。
それを逃がすまいとする異形兵を、緑髪の兵士が放った手槍が捉える。
同時に、薄緑髪の男の子が放つ矢が追撃を許さず、死地の入り口に一瞬の空白を作り出した。
その直後。
パニックに陥った群れは逃げ場を求めて右往左往し、その勢いのまま、開け放たれた城の
これこそが少年の狙いだ。
階段をゆっくりと下りようとしていた異形兵たちは、怒涛の勢いで下から押し寄せる馬の群れに阻まれ、その歩みを完全に止められた。
邪魔な馬を斬り捨てて進もうにも、肉の壁が稼ぎ出す時間は確実な猶予となる。
懸念は、馬がこちら側へ来てしまうことだった。
しかし、
「私ならできます。任せておきなさい」
少年の案を聞いたときに断言した言葉は、紛れもない事実だった。
雪崩れ込んだ馬の群れに対し、異形兵たちは容赦なくその得物を振り回す。
行く手を阻む肉を断ち、血飛沫を上げながら進もうとする怪物たち。
そのたびに、馬が絶命する際の悲鳴が階段の上から響き渡った。
一頭、また一頭と、無慈悲に物言わぬ肉塊へと変えられていく。
だが、崩れ落ちた巨躯はそのまま階段に折り重なる障害物となり、皮肉にも異形兵の進軍を物理的に食い止める強固な壁と化していった。
(……っ……本当にごめん、みんな)
少年は従者として何度か馬の世話をしたこともある。
愛らしかった彼らを、人間の生存のために使い潰すのは、とんでもない
彼らの死を利用する作戦を立てたとき、罪悪感がなかったわけではない。
だが、実際に目の当たりにする光景は、少年の心を締め付けた。
──この報いで地獄に落ちるというのなら、それでも構わない。
誰も死なせないなどと
それでも。今は立ち止まる余裕などない。
「ライラさん、カラバッシュさん! 無事ですか……っ!」
少年は、アーチ門の外側へと脱出してきた二人へ駆け寄った。
無残に抉られた重騎士の盾。
そして、真っ赤に染まった子爵令嬢の左肩。
それらはすべて、少年の立てた作戦の「穴」が招いた結果だった。
「ごめんなさい……僕の作戦のせいで、二人を死なせかけました……」
「本当にな。命がいくつあっても足らん」
震える声で頭を下げる少年に、重騎士は強面の風貌に見合わぬ軽口を叩いた。
「……だが、作戦の穴を埋めるのが、壁役の仕事だ。むしろ
重騎士が視線で示した先には、まだ弓を握りしめて立ち尽くす薄緑髪の男の子がいた。
彼に後で礼を、と重騎士は短く呟いた。
左肩を押さえて膝をついていた子爵令嬢も、少年の顔を見上げ、痛みに耐えながらも柔らかな微笑を浮かべている。
「いちいち謝らないで……私が経験不足だっただけよ……はあ、こんなことなら侍従の仕事をしながら毎日ちゃんと鍛錬するべきだったわ。女の子らしくないとか、関係ないものね。無事生き延びられたら士官学校にでも行こうかしら……」
そこへ、白衣の装束を纏った老体の救護員が、慌ただしく駆け寄ってきた。
「お嬢さん、失礼いたしますぞ。動かぬように」
老人が掲げた杖の先端から、清浄な光が溢れ出した。光の粒子が左肩の傷口に吸い込まれるように集まり、裂けた肉を繋ぎ、出血を止めていく。
「……ふぅ。ひとまずはこれで動けるはずです。ですが、あまり無理はなさらぬよう。回復の杖はあくまで応急処置。失われた体力が完全に戻るわけではありませぬからな」
救護班の老人の言葉に、彼女は「助かりました」と短く礼を言い、再び槍を支えに立ち上がった。
緑髪、赤髪、そして老紳士が広場を抜けてアーチ門へと滑り込んだのは、ちょうどその時だった。
彼らの到着と同時に備え付けの斧が振り下ろされ、叩き割られた
さらに救護班が常備していた消毒用の酒も、最小限を残してダメ押しにバラまかれた。
上空には、既に天馬兵が待機している。あとは、最後の一手を下すだけだ。
赤髪の兵士が、持ち前の大声で空を仰いだ。
「全員、城門の外に出た! やっちまえ、バニラちゃん!!」
その声を受け、彼女は手にしたランタンを的確に投下した。
刹那、轟音と共に炎の壁が立ち上がる。
大階段を塞ぐ馬の壁と、アーチ門を塞ぐ炎の壁。
異形兵がこの二重の封鎖を抜けて山道へ至るのは、もはや困難だ。
油、酒、そして一人ひとりの覚悟。
ここにあったものすべてが合わさったことで、絶望という名の巨城に、一条の
冬の沈黙を焼き払いながら、彼らは今、生死の境界線を越えたのだった。