山道の行軍は、先程までの死闘が嘘のように穏やかなものだった。
城の異形兵が追撃するには消火が必要であり、しばらくは安全が保たれるだろう。
「城の異形兵が、ペガサスや飛竜に乗って襲ってこないだろうか」
連れ歩く民の中から、飛行兵の強襲を危ぶむ声が漏れた。
しかし、その心配はいらないだろうと少年は答えた。
解き放たれた馬たちを、少年は先程その目に焼き付けている。
天馬兵の少女が跨る一頭以外に、翼を持つ生物は紛れ込んでいなかった。
そこから導き出される結論は一つ。
イルシオンの飛行兵団は、一人の例外を除いてその全てがフィレネ遠征に駆り出されたということだ。
総力戦を挑む以上、地上戦を得意とするフィレネに対抗するため、機動力に長けた飛行部隊を温存するはずがない。
たとえ「飛行生物そのものが異形兵と化している」懸念があったとしても、中庭へ飛来する個体が一体もいなかった事実が、空の安全を裏付けていた。
束の間の安息。しかし、いずれ再び異形とぶつかる時は来る。それまでに、せめて英気だけは養っておきたかった。
「……ごめんなさい、ライラさん、カラバッシュさん! あの、見えてたんですけど、助けに行けなくて……っ! ほ、本当にごめんなさいっ!」
隊列の最後尾。しんがりを務める子爵令嬢と重騎士に、緑髪の兵士と天馬兵が随伴している。
ペガサスに跨ったまま、天馬兵の少女はしきりに二人へ謝罪を繰り返していた。
真っ先に城門へ辿り着いた彼女は、上空から襲われる二人を目撃しながら、任務のために動けなかったことに強い責任を感じていたのだ。
「構わん……。あの時はあれが正解だった」
「せ、正解……ですか?」
きょとんとして首を傾げる彼女。
その問いに対し、重騎士が口を開くより早く、隣で馬を並べていた緑髪の兵士が言葉を引き継いだ。
「君は唯一の飛行兵。上空から火を放つ仕事は、君にしかできなかった。地上にいる者がそれをしようとすれば、手元が狂って自分や馬を焼いていたかもしれないからね」
諭すような穏やかな声に、天馬兵の少女の視線が重騎士から緑髪の兵士へと移る。彼はそのまま言葉を繋げた。
「兵にとって最も大事なのは、一時の感情に惑わされず任務を遂行すること。それを全うした君は、イルシオン兵として優秀だよ」
「は……はわわわ。ローレルさん、褒め上手ですね……。真に受けちゃいますよっ」
顔を真っ赤にして照れる天馬兵の少女に対し、緑髪の兵士は涼しげな表情を崩さない。
一方、隊列の最前部。
赤髪の兵士と幼き薄緑髪の弓使い、そして馬たちを城内へ追い立てた老紳士──いや、その
そこへ今回の作戦の立役者である少年が加わっていた。
「しっかし、すっげえな! ナスタ、つったっけ? あんたの弓の腕、城の射撃手顔負けだったぜ。瞬時に三、四体も倒したんだろ?」
馬上の赤髪の兵士が、徒歩の弓使いを熱心に褒め称えている。
まだ成人前だという弓使いは、ジーヴル港から逃れてきた一人。
山を登る直前、自分を庇って犠牲となった父が今どうなっているのか。異形として暴れているのか、それとも……。
語る彼の瞳には、今にも涙が溢れそうだった。
赤髪の兵士は、彼の父を知っていた。母が働いていた宿場に、肉を
親一人、子一人で死に物狂いで働いてきた境遇、そして自分だけが生き残ってしまった現状。
あまりに似通った生い立ちに、赤髪の兵士は彼を他人だとは思えなかった。共有された悲しみに、無意識に拳を握り締める。
「でも……僕の弓がああして人を助けられたこと、きっとお父さんも……誇らしく思ってくれていると思うんです」
父から授かった腕で民を守ることが、今できる唯一の恩返しなのだと、弓使いの彼の瞳は語っていた。
傍で聞いていた少年は、戦える彼が羨ましかった。
自分にできるのは、無茶な作戦を立てることのみ。
天才的な軍師なら、子爵令嬢に怪我すら負わせずスマートに勝てたかもしれない。
即席の自分にはこれが限界なのだと、痛感せずにはいられなかった。
(……彼のように、弓の心得があったなら)
侍従の仕事では完璧に動ける器用な指先も、敵を絶命させる弓を引き絞る力は宿していない。
ない袖は振れない。わかってはいるが。
──いや、考えるのはよそう。年若き子に嫉妬をするなんて、余裕のない証拠だ。
自分にだけできることもある。「無茶な作戦」は、その最たるものだ。
怪我人を出し、泥臭くあがいた結果として、人間に死者を出さなかった。今はその功績を、自分自身で誇るべきだ。
しかし、嵐の前の静けさだろうか。
襲撃を受けぬまま、一行は城下町を一望できる高台へと辿り着いた。
とはいえ、このまま下りれば、未だ荒れ狂う異形兵の群れと正面衝突してしまう。それでは、城での脱出劇が無意味に帰す。
少年は、二百名弱の逃走者たちの歩みを一度止めた。
大声は禁物だ。
伝言が静かに最後尾まで波及し、行軍が止まる。
疲弊した人々を休ませること。
そして、ここから学園へ抜けるための、作戦の細部を伝えるためである。
*****
少年の描いた作戦は、簡潔ながらも大胆なものだった。
城下町から南西に大きく外れた位置にある「デスタン大教会」の近傍に、北西の街道へと直通する秘密の地下道が存在する。
かつて王家の避難路として整備され、現在は忘却の彼方に沈んだ地下水道の一部だ。
そこを抜け、長らく打ち捨てられたままの「ロビュスト砦」へ逃げ込む。
学園へと続く街道の入り口に位置する、風化した石造りの小砦だ。
少年が「一旦の潜伏先」としてそこを選んだのは、避難民たちの限界に近い疲労を考慮してのことだ。
凍てつく地下道を抜けた先、冷たい夜風を凌げる石壁があるだけで、生存率は跳ね上がる。
もちろん、そこは安住の地ではない。
異形兵の追撃を振り切り、そこから再び学園を目指すための、文字通り「死地の中の踊り場」である。
この提案に、まず老騎士が深く感銘を受けた様子で頷いた。
かつて賢者リンデンと共にハイアシンス王兄の近衛を務めていた彼は、王家の秘匿された避難路の存在を知っていたのだ。
その実在を老練な騎士が保証したことで、場に漂う不安がわずかに氷解する。
少年がその禁域を知り得たのは、侍従としての奉公が始まったばかりの頃、オルテンシアが他愛ない秘密として漏らしたからだった。
当時の彼は復讐の焔を胸に秘めていた。
王女を手にかけ、万が一生き延びてしまった際には、逃走経路としてその道を使おうか……などと、考えていたこともある。
かつて死を招くために研いだ知識が、今、生を繋ぐための盾となる。少年は運命の皮肉な転変を噛み締めた。
「デスタン大教会のそば……? そんなトコに地下道なんてあったんだな」
赤髪の兵士が驚愕に目を見開いた。
正規兵すら知らぬ道であれば、知性を持たぬ異形兵がそこを察知している可能性は限りなく零に近い。
今、この絶望的な状況下で提示しうる、最善の選択肢……。
しかし、その合理的判断に、傲岸不遜な侯爵が不快感を剥き出しにして異を唱えた。
「高貴な王家の避難路を平民風情が踏み荒らすなど、言語道断! それに、いくら避難路とはいえ下水道なのだろう!? 泥水で私の高貴な装束が汚れたら、貴様、どう責任を取るつもりだ!」
異形兵を刺激せぬよう、声を潜めるようにという少年の厳命を無視し、侯爵は甲高い声を張り上げた。
天馬兵の少女が必死に口元を指さして制止を試みるが、彼は「下賤な者が触れるな」と言わんばかりにそれを撥ねつける。
「……不満があるようでしたら、仕方がありません。侯爵閣下、城下町の正門へ向かわれてはいかがでしょう。閣下を愛してやまない住民たちが、熱烈な歓迎を施してくださるはずです。我々はその間に、少年の指示通り地下へと潜りますので」
あまりの横暴に、緑髪の兵士が冷徹な表情のまま突き放した。
彼は激昂こそしないが、怒りが頂点に達すると言葉の刃に猛毒を含ませるのだ──と、後に赤髪の兵士は述懐することになる。
「ふざけるな! 貴様らは邪竜様への恩を知らぬのか! 命を捧げ、私のような特権階級を生き延びさせることこそが、イルシオンにとって唯一の正義であろうが!」
もはや支離滅裂な独善。
それほど邪竜を敬うなら、王城へ戻ってソンブルにその身を捧げてくればいい。避難民の中にいた一人の中年女性が、呆れ果てたように深い溜息を漏らす。
だが、侯爵は自らの醜態に気づくこともなく、「平民風情が私に意見をするのか!」と、逃げ遅れた同胞たちを汚物のように睨みつけ、さらに息巻いた。
その場にいた誰もが、救いようのない絶望に肩を落とした。
……その時だった。
「ごふっ!?」
突然、侯爵は白目を剥き、崩れるように前のめりになって地面に沈んだ。
──異形兵の不意打ちか!?
戦慄が走る中、侯爵の背後に立っていたのは、無視され続けていた天馬兵の少女だった。その小さな拳は、怒りと正義感に硬く握られている。
「はわわ、ごめんなさい! あまりにも迷惑でウザかったので、思わず殴ってしまいました……」
その電光石火の鉄拳を目撃していた老騎士が、愉快そうに細い目をさらに細めた。
「いやはや、見事な一撃でした。うちのかあさんの弟子に推薦したいほどです」
彼が慈しむように、そしてどこか誇らしげに呼んだのは、すぐ
「ちょっと、お父さんったら……。こんな時に変なこと言わないでくださいな」
不意に振られた奥方は、夫の茶目っ気に困ったような声を上げたが、その頬は
かつて王宮に仕えていた夫を支え、家庭という城を毅然と守り抜いてきた彼女の芯の強さを、老騎士は誰よりも信頼しているのだろう。
死地にあっても変わらぬ夫婦の情愛に、張り詰めていた周囲の空気も、一瞬だけ春のような温かさに包まれた。
白目を剥いて気絶した侯爵は、責任を持って自分が運ぶと天馬兵の少女が申し出た。重騎士の屈強な腕を借りて、彼女の愛馬の背へとを括り付ける。
「ごめんね、
愛馬に詫びる彼女の直情的な気質は、飛行兵団内でも有名だった。
緑髪の兵士の話によれば、分別のつかぬ上官があべこべな指示で部下を危険に晒すたび、彼女はその「物理的な分別」をもって沈黙させてきたのだという。
本来ならば軍法会議ものだが、彼女を支持する兵が圧倒的に多く、上官たちは泣き寝入りを強いられるのが通例だったのだ。
少年は彼女の強烈な個性に苦笑しながらも、作戦を乱しかねない不確定要素を沈黙させてくれたことに深く感謝した。
……とはいえ、立案した策には依然として懸念が多すぎる。
大教会までの移動中に挟撃を受ければ、その時点で全滅は免れない。
セピアによって住民が
奴らの注意を逸らす陽動が必要だが、その役を引き受ける者の生存率は極めて低い。
誰かの犠牲の上に成り立つ策は、絶対に立てたくない。
馬たちの断末魔さえ、まだ少年の胸を深く抉っているのだから。
さらに、地下道の現状も不透明だ。
長年放置されていたのであれば、落盤によって道が閉ざされている可能性も捨てきれない。
もし行き止まりに突き当たれば、背後から迫る異形兵に袋の鼠にされ、皆殺しという最悪の結末が待っている。
そんな想像ばかりでは身動きが取れない、とばかりに左右に首を振り、歪な空想を振り払った。
まずは陽動。
異形兵の意識を釘付けにし、その隙に二百近い足音を地底へと隠し通さねばならない。
少年はその必要性を痛いほど理解していたが、同時に、それがどれほど過酷な役割であるかも知っていた。
一度、乾いた唇を噛み締めてから、震える声を絞り出す。
誰かを死地へ送り出すための、呪詛にも似た軍略。
それを口にする自分への嫌悪と、それしか道がないという冷徹な確信が、喉の奥で火花を散らして衝突していた。
馬たちの犠牲を払ったばかりの指先が、今度は仲間の命を天秤にかけろと命じている。
それでも、少年は言葉にした。
震える喉を震わせ、仲間の命を懸けた賭けを、自らの口で宣言したのだ。
──誰が適役か。
問いを投げかける前から、少年の脳裏には「この人物しかいない」という確信があった。
そしてその残酷な正解をなぞるように、一人の少女が真っ向から名乗りを上げる。
「はわわ……どう考えても、私にしかできないお仕事ですよね、これ?」
空を駆ける唯一の希望──天馬兵の少女だった。