先程までの喧騒が嘘のような、深い静寂が砦を包み込んでいる。
吟遊詩人が放った魔道の炎は、凍えきっていた民たちの身体だけでなく、限界を迎えていた心までも温めることに成功したようだった。
ふざけた態度を崩さない彼だったが、自分のために近隣から「拝借」してきたという食糧を、飢えた避難民たちへ優先的に分配することに一切の
水は、赤髪と緑髪の兵士の護衛のもと、動ける男手を使って汲み上げてきた。
砦の隅に、掃除用だったのか古びたバケツや
それでも二百人分には到底足りない。
これからの二日間、定期的に川との往復を繰り返さなければならないだろう。
異形兵の襲撃に備え、ひとまずは重騎士と赤髪の兵士が寝ずの番を引き受けてくれた。
重騎士は徹夜の
時間が来れば、緑髪の兵士と老騎士が交代することになっている。
……少年は明け方、吟遊詩人の案内の下、妖精の村を目指して出発する。
砦に残る面々と相談し、選んだ同行者は以下の通りだ。
同僚の子爵令嬢、薄緑髪の弓使い、そして救護班の老人。いずれも馬を持たぬ戦闘員たちである。
妖精の村と交渉をする以上、当然ながら少年自身が主導とならざるを得ない。
すでに隊の頭脳としての役割が出来上がってしまっており、今さら「自分には荷が重い」などと弱音を吐ける状況ではなかった。
重騎士も徒歩だが、万が一砦が襲われた際の防衛力を考えれば、彼を森へ連れていくわけにはいかない。
何より、あの重装備で森の悪路を歩くのは酷だろう。
本来ならば、老人もまた連れ歩くべきではなかった。吟遊詩人も「不要だ」と断言した。彼自身、回復魔法に心得があるからだという。
だが、回復の杖というものは、
吟遊詩人は高僧ではない。万が一、道中で彼が負傷すれば、唯一の導き手を失うという取り返しのつかない事態になる。
そのリスクを避けるための、老人起用だった。
老人はその意図を汲み、快く引き受けてくれた。
「悪路を歩くのには慣れておりますからな。若い者にはまだ負けませんぞ」
そう言って笑う老人の姿と、自分を
少年に抱きつこうとし、「そこら辺の女の子より魅力的だ。ボクが一生養ってあげよう☆」などと求婚してきて少年を困らせた。
冗談なのはわかっていたが、元気な侍従たちが「彼には心に決めたお相手がいるんです!」と壁になって立ちふさがると、吟遊詩人は「じゃあみんなで多人数婚をしよう。みんなハッピーになれるよ!」と言い出し、氷のような冷ややかな視線を浴びていた。
それからは、相対的に静かなものだった。
今や吟遊詩人は口を大きく開けて、豪快にいびきをかいて寝ている。
なかなかの大物だ。起きている時よりはうるさくない。
避難民の大半は、襲撃された故郷や、異形兵と化した家族、友人の姿が脳裏に焼き付いて離れず、ろくに眠れていないようだった。
皮肉なことに、安全な場所に辿り着いたことで、かえって余計なことを考える余裕が生まれてしまったのだ。
砦のあちこちから、押し殺した
少年もまた、眠れなかった。
早く休まねばと思えば思うほど、意識は冴え渡っていく。
失われた同僚。犠牲になった馬たち。自分の指示ひとつで、誰かの命が指先からこぼれ落ちてしまうかもしれないという、恐ろしいほどの責任の重み。
オルテンシアが今の自分を見れば、何と言うだろうか。
無茶しすぎだと言って、泣いて
頑張ったわねと微笑んで、頭を撫でてくれるだろうか。
それとも、力を持つ者がそれを振るうのはカッコいいことだと、誇らしげに賞賛してくれるだろうか。
──彼女の体温が恋しい。一刻も早く、この地獄を抜け出したい。
「……眠れないの?」
隣で横になっていた子爵令嬢が、静かに声をかけてきた。
彼女もまた、覚醒したままでいたらしい。
暗がりの中で、彼女が自分の手を見つめては強く握り締める所作を繰り返しているのを見て、少年はその理由を察した。
彼女の親友であったそばかすの同僚を、自らの手で殺めた重みを再認識しているのだ。
「……ライラさんも、少しでも寝たほうがいいです。明日の移動に差し障ります」
「貴方もそうしなさい」
子爵令嬢は、はあ、と小さく溜息をついた。
……長い沈黙が流れる。
人々の
「……貴方が皿を割った日のこと、覚えてる?」
忘れるはずもなかった。
常に完璧だった少年が、戦地へ向かったオルテンシアへの思慕のあまり精彩を欠き、犯してしまった数少ないミス。
来賓用でもない安価な皿を割ってしまい、激しい自己嫌悪で身動きが取れなくなった少年を、そばかすの同僚が、子爵令嬢が、そして彼を慕う多くの侍従たちが支えてくれた、あの日。
侍従長には「他人を頼らないのが貴方の欠点です」と厳しく叱咤され、双子の侍従が歌ってくれた陽気な歌に、心が救われた思い出。
今となっては、それすらも遠い異国の
「リリーね、貴方の支えになれたのが物凄く嬉しかったらしいの。『少しはあの子の印象に残れたかな』って、そう言ってたわ」
そばかすの同僚は、少年のことが好きだった。
オルテンシアへの遠慮と、何より少年自身の想いを知っていたから、その恋心を打ち明けることはなかった。
……最期の瞬間に直接伝えることがなければ、彼女は一生その想いを秘めたままにしていただろう。
「ガサツで、要領が悪くて、侍従長に叱られてばかりで。でも、最高のムードメーカーだった。リリーがずっと笑っていてくれたから、私も頑張ってこれたのよ。……失ってから、気づくものなのね。私、あの子の親友だと言っておきながら、親友らしいことなんて……何か一つでも、出来ていたのかしら」
子爵令嬢の肩が、細く、激しく震えていた。
「……きっと」
少年の声も、わずかに震えていた。
「きっと、リリーさんも、ライラさんのような親友がいて……とても、充実した毎日だったのだと、思いますよ」
誰に対しても同じように明るく接するそばかすの同僚と、自身の身分を鼻にかけない子爵令嬢。
そんな二人の存在は、ともすればギスギスしかねない女だらけの職場において、一種の清涼剤のようなものだった。
よく喧嘩し、楽しげにじゃれ合っていた光景は、目を閉じれば昨日のことのように思い浮かぶ。
「そう、だったなら……いいわね」
──あの日々は、もう二度と戻ってこないんだ。
かつて少年が、オルテンシアを神竜の下へ送り出す時についた「嘘」。
『紋章士の指輪を全て集めきることが出来れば、死者すら蘇らせられるかも』
いっそ、それが本当であってほしかった。
死んだ者たちを蘇らせられるのなら、この凄惨な出来事も全て笑い話にできるのに。
しかし──おそらく、そんな奇跡はないのだ。
絶対にありえない、という保証はない。
しかし、文献を漁った限り、紋章士の指輪の力で死者が蘇ったという伝説は存在しない。
仮にあったとして、理不尽に命を散らした者全員を蘇らせられるはずもない。
それが出来てしまうのなら、死など恐るるに足らないではないか。
受け入れるしか、ない。
死を受け入れて、前に進む以外に、残された者に出来ることなど何もないのだ。
「ライラさんは……侍従をやめてしまわれるのですか。もし、生き延びることが出来たら」
もしそういう決断に至ったとしても仕方がないほどの深い心の傷だ、と少年は思った。
子爵令嬢は、もともと花嫁修業だと言って侍従を始めた経緯がある。
いつでも辞められるのに、「職場を気に入った」と言って留まり続けていたのだ。
こうなっては、結婚相手が見つかろうが見つかるまいが、いずれ城からはいなくなってしまうだろう。少年はそう思っていた。
当の子爵令嬢は、答えを十分に練ってから静かに口を開いた。
「……まだ、考えてないわ。でも……王城を離れる気にはなれないかもしれない」
「王城を離れない?」
「この槍の腕を、王家に捧げるという道もあるんじゃないかって思い始めているの。おかしいわよね。女の子らしくないからって、あんなに封印していたものなのに」
確かに、長年のブランクを微塵も感じさせないほど、彼女の槍の腕前は圧倒的だった。
疑っていたわけではないが、いつか彼女が語ってくれた「槍術大会で男たちを寄せ付けず圧倒した」という武勇伝が、紛れもない事実なのだと痛感させられる。
もし花嫁修業のために槍を封印せず、今もなお磨き続けていたのなら、間違いなくフィレネとの戦争に最前線で駆り出されていたに違いない。
「単なる気の迷いだとしても……そうしたら、しばらく侍従の仕事を続けると思うわ。何にしても、国を復興させることに尽くしたい。お父様も、きっとそう望まれるはずよ」
子爵令嬢の父とは、少年は会ったことはない。だが、話を聞く限りでは相当に
娘がどんな道を選ぼうが、「俺の人生ではないからな! 好きにするといい!」としか言わないような、さっぱりした人物なのだと。
ゆえに、娘が槍を振り回していようが王家の侍従になっていようが、一切口を挟んでこない──そんな男なのだとか。
王都からは離れた領地にいるが、そこが異形兵に襲われていないという保証はない。
きっと心配だろうな……と少年は思った。
「きっと、王城に残ってくれること……オルテンシア様も、アイビー殿下も喜んでくれると思いますよ」
「……最終的にどういう決断になっても、皆の期待を裏切らないようにはするわ」
子爵令嬢の瞳には、静かだが確かな決意が灯っていた。
こんなところで死ぬつもりはないという、生への執着に満ち
「ところで」
子爵令嬢はそれまでのしんみりした空気をぶった切り、今も呑気にいびきを立てている吟遊詩人へ鋭い目を向けた。
「彼……信用していいのかしら」
「こちらを欺いている可能性がある、ということですか? 確かに、考えなかったわけではありません。あまりにも本心を押し隠しているので。しかし、あれだけの魔術を放てるのなら、こちらを皆殺しにするなど容易いはず。我々を欺くメリットがあるとも思えないのです」
だらしなく寝ている姿を見ると、それが彼の「素」であるかのようにも思えてくる。
しかし、手当たり次第に求婚しまくっている最中、不意に見せる彼の瞳の奥には、氷のような冷たい何かが宿っているように見えた。
その正体は不明だ。
少年は、かつての過酷な放浪時代に「人の本性を見抜く目」を養ってきた自負があったが、ここまで底が見えない人物も珍しいと思っていた。
「……どこかで見たことがあるような気がするのよね」
ぼそりと、子爵令嬢が呟く。
「やはり、どこかの貴族でしょうか?」
「うーん、そういう顔立ちには違いないけど。思い出せないわ」
思考を巡らせても、彼の正体には行き着かない。子爵令嬢はそれ以上考えるのをやめた。
「とにかく。警戒は怠らないでおくわ。もし彼に不審な行動が見受けられたら遠慮なく言って。刺し殺すから」
なかなか物騒な発言ではあったが、その頼もしさは、今の少年には何よりの救いだった。