FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第1章-3:復讐心と王女・後編

「……気づいて……おられたんですか?」

 

 死刑宣告にも等しいその指摘に、少年はそれだけを絞り出すのが精一杯だった。

 視界が(にじ)み、オルテンシアの顔がぼやけて見える。

 

 彼女は今、どんな想いで自分に触れているのか。

 愛の告白すらも、こちらを油断させて捕らえるための残酷な罠だったのか。

 

 そんな激しい動揺さえも、彼女の手のひらの上だった。オルテンシアは、その小さな腕で少年の細身の体をひしと抱き締める。

 

 遠い記憶の底にある、母の抱擁とは全く違う。

 彼女から立ち上る甘い香りが、少年の理性をじりじりと焼き焦がしていく。

 

「気づいていたわ。一年も前には、とっくにね。……でも」

 

 オルテンシアは少年の頬を両手で包み込み、逃げ場を許さない真っ直ぐな瞳をぶつけてきた。

 

「いくらでも好機はあったはずよ。食事に毒を混ぜればよかった。髪を()く最中に、その背を貫けばよかった。ドレスを脱がせる時に首を絞め、寝込みを襲って窒息させればよかった。……けれど、あなたはそうしなかったわ。それどころか、誰よりも先に毒見を担い、あたしの髪を誰よりも可愛く整えるようになった。逆に聞くわ。どうして? どうして、あたしを殺さなかったの?」

 

 真剣な眼差しに、少年の瞳が泳ぐ。

 答えを窮する彼に代わり、オルテンシアがその唇を寄せた。

 

「あなたは、人を殺せるほど残酷にはなりきれない、優しい男の子なのよ」

 

 だから、殺意に気づいても、父にも姉にも言わなかったのだと、彼女は囁く。

 

「あたしたち、そっくりね。本当の感情を押し殺して、誰からも好かれる自分を演じて……。ねえ、愛しくて仕方ないわ、彼氏くん」

 

 オルテンシアは再び彼を抱き締め、その胸元に甘えるように頬を擦り寄せた。

 

 少年は震える手で、懐に忍ばせていた短剣を抜き──そのまま、床へと落とした。

 

 乾いた金属音が虚しく響く。オルテンシアは、その凶器に怯える素振(そぶ)りさえ見せなかった。

 

「……僕は、大罪人です。今ここで人を呼び、このナイフを突き出せば、アイビー王女も近衛の者も、迷わず僕を始末するでしょう。殿下に愛される資格など、僕にはありません。……どうか、この許されざる刺客を処罰してください」

 

「シカク、シカクって……ギャグのつもり?」

 

 オルテンシアは、どん、と少年の胸を突き飛ばした。不意を突かれ、少年は背後にあった天蓋(てんがい)付きのベッドへと仰向けに倒れ込む。

 

「罰を受けたいのね? なら、あたしがお望み通りにしてあげる」

 

 彼女は遠慮なく、ベッドに沈んだ少年の体の上に跨った。見上げる少年の動悸が、鼓動を早めていく。見下ろす王女の瞳は、捕食者のような妖しい光を宿していた。

 

「今から、あなたに『夜伽(よとぎ)』の役を命じるわ。イルシオン第二王女の初めてを、あなたが奪いなさい」

 

「よ……っ!?」

 

 耳を疑った。けれど、それは幻聴ではなかった。

 

 オルテンシアは緩やかに、その華美なドレスを脱ぎ捨てていく。

 

 最初からそのつもりで、自分一人で脱ぎやすいよう細工をしていたのだと、今になって気づかされた。

 

「あたしの未来なんて、誰にも分からないわ。お父様に政略結婚を命じられ、見も知らぬ男に初めてを捧げることになるかもしれない。……それは嫌。そんなことになるくらいなら、あたしが本当に好きな人に……あたしを一番熱心に見てくれていた、あなたに捧げたいの」

 

「だ、だからと言って……僕である必要など……」

 

「あなたじゃなきゃ、嫌なの!」

 

 拒絶を許さぬ叫びと共に、オルテンシアは自らの唇で少年の口を塞いだ。

 

 どこで覚えたのか、辿々しくも執拗に舌を絡ませる、密やかな接吻(キス)

 

 永遠とも思える時間が過ぎ、二人の唇が離れた時、そこには名残惜しそうな銀の糸が引いていた。

 

「……今だけでもいい。あたしの彼氏くんとして……優しく、奉仕してよ」

 

 その最後の言葉は、縋るように、か細く震えていた。

 

 

*****

 

 

 あれから、何刻経っただろうか。

 

 名もなき侍従の少年と、第二王女。

 

 本来、交わることのない身分差の二人は、まるで恋人のように抱き合った。

 

 傾き始めた西日が、オルテンシアの部屋に長く差し込んでいる。

 

 つい先刻まで、ここで愛が育まれていたことが嘘のように、室内は満たされた静寂に包まれていた。

 

 少年に愛を刻みつけるように、その胸へと頭を預けて横たわるオルテンシア。

 

 重なり合うように横たわる二人と、部屋に漂う甘い残り香だけが、交わされた情事の確かな証拠だった。

 

「……それじゃあ、記憶喪失というのは、まったくのデタラメでもないのね?」

 

 オルテンシアの静かな問いに、少年は小さく頷いた。

 

 実際、彼の記憶の大部分は、これまで抱え続けてきた邪悪な復讐心によって塗り潰されていた。

 

 故郷が国境沿いのどのあたりにあったのかも、今はもうあやふやだ。

 自分以外の生き残りがいたことは覚えていても、その顔触れも名前も、霧の向こう側のように曖昧だった。

 

 確かなのは、あの日、ハイアシンス王が放った炎がすべてを焼き尽くしたこと。そして、嗤っていた王への燃え盛るような怒りだけだ。

 

 けれど、その真実をオルテンシアに語ることはできなかった。

 

 オルテンシアは、狂気に変貌する前の父に未練を抱いている。そう簡単に愛想を尽かせるほど、彼女の心は冷え切っていない。

 

 父を愛する娘としての感情は、今も彼女の芯に深く根ざしているのだ。

 

 そんな彼女に、ハイアシンスが犯した凄惨な所作を赤裸々に語ればどうなるか、想像に難くないだろう。

 

 彼女への深い情愛を抱いても、王本人への復讐心が消えたわけではない。

 しかし今は、その牙をそっと懐の奥に留めておくことに決めた。

 

 彼女は聡明だ。

 

 故郷を失った少年が王族を殺しに来たという事実だけで、愛する「彼氏くん」の故郷を焼いたのが父であり、自分がその清算をさせられそうになったのだという結論には、いずれ辿り着いてしまうだろう。

 

 だからこそ、あえて明言はしない。

 その沈黙に込めた意図さえ汲んでくれるのがオルテンシアなのだという、強い信頼が彼にはあった。

 

「ホントの名前もわかんないかあ……なんか、良い呼び方はないかしらね」

 ふと、オルテンシアが寂しげに呟いた。

 

 どうやら彼女は、この情事を一度きりの「罰」だと思い込んでいるようだった。

 自分の訴えた「恋人になってほしい」という願いは、罪滅ぼしのための行為によって、露と消えてしまったのではないか、と。

 

 その認識の齟齬(そご)を、今すぐに正さなければならない。

 

「……『彼氏くん』で、いいですよ」

 

「えっ」

 それまで沈んでいた彼女の表情が、一瞬で華やいだ。

「それって……」

 

「……僕なんかで、本当にいいんですか。これから始まる学園生活で、もっと素敵な殿方が現れるかもしれないのに。……あなたを殺そうとした、許されない罪人なのに」

 

「そんなこと言わないで。怒るわよ」

 

 オルテンシアは少年の口元に人差し指を押し当て、自虐的な言葉をシャットアウトした。

 

「あたしは……あなたが、彼氏くんがいいの。確かにあたしは可愛いもの、学園ではモテモテでしょうね。友達だっていくらでもできるわ。でも、向こうの人たちはどうしても『王族』っていう壁を、完全には取り払ってくれないと思うの」

 

 一瞬、視線を落とし、彼女は切実な本音を続ける。

 

「あたしは、対等な恋人がいいのよ。そりゃあ、仕事中や人前では無理よね。でも、この部屋でだけは……さっきみたいに普通の男の子と女の子として、たくさん愛し合って──その役割ができるのは、世界中で彼氏くんしかいないわ」

 

 他の誰かでは絶対に嫌だという、祈りにも似た強い信念が彼女から伝わってくる。

 

「あたしが学園に向かう日まで、あと二ヶ月……ううん、もうそんなにないわね。この短い間、あたしが望むまま、いっぱい頭を撫でて、抱きしめてくれる?」

 

 愛おしい少女からの、あまりに健気なおねだり。それに首を横に振れる者など、この世にいるはずがない。

 

 少年は、胸の上で寝そべる彼女の頭を優しく撫でた。

 

「もちろんです。……ですが、学園へ向かうまで、ではありません。僕はあなたが卒業する日まで、このイルシオン王城で待ち続けています。ですから……その後も。あなたが望む限り、愛し続けましょう」

 

 それは実質的な、婚姻の約束にも等しかった。

 

 名もなき平民の口約束に、どれほどの効力があるかはわからない。

 

 それでも、笑顔の仮面で孤独を隠し、自分にだけ素顔を曝け出してくれるこの少女を、誰にも明け渡したくないと願ってしまったのだ。

 

「……うれしい……っ」

 

 心底、絞り出すような声だった。

 オルテンシアの瞳に、大粒の涙が溜まっていく。

 

 愛の告白が受け入れられた喜び。

 そして、このイルシオンに家族以外にも「帰るべき場所」ができたという安らぎ。彼女はその幸福に、ただ身を委ねていた。

 

「ふ……ふふん! こんな可愛い彼女をもって、彼氏くんも幸せ者よね。あたしも、愛の力で何でもできちゃいそうだわ。ペガサスなしで、空だって飛べちゃうかもね!」

 

 いつもの屈託のない笑みを見せて、オルテンシアはおどけてみせた。それは決して虚飾ではなく、彼女の確かな一面なのだと、少年は胸を張って断言できる。

 

「不束者だけど……よろしくね。彼氏くん」

 

 一筋の涙を拭い、最高の笑顔を見せる王女に、少年はもう一度、深く、愛を込めて腕を回した。

 

 

*****

 

 

 月日の流れる速度は、残酷なまでに早かった。

 

 あれから、ほぼ毎日のようにオルテンシアと愛し合っていたのに、今では遠い夢の出来事のようにさえ感じられる。

 

 気がつけば、季節は3の月の下旬。イルシオン王城の門前に(たたず)む馬車。

 

 これに彼女が乗り込めば、しばらくの間、オルテンシアの体温に触れることは叶わなくなる。

 

 最後だからと、昨夜激しく慈しみ合った記憶が、かえって二人の別れを惜しませる未練となっていた。

 

「忘れ物はないわね? 一度出発してから戻るようなことがあっては大変よ。準備に抜かりはないように」

 アイビー王女の過保護な確認は、これで十数回を数える。

 

「お姉様、さすがにしつこいわよぉ……」

 そう苦笑するオルテンシアの表情には、重たすぎる姉の愛への少しばかりの呆れと、旅立ちへの緊張が混じっていた。

 

 見送りには、彼女が築いてきた人間関係を象徴するように、城内の多くの者が集まった。

 少年の同僚たちはもちろん、普段は政務に没頭する官吏(かんり)や、鉄の規律を重んじる兵士長までもが、愛らしき第二王女の門出を祝うために列をなしていた。

 

 人々に囲まれ、対応に追われる彼女の姿。少年が割って入る隙などどこにもない。

 昨夜、語り尽くしたはずだったのに、いざその時を迎えると、まだ言葉が足りないような焦燥に襲われた。

 

 出発の直前。

 姉であるアイビーと短く言葉を交わした後、彼女が最後に視線を向けたのは、愛しい「彼氏」だった。

 

「……彼氏くん」

 

 大勢の見守る中でその呼び名を口にされたのは、これが初めてだった。

 少年は心臓が跳ね上がるのを感じたが、幸いにも周囲はそれを「仲の良い主従の愛称」程度にしか捉えていないようだった。

 

「大好きよ」

 彼女が耳元で囁いたのは、この二ヶ月間、飽きることなく、熱と共に放たれ続けた愛の言葉。

 

「僕も……愛しています」

 笑顔で返す少年に、オルテンシアは満足そうに、そして少し泣きそうにはにかんだ。

 

「……行ってくるわね」

 その言葉を最後に、愛らしき雪華は城内から姿を消した。彼女が学業を修め、再びこの門を潜る日を、城中の誰もが待ち焦がれることになるだろう。

 

「……ああ、本当に行ってしまった」

 

 見送りの人々が散っていっても、少年だけはその場に立ち尽くしていた。

 肌を刺す寒風にさらされようとも、彼女の残り香が消えてしまうのを拒むかのように。覚悟していたはずの孤独が、鋭い刃となって彼の胸を切り裂く。

 

 これほどまでに、自分はオルテンシアという少女に魂を預けていたのだと、今さらながらに痛感させられた。

 

 もし、故郷を焼かれた直後の自分が今の姿を見れば、仇の娘に絆されるとは何事かと、激しい憎悪を剥き出しにしていただろう。

 

「……何をしているの。風邪を引くわよ。あの子を悲しませるつもり?」

 

 見かねたように声をかけたのは、アイビー王女だった。

 

 彼女は少年の肩に、羽織るものをそっと掛けた。

 言葉に棘は残っているものの、そこには「相応しくなければ首を()ねる」と言い放った冷酷な王女の面影はなかった。

 

「……実はね」アイビーは感情を押し殺したまま、続けた。「貴方のこと、あの子から聞いていたわ。『大切な彼氏くん』らしいわね?」

 

「ひ……っ!」

 少年は戦慄した。

 最愛の妹と夜な夜な愛し合っていた不敬な事実を咎められ、ついに処断される時が来たのかと。

 

 けれど、それは杞憂に終わった。

 さすがのオルテンシアも、詳細を姉にぶちまけるような真似はしなかったらしい。

 聡明な彼女が、時折危ういほど姉を慕っているのを知っているだけに、少年は内心で深く安堵した。

 

「貴方の働きは、正直に言って私の想定を遥かに上回ったわ。素性の知れぬ者が、あの子の心をこれほどまでに解きほぐすことになるとは、思いもしなかったもの」

 

 チュールの奥から少年を見つめるアイビーの瞳には、確かな承認と、どこか深い慈愛が宿っていた。

 

「あの子はしばらく王城を離れるけれど……それでも、ここで待っていてくれるというのは本当なの?」

「はい。オルテンシア様と交わした約束を、違えるつもりはありません」

 

 一見すれば、折れてしまいそうなほど華奢(きゃしゃ)な男。

 しかしその眼差しは、狂おしいほどに真っ直ぐだった。

 

 あの日、素晴らしい拾い物をしたものだと、アイビーは内心で呟きながら、自らの中にも、正体のわからぬ小さな羨望の火が灯るのを感じていた。

 

「……これからもよろしくね。イルシオンのために」

 

 3の月が終わろうとしても、凍土の国に春はまだ遠い。

 けれど、少年の心の中には、確かに暖かな南風が吹き抜けていた。




実際に行った内容はR-18版で見れます。
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