それは、オルテンシアが王立イルシオン学園に入学する一年前。6の月3の日の、誕生日の前日のこと。
彼女と少年が、決して越えてはならない主従の壁を越え、恋人同士の契りを結ぶよりもさらに前の話である。
セピアの謀略によって無惨に命を散らした侍従たちが、誰一人欠けることなく平和な日常を
ただ、双子の姉妹だけは、まだ城に上がっていない時期の出来事だ。
この数日前、彼女は少年にこんなことを言っていた。
『聞いたわ。あなた、料理が上手いんですって? なら、誕生日の料理人はあなたに任命するわ。あたしもお姉様も唸らせるような料理を作りなさい! これは王女命令よ!』
少年は困り果てた。
彼が城で料理を作ることはあるが、概ね来客用のものや、侍従たちのための
王族に対して直接腕を振るったことなど、一年以上に渡る職務においてただの一度もない。
しかし、少年は『できない』とは死んでも口にしない。
イルシオン王族への復讐を果たすため、有能な駒としての信用を勝ち取る必要があるから……当初は確かにそのような理由だったはずだが、最近ではその目的が変質しつつあった。
自分は力仕事以外で出来ないことはないのだから、単純に彼女の期待に応えて喜ばせてあげたいと、そう思ってしまったのだ。
絶好の暗殺の機会。
……少年は脳裏に
せっかくの誕生日を命日にしてやるのは、さすがに寝覚めが悪いと、適当な理由をつけて。
当時の少年は、自身の中に芽生えつつあった第二王女への深い愛着を頑なに認めようとせず、それをただの「復讐に向けた観察」なのだと必死に思い込んでいた。
だから、これほど
(……せっかくだ。美味しいものを作ってあげたいな)
とはいえ、問題点が一つあった。
それは、オルテンシアのみならず、あの気高き第一王女アイビーまでをも唸らせろという無茶な注文だ。二人を同時に満足させなければならないのが、なかなかに厳しい。
いや、実のところアイビーについては、さほど問題はない。
激辛料理や、香りの強すぎる香草を用いた料理を避ければ、基本的には何でも口にしてくれる。
ただし、酢漬けにしたニシンでピクルスを巻いた郷土料理や、特有の酸味があるキャベツの漬物といった、特定の酸っぱい品だけは明確に忌避されるようだった。そこにさえ気を付ければ問題はない。
問題は第二王女だ。
不敬を承知で言えば、オルテンシアは食事に関してあまりにも偏食が過ぎた。
甘いものは大層好むが、逆に言えば甘味以外の料理にはとことん文句をつける傾向にある。
辛味が苦手なのは姉妹共通だが、野菜が少しでも見えれば顔をしかめ、魚も嫌い、肉もさほど好まず、手軽に腹を満たせるポテト肉まんの類すらも口に合わないと突き返す。
では何が好きかというと、ケーキだのアップルパイだのチュロスだのと要求してくる。
もはや「食事」とは呼べないような、甘味ばかりを並べ立てるのだ。
頭を抱えざるを得なかった。
──こんな食事嫌いで、果たして今後健康的に生きていけるのだろうか。
いずれ自らの手で殺すはずの少女の未来の健康を本気で
だが、王女直々の指名を受けた以上、いつも王族の料理を担当している料理人や侍従たちも、すっかり彼に任せるつもりで期待の眼差しを向けてきている。
前述の通り、少年は侍従たちに
(そういうことじゃないんだけどな……)
料理の腕に自信がないわけではない。
過酷な放浪時代でも、生きるためにあちこちで料理を作っていたため、むしろ得意技能のひとつであるとすら言える。
とにかく、何を作るべきかが思い浮かばないのだ。
食事を、と言われている以上、甘いデザートのみを作って誤魔化すわけにはいかない。
もちろん、その手のデザートを作るつもりではあり、そちらは何を作るべきかすぐに思いついていた。
王城の貯蔵庫に、城下町から上質な桃が送り届けられているのを少年はすでに把握していたのだ。
これを使って作る甘味は、二人の王女がどちらも好物であると知っている。こちらに問題はなかった。
やはり、本命の主菜だ。
どうしたものかと詰所の椅子に座って唸っていると、三名の友人と言える同僚が、彼を囲むように正面の席へと座ってきた。
花嫁修業中の子爵令嬢と、当時存命だったそばかすの同僚、そして、おっとりして皮肉の通じない恰幅の良い同僚である。
「ずいぶん大役を与えられたものね。手伝えることがあったら手伝うわよ?」
子爵令嬢が気さくに協力を申し出てくれた。
しかし、自分一人で作らなければ『あなたが料理人よ』という彼女からの命令から逸れると思って、少年は丁重に遠慮した。
そばかすの同僚は、彼が最初からそう答えるであろうことがわかっていたように、少しだけ悪戯っぽく笑って言った。
「そう言うなってー。侍従隊はみんな、キミの手伝いをする気まんまんなんだからな! ヴァイオレットさんも、ダリアさんも、侍従長も乗り気なんだよ」
「えっ、ダリアさんも……? それは珍しいですね」
いつも彼に嫌味ばかり言ってくる古参の先輩のことだ。
城兵を務める元恋人と壮大な痴話喧嘩をした直後であり、滅茶苦茶に不機嫌だったはずなのだが。それでも、第二王女への料理を作る自分を手伝ってくれるというのか、と、少年は目を丸くして困惑した。
「わかるぞー。あれだろ? 足引っ張ってくるかもしれないって思ってるんだろ?」
「リリーさん。だめですよ、そんな無礼なことを言っては。ダリアさんには確かに問題点は多いですが、職務に関しては人一倍真面目なのですから」
会話に割って入ってきたのは、次期侍従長と目される気立ての良い先輩だった。
侍従の全員を貴重な戦力と見なし、誰に対しても分け隔てなく接する、あらゆる意味で鑑のような性格の持ち主だ。
「ふふー。ヴァイオレットさんも、相談に乗ってあげてくださいー。何を作ろうか悩んでるみたいなんですー」
恰幅の良い同僚が、やってきた彼女にそう笑いかけた。
少年は口に悩みを出していなかったはずだが、どうやら顔に思い切り書いてしまっていたらしい。
他人の機微に良くも悪くも疎いはずの、この恰幅の良い同僚にすら察せられているというのは、よほどのことだ。
「いえ、ヴァイオレットさん。忙しいはずでしょう? 僕の仕事に巻き込むわけには」
「だめですよ、抱え込んでは。みんなの仕事にしましょう? 何せ、今回のオルテンシア殿下の誕生日には──」
次期侍従長が放つ次の言葉。
その内容に、少年はごくりと冷たい唾を飲むしかなかった。
「
イルシオン王、ハイアシンス。
少年の故郷をいわれなき罪で焼き払い、それをさも正しいことをしたかのように高笑いを上げていた、最も憎むべき
この男の食事にこそ致死の猛毒を盛り、その命を苦悶の底で終わらせてやるべきではないか。
真っ黒な殺意が、心臓の奥底から毒のように湧き上がる。
だが。少し考えて、少年はその妄想を自ら振り払った。
もしそれを実行すれば、目の前で父が苦しんで死ぬ様を見せつけられる第二王女が、どれほど泣き叫び、自分に掴みかかり、心に消えない傷を負うことか。
その絶望する姿を想像した瞬間、少年の手はすっかり止まってしまっていたのだ。
(それが目的だったはずだろ。何してるんだ、僕は……)
もう、自分には冷酷な復讐など、到底不可能なのかもしれない。
うっすらと、そんな己の弱さに気づき始めた瞬間だった。
本当に不可能と判断するには早計すぎるが、さっさと城を去るべきなのかもしれない……そう考えた。
だが、その前に、料理人としての仕事だ。
与えられた仕事を投げ出してしまうのは、少年の信念に
復讐対象の巣であるとはいえ、役割の放棄をすれば、亡き両親も嘆くだろう、と思った。
「お三方が喜ぶ料理。ますます悩みますね……」
「陛下は、食事の好き嫌いがアイビー殿下より無い方です。食事の内容よりも、家族と食事をすることを喜ばれる方ですよ」
十年以上の職務で、常にハイアシンスの動向を見てきた次期侍従長が言うのだから、間違いのない情報なのだろう。
それに近しい年月働いている恰幅の良い同僚も、同意するようにうんうんと
「オルテンシア殿下が食べられそうな料理に絞って考えるのがいいかもねー」
「……殿下が食べられそうな……」
少年は今までの記憶の引き出しの中から、それに該当しそうな料理がないかを探り当てようとした。
といっても、彼が思い出せる範囲はごく僅かだ。
各地を渡り歩いた放浪時代と。
そして、ほんの少しだけ残る、家族との暖かな日々の記憶。炎に焼き尽くされる前の、家族と囲んだ温かな食卓。
寒い冬の夜、冷え切った身体を芯から温めるために、もう顔すらも
何だ、あれは。スープではない。
肉……肉だ。オルテンシア殿下は肉料理もあまり好まれないが、料理である以上、主菜は必要不可欠だ。
何か……何かが、かかっていた。ソースだ。色は……。
そこまで記憶を手繰り寄せて。少年はぽつりと呟いた。
「ひとつ、思いつきました。三人とも喜びそうな料理」
*****
オルテンシアの誕生日、当日。
一年の大半を雪に閉ざされる常冬の国イルシオンにあって、この日はまるで、彼女の誕生を天が祝福しているかのような見事な快晴であった。
どうしても手伝いたいという侍従隊の全面的な協力を受けながら。
少年は、王族三名が十分に満足できる量の主菜と、極上のデザートを見事に完成させてみせたのである。
王族の憩いの場である中庭に
出来上がった食事を運んだのは、侍従長や次期侍従長、恰幅のいい同僚をはじめとする、キャリアを積んだ古参の侍従たちであった。
城に上がってまだ一年あまりの少年は、料理の全権を担いながらも、この特別な祝宴の場においては、自らの手で直接配膳することは身分として許されなかったのだ。
銀の蓋が被せられた皿を卓に並べると、運搬係となった侍従たちもすぐさま一礼してその場を立ち去っていく。
王族の家族水入らずの団欒に、下働きが許可もなく混ざることは不敬に値するからだ。
期待に満ちた眼差しで卓上の皿を見つめるオルテンシアに代わり、姉のアイビーが優雅な手つきでその蓋を全て取り外してみせた。
「……わあ……♡」
オルテンシアの目に真っ先に飛び込んできたのは、見事なピーチケーキだった。
みずみずしい桃の果肉を惜しげもなく使用し、土台となるスポンジも何層にも手が込んでいる。
とても一介の平民の侍従が独学で作ったとは思えないほどの、天才的な出来栄えだ。
何より目を引いたのは、その可愛らしい装飾である。オルテンシアの名の由来であるアジサイの花と、彼女が大好きでたまらないルピナスの花。
それらが飴細工やクリームで見事な花輪として再現され、ケーキを美しく彩っていた。
あの少年は、第二王女の好物も、嫌いなものも、彼女を形作るあらゆる要素を熟知している。
オルテンシアが彼に抱いていた確かな信頼と愛着が、より強固なものへと昇華された瞬間だった。
そして、肝心の主菜だが。
「!……こ、これは……」
思わず声を上げたのは、偏食の激しいオルテンシアでも、警戒心の強いアイビーでもなく。
父たるイルシオン王、ハイアシンスであった。
そこにあった料理は、大ぶりの肉団子に、濃厚なクリームソースをたっぷりと掛けた温かな一皿だった。
三人で腹いっぱい食べられるだけの量が盛られている。
オルテンシアが肉料理の中で「好物」と呼べる、数少ない代物。
少年は見事にその最適解を引き当てたのだ。
だが、これを好物とするのはオルテンシアだけではなかった。
アイビーも、そしてハイアシンスもまた、かつてはこの料理を何よりも好んで口にしていたのだ。
しかし。
ハイアシンスが声を震わせた理由は、「好物が出てきたから」という単純なものではなかった。
「彼女の……料理だ……。彼女が、ことあるごとに、私に食べさせてくれた……」
アイビーもまた、息を呑んだ。父が
それは、数年前にこの世を去ったオルテンシアの生母──ハイアシンスが愛した
ハイアシンスは、彼女の手料理が大好きだった。
中でも特に、この『肉団子のクリームソース掛け』には何度も
彼女が正式に
特にアイビーに至っては、その味を最後に口にしたのはまだ六歳の頃だったが、それでも舌の奥に、その記憶は鮮明に刻み込まれていた。
今、目の前から立ち上る香りと、ソースの絶妙な色合い。そして、口の中に広がる芳醇な味わい。
何もかもが、亡き彼女の作っていたあの味に……あまりにも酷似していたのだ。
この場において、オルテンシアのみが、その『母の味』を知らなかった。
クリームソース掛け自体は他の料理を得意とする侍従たちが作ったものを食べたことはあった。
しかし、母自身の手料理を味わう前に、母はこの世を去ってしまっていたのだ。
「お母様……の作る食事の味に、そっくりなの……?」
アイビーから信じられない事実を聞かされ、オルテンシアは声を震わせた。
まさか、あの少年が、自分の知らない母の味を偶然にも再現してみせたというのか。
そんな奇跡のような偶然が起こるなんて……と。
一口、食べてみる。
「……美味しい……」
オルテンシア好みの味わい。
母が同じものをかつて作っていたという事実も相まって、ほんのり涙を浮かべた。
意図的ではないにせよ、母の味を再現してくれた彼には後で礼を言わねば、とオルテンシアは固く誓った。
オルテンシアもアイビーも、喜びながら肉団子にありつく。
「これを作ったのは……いったい誰だ?」
「え、ええと。ほら、あたしの……去年入った、侍従の男の子がいるでしょ? あの子が……」
ハイアシンスが顔を伏せ、低く震える声で尋ねるのを見て、オルテンシアはしきりに焦ってしまった。
父の口に合わなかったのか、あるいは素性の知れぬ平民に直接食事を作らせたこと自体が不興を買ったのだろうか。
──あの子が、断罪されてしまうことだけは絶対に避けたい。
そう必死に弁明の言葉を探したのだが。
父王は、娘たちの危惧したような怒りを示すことはなかった。
ただ、何か大切なものを思い出したかのように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「お、お父様!?」
これにはアイビーも焦燥を隠せなかった。
あの少年を城内に入れたのは、他ならぬ自分自身だ。
まさか、あの大人しそうな少年が食事に毒を盛ったのだろうか、と最悪の想像が脳裏を
「ごごご、ごめんなさい! あたしが……その、あたしが無理を言ったの! だから……!」
オルテンシアも完全にパニックに陥った。
自分も、あの少年も、悪意など欠片もなかったのに。
自分の不用意な命令のせいで父を悲しませてしまったのだ……と、庇うことしかできなかった。
だが、ハイアシンスは取り乱す娘たちを責めるような真似も、衛兵を呼んで侍従を捕らえさせるような真似もしなかった。
「すまない……。本当に……すまない……」
父王は、ここ数年、ずっと何かに取り憑かれたように自室や地下に籠り、異端の研究に没頭し続けていた。
確かに元から邪竜復活研究に熱心だったし、それが決め手の一つとなって、兄を押しのけて、つい
家族と顔を合わせても目が
そんな彼が、今日のオルテンシアの誕生日の席についてくれたこと自体が、奇跡に近い出来事だったのだ。
そんな、心を失ってしまったかのような父が、今は亡き母の味に触れ、人間らしく泣いている。
アイビーもオルテンシアも、驚きと共に、胸の奥から熱い歓喜が湧き上がるのを感じた。
あの少年の作った温かな料理が、狂気に沈んでいた父の心に届き、かつての優しかった父を取り戻してくれたのではないか、と。
だが。
その淡い希望は、束の間の幻でしかなかった。
「ク、クク、クククク……」
震える手でフォークを取り、一口分の肉団子を口に入れ、ゆっくりと
ハイアシンスは、いつもの、焦点の合わない不気味な笑みを顔に貼り付けていた。
涙で濡れた顔のまま、音を立てて笑い続ける父。
娘たちは、ただただその異様な光景を、背筋を這う恐怖心を必死に押し殺して見つめていることしかできなかった。
「絶対に……取り戻すんだ……! 正しいイルシオンも……何もかもッ……!!」
この場にいない少年も、そして、目の前で
知るはずもなかった。
少年が第二王女を喜ばせるためだけに丹精込めて作った、偶然の産物たる思い出の料理が。
皮肉にも彼自身が持つ『狂気の決意』を、完全に固めさせてしまったことに。
そして、それは、ここから二年後。
イルシオン王国による神竜王の殺害から端を発する、大陸全土を巻き込む血みどろの大戦争という、最悪の惨劇をもって顕現することとなるのである。
番外編はこの位置で問題なさそうなため、この位置で固定します。
健気で可愛いオルテンシア様のために、高評価やお気に入りくれると嬉しいです。
誕生日記念に……いかがですか。
ちなみに第一王女の誕生日は11月17日です。