そう、ここの1話前にオルテンシア誕生日記念の番外編を執筆しました。良ければそっちも読んでね。
いつの間にか、少年は再び眠っていた。
といっても、そこからせいぜい一刻ほどだろうか。
まだ夜明けには遠く、空は暗い。
子爵令嬢は、すーすーと規則正しい寝息を立てている。
森へ向けて同行する薄緑髪の弓使いと、救護班の老人も、しっかりと身体を休めているようだった。
避難民の大半はやはり寝つけていない者も多かったが、それでも半数以上は疲労から泥のように眠ってしまっている。
……だが、あの吟遊詩人はぱっちりと起きていた。
そして。
なぜか双子の姉妹も一緒にいる。
また夜這い紛いの口説きでもしているのかと少年は焦ったが、どうやらそういう雰囲気ではなさそうだった。
何やら吟遊詩人の手振りに合わせて、姉妹が二人とも両手を前に突き出している。
活発な妹の、手と手の間から一瞬だけ炎のようなものが噴き出したような気がした。
一方、姉の方は何やら苦戦している。
妹と違って、何かが現れる気配はない。
「……何をしてるの?」
「あっ、せんぱい……寝ていなくて大丈夫なんですか……?」
姉の方が、少し泣きそうな、不安げな目でこちらを見てくる。
少年が無理をしていないか心配で泣きそうなのか、妹と違って魔法が出ないからなのかはわからない。
「知っての通り、僕はもともと睡眠が短いから大丈夫だよ。……それで?」
「見てください、せんぱい! ゼラさんが魔法を教えてくれたんですよっ」
妹の方が楽しそうに、手のひらから炎を少しだけ噴き出してみせた。
吟遊詩人が見せたそれに比べれば、あまりにも小さく頼りない。異形兵への攻撃には到底使えないだろう。
しかし、確かな温かさが伝わってきた。多少の暖を取るくらいなら十分に役立ちそうだ。
「どうしても魔法を教えてほしいと、せがまれてしまってね。いやー、ボクも罪作りな男だ。こんな可愛い子たちの心を射止めてしまうなんて。惜しむらくは、何度教えてもボクのことを『旦那様♡』と呼んでくれないことだけどね。たっぷり、愛情を込めて呼んでほしいんだけどなあ」
次期侍従長と子爵令嬢に本気で殴られたというのに、全く懲りていないらしい。
しかし、少年がうたた寝をしていたわずかな間に、初心者に魔法を放てる程度まで教え込んだというのか。
やはり底知れない男だ……と、少年は内心で舌を巻いた。
「わ……私には無理みたいです……ランみたいに、才能がないから……」
何度やってもうまくいかず、とうとう姉の方が泣き出してしまった。
妹が心配そうに姉の顔を覗き込み、しきりに「嫌な思いさせちゃってごめん」と謝っている。
しかし。
吟遊詩人は姉の言葉を静かに否定した。
「……そんなはずはない。きみたちもイルシオンの出身のはずだね? イルシオンの国民で、血を分けた双子同士、
そう語る吟遊詩人の眼差しは、冗談を言っている時とは違って、ひどく真っ直ぐなものだった。
双子の姉妹は、その吸い込まれるような翡翠の瞳に見入っている。
少年もまた、思わず見入ってしまいそうになるほどの引力があった。
「もしかしたら……スズちゃん。今のキミには『攻撃魔法』というもの自体が、まだ早いのかもしれない。となると、次に試すべきは……」
回復魔法をやってみたらどうか。
吟遊詩人はそう提案した。
「そこの美少年。全力でボクを殴りたまえ」
「……はい?」
この男は、殴られることに歓びを見出す特殊な嗜好まで持ち合わせているのかと、少年の目線が一気に冷たくなる。
「いやいや、今のキミの失礼な思考──よーくわかるよ。あながち否定はしないがね。そうじゃなくて、回復の杖は『傷を負っている人』にしか使えないのさ。避難民の誰かで試す前に、ボクで実験してみるのが一番いいと思ってね。それで逆にボクがメチャクチャになっちゃったら、スズちゃんにお嫁さんになってもらうし?」
後半は、聞かなかったことにした。
いや、むしろ。後半の戯言を聞いたからこそ、少年は一切の
筋肉がろくにつかぬ貧弱な身体でも、重い一撃に威力を乗せる確実な方法。
それは、十分な助走をつけることだ。
右手はまだ痛むので左手で殴りつけた。
「ちょっ──」
腕力がないのが嘘であるかのように、派手に吹き飛ぶ吟遊詩人。石壁に激しく弾き飛ばされ、情けない格好で床に倒れ込んだ。
「……あ゛、スズ、ちゃん? 早く使って、みでぇ……回復の杖……ぐふっ……」
床に這いつくばる吟遊詩人の指示を受け、姉は慌てて杖の先端を彼に向け、一生懸命に祈りを込める。
すると、杖の先からほのかな淡い光が現れ、少し時間をかけながら、吟遊詩人の無惨に腫れ上がった頬を綺麗に癒していった。
「わあ……!」
「すごいよお姉ちゃん! これで私達も、みんなのお役に立てるね!」
手を取り合って喜ぶ双子に、吟遊詩人は痛みが引いた顔でニヤリと笑ってみせた。
「どうだい? いいものだろう、魔法というのは」
双子の姉妹は、自分たちが周囲に守られるばかりの現状が歯痒かったのだという。
特に、城からの脱出時、邪竜ソンブルの放ったグリフォン乗りの異形兵から、次期侍従長が子爵令嬢を庇って突き飛ばしたあの瞬間。
ただ見ていることしか出来なかったのが、あまりにも悔しかったのだそうだ。
何か、自分たちにも出来ることはないか。
そう悩んでいた時に出会ったこの吟遊詩人は、彼女たちにとってまさに
さっき彼が見せてくれたような派手な魔法で、絶望している皆を少しでも元気づけ、喜ばせてあげたい。
無理を承知で、起きてきた吟遊詩人に頭を下げて頼み込んだところ、「魔力の才能があるから、ちょっと鍛えたら出来るよ」と二つ返事で快諾してくれたのだという。
「……うらやましいな」
少年は、素直にそう思った。
少年は、魔法という概念そのものに嫌われている。
放とうとすれば凄まじい反動だけを受け、数日は熱を出して寝込んでしまうほどに。
もしかしたら、彼の手にかかれば、こんな自分でも鍛錬でなんとかなるのではないか。
もし魔法が使えるようになれば、愛するオルテンシアとも少しは同じ目線で会話が出来るようになるかもしれない……なんて。
そんな淡い期待を抱き、少年は吟遊詩人に尋ねてみた。
「残念だけど、美少年には魔道の才能はゼロだねえ」
見事なまでの一刀両断であった。
「だけど、嘆く必要はない。キミにしか出来ないことも、ちゃんとあるだろう? みんなを導くとか……ボクの可愛いお嫁さんになるとかね☆」
後半は、やはり聞かなかったことにした。
*****
明け方。
少年たちは吟遊詩人の案内で、妖精の村──まずはその入り口となる深い森へ向かって出発する。
9の月、2の日。
一年の大半を雪に閉ざされるイルシオンという国において、夜明けは遅い。
雪こそ降っていないものの、いつ降り出してもおかしくない重苦しい曇天が空を覆い、辺りはまだ夜のように暗かった。
吐く息は真っ白に染まり、吸い込む空気は刃のように喉を刺す。
だが、村へ向かうメンバーは誰一人寝坊することなく目を覚まし、身体を十分にほぐしていた。
少年は出発に先立ち、砦に残る戦闘員と、老人以外の救護班の者たちに細かな防衛の指示を出す。
異変を感じたら決して討って出ず、徹底した籠城戦を敷くこと。
砦には正面入り口の他に、壁が朽ち果てて出来てしまった裏の出入り口がある。必ず二箇所に戦闘員を配置して防衛すること。
正面入り口には、分厚い装甲を持つ重騎士と、経験豊富な老騎士が物理的な壁となって受け持つ。
一方、崩れた裏口は足場が悪く、敵の侵入ルートも予測しづらい。
ここはお互いの呼吸を知り尽くしている赤髪と緑髪の兵士が主導となって、機動力を活かして死守する。
天馬兵は上空から全体の戦況を
ただし、高く飛びすぎればソンブルが放った飛行兵に見つかるリスクがあるため、あくまで砦の屋根を越えない低空を維持するようにと念を押した。
そして救護班は二手に分かれ、敵の攻撃が届かない位置から防衛陣を回復し続けること。
……もちろん、そんな事態が起きないのが一番望ましい。
だが、あの邪竜ソンブルがいつまでも大人しく見ているだけだとは、到底思えなかった。
少年の
この極限状態にあって、彼の冷静な俯瞰視点は、正規軍の将に勝るとも劣らないものになっていた。
「そっちも無茶すんじゃねーぞ」
赤髪の兵士が親指を立てる。その顔には疲労が濃く
「こうなっては『吟遊詩人殿の案がうまくいきませんでした』では済まない。なんとしても妖精の村との交渉を成功させてきてくれ」
緑髪の兵士が静かにプレッシャーをかける。彼の言う通りだ。自分たちの交渉が最後の綱なのだから。
「……任せろ。獣一匹通さん」
無骨な重騎士の言葉は、短いがひどく頼りがいがあった。彼が正面に立つというだけで、一枚の巨大な城壁がそびえ立ったかのような安心感がある。
「はわわ……私、なかなか責任重大ですねっ。頑張りますよぉ」
天馬兵はオドオドしながらも、朗らかに笑ってみせた。愛馬であるペガサスの首を撫でる手つきには、確かな覚悟が宿っている。
「ご武運を」
老騎士が端的に、深々と頭を下げた。歴戦の猛者から向けられる敬意に、少年は身の引き締まる思いだった。
出発の直前。
吟遊詩人は避難民たちが集まる大広間の五箇所ほどに薪をばらまき、魔法で「丸一日は消えない炎」を点火して回った。
指先から放たれた魔力が薪に触れた瞬間、パチパチと心地よい音を立てて暖かな光が弾けた。
もともと昨日の段階でつけていたものだが、有効時間を最大まで更新した形だ。炎の周りには、身を寄せ合う民たちがずらりと並んでいる。
「……しかし、約束できるのは一日だ。いくら天才のボクでも、これを二日以上持続させることは出来ない。つまり、キミたちには丸一日、暖のない凍える寒さを味わわせることになる。空腹とも戦いながら……それでも死にたくなければ、耐えるしかない。ここにいる全員、覚悟はできてるんだろうね?」
真面目な顔で、吟遊詩人は冷酷な現実を突きつけた。
魔法の炎が尽きる明日の朝。そこから先は、体温を容赦なく奪う冷気との戦いが待っている。
この砦の隙間だらけの石壁では、外気を遮断することなど不可能に近い。
だが、ここまで地獄を生き抜いてきた民たちに、
もしかしたら……という弱音は敢えて口にしない。絶望に呑み込まれてしまうから。
ダメかもしれない、という思考が現実を引き寄せるのを恐れ、ただひたすらに希望だけを見据えていた。
……ただ一人、すっかり元気を取り戻した例の侯爵だけが「自分に残りの食糧を全て寄越せ!」と喚き散らしていたが、当然ながら皆完全に無視を決め込んでいた。
ただでさえ全員に行き渡る食糧など、とうに尽きているのだ。
飢えに耐える子供の隣で自己の保身のみを叫ぶその浅ましさは、もはや
「自分の肉でも食ってろクズ」
天馬兵が誰にも聞こえない声でそう毒づいたくらいか。
明日、自分たちが帰還するまでは耐え忍ばなければならないのだ。
水を差さないでほしい──少年は心底から思った。
「では……出発いたします」
少年、子爵令嬢、薄緑髪の弓使い、救護班の老人、そして吟遊詩人。
砦の扉を開け、一歩外へ踏み出すと、刺すような冷風が五人を歓迎するかのように吹き抜けた。
振り返ると、砦の分厚い扉が内側からゆっくりと閉ざされていくところだった。
細くなっていく隙間から見えた仲間たちの顔が、完全に遮断される。
もう、後戻りはできない。
彼らが飢えと寒さに倒れる前に、必ず成果を持ち帰らなければならないのだ。
未知なる脅威が潜む過酷な森へ挑む、五人の旅が始まった。