少年たちは、血相を変えて家から飛び出した。
一行のみならず、男装の麗人と、ロサードの両親も一緒であった。
外に出た瞬間、肌を刺すような緊迫した空気が押し寄せてきた。
村の中はすでに大騒ぎになっていた。
突如起きた異変を前に、逃げようにもどうしたらいいかわからず、村人たちが右往左往している。
不老の呪いとも言える特殊な体質により、皆一様に若く美しい顔立ちをしているが、今その顔に浮かんでいるのは、紛れもない死への根源的な恐怖だった。
幸い、空を見上げても焦げ臭い匂いはせず、まだ村に火の手は上がっていないようだが、状況が一刻を争う最悪の事態であることに変わりはない。
村長も外に飛び出していたが、情報が足りないのか、あるいは長きにわたる平和が彼の指揮能力を鈍らせていたのか、的確な判断を下しかねている様子だった。
やがて、付き人である薄赤髪の使用人と共に湖畔へと向かっていった。
伝令の言葉だけでなく、竜の姿を直接己の目で確認してから、村人に指示を出す算段のようだ。
その時──村を守る戦士なのだろう。
儚げな容姿には似合わない無骨な斧を握りしめた若者が転がり込んできて、悲痛な声で叫んだ。
「森からこちらに、にじり寄っている! もう三人がやられた! 防衛線は突破されたぞ!」
その言葉に、男装の麗人の顔からサッと血の気が引いた。
彼女の脳裏に、小さい頃から苦楽を共にしてきた仲間たちの顔がよぎったのだろう。
彼らは、外部から来た少年たちの監視を彼女に任せ、森の警備に残っていたのだ。
「おれが、持ち場を離れたばかりに……!」
彼女はギリッと唇から血が滲むほど強く噛み締めると、我が身を省みず、斧の若者が来た森の方角へと駆け出そうとした。
「おやあ、アデルファちゃん。どこに行くのかなー? 未来の旦那様を置いて」
だが、今の彼女には、吟遊詩人の気色悪い言葉にいちいち戯れている余裕などなかった。
振り返りもしない。
「決まっている! おれも殉じなければならん! 竜を殺し、村を守る! 差し違えてでもな!」
「……なんだって?」
「命を捨てて戦うのが戦士の役目だ! おれが真っ先に死ぬべきだったのだ、呑気に食事などせずにな!」
次の瞬間だった。
目にも留まらぬような速さで吟遊詩人が動いたかと思うと。
突風のような勢いで背後に迫り、男装の麗人の首根っこを、ギリィッと骨が鳴るほどの力で容赦なく鷲掴みにした。
そこにあったのは、それまでのへらへらとした陽気な笑みではなく。
時折見せる、絶対零度の冷たい眼差しですらなく。
まさに、怒りの権化のような形相であった。
翡翠の目をこれでもかと見開き、ギリッと歯を強く噛み締めている。
額には青筋が浮かび、首を掴む手は怒りで微かに震えていた。
それを見ていた者全員が一様に驚愕した。
今までの軽薄で胡散臭い彼からは考えられないほどに、激しく、そして泥臭い感情を剥き出しにしているのだ。
「ゼ、ゼラ殿……? お、落ち着か……その……」
普段は物腰穏やかな救護班の老人でさえ、その異常な剣幕に完全に呑まれ、慌てふためくことしか出来ない。
子爵令嬢も、薄緑髪の弓使いも、今が竜の襲撃という緊急事態であることすら忘れ、完全に硬直してしまっていた。
もちろん、少年もだ。
ただ横で見ているだけだというのに、先ほど彼が子爵令嬢に槍で叩き伏せられていた時の
空気が重くのしかかり、呼吸すら忘れそうになる。
「もう一度言ってみろ……! おれが、真っ先に、なんだと……!?」
「ぐっ……ジェラニウム……貴様、いったい……」
わなわなと身体を震わせ、それまでのふざけた態度など微塵も感じさせないほどの激怒をぶつける吟遊詩人。
首を掴まれた当の男装の麗人ですら、あまりにも見慣れぬ彼の恐ろしい姿に、本能的な恐怖を抱いているようだった。
「
「……っ!」
「カッコつけるのも大概にしろよ。醜く足掻けよ。それが生きるってことだろ。自分から死んで、残されたヤツがどれだけ悲しむか……その気持ちくらい考えろ、なぁッ!」
それは、彼の奥底から絞り出された、まさに魂からの叫びだった。
過去に何があったのかはわからない。
だが、その言葉には、癒えることのない深い喪失感と絶望がべったりと張り付いていた。
怒鳴り散らすと、吟遊詩人は男装の麗人を力強く突き放した。
首を締め上げられて息苦しかったのか、男装の麗人はぜえぜえと激しく咳き込みながら地面に横たわる。
子爵令嬢がハッとして、心配そうに駆け寄った。
「……足掻いた末に、どうしようもなかったのならいいさ。でも、自分から死にに行こうとするのは違うだろ。……本当は、こうなる前に村人全部を逃がしたかったんだ。ちゃんと話したのにね、化け物が森をうろついてるよ、万が一結界を突破したら危ないよって」
「……っ、そう、だな……すまない、ジェラニウム。貴様の、話をっ、聞いておけば……」
たどたどしく、喘ぐように起き上がって片膝をつきながら、男装の麗人は謝罪した。
その目からは、仲間を失った
子爵令嬢は彼女の背中を優しく撫でたが、先ほどのように吟遊詩人を一喝するようなことはしなかった。
彼の怒りが、どれほど真摯な祈りに似たものか、皆が理解してしまったからだ。
「……僕たちも、湖畔から森の様子を見ませんか。竜とやら、この間にも村へ到達できていないということは、相当動きが遅いはずです。情報を集めて、作戦を立てましょう」
「美少年、正解だ。奴らは歩みが遅い。そこだけが唯一の弱点だ」
少年たちは、重苦しい空気を振り払うように、村長が向かった湖畔へ歩き出そうとする。
だが、今の吟遊詩人の言葉に、少年は妙な引っ掛かりを覚えた。
「……奴、
「そうだ」
もはや吟遊詩人の顔に、ふざけた色は一切なかった。
「ボクが見た異形竜は、二匹いるんだ」
*****
吟遊詩人が言った通りだった。
ズシン、ズシンと鈍い地響きを立てて、悠然と歩みを進めるその黒き姿が二つ。
それはまるで、大地の底から這い出たような、禍々しい瘴気を全身から立ち上らせていた。
徐々に迫りくる、死の宣告そのもの。
湖畔を挟んで遠巻きに見ているだけでも、その異常なほどの巨体さに圧倒される。
木々がまるで小枝のようにへし折られ、踏み荒らされていくのが見えた。
完全にこちらへ到達されれば、村の家屋など
しかも、奴らは炎を吐くという。
まだ森が燃え上がっていないところを見ると、今は火を噴いていないようだが、一度でもあの巨体から業火を放たれれば、この閉ざされた空間など一瞬で焼け野原と化す。
逃げ場などどこにもない。
城内での、人間サイズの異形兵の対策だけでも、あれだけ苦心したというのに。
あんな巨大な化け物を相手に、一体どうすればいいというのか。
──妖精の村の人々も、同じ絶望を抱いているのだろう。
森の警備に当たり、命を落とした三人というのは、恐らくこの村でも屈指の精鋭だったに違いない。
そこかしこから、震える声や、仲間の死を受け入れられない悲痛なすすり泣きが聞こえてくる。
生来の魔力によって戦闘能力が底上げされているはずの妖精という種族が、戦う前から絶望に打ち震えるほどの相手なのだ。
だが。
少年は、そんな巨大な絶望を見据えながら──
口元に、
「これは好機です」
そのひどく冷静な呟きが聞こえたのは、砦から同行している者たちと、男装の麗人だけだった。
怖れを知らぬ少年の常軌を逸した発言に、まず子爵令嬢が驚いてみせた。
「好機……?」
「そう。この閉鎖的な村に、有無を言わさず恩を売る、最大の好機です。あいつらを倒せれば、僕らは村を救った英雄になる。そうなれば村長も、嫌でも僕らの要求を呑まざるを得ません」
我ながら、酷く冷徹で打算的な思考回路だな──と少年は内心で自嘲した。
困っているから、無条件で助ける。
世界に名を馳せる勇者や、あの大いなる神竜様であれば、きっとそのような清廉で美しい思考回路なのだろう。
だが、違う。自分は英雄ではない。
主君である王女オルテンシアを、神竜軍の元へ向かわせたあの時だってそうだった。
──自分は、真に救いたい大切なもののために、他の誰かを助ける、利用するのだ。
「ま、口で言うのは簡単だけどねえ」
フッ、と吟遊詩人が皮肉げに苦笑した。
しかし、そこにいつものふざけた様子は一切ない。
吟遊詩人としての仮面を捨てた、一人の魔道士としての鋭い目つきだった。
「前に少しだけ交戦したことがあるけど、奴らは尋常じゃなく硬いよ。このボクの魔法ですら通じない。通常の武器による攻撃も、まるで歯が立たないだろうね。……さあ、そんな化け物相手に、どうやって勝とうというのかな、美少年?」
……なんという無理難題。
その対処法をこの短時間で思いつき、あまつさえ実行に移さなければならないというのか。
あまりにも厳しい話だ。
以前にも似たようなことを思ったが、戦場に立つ軍師は、人の命が懸かった盤面でこれを常に強いられているというのだから、本当に頭が下がる思いである。
だが──あの城から脱出した時とは、状況が違う。
この数日における死と隣り合わせのわずかな指示経験が、少年の奥底に秘められた才能を大きく開花させていた。
自分ならなんとかできる。そういう、根拠のない確信めいた自信すら身に付いている。
自信に、小難しい理論や経験則など必要ない。
ただ妄信的に「自分なら」と思い込むだけの度量さえあれば、人は強くなれるのだ。
「……あれの吐く炎について、どのようなものかご存じですか?」
「いいや。だが、どんな厄介な真似をしてくるのか、噂に聞いたことはあるよ。遠くへ飛ばせる炎の塊。そして周囲を薙ぎ払うブレス……。どちらも重厚な鎧や魔法結界を容易くぶち抜く、強力な代物らしいねえ」
「なんと……それでは、防御すら叶わず、誰にも勝てぬ生物なのではないですかな」
救護班の老人が、吟遊詩人の説明に青ざめる。
確かに、一切の物理的・魔法的防御が通じないというのは、絶望的な話でしかない。
「だが、美少年はそれでもこう言うのだろう? 誰も死なせない、と」
吟遊詩人の不敵な言葉に、少年は強く頷いた。
「当然です。それに──この状況。やはり天運は僕たちに味方してくれています」