オルテンシア不在のイルシオン王城は、まるで灯火が消えてしまったかのように静まり返っていた。
それでも少年は、いつか訪れる再会の日を夢見て、ひたむきに侍従としての職務に励み続けた。
同年、6の月3の日。彼女の誕生日には、同僚たちに頭を下げて回って工面し、精一杯の贈り物を届けた。
後日届いた手紙には、あふれんばかりの感謝と、熱烈な愛の言葉が
それを皮切りに、二人の間では頻繁に手紙が交わされるようになった。
日々の
『彼氏くんにも見せたいわ』
『あなたが隣にいたら、もっと楽しかったのに』
『ペガサスは女の子しか乗せないけど、可愛い彼氏くんならきっといけるわよ。一緒に乗りましょうね』
そんな言葉の後に、文末は決まって『大好きよ』という一筆で締めくくられていた。
対する少年の近況は、代わり映えのしない城内業務ばかりだ。
それでもオルテンシアは、彼がしたためる愚直なまでの愛の言葉が「何よりの贈り物」だと、手紙の中で幼子のように大喜びしていた。
時は流れ、彼女との別れから半年が経とうとする頃。学期が切り替わる直前に、さらに喜ばしい一報が城に届く。
なんとオルテンシアが、上級クラスへの飛び級を果たしたというのだ。
学園の歴史でも稀に見る快挙らしい。「愛の力で何でもできそう」と笑っていた彼女の言葉が、現実のものとなったのだ。
また、後日の手紙で、上級クラスでは「可愛い」を共有できる竹馬の友を得たとも記されていた。
名はロサードとゴルドマリー。
女性と見紛うほど着飾った少年と、自信に満ち溢れた抜群のプロポーションを持つ少女。
『友達ができたのは、彼氏くんが作り方を教えてくれたおかげね』。
そんな一文を読み、少年は自分のことのように誇らしい気分に浸った。
……しかし、届くのは吉報ばかりではなかった。
隣国ブロディアによる領土侵犯が、日に日に激しさを増しているという。
オルテンシアが先日、国境に近い町を襲撃してきたブロディア兵とやむを得ず交戦し、民間人を守りながら学園で
彼女からの手紙がある前から、城内には不穏な空気が漂っていた。
西のブロディアとの小競り合いは昔から絶えなかったが、今や本格的な「戦争」に突入したという噂が、まことしやかに囁かれている。
表向きの主張によれば、イルシオンは被害国であり、ブロディアは侵略国だ。
邪竜信仰を咎めるためという大義名分を掲げているらしいが、それだけで他国の領土を侵す理由になるとは思えなかった。
(何か、裏があるはずだ……)
少年は思考を巡らせる。
ブロディアは荒れ果てた鉱山の国だが、イルシオンは一年の大半を雪に閉ざされた極寒の地だ。
豊かな資源を求めて襲撃するなら、ブロディアの南、フィレネとの友好を破って緑豊かな土地を奪う方が合理的だろう。
そもそも、信仰を理由に剣を向けることに何の正当性があるのか。確かにハイアシンス王は、今の少年から見ても隙だらけの愚王に成り下がっている。
だが、王の行いを咎めることと、民の思想を弾圧することは別問題だ。
隣国のモリオン王は、邪竜を信じているというだけで、
そこまで考えて、少年は思考を止めた。
この国がなぜ神竜ではなく邪竜を奉じるに至ったのか、その真実を知らぬ自分には不毛な議論だと悟ったからだ。
何より、かつてハイアシンス王は、ありもしない「神竜信仰」を
(戦争なんて、誰もしてほしくない)
オルテンシアが戦いに巻き込まれたと知った時、彼の血の気は引いた。ただ無事でいてほしい。その切実な祈りだけが、今の彼を支えるすべてだった。
……しかし、そんな願いを嘲笑うかのように、事態は急転する。
更に時が流れ、オルテンシアの出発から一年が過ぎて、彼女が最上級クラスとなったばかりの5の月。
絶え間なく続いていた彼女からの手紙がふっつりと途絶えた数日後。
第二王女オルテンシアは、予期せぬ形でイルシオン王城へと帰還した。
*****
「そんな……っ」
閉ざされた寝室。一年ぶりの再会を果たした二人の間に流れる空気は、再会の喜びを置き去りにして、急速に凍りついていく。
オルテンシアが帰還した理由を耳にして、少年は底知れぬ絶望に突き落とされた。
ハイアシンス王の独断により、ブロディアとの戦争にオルテンシアを投入することにしたのだそうだ。
姉であるアイビーは、信頼厚い臣下のカゲツやゼルコバを引き連れ、すでに国境付近で待機しているのだという。
姉妹の持つ卓越した魔道の才覚を期待しての徴兵なのだろう。
信じがたいことに、彼女はその無謀な命令を嫌がるどころか、父に頼られたという歓喜に頬を上気させていた。
強引に学園を休学させられたという事実にすら、疑問を抱いていないのだ。
彼女の指に嵌められた「聖王女の指輪」。
そこから放たれる、言いようのない不吉で邪悪な気配は、直視することさえ憚られるほどに少年の心を逆撫でした。
出所を尋ねると、彼女は無邪気に笑って答えた。
それは、ハイアシンス王が密かに復活させた『邪竜ソンブル』の加護が込められた指輪なのだという。
邪竜の復活。
それは国家を揺るがす最重要機密であり、まだ公に姿を現せる状態ではないため「同僚にも絶対に漏らさないように」と、彼女は嬉しそうに少年に秘密の共有を求めてきた。
最近、城内ですれ違うハイアシンス王がひどく上機嫌で、何かの研究への没頭が過熱しているとは思っていた。
それが「邪竜の復活」に起因するものだったとすれば、すべての辻褄が合う。
「本気で……本気で従うつもりなのですか? ハイアシンス王の……ご命令に」
全身をわなわなと震わせる少年に、あっけらかんとオルテンシアは答える。
「? 当然でしょ。大切なお父様の頼みだもの。それにね、ロサードとゴルドマリーも、あたしを守るために一緒に戦ってくれるって言ってくれたわ」
竹馬の友までをも死地へと道連れにする現状。
少年は激しい
(あの愚王は……ついに、娘たちすら戦いの道具に使い潰すつもりか……!)
はらわたが煮えくりかえるような怒りが全身を駆け巡る。
そして、それを無邪気に信じ切っているオルテンシアの危うさ。
ブロディアの小競り合いを退けた程度の経験で、彼女は戦の真実を見失っている。
戦場とは、一方的に「奪う者」と「奪われる者」が血を流し合う地獄だ。
奪う側に回っている間は、奪われる者の絶望など、これっぽっちも理解できはしない。
少年は血が
オルテンシアは聡明な女の子だ。
だが、家族のこととなると、その理知は一瞬で霧散し、盲目な少女へと成り下がる。
それが彼女の美徳であり、最大かつ致命的な欠陥であった。
「……嫌だ」
「彼氏くん?」
「嫌だと言っているんだッ!!」
怒号と共に、少年はオルテンシアを
いつ彼女が帰ってきてもいいように、自ら丹念に手入れを続けてきた寝床。
それを自らの激情で汚すことに、虚しい自嘲が脳裏を掠める。少年は彼女の手首を掴み、身動きを封じるようにして覆い被さった。
「い……痛いわ。な、何を……何でこんなことするの。あ、あはは……」
愛する男からの予期せぬ激昂に、オルテンシアの顔に困惑が広がる。
必死にいつもの愛想笑いを作ろうとしているが、その瞳の奥には隠しきれない怯えの色が滲んでいた。
(今、鏡を見れば、僕の顔にはかつて以上の邪悪が宿っているだろうな)
故郷を焼かれたあの日の憎悪が、今、目の前の王女へと向けられようとしていた。
「あ……ああっ! そ、そっか。彼氏くん、
おどけて見せるその仕草に、少年は一欠片の愛おしさも感じなかった。
父への盲愛で目を曇らせているその浅ましさに、いっそ、あの日果たせなかった復讐をここで完結させてしまおうかという衝動が首をもたげる。
愚王の
頑として不毛な徴兵を突っぱねる強さはなかったらしい。
しかし、妹に執着するあの女もここにはいない。
このまま彼女を戦場という名の屠殺場へ送り出すくらいなら。
今この手で愛する彼女を絞め殺し、すべてを「美しい思い出」として凍結させてしまおうか。
「……寂しかったのよね? あたしがいなくて。ごめんね、彼氏くん。一回愛し合いましょ。ね?」
あまりにも的外れな誘い。
寂しかったのは事実だ。だが、それは彼女が学園で輝いていると信じていたからこそ耐えられた「誇りある痛み」だった。
今、目の前にいるのは、戦火に身を投じることを喜ぶ一人の犠牲者に過ぎない。
「……脱がしてあげますよ。久しぶりに、ね」
「あっ、待って、彼氏くん──」
制止を無視し、手際よくドレスを剥ぎ取っていく。
指先は残酷なまでにその手順を覚えていた。
「あ、あはっ……その、あたしが脱がしてあげるってば──」
少年はそれを遮り、乱暴に自らの衣類を脱ぎ捨てた。
そこから始まったのは、愛の交歓などでは決してなかった。
かつて二人が分かち合った、あの微笑ましくも初々しい光景など、欠片も残されてはいなかった。
具体的に行われた内容はR-18版に記載されています。