砦へ届ける二百人分の物資の用意が出来るまでには、明日の早朝まではかかるという。
その間、村人たちが公言通り『十日分の保存食』を徹夜で作り上げてくれるため、少年たちはそれまで村で休んでいろと申し渡された。
少年や子爵令嬢は手伝うと表明したのだが、「村を救った英雄の手を煩わせるわけにはいかない」と固辞され、結局手伝うことは出来なかった。
気が付けば、もうすっかり日は落ちていた。
村人たちは今も尚、広場や各家で食事を作ってくれているが、少年たちはロサードの両親の厚意の下、彼らの家に泊めてもらえることになった。
彼らもまた、あくせくとパンを焼いたり、日持ちする干し肉などを作ったりしてくれている。
「あの、妖精の方々の食事は大丈夫なんですか? 学園までついてきてくださるんですよね?」
ふと気になった少年は、ロサードの両親に尋ねた。
村人が総出で来るとなると、ぱっと見た感じ、砦の二百人よりも遥かに多い。食糧を消費する隊が倍以上に膨れ上がってしまう。
しかし、二人は笑って答えた。
「あはは。大丈夫だよー。みんな、自分たちの分もちゃんと別で作ってるからねー」
「妖精と言っても、私たちだって普通にお腹は空きますからねえ。いくら食べても見た目が変わらないだけですよ」
まさか彼らが自分たちの分の食糧までかなぐり捨てて砦に運ぼうとしているのではないかと危惧していたため、少年は心底
しっかり己の分も用意しているというのなら問題はない。
食糧を提供してくれるだけでもありがたいのに、まさか戦力として、護衛の援軍にまで名乗り出てくれるとは思わなかった。
確かに砦で、吟遊詩人は『戦力も欲しい』と言っていたが……。
「……そういえば、ゼラさんは?」
「さあ? 言われてみれば、昼間から見てないわね。どっかでお散歩じゃないの?」
子爵令嬢も見ていないという。
そう、少年の「自分はイルシオン王族に連なる者」というあの大発言のあたりから、彼の姿を見ていない気がするのだ。
居るだけで騒がしい男で、真面目な時もふざけるのはやめてほしいと常々思うものの、いざ居なくなったら居なくなったで、少し調子が狂うものだ。
「しっかし……君。なかなか凄い暴露をしたものね。あれ、もう絶対後戻り出来ないわよ」
第二王女と少年の関係を前から知っていた子爵令嬢が、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてつつく。
少年自身、妖精の村の確執をなくすための勢いとはいえ、とんでもないことを公言してしまったなと思い返し、今更ながら顔を赤らめていた。
──これを、オルテンシア様が知ったらどう思うのだろうか。
『何てことを勝手に宣言してくれたのよ! 馬鹿じゃないの!』
と言って顔を真っ赤にして、ぽかぽかと叩いてくるか。
『えへへ……嬉しい。そう公言したからには、もう一生逃がさないからね?』
と言って、はにかんだ満面の笑みを浮かべて抱きしめてくれるのか。
どちらにせよ、彼女のことだ。
あの宣言に対して、どうにも本気で怒ったり悲しんだり、関係そのものを否定したりする姿だけはどうしても思い浮かばなかった。
「ライラ殿……知っておられたのですかな?」
未だに信じられないといった様子で、救護班の老人が尋ねる。
「侍従仲間の間では、割と周知の秘密だったんですよねー。彼、よくオルテンシア殿下のお部屋に呼ばれていましたし」
「ちょっと、ライラさん! 赤裸々に話さないでください!」
「いいじゃない。オルテンシア殿下の伴侶になるんでしょ? そうしたら、これから大手を振って一緒にいられるんだから」
からかうように子爵令嬢が肩を突いてくる。
顔が熱くなり、何も言い返せなくなってしまう少年だった。
「只者じゃないとは思ってましたけど……すごいですね、伴侶って! でも、あなた自身は僕と同じ平民なんですよね? 平民の希望です、希望!」
薄緑髪の弓使いは、なぜか自分のことのようにニコニコしている。
「いや、僕はナスタ君の方が羨ましいよ。君みたいな弓の腕どころか、まともに剣を振る筋力すらないし」
「いやいや。僕にはあなたみたいに、あんな凄まじい作戦を立てる頭脳なんてないんですよ。ないものねだりってやつです」
目を輝かせる薄緑髪の弓使い。
少年的には圧倒的な「武力」の方が喉から手が出るほど欲しいのだが、こうして素直に褒められて、悪い気はしなかった。
「……オルテンシア王女殿下も、やはり血は争えぬということなのでしょうかな」
不意に、救護班の老人が静かな声でそう言った。
「どういうことですか?」
「おや、聞いておられないのですかな。殿下の母君は既に亡くなっておられるのですが──」
「ああ、それなら知っています」
正しくは、オルテンシア本人から直接聞いたわけではなく、少年が復讐のために城の噂をかき集めて辿り着いた情報だ。
彼女は七歳で母を失い、後ろ盾もないまま、自らの愛嬌と
ハイアシンス王に復讐を誓って彼女を暗殺しようとしていたが、その必死に生きる姿を知ってしまったことが原因で、どうしても殺せなくなり──結果として、愛してしまったのだ。
「母君がその……側室であったことも、知っておられると」
「はい」
アイビーの実母である正妻からひどく苛め抜かれていたが、持ち前の愛嬌によって、最終的にはその正妻からの信頼すらも勝ち取ってみせた人物。
だが、その心労が祟り、幼い娘を置いて亡くなってしまった。
顔も知らないし、会ったこともない。
しかし、きっと今のオルテンシアに似て、とても可愛らしくて気丈な人だったのだろうと推察できる。
「では、彼女が……もともと平民の出であり、軍師殿と同じように城の『侍従』であったことは?」
「えっ」
初耳だった。
少年が城の隅々まで嗅ぎ回って集めた噂でも、オルテンシアの母親が「平民の侍従」であったことなど、一切話題に上らなかったのだ。
侍従としては少年より少し先輩であるはずの子爵令嬢すら、この話は初耳だったらしく、驚いたように目を瞬かせている。
当然、十年以上侍従を務めている次期侍従長などは知っている事実なのだろうが……。
「侍従を愛する。ハイアシンス陛下と同じだ、と思いましてな」
老人は数奇な運命の巡り合わせに目を細め、白髭を揺らして朗らかに笑ってみせた。
身分違いの恋に落ちた若き二人の姿に、かつての主君の、まだ狂気に飲まれる前の幸せだった頃の面影を重ねているようだった。
「かつての陛下は、身分問わず側室を迎えるお方でしてな。正室同様に深く愛されておりました。よく覚えておりますぞ。幼き日のオルテンシア殿下を抱き、三人で中庭で微笑ましく戯れていた日々を。今のイルシオン王城の惨状を知れば、さぞかし陛下は嘆かれることでしょう……」
幼き日の記憶が曖昧ではあるが、「ハイアシンスが好色であり、多くの女を侍らせていた」というのは、復讐を誓う前の少年も知っている情報だった。
だからこそ、周りにいる王族の女子供を全て、あるいは可能な限りこの手で殺してやると誓ったのだ。
だが、あの愚王が、平民出の側室すら分け隔てなく愛していたというのが、正直信じられない。
少年が城で時折すれ違う時の王は、そんな人間らしい愛情など微塵もなく、ただただ何かに──邪竜という狂気に──とり憑かれている不気味な姿でしかなかったからだ。
しかし、老人の話を聞いて、一つ腑に落ちることもある。
アイビーやオルテンシアが、なぜあそこまで父を信じ、命じられるままに戦地へ向かったのかという理由だ。
かつての優しい父の幻影に縋っているのだとはわかっていたが、彼にも、本当に家族を愛する「まともな時期」があったということなのか。
『邪竜を奉じる我が国は、他国から恐れられ、ひどく
そう言えば。
多忙な城での日々や、復讐心に塗りつぶされてすっかり忘れていたが。
かつて少年の平和な故郷の村へ視察にやってきた時、ハイアシンス王は静かな笑みを浮かべて、そんなことを言っていた気がする。
その数年後に村を焼き払われた少年は、あれは全て嘘偽りの演説だったのだと断じた。
ハイアシンス王は狂った愚王で、侵略と戦争しか頭にない野蛮な悪魔なのだと。
しかし、こうして断片的に聞かされる情報の中には、少年の持つ「絶対悪」のイメージを否定する過去があるのも事実だ。
もうとっくに、ハイアシンスは死んでいる。邪竜ソンブルに、その身を無惨に噛み砕かれて。
だが今、自覚した。少年の中に、今まで全く存在しなかったはずの感情が芽生えていることを。
──ハイアシンス王が、狂気に堕ちる前。かつてどんな人物だったのかを知りたい。
*****
更に夜も更け、仲間たちが次々と寝静まる中、少年はどうしても寝つけずにいた。
昼間の大作戦を成功させた高揚感が、まだ身体の奥から抜け切っていないせいか。
あるいは、先の見えない盤面に考えを巡らせすぎているせいなのか。
ベッドで横になっていても落ち着かないため、今も明日以降の料理を用意してくれているロサードの両親に断りを入れて、外へ出ることにした。
激しい戦いがあったことなど嘘のように、湖畔は夜の月に照らされ、静かな美しさを湛えていた。
優しい風が頬を撫でる。
夜だというのに温かく、大自然に全身を包み込まれているような感覚さえ覚える。
──とても、いい夜だ。
常冬で、一年のほとんどを雪に閉ざされるイルシオンに居るとは到底思えない。
愛するオルテンシアと共に、いつかここへ来たいとさえ思えた。
戦いが終わったら、新婚旅行はここがいいかもしれないな。そんな呑気なことすら考えた。
しかし、すぐに嫌な思考が脳裏を過る。
朝になれば、砦に吟遊詩人が残した『一日は消えない炎』は完全に消失してしまう。
ここと違って、ロビュスト砦の周囲は命を削る過酷な寒空の下だ。
彼らの体力は耐えられるだろうか。
全員生存の作戦は、本当に叶うのだろうか……。
「おや、美少年。キミも外に来ていたとはねえ」
不意に、背後から声をかけられた。
足音すら立てずに現れたその気配の無さに少年が肩を揺らして振り返ると、そこには見慣れた男が立っていた。
月明かりの下でも隠しきれない、
ずっと家に戻ってきていなかった吟遊詩人であった。
彼は少年の隣へ歩み寄ると、長い足を組んでベンチの端へと腰を下ろした。
「みんな心配していたんですよ。ゼラさんがいないと寂しいって」
「おや! ライラちゃんも!? それは天啓に等しいね、今すぐ夜這いをしかけないと! 結婚するんだい!」
「……本心じゃないくせに」
大袈裟に両手を広げて喜ぶ男の態度の裏を、少年が呆れたように見抜いてみせる。
すると、吟遊詩人はおどけたポーズをスッと解き、フッ、と静かに微笑した。
そこにはいつもの騒がしさはなく、どこか大人びた落ち着きがあった。
二人は並んでベンチに腰掛けたまま、月光が宝石のように反射する静かな湖畔を見つめる。
風が吹き抜け、木々の葉が擦れる音だけが二人の間を通り過ぎていった。
「キミは本当に素敵な美少年だ。生きることへ執着し、皆を生き延びさせるのだと真っ直ぐに言って、それを本当に叶えてしまう。きっと、砦で待つ皆の命も救ってしまうのだろうね」
湖面を見つめたまま、吟遊詩人はまるで自らに言い聞かせるように、あるいは叶わなかった自らの理想を少年に重ねるように、優しく穏やかな声で呟いた。
「……あの。プロポーズの前段階じゃないでしょうね。お断りですからね」
「酷いなー! ボクだって真面目に言ってるんだぞ、プンプン!」
わざとらしく頬を膨らませて抗議してくる姿を見て、少年は小さく苦笑した。
今の穏やかな言葉は本心だったはずだが、日頃の行いが悪いせいで、どうしても素直に受け取りきれない。
「……ゼラさんのお父様は、どうして協力してくれないんですか?」
少年は、ずっと心に引っかかっていた疑問を真っ直ぐにぶつけた。
強力な私兵と物資を持つという辺境伯が動いてくれれば、どれだけの人命が救われるかわからないのに。
「すまないが、美少年。ここまで言っておいてなんだけど、それ以上をキミたちに話すことは許されていない……というか、勇気がないんだ。本当にごめんな」
短く謝罪した吟遊詩人の横顔に、いつものふざけた態度は微塵もなかった。
目を伏せ、唇を固く結んだその表情には、口にできないのっぴきならない事情がある。
少年は、今はそう納得するしかなかった。
「だが、ボク個人は違うんだ。ボクはクレマチス辺境伯の息子としてではなく、ただの流浪の吟遊詩人『ゼラ』として、キミたちを救いたい。たとえ、父の意向に背くことになってもね」
「……どうして」
少年は思わず聞き返した。
それは、辺境伯の嫡男という彼の立場からすれば、極めて危険で不利益な行為のはずだ。
見ず知らずの他人のために、そこまでのリスクを負う理由がわからない。
「可愛い子がいっぱいだからねー。守ってあげたくなるってのが男の性ってやつ? 愛しのハーレムを作るためだよん」
彼はこちらを見ずに、いつも通りの軽薄な言い回しで肩をすくめた。
だが、その声のトーンにはひどく空虚で、どこかキレのない響きが混ざっていた。
明らかに、本心を隠すための嘘の鎧だ。
「……それよりも、安心したよ。キミの伴侶になる王族ってのは、第二王女のオルテンシア様の方なんだろ?」
急に話題を変えられ、少年は不意を突かれた。
「あっ、そうですけど……」
「本当に良かった」
安堵したような、深い吐息。
だがその直後。
少年は、見てしまった。
「──アイビーのような下衆を選んでいるのなら、キミを殺さなきゃいけなかったところだ」
月光に照らされた彼の
対象を完全に切り裂き、呪い殺すような、底知れぬどす黒い殺意が確かな炎として灯っていたのを。