その一刻ほど前に、時は
吟遊詩人が出立前に残していった『一日は消えない炎』が、今朝方ついに消え失せてから三刻。朝の冷え込みは厳しかったが、正午に近づくにつれて僅かに気温が上がってきたのは幸運であった。
軍師を務める侍従の少年はきっと、持ち前の弁舌で妖精の村の者たちの心を動かし、今頃こちらへ食糧を運んでくれている最中に違いない。砦で待つ皆が、そんな希望を抱きながら耐え忍んでいた。
吟遊詩人が残してくれた僅かな食糧や、兵士たちが残していた携帯食が底を尽きてしばらく経つ。それでも「今日の昼から夕方には腹を満たせる」と考えると、不思議と我慢ができたのだ。
あれだけ「自分を最優先にしろ」と喚き散らしてうるさかった例の侯爵も、あまり騒ぐとかえって空腹に響くことを学習したのだろうか。当初とは打って変わって、大人しく身を縮めている。
男手を使った付近の川への水汲みなどにこそ参加しなかったものの、無闇に怒鳴り散らす者がいないというだけで、人々は確かな安息を得られた。急に静かになって不気味だ、と
それでも、体力のない老人や子供の中には、寒さで凍えて死にそうだと訴える者もいた。
イルシオンは現在9の月。
厳冬の到来にはまだ間があるとはいえ、
そんな極限状態の中、救いの手を差し伸べる者がいた。
幼き双子の侍従たちだ。
彼女たちは、あの軽薄な吟遊詩人が少年と共に妖精の村へ出発するまでの僅かな時間を利用し、魔法を教えてくれるよう頼み込んでいたのだという。
それを吟遊詩人はあっさりと快諾し、妹の方に攻撃魔法を、姉の方に回復魔法の才覚を見事目覚めさせることに成功したらしい。
本職の魔道士や杖使いに比べれば当然、覚えたてである彼女らの放つ魔法は儚げで頼りない。
それでも、妹が民の力になろうと、凍える老人や子供に
怪我人たちが傷の痛みに
痛みを堪える大人たちの間で一生懸命に杖を振るう彼女の姿は、治療を受ける怪我人だけでなく、周囲に漂う陰鬱な空気をも柔らかく解きほぐしていった。
そして彼女たちの慈愛は、周りから煙たがられている例の侯爵にも、等しく向けられた。
しきりに寒がり、顔を青ざめさせて言葉も発せない彼を無視することなく、妹は小さな火で温めにいった。
姉は彼が逃亡劇の最中に負った傷──天馬兵に後頭部を殴られたり、老騎士によって馬から投げ捨てられたりした痛み──を、他の救護班が治療を
そんな幼子二人の無償の献身に、思うところがあったのだろうか。
侯爵は礼こそ口にしなかったものの、その目にそれまでのような不遜な光が宿ることはなかった。
……さて、見張りの状況だが。
正面の入り口は無骨な重騎士と老騎士。
朽ちた裏手の出入り口は赤髪と緑髪の兵士が、それぞれ交代で仮眠をとりながら警戒に当たっている。
何かが近づけばすぐに気づけるよう、天馬兵も自身の体力と相談しながら、定期的に砦の上空から周囲を確認していた。
少なくとも、今は異変が起こっている様子はない。
「……ガランサス殿。そろそろ交代いたしませぬか」
白馬と共に正面入り口に立っている老騎士に、重騎士が声をかけた。
日が昇って少しは暖かくなってきたとはいえ、雪がちらつき始めていて尚寒いというのに、老騎士の背筋は伸び、震え一つ起こしていない。
「ご苦労様です、カラバッシュ殿。うちのかあさんはどうしていますか」
老騎士は、砦の中で休ませている愛妻の身を心配した。
気丈な女性ではあるが、老体ゆえの無理が祟っているのではないか、と。
「眠っておられます。気丈な方ですな。腹を空かせて凍えているでしょうに、泣き言一つ口にされる様子もない」
「ほっほっほ。かあさんは元から食が細いですからな。それに『騎士の妻に恥じぬよう振る舞いたい』と常々口にしておりました故。それで身体を壊したら元も子もないと、いつも言っているのですがね」
老騎士は目尻の
長年連れ添った彼女に対する、深い愛情がそこにはあった。
「……あの少年は、今頃、帰路の途上でしょうか」
「疑っておられるのですか? 村との交渉が決裂し、手ぶらで帰ってくるのではないかと」
老騎士の問いに、重騎士は静かに首を横に振った。
「いえ。あの少年には不思議な魅力があります。我々を絶対に死なせないという強い意志……彼ならば本当にそれを実現させてしまうのではないかと、そう信じたくなる魔力と言いますか。そんな彼が約束を違えるなどありますまい。必ずや吉報を持ち帰っていることでしょう」
重騎士の断言には、老騎士も全くの同意見だった。
同意を示すように深く頷き、二人で遠く、彼が向かった森の方向を見つめる。
……と、その時だ。
天馬兵が上空から慌ただしく降りてきた。
「どうした、バニラ?」
「はわわ……カラバッシュさん。何かが近づいてきてますよぅ」
彼女は、妖精の村の方向とも、王城の方角とも違う方向を指さした。
最終目的地である『学園』の方角……もっと正確に言えば、吟遊詩人が口にしていた「近隣の村々」がある方角だ。
重騎士の斧を握る手に力がこもり、老騎士もまた剣の柄に手をかける。
まだ少年は帰還していないが、ついに異形兵の追手に追いつかれてしまったのではないか。
張り詰めた緊張が走る。
しかし、それにしては様子が変だった。
まず、邪竜ソンブルが追手を差し向けたのなら、城の方角から来ていなければおかしい。
だが実際に現れた人影は、確かに城とは違う方角から現れていた。
そして。
その人影は、たった一人だった。
重々しい甲冑に身を包み、ほんのり雪が積もっている道を、一歩、また一歩と重い足取りで踏みしめて歩いてくる。
やがて、その表情がはっきりと見えた時。
重騎士は思わず声を上げた。その顔に、見覚えがあったからだ。
「……貴様、ローダンではないか?」
ローダンと呼ばれた男は、三人から少し距離を置いた位置で立ち止まり、
「お久しぶりです、カラバッシュ殿。ご健勝で何より」
「はわわ……お、お知り合いなんですか……?」
薄茶髪をセンター分けにしたこの男の顔を、天馬兵は見たことがなかった。
というより、重装兵は皆似たような無骨な鎧を身につけており、兜で顔を隠している者も多いため、彼女にはほとんど見分けがつかないのだ。
無骨な重騎士は、視線をローダンから外さぬまま手短に説明した。
イルシオン重騎士団の末端であり、実績もそう多くないはずの男なのだが、ハイアシンス王の命により何故か一個小隊を貸し与えられ、数か月前に行われたフィレネへの進軍を指揮したのだという。
「……ええ、とても大変でした。私に貸し与えられた兵は正規兵ではなく、異形兵でしたので。その時はまだうまく指揮も出来ず、神竜に敗北を喫し……」
イルシオン王国軍が異形兵を兵器として運用しているという事実は、一般の民には極秘の情報であったが、重騎士と天馬兵は知っていた。
あくまでも「国を守る戦力であり、イルシオンの民の敵になることはない」とハイアシンス王から説明されていたからだ。
もっとも、ハイアシンス王自身が邪竜ソンブルに噛み砕かれたという顛末を少年から聞き、現在進行形でその異形兵の群れから命からがら逃げている彼らは、あの王の言葉が全て嘘だったのだと既に悟っているが。
「それで、今まで何をしておられたのでしょう。フィレネにて神竜の軍勢に敗北して生き延びていたのなら、何故、
老騎士の口調は穏やかだった。
しかし、剣の柄にかけた手を下ろす気配はない。強い警戒を保ったままだ。
ローダンの様子を見て、重騎士もまた強烈な違和感を覚えていた。
この男がフィレネへ向かって以来、生存も死亡も判然としていなかったのだ。
もし神竜の軍勢から温情をかけられ、生きて帰ってきていたのであれば、城でその姿を見かけていてもおかしくはない。
作戦失敗の咎を問われ、死をもって償わされることを恐れて身を隠していた可能性はある。
しかしそれならば、異形兵がそこかしこを
思考を巡らせた重騎士は、そこで『とんでもないもの』に気が付いてしまった。
ローダンの鎧が、大きくひしゃげ、ひどく焦げている。
明らかに、強力な火炎魔法の直撃を受けた致命傷の痕に違いなかった。
重装兵は、物理攻撃にこそ鉄壁の誇りを持つが、魔法攻撃には滅法弱い。
分厚い鎧を着込んでいるがゆえに、熱が逃げず、その凶悪な炎を前に生き延びられるはずがないのだ。
なにせ、砕けた鎧の隙間から覗く彼の肌──。
それもまた、炭のように黒く焼け焦げているではないか。
……重騎士は無言のまま、再び戦斧と大盾を構え直した。
「どうしましたか、カラバッシュ殿。何故……そんなに警戒しておられる?」
「……どういうことだ。異形兵というのは、意志を持たぬ化け物なのではなかったのか?」
真相に辿り着いたと確信し、額から嫌な冷や汗を垂らす重騎士。
「へ……?」
そんな彼の唐突な言葉に、天馬兵が素っ頓狂な声を上げた。
「い、いぎょうへい……? ローダンさんが、ですか?」
「この男は、先のフィレネ侵攻で神竜たちに討たれたのだ。その全身の魔法傷が如実に証明している。そうだろう、ローダン? 貴様はとうに死んでいるはずだ」
鋭い切っ先のように、斧をローダンに向ける重騎士。
何を言われているかわからない、と驚愕の顔を作っていたローダンだったが。
徐々にその表情から温度が消え失せ、冷え切っていき。
やがて、ククク……と喉の奥を鳴らして笑い始めた。
「あー……だからなのかあ。どおりで、ずいぶんと身体が軽いと思ったんですよ。フィレネの姫がですね、紋章士の力を使って、凄まじい炎で私を焼いてきたんです。確かに、あれで生きていたらおかしいですよね。そうか、私は……異形兵だったんだ……」
狂ったように笑い声を上げながら、己の死を
つい今しがたまで本当にそれに気が付いていなかった、とでも言うかのような狂気的な口ぶりだった。
何故、異形兵でありながら自我を保っているのかは不明。
しかし、怪物であることに変わりはない。明確な『敵』だ。
老騎士はすぐさま砦の中へと駆け込んだ。
今仮眠をとっているであろう緑髪の兵士や救護班たち、そして裏手を守護している赤髪の兵士に、襲撃の事実を伝えるためだ。
「だからなんですね……。ヴェイル様の意志に背かんとする貴様らを……貴様らを! 速やかに排除しなければならないと考えるのは!」
ローダンは、大きく息を吸い込んで。
人間の声帯から発せられるとは思えぬ、おぞましい大音量で絶叫してみせた。
思わず盾と斧を落とし、耳を塞ぐ重騎士。
天馬兵もまた、悲鳴を上げて耳を塞いでいた。
その瞬間。
あちらこちらからどす黒い瘴気が噴き上がると共に、ローダンの背後の雪原に、無数の異形兵が湧き出した。
馬を駆る者。飛行生物に跨る者。重騎士。歩兵。魔道士。
視認できるだけでも、砦の防衛戦力を圧倒する絶望的な数だ。
「何故、あなたがたがこの砦で呑気に休めていたかは意味がわかりませんが! 全員殺してしまえば同じこと! さあ、死んでくださいカラバッシュ殿! 我が主君、ヴェイル様と! その父君にして神、邪竜ソンブル様のために!」