「ごふっ……アンタ、ゼラ……?」
砦で出会った日、老女にも幼女にも、もちろん天馬兵の自分にも見境なく口説きまわった軽薄な吟遊詩人。
夢でも幻でもない。走馬灯だとすれば、こんな男に抱きかかえられているなど、嫌すぎる。
天馬兵は、彼に抱きとめられたまま地上を見下ろした。
そこには、金糸のような髪を揺らし、今しがた絶大な風魔法を放った魔道士の異形兵へ果敢に槍で突撃していく侍従の女と。
そんな彼女を狙おうとしている弓の異形兵を数体、瞬時の早業で的確に射抜いた薄緑髪の弓使いと。
その背後で、
そして、敵に狙われない位置取りから叫ぶ、二百人あまりの命綱である少年がいた。
「妖精の村のみなさん! 力を貸してください!」
少年の号令に応じ、
──綱渡りのような交渉、成功したんだ。
天馬兵は幸運な女だった。常に自分の望む結果を手繰り寄せてしまう星の下に生まれている。さすがに今回ばかりは見放されたかと思ったが、彼女の悪運はまだ健在だったらしい。
「……アタシの趣味、まだ続けさせてくれるのね。ありがとよ、少年……」
吟遊詩人に聞かれていることなどお構いなく、天馬兵は『本性』のままぼそりと礼をこぼした。
救護班の老人が振るった杖の力により、遠く上空にいる彼女の身体が温かい回復の光に包まれていく。他者からの施しを内心ひどく嫌がる彼女であったが、この時ばかりはあの老人に感謝していた。
やがて、風魔法の挙動を緩めて、吟遊詩人はふわりと雪原に着地した。
「バニラさん! 無事ですかッ!?」
群がる異形兵を薙ぎ倒しながら、白馬に跨る老騎士が傍に駆け寄ってくれた。重騎士は入口へ侵入されぬよう、持ち場へ戻って防衛線を維持しているようだ。
風魔法によって切り刻まれた天馬兵。彼女の愛馬もすぐに地面に降り立ち、心配そうに
「……ゼラ殿。よくぞ帰ってきてくださいました。交渉は──」
「もちろんあの通り、バッチリ成功さ。美少年に感謝だね」
重騎士の言った通りだ、と老騎士は安堵の微笑みを浮かべた。
あの少年には魔力がある。約束を違えず、吉報を持ち帰ってきてくれる。
前進し、果敢に異形兵を討っていく妖精の村民たちの戦闘能力は想定以上だ。
それに、彼らの背後に控える荷馬車の山。あれ全てに食糧が積んであるというのなら、十日どころかひと月は生き延びられるのではないだろうか。
経緯はわからずとも結果がすべてを語る。
それほどの信頼を、少年は見事に勝ち取ってきたに違いない。
「感謝といえば……バニラちゃん。キミもボクに感謝しないといけないね。エクスカリバーを受け、墜落死しそうになっていたのを助けたのはボクだ。そう、これは運命だったんだよ。ボクがキミをお姫様抱っこするのは必然だったんだ」
砦で出会った日も、運命だの陰謀だのと意味のわからないことを抜かしていた軽薄な男。
痛みの引いた天馬兵の身体には今、彼の顔面を思いっきりぶん殴れるほどの力が満ち湧いている。
(……でも、こいつ、こういうじゃれ合いが好きなんだろ。殴ってもこいつにとっちゃ普通の反応だ。思い通りになるってのは、なんか面白くねーな……)
天馬兵は、あらぬ命令を下すような上官をこれまで鉄拳で制裁してきた。それが最も有効な解決策であり、何より「処断されるか否か」のスリルを楽しむのに適していたからだ。
だが、この吟遊詩人にそれは通用しない。殴ったところで、それを至上の悦びとしてしまいそうな底知れぬ男だ。
ならば……と、天馬兵は瞬時に策を練った。
「はわわ……おっ、お礼が欲しいんですか? 仕方がないですねー……はい、ゼラさん、チューですよ」
「え、ええっ……い、いいのかい?」
全く予想していなかった反応に、逆に焦ってしまう吟遊詩人の姿を見て、天馬兵は内心「あーやっぱアレ全部、演技なんだわ」と理解した。
しかし、一度制裁を加えてやろうと沸き立った感情には、もはや歯止めが利かない。
天馬兵は吟遊詩人に抱きかかえられた姿勢のまま、彼の首に腕を回してしがみつき、その唇に吸い付いた。
(食らいやがれ! スケコマシ野郎!)
天馬兵は、自分の喉の奥に溜まっていたもの──血痰をくちゅくちゅと口内に溜め込んだ後、勢いよく吟遊詩人の口の中へ、弾丸のように吐き出した。
「ほごおおおっ!?」
不意打ちのように喉の奥へ直撃した生暖かい衝撃。思わぬ汚物攻撃に吟遊詩人は激しく体勢を崩し、抱えていた天馬兵を地面に取り落としてしまう。
「いてっ」
そうなることを予期して、彼女は器用に雪の上で受け身を取った。すぐに立ち上がり、愛馬に近寄って「ごめんねーディートバ。大丈夫だった?」と何事もなかったかのように声をかける。
吟遊詩人は激しく咳き込んで、喉の異物を地面に吐き捨てた。赤黒い血痰が、浅く積もった雪を汚す。
「あ、あの……バニラさん? 今のは……」
老騎士は、目の前で何が起きたのか全く理解できないという様子で
「おお……おお……これもなかなか刺激的だ。こんなことしてきた女の子は初めてだよ……」
(だろうな。二人もいたらそっちの方がびっくりだわ)
雪の上に四つん這いになりながら、恍惚とした表情を浮かべる吟遊詩人に、天馬兵は呆れ果てた。
「はわわわ……ご、ごめんなさいぃ……なんか、うまくいかなくてえ……」
何がうまくいかなければキス中に血痰を吐き込むというのか。
自分で言っておきながら、天馬兵は吹き出しそうになっていた。
「んんー、キミの小動物のような愛らしさも、獣の如き本性も……全てがいじらしい。これは結婚だ。ボクが最大の理解者となろう。先程思わず吐き出してしまったが、愛の証としてボクの中に受け入れるべきだね。今からでも遅くない、呑み込んであげよう──」
「やめろ! 気色
鈍い音が炸裂する。
老騎士に見られていることなどお構いなしに、天馬兵は『素』の声音で叫ぶと同時に、吟遊詩人の顔面を思い切り殴り飛ばしていた。情けない声を上げて、吟遊詩人は目を回しながら浅雪に向かって倒れ込む。
(ダメだこいつ、何しても喜んでしまう……)
天馬兵は心底疲れたようにため息をついた。
老騎士は、やはり目を丸くしたまま、一部始終を何が何だかわからぬまま見守るしかできなかった。
そんな茶番を繰り広げている間に。
帰還した新たな戦力と、重騎士たちの奮戦、そして何よりも妖精の村の民の怒涛の加勢により、正門前に群がっていた異形兵たちは騎兵も飛行兵も含め、あっさりと鎮圧されてしまったのだった。
*****
「聞こえたかい、グラディオ?……おそらくあの少年、妖精の村との交渉を大成功させたみたいだ。食糧どころか戦力まで引き連れて来たと見たね」
「へへっ、そりゃあすげえ。ガランサスさんの言った通りだ。さすがは俺らの軍師様ってトコだな」
裏口で死闘を繰り広げる騎兵二人の耳は、正門から響き渡る
『こうなっては「吟遊詩人殿の案がうまくいきませんでした」では済まない。なんとしても、妖精の村との交渉を成功させてきてくれ』
緑髪の兵士は、使者として五人が出発する際、少年にそうプレッシャーをかけた。
信じていないわけではなかった。
だが、もしものことがあればすべてが終わるという極限の恐怖が、彼を冷徹な言葉へ突き動かしていたのだ。
しかし、侍従の少年は間違いなくやり遂げた。新たな戦力を引き連れて戻ってきた以上は、当然、喉から手が出るほど求めていた食糧も一緒であるということ。極限状態の中、空腹を抱えて戦い抜いた甲斐があったというものだ。
「……んで。俺らはどうやって、この現状を切り抜ければいいんだ?」
馬上から、裏口を背に敵と対峙する赤髪と緑髪。正面には、重厚な甲冑に身を包んだ重装兵が、十はくだらぬ数で立ち並んでいた。
軽装の異形兵や魔道士、弓兵などは苦心しながらもなんとか処せた。
だが、この重装兵たちだけはどうにもならなかった。二人の持つ剣や槍では、その分厚い装甲をぶち抜くことができなかったのだ。
せめて、鎧を切り裂くことに特化した『アーマーキラー』を所持していれば。あるいは、装甲を無視して内側を灼く魔法の武具さえあれば。
しかし、無い物ねだりをしたところで現実は変わらない。彼らは今、圧倒的に不利な状況を押し付けられている。
「そうだローレル。お前、さっさと正門に行って報告してくれよ。その間に俺が、こう……滅茶苦茶なパワーに目覚めて、鎧ごとこいつらを粉砕してやるからよ」
「いやいや。私はね、今とてもお腹が空いているんだ。今夜は『重騎士のからあげ』を独り占めするつもりでね。きみの分はない。だから、きみが行くべきだよグラディオ」
お互いに「ここは自分に任せて逃げろ」と言って聞かない。
一人になった瞬間、残った方は太刀打ちできずに力負けするだろう。
二人で力を合わせてようやく攻撃をいなせる現状だが、それも時間の問題だった。物理的な質量に、押し負けようとしている。
「なんだよ重騎士のからあげって。俺の分は残しとけよ」
「残念だけど、突然力に目覚めるのは英雄譚の主人公だけだ。きみにはそんな風格はないよ」
重装兵たちが、一歩一歩、地鳴りを立ててにじり寄ってくる。剣、槍、斧。あらゆる獲物を備えた怪物たちに、もはや付け入る隙はない。
「……じゃあ、結論は一つしかねえじゃねえか」
誰かが救援に来るまで、この場で耐え抜く。だが、それまで二人の命が持っている保証は、どこにもなかった。
「そのうち正門側の皆もこっちへ回ってくるさ。命に代えても守り切ればいい」
「軍師の少年は、全員死なせねえって言ってたが?」
「……その『全員』の中に、私たちが含まれていなくても恨むことはない、だろ?」
意を決したように、緑髪の兵士は馬を下りて武器を構えた。
馬上のままでは、重装兵の重量級の一撃を受け止めるにはあまりに重心が不安定だと判断したのだ。赤髪の兵士もその意図を察し、同じように地を蹴って敵と正面から対峙する。
「死後の世界でも、俺らは親友か?」
「当然だ」
短く交わされた言葉が、最後の誓いとなった。重装兵たちが、耳を裂くような咆哮を上げて突っ込んでくる。巨大な武器を振り回し、
「すまねえな、かあちゃん! ずっと親不孝者だったな俺はッ!!」
赤髪も緑髪も、死力を尽くして避ける。
避けられぬ衝撃は、肉を切らせて骨を断つ覚悟で受けていく。たとえ腕が砕け、二度と動けなくなったとしても。
「──ぐッッ!」
最初に限界が訪れたのは、緑髪の方だった。
鋼製の巨大な戦斧を槍の柄で受け止めるも、そのまま圧倒的な質量に弾き飛ばされ、砦の石壁に叩きつけられる。
「ローレルッ!!」
判断を誤ったか。
やはり一人でも正門に向かい、救援を請うべきだったか。
赤髪の兵士は、友にトドメを刺さんとする異形兵の間に強引に割って入り、剣を構えた。
「俺を先にやりやがれ! ローレルはな、俺なんかと違って頭も回るし、今後のイルシオンに必要なんだよッ!」
「グラ……ディオ……」
死を覚悟した赤髪は、恐怖をかなぐり捨てて剣を振り回す。
一秒でも長く、友が逃げる時間を稼げればいい。
吟遊詩人は魔道士だ。砦にいる間にも、見たこともない強力な魔法を何度も見せてくれた。彼がここに到着すれば、この重装兵どもをまとめて薙ぎ払えるはずだという、ただ一点の信頼だけが彼を支えていた。
「……! グラディオ、右斜め前ッ!!」
重装兵の長槍が、赤髪の首元を狙って閃光の如く突き出される。目の前の斧持ちをいなしながらでは、避ける術はない。
「すま、ね──」
ついに、死神の鎌がその首に届こうとした。
その時だった。
「……『ファイアー』!!」
裏口の奥から、一条の炎が長槍を構える重装兵目掛けて解き放たれた。攻撃を振りかざしている最中の怪物が、それを回避できるはずもなく。
中規模ながらも凝縮された熱量を持つ火の玉は、重装兵の鎧を焼き焦がし、その熱伝導で隣の個体をも巻き込みながら、二体の怪物をその場に崩れ落ちさせた。
「吟遊詩人殿……!?」
石壁に背を預けたまま、緑髪の兵士は魔法を放った人物へと視線を向けた。
そこに立っていたのは。
頼りなく儚げな灯火で、凍える者たちを必死に暖めていた──。
幼き双子の侍従のうち、