FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第2章-2:二人の愛の流動・後編

 かつて二人で幸福を分かち合った愛の巣は、今や荒い吐息と、足元から這い上がってくる泥のような重苦しい沈黙だけが支配する、冷え切った場所へと成り果てていた。

 

 乱れたシーツと、室内に充満する甘く生々しい汗の匂い。

 

 それは愛の結晶などではない。

 

 行き場のない激情と絶望に駆られた少年が、力任せに彼女を蹂躙(じゅうりん)した、決して消えない罪の痕跡だった。

 

(……僕は、なんてことを)

 (たか)ぶりが冷めると同時に、身を裂くような自責の念が彼の中で膨れ上がっていく。

 

 これ以外に、彼女を止める方法はなかったのだ。

 

 だが、その代償として、二人で育んできた愛の日々を泥で汚し、かなぐり捨てることになってしまった。

 

 彼女を死地から繋ぎ留めたい一心で、あの甘美な関係を永遠に壊してしまったのは、他ならぬ自分自身だ。

 

 それでも、構わないと思いたかった。

 この癒えない傷によって、彼女が戦場へ向かう意思を折ってくれるのであれば……。

 

 しかし、そんな虫のいい話などあり得ないことは、彼の理性がとうに弾き出していた。

 

 ただ愛する人の怒りを買い、決定的な断絶を生むだけだと、わかっていたはずなのに……。

 

「……彼氏くん」

 

 これほどまでに尊厳を傷つけられ、強引なことをされて尚、オルテンシアは彼に与えた愛称を捨てなかった。

 

 ゆっくりと背後を振り返る彼女の瞳には、怒りよりも、信じていたものに裏切られた、行き場のない深い悲しみが満ち溢れていた。

 その痛ましい視線が、少年の胸に鋭い刃となって突き刺さる。

 

 一瞬の、ひりつくような静寂。

 それを切り裂いたのは、少年の頬に炸裂した、乾いた平手の音だった。

 

「どういうつもりなのよ! あなた、自分の立場をわかってないわけ!?」

 

 熱を帯びて腫れ出した頬の痛みに、少年の視界がぐにゃりと歪む。

 その向こう側から、オルテンシアの悲痛な怒号が飛んできた。

 

 彼女は感情の起伏が激しい娘だが、少年の前で見せるのはいつも「喜」や「楽」、あるいは甘えるような「哀」の顔だけだった。

 

 彼に対してこれほどまでに剥き出しの「怒」をぶつけてきたのは、出会ってから初めてのことだ。

 

「あたしはイルシオンの第二王女で、あなたはただの侍従! 使用人、お手伝いさん、召使いでしょ! それが……あたしの命令を無視して、こんな……乱暴するなんてどういうこと!? 国境で待つお姉様に、今のことを何もかも洗いざらいぶちまけてもいいのよ!?」

 

 彼女が放つ言葉のひとつひとつが、心臓をじわじわと侵食する闇の魔法のようだった。

 

『あたしは、対等な恋人がいいのよ』

 

 一年前、1の月の終わり。

 

 初めて愛し合い、「彼氏くん」という呼び名を与えられた日に彼女が囁いた言葉が、幻聴のように耳の奥で反響する。

 

 二人きりの時だけは普通の男女であることを望んだ彼女が、自らその絶対的な壁を引いてしまった。

 

 今、目の前でナイフのような罵声を浴びせてくる少女が、あの時の彼女の「不出来な偽物」なのではないかという錯覚に溺れそうになる。

 

 ……けれど、少年にはわかっていた。

 

 父に認められた喜びを分かち合えるはずだった最愛の恋人が、それを拒絶し、あまつさえ暴力で自分を繋ぎ止めようとした。

 その致命的な裏切りに対する、彼女なりの精一杯の防衛反応なのだ。

 

 彼女は飛び級を果たすほどに頭が良く回る。

 勉学に励み、人の機微に(さと)いのも、すべては父や家族、そして周囲からの愛を享受(きょうじゅ)するため。

 

 だからこそ、彼女は「拒絶」という痛みに誰よりも(もろ)い。

 見知らぬ他人の嫌悪なら無視できても、心底大切にしていた恋人からの否定には、手近な武器──王女という絶対的な身分──を振り回して、取り乱すことしかできなかったのだ。

 

「……黙ってないでなんとか言ったらどうなの! ねぇ!」

『あたしの話を、黙って聞いてくれるあなたが好き』

 

 幸せだった思い出が、現在の彼女の言葉を否定するように脳内で鳴り響き続ける。

 足元の地割れが音を立てて広がるように。

 二人が積み上げてきた関係が根底から崩壊していく実感が、熱い涙となって少年の瞳から溢れ出した。

 

「……行か、ないで……っ」

 

 絞り出すように漏れた声は、情けない嗚咽(おえつ)に濡れていた。

 頬の痛みで泣いているのではない。

 二人の魂が修復不可能なほどに引き裂かれた、その絶望に泣いているのだ。

 

 少年には、無学ながらも「先の未来」を想像する力があった。

 そして今、その才が最悪の形で牙を剥く。

 

 ……戦地でブロディアの騎士に敗北し、蹂躙(じゅうりん)され、冷たい物言わぬ骸と成り果てる彼女の未来が、痛いほどの現実感を持って脳裏に過ぎってしまう。

 

 武力と実力主義で知られるブロディアの猛者たちが、最前線に立つ王族たちが、どれほどの恐るべき戦闘経験を有しているかは嫌というほど聞き及んでいる。

 

 赤い鎧を纏う勇敢な第一王子に、一刀のもと切り伏せられたら?

 あるいは、臆病ながら精密な射撃を得意とするという第二王子にペガサスの翼を射抜かれ、高空から無慈悲に地面へと叩きつけられたら? 

 

 かつて故郷の村が焼かれた日、逃げ惑う人々が兵士に蹂躙(じゅうりん)されていったあの鮮血の記憶が、愛するオルテンシアの姿と重なり合い、忌まわしい想像は留まるところを知らなかった。

 

「行かないでください……! 僕は、あなたまで失いたくない……あんな、あんな愚王のせいでっ!」

「……あんな、ぐ、愚王って」

 

 オルテンシアの瞳に、明らかな不快の色が宿る。

 父を侮辱されることは、彼女にとって自己の存在意義を否定されるも同義だ。

 

 しかし、目の前で涙を流す少年が、単なる憶測で人を罵るような男ではないという信頼も、彼女の中には確かに残っていた。

 

 そして、彼女の頭脳は、残酷な速度で一つの答えに辿り着いてしまう。

 

 薄々気づきながらも、あえて目を逸らし、繋げないようにしてきた不自然な情報の断片。

 少年の激情の根源に触れたことで、その「真相」への道筋が完成してしまった。

 

「彼氏くんの故郷を滅ぼしたの……お父様なの?」

 

 少年は無言だった。

 だがその凍りついたような沈黙こそが、彼女の問いが紛れもない真実であることを雄弁に物語る。

 

 何かの間違いではないのか。

 父の影に隠れた別の者の仕業ではないのか。

 あるいは、記憶を失っている彼の認知が歪んでいるだけではないのか。

 

 反論の余地は、いくらでも見つけられたはずだ。

 

 けれど、最近の父王の常軌を逸した振る舞いを思えば、それが「思い違い」であると切り捨てることはどうしてもできなかった。

 王族殺しの刺客を志すほどの憎悪には、それだけの決定的な根拠があるのだと、悟らざるを得ない。

 

「……そっか」

「僕の故郷を滅ぼした男が、僕の愛する人まで戦火に放り込んで奪おうとしている……! そんなの、耐えられるはずがない……っ!」

 

 そこまで吐き出されて、オルテンシアはようやく彼の凶行の真意を完全に理解した。

 

 戦う力を持たぬ彼には、恋人と共に剣を取って戦地へ行く道はない。魔法の才もない。

 

 彼にできることは、自らの(くさび)を強引に打ち込み、肉体の痛みと癒えない傷を通じてでも、「行かないでくれ」と訴えかけることだけだったのだ、と。

 

 それほどまでに自分を愛し、失うことを狂おしいほどに恐れている。

 少年の底なしの情愛の深さを突きつけられ、彼女の中にあった「乱暴された恐怖」は、再び切実な「愛おしさ」へと色を変え始めていた。

 

 ……しかし。それとこれとは、話が別なのだ。

 

 父の真意はわからなくとも、家族として自分を必要としてくれているという実感だけは捨てられない。

 自分の指に嵌められた、世界に十二しかない「紋章士の指輪」。これを託されたことが、父からの愛の唯一の証左なのだ。

 

 第二王女として、その信頼に応える義務がある。

 恋人との私情を優先して、ようやく手にした父からの期待を裏切るわけにはいかない。

 

「……言いづらかったわよね。あたしのことを考えて、ずっと黙っていてくれたんでしょ。そんな彼氏くんが……やっぱり大好きよ、あたし」

 

 先ほど怒りに任せて引っ叩いたばかりの頬を、今度は慈しむように優しく撫でる。

 オルテンシアは彼の涙を細い指先で拭い、けれど、この世で最も残酷な「拒絶」を口にした。

 

「でもね──ごめん。あたし、お父様を信じたいの。小さい時の……優しかったお父様を知っているから。あたしが命令通りに戦えば、あの頃のお父様に戻ってくれるかもしれないって、そう思いたいの」

 

「……それは。僕の気持ちを無視してでも、ですか?」

 

 オルテンシアの指が、ピタリと止まる。

 

 二人の間に、冷たく乾いた風が吹き抜けた。彼女は思考をフル回転させ、彼を傷つけない言葉を、共に生きる未来への言い訳を探した。

 

 けれど、答えを見出せないまま、彼女はぽろぽろと涙を流し、ついに力なく腕を下ろした。

 

「……ごめんなさい……っ」

 

 それ以上、言葉は続かなかった。

 血の繋がった親子の情──あるいは呪縛──を前にしては、他人同士の愛など、あまりに(もろ)く薄っぺらなものなのか。

 

 愛する者が自ら死地へ(おもむ)くのを、ただ無様に涙を流して見送るしかないという現実に。

 少年は今すぐ己の喉を掻き(むし)って死にたいほどの、絶対的な絶望に包まれた。

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