……辺境伯が、意志を持つ異形兵と化していた。
あまりの衝撃に、その場にいる誰もが息を呑み、絶望的な沈黙に沈んだ。
辺境伯の人となりをよく知る老騎士は顔面蒼白となり、その残酷な事実を受け入れられずに唇を震わせている。
国家への裏切り者として断罪すべしと息巻いていた重騎士すら、冷や汗を顔中に浮かべて黙り込んでしまった。
少年は、衝撃こそ受けたものの、その胸の奥底には不思議なほどの納得感もあった。
吟遊詩人の父である辺境伯の顔を直接知らないから、平静を保てているという部分もあるだろう。だがそれ以上に、彼が時折見せていた、怒りの正体が、氷解するように理解できたのが大きいのだ。
何故、父の話をした時に、あのように冷え切った殺意を醸し出していたのか。
何故、男装の麗人が命を投げ出そうとした時、なりふり構わず激昂してみせたのか。
あの不自然な感情の揺れは、全てこの痛ましい真実へと繋がっていたのだ。
「まさかとは思うが。異形竜どもをこちらに差し向けたのも……辺境伯の判断だったのか?」
「ああ。妖精の歴史を熟知している父がそうすべしと提案し、それを聞いたセピアがこの砦付近に放ったらしい。二匹とも真っ直ぐ東へ……キミたちの村へ向かわせたようだ」
男装の麗人の問いに、吟遊詩人は静かに頷いた。
しかし吟遊詩人は、罪のない妖精たちを理不尽に死に追いやることだけはどうしても許せなかったという。
彼自身の手で密かに異形竜を撃退することも考えたが、強大な竜の鱗は分厚く、生半可な魔法では即死させられない。そもそも下手に刺激して戦闘になれば、焼殺されるのは彼の方だった。
鈍重な亀の如き歩みとは言え、止める方法はなかった。そうこうしているうちに、数日かけて異形竜らは迷いの森に接近し、やがて木々を掻き分けながら内部に入っていってしまったそうだ。ここから村に到着するのも、日数を要したのだろうと推察される。
当然、森の中での戦闘は御法度。ブレスだの塊だので焼き払われれば、妖精たちの逃げ場が完全に失われるからだ。
幸い、近くまで寄っても、村まで歩むことを最優先にしていたのか、喧嘩を売らずに傍を通りかかるだけなら命の危険はないとわかった。だからこそ、吟遊詩人は迷いの森の結界を何度も乗り越えて村へ侵入し、直接避難を呼びかけ続けた。
だが、外界の人間を極度に警戒する妖精の村の住人たちは、その忠告を無下に切り捨て続けた……というのが事の顛末だった。
「……何故、異形兵と化した父をその手で終わらせてやらないのだ。意志を持つとは言え、すでに命なき動く死体だろう。しかも邪竜の手先となっているのだ。それが分かっていて、なぜ放置した」
「アデルファ! あなたなら出来ますの!? 領民を人質に取られているんですのよ。自分が同じ立場だとして、同胞を死に追いやるかもしれないと分かっていながら、実の父親を手にかけられまして!?」
理不尽に彼を追い詰める男装の麗人に業を煮やし、薄赤髪の剣士が激しく食ってかかった。とても自分にはできないと悟ったのか、男装の麗人は悔しげに黙り込んだ。
理由はそれだけじゃない、と吟遊詩人は力なく語る。
父は本当に生前とほとんど変わらぬ態度で領地を治め続けている。だからこそ、実は死んでなんかおらず、まだ生きているのではないかという残酷な錯覚を何度も起こしてしまうのだと。
ヴェイルによって無惨に抉り取られた肩と、セピアにより撃ち抜かれて出来た胴体の穴。これらは普段、服で隠されているが、時折その痛々しい欠損を見るたびに、父がすでにこの世の者ではないという事実を突きつけられる。
そして、『領地を襲わせない』という悪魔の契約の代償は有事での協力のみではなく、
更に、これまでに二度ほど、父の身体を繋ぎ止めるヴェイルの魔力が尽きかけ、朽ち果てる寸前になったタイミングで彼女が姿を現し、新たな闇の魔力を直接注入していく光景を見せつけられたこと。
そのようなおぞましい惨状を見せつけられれば、確かに父はもう父ではないのだと、頭では理解できる。しかし、頭で分かってはいても、自らの手で父親を消滅させることなど、できるはずがなかったという。
「……実際に殺して反逆しても、今度はゼラさんがお父様の代わりになって、同じことをやらされるだけだと思いますよお」
天馬兵の核心を突く指摘に、誰もが「確かに」と息を呑んだ。
ならば吟遊詩人は、自らが異形兵にされる運命を避け、裏で耐え忍ぶことで、多くの領民の命をどうにか繋ぎ止めようと足掻いていたということになる。
それでも、少しずつ出ていた犠牲をどうしても食い止められなかったのを、吟遊詩人は心から悔いている様子だった。
「そも、貴様自身が異形兵ではないという証拠はあるのか?」
尚も男装の麗人は、疑心の炎を燃やし続ける。
「あのローダンなる男も、自らが異形兵だと気づいていない様子だったそうだな。貴様もすでに、身体のどこかに風穴を開けられているのではないのか?」
「仮にそうだとしても」
男装の麗人の執拗な追及を遮るように、少年が口を開いた。
「ゼラさんに、僕たちを殺す意思はまるでない。それは事実として受け止めるべきです」
個人的な信頼感情ではなく、冷徹な事実として。
吟遊詩人が最初から彼らを殺すつもりであったのなら、わざわざ危険を冒して妖精の村についてくる必要はなかった。二日前の時点で、この砦で彼らを皆殺しにして手柄にすればよかっただけの話なのだ。
「……実際問題、私たちにはもう余裕がない。ローダンは
緑髪の兵士が淡々と諭す。
男装の麗人はそれでも鋭い警戒を解かなかったが、自分自身を納得させるための最後の確認か、質問をもう一つぶつけた。
「これだけは答えてもらう。何故貴様は、たった一人でこの砦に居座っていたのだ? 避難民を殺すためでも、異形竜を操るためでもないのだとすれば、おれでも納得できる理由があるはずだな?」
「……先程語った作戦のための、偵察任務さ」
吟遊詩人は自嘲気味にふっと息を吐き出すと、薄暗い砦の高い天井へと視線を向けた。
「この砦の屋上から風魔法で空へ浮かび上がれば、ジーヴル港やその付近の様子が一望できる。海に浮かぶ流氷の数さえ、克明にね。フィレネの軍旗を掲げる船が現れれば、ボクが『花火』を空に打ち上げて、父の軍に指示を出す手筈だったんだ。例の三属性混合魔法があるだろう? って、アデルファちゃんは見てないから知らないか」
少しだけいつものおどけた調子を混ぜたその言葉は、この砦に来た初日に彼が見せてくれた、超絶技巧による魔法のことだ。誰もが心を奪われ、幼き侍従の姉妹が目を輝かせていた。
あれは単なる余興ではなく、遠方に陣取る父の軍勢へ合図を送るための、実戦的な技術だったというのか。
「それを律儀に果たすために、ここで待機していたというのか?」
「……もちろん、それは建前だ。ボクの本当の狙いは──」
一呼吸置いて、吟遊詩人は静かに続けた。
「父のせいで生まれてしまう犠牲を、一人でも多くなくすことだ。もちろん、妖精の村を守るのも含めてね」
今、軍師の役割を担っている少年がいなければ、そのどちらも叶わず全滅していただろう。吟遊詩人はそう結んで、少年の目を真っ直ぐに、真剣に見据えた。
「こんなボクを信じてくれるのだね。ありがとう、美少年。ならばボクは、その信頼に全力で応えたい。吟遊詩人ゼラとして。そして──」
軽く溜息を吐き。そして、一切の迷いを捨て去った決意の表情で、彼は宣言した。
「クレマチス辺境伯の息子、ジェラニウムとして」
ここまで重い覚悟を決めた者を、それでも信じずに射ち抜こうとする方が、どうかしている……。そう結論づけた男装の麗人は、「やれやれ」と小さく嘆息し、ようやく引き絞っていた弓を下ろした。
「貴様の覚悟は分かった。異形兵として我々を
「……構わないよ」
吟遊詩人は静かに微笑み、深々と頭を下げたのだった。
「なんにせよだ。ローダンの動きを考えりゃ、ここに居残るのは危険じゃねえか?」
赤髪の兵士の言葉に、少年は重く頷いた。
「もちろんです。早いところ学園へ出発した方がいいでしょうね」
「あの。学園って……ゼラさんのお父さんの領地ではないんですよね?」
狩場以外のことに関する地理には詳しくない薄緑髪の弓使いが、申し訳なさそうに尋ねた。それに対して優しく答えたのは、救護班の老人。
「ええ。領地そのものは別の侯爵が管理しておりますが、学園は王家による直接の管理がなされているのです」
「王家の管理なのに、王城からずいぶん遠いんですね」
「魔道兵を育成するのみならず、士官学校としても国内最高峰ですからな。周囲に海があり、山があり、森がある。あらゆる立地で実戦的な実習訓練ができるのが最大の売りなのです。それ故、オルテンシア様やアイビー様もあの学園に向かわれたわけですな」
そんな説明を挟みつつ、少年は仲間たちから現実的な質問をぶつけられた。この危機的な状況下で学園へ向けて進軍するにあたり、危険性をどう緩和するのかという問題だ。
「辺境伯が別働隊の追手を差し向けてくる可能性があるのではないか? そうなれば、前後からの挟み撃ちで終わりだぞ」
と、重騎士。
しかしその可能性を、吟遊詩人が首を振って否定した。
「異形兵と化した父は、その……生前より融通が利かない状態となっている。ボクからの合図があるまで、自ら領地を離れて軍を動かすことはないだろう。もっとも、一月もボクが帰還しなければ、さすがに怪しまれて捜索隊が出るかもしれないがね」
「では、辺境伯自らが軍を率いて背後から襲ってくることはないと考えていいのだな?」
重騎士の念押しに、吟遊詩人は「絶対とは言えないけれどね」と苦しげに返した。
先陣を切ってきた刺客ローダンは、今は吟遊詩人の火炎を受けて身を潜めている。レスキューの杖で緊急離脱したわけだが、もし学園へ続く街道側に逃げたのであれば、追撃していた騎兵たちがその姿を目撃しているはずだ。
となると、奴が逃げ込んだのは村の裏手──深い森と山が広がる方角であると考えるのが自然だった。
つまり、背後から辺境伯の増援が来る心配がなく、前方の街道も一時的に開けている今ならば。なんとかしてローダンの追撃の足さえ食い止められれば、避難民たちを逃がし切れるという寸法だ。
「その、ローダンをどうやって足止めするのかしら」
至極まっとうな疑問を口にしたのは子爵令嬢だ。
「相手は金切り声を上げれば、無限に異形兵を召喚できるわ。さすがに限界はあると思いたいけど……それでも、数はまだまだいると予想できる。騎兵も飛行兵も混じっている敵軍から、鈍重な荷馬車の隊がどうやって逃げ切ればいいの?」
その方法は、一つしかないと少年は考えていた。
だが、考え付いたその策は、今度こそ命の保証がない残酷なものだ。特に戦闘員たちは、その策の果てに全員が死んでしまう可能性すらある。
少年が考え付いた策とは。
「……隊を三つに分けましょう」
先発隊について。
避難民のうち重傷者をメインに、先んじて学園の救護施設へ送った方がいい者たちを選抜する。護衛として妖精たちの半分をつけ、荷馬車も半数のみを先行させる。
足の速さに自信のある妖精は、先んじて学園に駆け込み、救援の要請をしてほしい。
また、青髪の天馬兵も、しばらくこれに随伴すること。理由は後述。
第二陣について。
残った避難民と妖精たちが、残りの荷馬車で向かう。出発のタイミングは、第一陣に付き添う天馬兵が砦に帰還した時だ。
天馬兵は土地勘に優れ、海のど真ん中からでも城に戻れると豪語していた。ならば、学園と砦の中間距離についても感覚で正確に把握できるはず。
中間に差し掛かったと判断したら、先発隊の安全を確認してから、こちらへ戻ってくるように。そのまま第三陣に合流し戦闘に加わる。
そして第三陣、それは。
今この部屋に集まっている、
ローダンたちの注意をこの砦に引きつけ、避難民たちを絶対に追わせないようにする『しんがり』が彼らの役割となる。
数日──目安としては五日ほどだろうか。異形兵の群れを完全に殲滅するか、あるいは学園からの救難部隊が到着するまで──血みどろの防衛戦を続けなければならない。
「……休む暇などないでしょう。しんがりは、全員死ぬかもしれません」
その言葉に、薄赤髪の剣士と男装の麗人は「妖精を多く残すべきだ」と即座に進言した。第三陣の兵力を増強すべきだと。
だが少年はそれを却下した。
妖精の民たちはあくまで自発的に協力してくれているだけなのだから、彼らをこの戦いで死なせたくはないと。そして、その力はどうか、か弱き民を学園まで守り抜くために振るってほしいのだと言い含めた。
もちろん、妖精であるこの二人も最後の絶望的な戦いに巻き込むわけにはいかないから先発隊か第二陣の護衛に加わるようにと、明確な指示を出した。
「ここまで『誰も死なせない』と言い続けてきたのに、本当に……申し訳ありません」
少年は深く俯いた。
だが、生存者を一人でも多く生かすように立ち回るには、これ以外の方法がどうしても思いつかないのだ。
運に頼ることなく、誰も死なずに済む完璧な方法があるのなら、誰か教えて欲しい──少年は切実にそう願った。
「僕は……貴方がたを犠牲にする以外の方法で、ここを乗り切る策を編み出せない……!」
己の無力さに、少年の肩が微かに震える。
しかし。
この場にいる誰もが、そんな少年を責めることなどしなかった。
「おいおい、舐めてもらっちゃ困るな。俺らが数日寝ない程度で死ぬって言いてえのかよ」
豪胆に笑う赤髪の兵士が、少年の細い肩をポンと叩いた。彼だって死の恐怖がないわけがないだろうに、それでも、今にも押し潰されそうな幼き軍師を力強く励まそうとしてくれている。
「そうだ。全員で生き延びる。だろう? 軍師の策を盤石にするのが我々兵士の役目なのだから、もう少し信頼してくれ」
緑髪の兵士もうんうんと頷く。マイペースながらも、彼のその言葉は何よりも心強かった。
「少年。私はな、不思議と死ぬ気がせんのだ。我々は全員が生き延びられると、そう確信している」
腕を組んで、重騎士が力強く太鼓判を押す。彼の
「私の長き騎士人生においても、貴方ほど民と兵の命を重んじる将は数多くおりませんでした。どうかその優しさを誇ってください。我々が必ず、その理想を現実にしてご覧に入れますゆえ」
老騎士が慈しむような目で少年を見つめる。歴戦の騎士からの最大限の賛辞に、少年の胸が熱くなった。
「はわわあ……わたしが倒す分の異形兵、ちゃんと残しておいてくださいよねっ」
気弱そうに震えてみせる天馬兵。だが、その瞳の奥には確かな自信と覚悟が宿っているように感じられた。
「避難民を追っていく飛行兵は全部、僕が撃ち落としますよ」
胸をドンと叩く薄緑髪の弓使い。少年より幼いというのに、この短い戦いでの彼の功績と度胸は、すでに熟練兵を凌ぐほどだった。
「ご安心を。皆が負った傷は、私がいくらでも癒しますのでな」
救護班の老人が、持っていた杖を床にコンコンと叩きつける。彼こそがこの防衛戦の生命線だ。その力強い宣言に、痛んだ心が救われる思いがした。
「……おい、少年。おれ達をこの輪から外そうったって、そうはいかんぞ」
男装の麗人は、とうに覚悟を決めていた。妖精として民の護衛に回るのではなく、ここで仲間と共に生き延びるための囮として戦うことを。
「そうですわよ。しんがりは多ければ多いほど、生存率が上がるものですわ」
薄赤髪の剣士も美しく微笑んだ。彼にもまた、自分が死ぬかもしれないという恐れなど微塵もない様子だった。
「周囲を信頼することが貴方の課題。……そうでしょう?」
かつて侍従長から言い渡された叱咤を、子爵令嬢が優しく口にした。彼女は少年の立てた絶望的な策を完全に信頼し、その命を預けてくれているのだ。
「……ボクが全員を助ける炎となろう。何でも指示してくれ」
吟遊詩人は静かに立ち上がる。その翡翠の瞳にはもう、過去への怯えや迷いなど一切存在していなかった。
皆が、自分を信頼してくれている。
そして、誰一人として死なずに生き残るのだと、そう強く確信している。
ならば、もう俯くのはやめにしよう。
醜く足掻いて、抗って、そして『全員生存』という理想を必ず貫き通すんだ。
全員で、生き延びてみせる。
──そして、愛するオルテンシア様と再び巡り会うために。
「命令はひとつです。……誰も死なないでください!」
その号令は、かつて少年が読み耽った、ある紋章士の軌跡に書かれていた一節。
この紋章士の指輪を古の時代より護り続けているという、熱砂の国ソルムが出版した英雄譚の言葉を実際に口にしてみると、体の底から不思議な高揚感が湧き上がってきた。本当に実現できるのではないかと、そう確信できるほどに。
少年の祈りのような命令に、誰もが力強い雄叫びで応じてみせた。