こうなれば、もう避難民たちをこの砦の中に居座らせるわけにはいかない。
少年は砦の広間に戻り、集っている民たちと妖精の村の住人たちに現状を報告した。異形兵の脅威は依然として収まっておらず、今すぐにここを発たなければならないこと。そして、民は先発隊と第二陣に分かれ、安全を確保しつつ学園へと向かわねばならないことを。
しかし、余計な混乱や不安を招きかねない情報は伏せておいた。辺境伯が異形兵であることについては、今彼らに伝えても恐怖を煽るだけだからだ。
また、『しんがりを務める第三陣は全滅するかもしれない』という可能性も、当然話さなかった。
少年の話を聞き終わり、長年
「我々が学園に辿り着いたとして、門前払いにされる可能性はないだろうか」
学園は王家による直轄だから問題ないのではと少年が返すが、
学園付近にある村や町からの避難民もすでに多く押し寄せているだろう中で、この二百人以上──妖精たちも含めば四百から五百人ほどにもなる大所帯を、果たして無条件で受け入れてくれるのかは疑問だというのだ。
少年もそのリスクを考えなかったわけではないが、今となっては代案がない。他に頼れる堅牢な場所はないし、辺境伯が治める領地へ逃げ込むことなど当然もってのほかである。
賭けるしかないのだ。王立イルシオン学園の者たちが、オルテンシア王女も通うあの誇り高き学び舎が、困窮している民たちを無下にあしらうような真似は絶対にしないということを。
不確定な希望に縋り、過酷な逃避行を強いてしまうことを、やはり少年は心苦しく思った。
しかし、民たちは軍師である少年を信じてくれた。
もし向こうで受け入れを渋られても、自分たちでなんとか説得してみせる。
異形兵たちがいつ再度襲い掛かってくるか分からない。まずは避難民の中から百人、そして随伴する妖精たちを百人選別した。
最初に荷馬車に乗り込むのは、重傷者、子ども、老人を中心とした。そして彼らを確実に守り抜くため、妖精たちの中でも精鋭となる者や、救護班の者たちも先行させる。
「私を先に向かわせろ。貴族が先に行くのは当然だろうが」
それを聞いた戦闘員たちは、また下らないワガママで我先にと逃げようとしているのだと呆れ返った。二日前に彼の後頭部を殴って気絶させた天馬兵などは「もう一発殴って黙らせようか」と腕を振り回し始める始末。
しかし、少年は彼の要求を快諾した。一人くらいならいいだろう、と。
反対していた周囲も、軍師である少年がそう言うなら、と渋々引き下がった。侯爵はやはり礼こそ言わなかったが、周囲へ悪態をつくこともなかった。
第三陣の戦闘員たちのための食料を砦に残したり、怪我人を総出で荷馬車に乗せたり。出発の準備にはとにかく時間がかかる。少年も、自分にできることを手当たり次第に手伝った。
「……頼もしい、ね。オルテンシア殿下も、きっと今のきみを見たら、誇らしく思ってくださるはずだよー……」
荷馬車に乗り込む直前、そう微笑みかけてきたのは、恰幅のいい侍従の同僚だった。
異形兵と化したそばかすの同僚による大剣の一撃を受けた彼女の傷は深く、治療の杖をもってしても完治は不可能。侍従への復帰は絶望的だと、救護班に所属する女性達が二日前に言っていた。
しかし、恰幅の良い彼女の表情に、自らの境遇を嘆くような悲壮感など微塵もなかった。同僚の少年が立派な軍師として周りを指揮している姿を、一人の友人としてただ尊敬し、見守ってくれていたのだ。
「デイジーさん……全てが終わったら、美味しい食事に連れて行ってくれますか。僕も……そして、オルテンシア様も。僕、外食に興味がなかったから、美味しい飲食店なんて全然知らなくて」
少年が胸の奥に抱いている『死地へ赴く覚悟』を、彼女は見抜いたのか、見抜かなかったのか。ふふー、といつものように柔らかく笑って、無事な左手で少年の頭を優しく撫でた。
「いくらでも……いくらでも連れて行ってあげるねー。だから……だめだよ? 絶対に生きて、学園で合流しよう、ね?」
……それは、叶わない願いかもしれない。
少年はそう口走りそうになるのを必死に抑え込み、ただ力強く首を縦に振って、彼女が荷馬車に乗り込んでいくのを見つめていた。
その時、騒がしく走ってくる二つの小さな影。
そして、それを慌てて追いかけてくる女性の姿があった。
幼き双子の侍従と、次期侍従長が少年の前に現れたのである。
「せんぱい……! 私とランも、ここに残って戦います!」
「せっかく戦えるようになったんです……! せんぱいや、ライラさんを残していくなんていやです……!」
本当についさっき、戦闘のために魔道を振るうという覚悟を決めたばかりの姉妹。
彼女たちの決意は本物だ。こんな小さな子どもたちまでもが、必死に誰かを守るために何かを成そうとしているのを見ると、思わず目頭が熱くなる。
「だめです! 絶対に! ああ……まさか、この子たちまでしんがりに駆り出そうとしていませんよね?」
「ヴァイオレットさん。安心してください、さすがにこの子たちを残すような真似はしません」
これから何日も、不眠に近い状態で異形兵と戦い続けなければならないかもしれないのだ。そんな地獄をこの幼い二人に強いることなどできるはずがない。
それに、これは本人たちには到底言えないことだが、はっきり言って足手まといである。体力のない彼女たちを庇いながらでは、ただでさえギリギリの戦闘員たちのパフォーマンスが落ち、結果として共倒れになるリスクが高すぎる。
「どうして……無理をして血を吐いたから、ですか? それとも、私たちが幼いから、ですか……?」
「おかしいですよ! ナスタ君はここに残るんですよね!? 私たちと歳もあまり変わらないのに!」
二人が指差した薄緑髪の弓使い。
しかし彼は猟師の息子であり、五歳の頃にはすでに父に駆り出されて森や山で獣を狩り、少ない食事と水で過酷な環境を凌ぐ術を骨の髄まで叩き込まれている。大人顔負けの体力とサバイバル能力を持つ彼と、城育ちの彼女たちとでは、基礎となる実力が違いすぎるのだ。
「どうしても戦いたいのなら、君たちの戦場はこの砦じゃないよ。荷馬車の……怪我人のみんなや、デイジーさんたちを守るんだ。妖精の人たちの指示にしっかり従ってね。これは、君たち二人にしか頼めない重要な任務なんだよ」
少年が二人の頭を優しく撫でて諭すと、双子はようやく不満げながらも納得した。しかし、その瞳を揺らすのは不満よりも、大好きな先輩や子爵令嬢を永遠に失ってしまうのではないかという、はっきりとした死への怯えだった。
「……大丈夫ですよね。せんぱいたち……もしかしたら、って思うと……こわいん、です……」
「ほんとですよ! 私たち、せんぱいとオルテンシア殿下の結婚式に行きたいんですから! またお歌を歌って、せんぱいたちをいっぱい喜ばせてあげるんです! 絶対に生きて、また会えますよね!?」
二人の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
──結婚式。きっとオルテンシア様の着る花嫁衣装は、最高に可愛らしいものなんだろうな。
自分だってそれを見たいし、その細い肩を優しく抱きしめたい。そう考えれば、ここで死ぬかもしれないなどという弱気な感情を、微塵も抱くわけにはいかないと改めて思い直した。
「ヴァイオレットさん。心配ばかりかけて……本当にすみませんでした。この子たちのこと、どうかお願いします」
「……もちろんです。ですが、結婚式に呼ばれたい気持ちは私も同じですよ。もう『根を詰め過ぎないように』なんて甘いことは言えませんが……絶対に、また元気な顔を見せてください」
次期侍従長の言葉に、少年は力強く頷いた。
そして、恰幅のいい同僚とは別の荷馬車に彼女たちが乗り込んだのを見届けた。
そうすること、
第一陣の者たちが全員乗り込み、出発の準備が整ったと、村長が少年に伝えにきたのだった。
「いいのですか? 腕利きの者たちの多くを、第一陣にしてしまって。今なら半々にすることも可能ですが……」
「僕の目標は全員生存です。万が一移動中に狙われたら、怪我人を抱えながらの戦いはどうしても不利を強いられてしまいますからね」
後続の第二陣は、ほぼ全員が無傷や軽傷で済んだ者たち。
男の数も多く、いざとなれば自分の身を自分で守れる者もいる。
この割り振りがむしろ『均等』なのだと、少年は妖精の村長に伝えた。
「それよりも……申し訳ありません。死ぬかもしれないような戦いに、妖精の皆さんまで巻き込んでしまった」
「いいえ。全員、覚悟の上でここへ来たのです。かつて、王家に理不尽に虐げられながらも抗うしかなかった先祖たちに比べれば、我々の戦いは崇高なるもの。大義を与えてくださった貴方に、皆が感謝しています」
村長は深々と頭を下げた。
しかし少年の顔は、本来戦う義務のない彼らをこの死地に巻き込んでしまったという罪悪感で、暗く沈んでいた。
「それだけではありません。
「……何故?」
「アデルファとアザレアから聞いたのです。あの異形竜二匹を、我々の村へと派遣したのは誰なのかを」
村長の顔が、ふっと険しくなった。
周囲の妖精たちが慌てたり怒ったりしていないのを見るに、二人からその情報を聞いたのは村長だけなのだろう。そして村長もまた、自分から村民たちに無闇に流布することは避けたようだ。
「村に居続ければ、我々は為す術もなく焼き尽くされていたでしょう。クレマチス辺境伯の思う通りにね。我々はもう、黙っているつもりはありません。それが事実かどうかが判明次第、辺境伯を討つことも視野に入れております」
──それは、あの吟遊詩人の父を討つ、ということだ。
ここまで、少年はその事態をまったく想定していなかった。
妖精の民にとって、己の故郷を理不尽に焼き払おうとした者へ報復を考えるのは、極めて自然な思考回路と言える。
だが、それは彼らだけの問題なのだろうか。イルシオンの未来を
自分はただの一介の侍従であり、本来ならば安全な学園に留まっているべき存在だ。しかし……。
そこまで思考を巡らせたところで、少年は頭を振って考察を打ち切った。今は目先の生存が最優先であり、先のことを論じている余裕はないからだ。
しかし、妖精たちが避難民を送り届けた後、怒りに任せて単独で西へ向かわれては困る。
「ひとまず、学園に着いたら待機していただけますか。あるいは……学園自体も異形兵に襲われているかもしれませんが、堅牢な施設であり、熟練の騎士たちも多く駐留しているはずなので全滅はしていないでしょう。もし防衛戦の最中であれば、加勢して彼らに恩を売っておくといいかもしれません」
「ふふ、したたかですね。我々が義憤に駆られて辺境伯を殺しに行かぬよう、釘を刺しておくわけですか」
にこやかに微笑む妖精の村長。
外見は年齢を感じさせないほど見目麗しく、一見すれば可憐な少女にすら見える彼だが、その中身には長年一族を束ねてきた確かな年の功が宿っている。
「大丈夫です。今、この話を知る妖精はあの二人を除けば私だけですから。ですが、もし貴方がその必要性に駆られれば我々は協力を惜しみません。それだけは覚えておいてくださいね」
非常に心強い宣言ではあった。
だが、今の少年にそれをどう活かすかまで考えている精神的な余裕はない。学園で無事に合流を果たしてから、ゆっくり考えるべきことだ。
「村長! 出発の準備、できたよー」
ロサードの父が手綱を握って、声を張り上げる。
村長は少年に軽く会釈をすると、その荷馬車のひとつへと乗り込んでいった。
走り出す馬の邪魔になるわけにはいかないと、少年たちは砦の入り口付近に退き、第一陣を見送ることにした。
「はわわ……行ってきますね、みなさん」
青髪の天馬兵は上空へと舞い上がり、第一陣の護衛につく。相変わらず気弱そうな態度ではあったが、手綱と槍を握るその手には確かな力が込められていた。
「みなさん! どうか、ご無事で……!」
少年の祈るような叫びに呼応し、多くの馬たちがいななきを上げて一斉に前進を開始した。
荷馬車の列の背中が、雪煙を上げてどんどん小さくなっていく。
砦に残ったのは避難民の半数と妖精たちの半数だが、先ほどまでの熱気が嘘のように、ひどく閑散としてしまったように感じられた。
異形兵が来たら、残った馬と人々も同様に守り抜き、第二陣として逃がさなければならないのだ。
──もう後戻りは出来ない。果たして、生き延びられるだろうか。
極限のプレッシャーによる不安が、冷や汗となって背筋を伝う。
そんな彼を励ますように、隣に立つ子爵令嬢がその肩をポン、と優しく叩いた。
「みんな逃げ切れるし、生き延びるわ。絶対にね」
迷いのない、不安を吹き飛ばすような心強い断言。
少年は、彼女が同じ死地に立って傍にいてくれることに、言葉にできないほどの安心感を抱くのだった。
……その時だ。
大気を引き裂くような、強烈な金切り声が周囲の森から響き渡った。
──ローダンの
そして、赤黒い瘴気と共に、四方から無数の異形兵たちが湧き出してきた。
目視できる数にして、およそ五十……いや、六十体だろうか。
砦の裏口側にも、相当な数が控えているに違いない。
遠くの街道には、まだ第一陣の荷馬車の影が見えている。
間違っても、あの群れに追いつかせるわけにはいかない。
「弓兵隊! 飛来する飛行部隊を全て叩き落としてください! それ以外の者は、第一陣を追いかけようとする異形兵の足止めを最優先に! 砦を拠点として守りを固めつつ、必要に応じて前進し、皆の背中を守り抜いてください!」
こうして。
いつ終わるとも知れない、常に死と隣り合わせの最悪の防衛戦が幕を開けた。