それから一刻。
日は完全に落ち、辺りは深い闇に包まれていた。
戦況は依然として
前線の異形兵が砦の『しんがり』によって削られるたび、彼は補充の咆哮を上げる。しかし、その度にローダンの身体の表面が、まるで干からびた
そうした変化を、護衛についているネルーケは見逃さなかった。
「ヤベーぞローダン!
さしもの自己中心的なネルーケであっても、この異常事態が意味するところに気づかざるを得なかった。向こうの軍勢は、劣勢なフリをしてわざと戦いを泥沼化させることで、召喚者であるローダンの自滅を狙っていたのだと。
意志を持つ異形兵の生態について熟知しているわけではないだろうに。
自身の状態をろくに分かっていなかったローダンはともかく、ヴェイルからある程度事情を聞かされているはずのネルーケすら知らなかった、
どこからともなく三百人弱の集団が湧いてきてから、やけに一糸乱れぬ統率を見せている。その事実から考えても、極めて優秀な『軍師』が潜んでいることは無視できない。
「……他にどうしろと言うのだ! 私が吠えなければ、待機している異形兵の統率が取れんのだぞ!」
苛立ちを隠せず、ローダンが吠える。見知らぬ軍師とやらに、自分自身の身体の限界まで利用されていたことへの屈辱と怒りだ。
「せめて、その軍師とやらを討ち取れれば防衛線も瓦解するだろうが……そもそも近づけん! 連中が強すぎるんだ! クソッ、何故、あの城兵の中にこれほどの精鋭が残っているのだッ」
元々、セピアは
おそらくセピアは、彼らを城に残した上でソンブルの手によって異形兵に変えてもらうことを期待したのだろうが、そうはならなかった。
セピア様が『鼠』とやらを悪趣味にいたぶる
「俺に召喚ができりゃ良かったんだがな」
しかし、ヴェイルはネルーケには召喚術を与えなかった。
情報がまるでない現状では、誰にでも無制限に与えられる能力ではないのだろう、と思うしかない。
「そうだ。いっそ、身体がぶっ壊れるギリギリまで喚び出して、波状攻撃じゃなく砦を総攻撃させちまえよ」
「そうして私を破滅に導くのが、連中の狙いなのだろう!? やるにしても、確実に敵を殲滅できると踏まねば不可能だ! 私という指揮系統を失えば、異形兵同士が共食いを始める可能性があるからな!」
もともと、異形兵はイルシオンの将による指示をある程度は聞いてくれる。異形兵を作った邪竜ソンブルや、その娘ヴェイル、そして邪竜の力を借りて代行をしているセピアが、自らの軍の者を敵と認識しないよう魔力で調整してくれているのだそうだ。
特別な才能などはいらず、その辺の賊上がりでも手綱を握ることは可能らしい。強い『負の気』がどうのとヴェイルは説明していたが、詳しい理屈はローダンにもよく分からずじまいだった。
この話で肝心なのが、『ある程度』という点である。
統制を失った異形兵は、ひとまず動くものを優先して無差別に狙う傾向がある。敵兵の前に立たせれば基本的にはそちらを狙ってくれるのだが、問題は、あまりにも数を一気に放ち過ぎると、密集した異形兵同士で潰し合いを始めるリスクがあるということだ。
最悪の結果となれば、ヴェイルから借り受けた異形兵の軍勢を、無為な同士討ちで失うことになってしまう。
「……ワープの杖は持っていないか? 私が単身で転移し、直々に向こうの頭脳を討ち果たす。軍師を失い統率の取れなくなった連中であれば、統制のない異形兵の力押しでも制圧することは
もはやローダンの口にしたそれは策ですらない、ただの自殺志願のようなものだった。
忠誠を誓う
「持ってねえよ。持ってたって使わねえよ。いいから、一緒にどうにか出来ねえか考えようぜ。な? 相棒」
誰かが隣で錯乱すると、やけに頭が冷えるものだ。
ネルーケは生前、誰かを思いやることからは程遠い人物だったが、今だけはローダンを
理由は単純、自分がヴェイルからの寵愛を得て生き残るため、という身勝手なものだ。しかし、身勝手だからこそ、ある種、他人の命を必死に
「一応聞いとくぜ。一体召喚するのと、多く召喚するのとでは、身体への負担は違いそうか?」
「……そうだな。数が多くなるほど、何かがごっそりと持っていかれているような感覚は確かにあった」
それがまさか、文字通り自分の『全て』だったとは思いもしなかったが、とローダンは力なく語る。
ネルーケは何やら深く考え込んで唸っていたが。
やがて途中で何かを閃いたのか、ニヤリとほくそ笑み、勝ち誇ったように「カカカカァー!」と夜の森に響き渡る声で笑い出した。
「ローダァン! 少なきゃ大した負担はねェってことでいいんだよなァ!?」
「……だからなんだと言うのだ! 少数ずつで、あの連中を抑えられるものか!」
怒れるローダンに対し、ネルーケはチッチッチッと指を振ってみせた。余裕のないローダンにとって、彼のいちいち芝居がかった所作は、はらわたが煮えくり返る思いである。
「いいから落ち着けって。
「煽りたいだけということか? いいだろう。貴様のその素手とやらで、私の鎧をぶち抜けるか試してみるか。その前に私の槍が貴様の喉笛を貫くだろうがな」
銀色に光る槍の切っ先を、ネルーケの鼻先へ突きつける。ネルーケは「はあ」と大袈裟なため息をついて、呆れたような顔で相棒を見た。
「悪かった、悪かったぜ。俺の負けだ、これでいいか? まあ、話を聞けよ。お前ならこの作戦の有用性を嫌でも理解できるはずだぜ。な、ローダンサマ」
*****
「よっしゃ! だいぶ敵の数が減ってきたぜ!」
最前線に立つ赤髪の兵士が馬と共に駆け抜けながら、弓を構える異形兵を薙ぎ払い、
「向こうも余裕がなくなってきたかな。もっと数が湧くものだと覚悟していたが……」
「こうなると、先に出発した者たちが心配ですね。こちらの戦力を削いでおいて、すでに先回りされているのではないかと不安になります」
老騎士も、寄ってくる斧使いを的確に切り伏せながら、その表情は暗かった。
今、彼らの周囲にいるのがひとまず最後の異形兵だ。またあの『叫び』で増援が現れるだろうが、自分たちがここで足止めされている間に、敵が主戦力を荷馬車の方へ向かわせているのではないかという懸念が拭えない。
「ローダン本人がそこにいる以上、少なくとも彼が率いる軍勢は全てこの砦の周囲にのみ留まっていると考えて良さそうですがね」
緑髪の兵士は馬上から手槍を放ち、弓兵の足を正確に狙い撃つ。敵が痛みで金切り声を上げている最中に、今度は頭部を目掛けて二撃目を直撃させた。
「ローダン以外にも将がいるかもしれない。今更になって、そんな最悪の想定が脳裏から離れないのです」
それでも老騎士の振るう剣の速度は一切落ちない。
的確に、
「ガランサスさんらしくもないですよ! 大丈夫! 向こうには、あの
励ますように声を弾ませる赤髪の兵士。
自暴自棄になって魔法を放とうとしていた魔道兵の懐に飛び込み、詠唱を完了させる前にその剣で心臓を貫いた。
「……これで最後! よっしゃ、おかわり寄越しやがれローダン!」
その挑発が聞こえているはずもないだろうに、まるで見計らったかのようにローダンの叫びが響いてきた。
先ほどまでは、イルシオンどころかエレオス大陸全体に轟きそうなほどの大音声だったように思えるのだが、ひどく疲弊しているのか、心なしか音量も勢いも控えめになっているような気がした。
そうして森の奥から湧き上がってきたのは、わずか五体。しかも全てが武器を持つ歩兵であり、厄介な飛行兵や騎兵、魔道兵の姿はどこにもない。
「これだけか? ははっ、いい感じじゃねえの! 俺たちの軍師様の策、見事にうまくいってんな!」
喜びながら、最も近くにいた異形兵へ馬を駆る赤髪の兵士。
緑髪と老騎士も、それぞれが別の異形兵へと散開して馬を走らせた。余計な行動をされる前に、速やかに始末する。
「……む」
緑髪の兵士が鋭く突き出した槍を、剣を持つ異形兵が不自然な身のこなしで避けてみせた。いや、回避という動き自体は、これまでの戦闘でもあったことなのだが。
その異形兵は、生じた緑髪の隙を突こうとしなかった。反撃を試みるどころか、ただじっと防御の態勢を取り続け、ひたすらに『時間稼ぎ』をしているように見受けられたのだ。
「な、なんだ……? 何故、反撃してこない?」
動揺する緑髪の兵士。
その時、分かりやすく大きな金切り声を上げながら、学園の方角へと真っ直ぐ走り抜けようとする別の異形兵の姿があった。斧を手に持ち、交戦中の騎兵たちには目もくれず、ただ一直線に駆けていく。
「させませんッ!」
歴戦の老騎士が、その露骨な動きを見逃すはずがない。
交戦中の相手と刃を交えるのをやめ、持ち前の神速の馬術で、抜け駆けしようとする異形兵を背後から咎める。その首が宙を舞うのは、ほんの一瞬の出来事だった。
「……ローダンの体力が尽きてきているだけ、と考えるべきか? しかし……」
拭いきれない妙な違和感を覚えながら、緑髪の兵士も目の前で防御に徹していた異形兵の胸を貫いた。致命傷を負ってもなおしばらく食らいついてきたが、やがて耐えきれなくなり、瘴気の霧となって散っていった。
「おい、もう終わりなのか? なんだ、あとはローダンの首を狩った方がいいんじゃねえの」
赤髪も、相手をしていた異形兵をあっさりと鎮圧したらしい。緑髪の兵士に近づき、このまま一気に森へ突入して決着をつけるべきではないかと提案する。
「待ってくれグラディオ。何か、嫌な予感がする」
「イヤな予感ってなんだよ? いっぱい叫ばせて自滅を狙うって策なんだろ。うまくいってるんじゃないのか?」
そう、このまま敵が干上がるのを待つことこそが少年の策なのだ。
成功している……そのはずなのだが、緑髪の兵士の鋭敏な第六感が、音を立てて危険信号を鳴らしていた。
何よりも──
「どうにも急すぎるんだ。さっきまで五十、六十体ずつ現れていたのが、いきなり一桁まで減るものか? しかも兵種も歩兵だけ。我々を油断させ、森の奥に誘い込むための罠なんじゃないか?」
「どちらにせよ、今ローダンの下へ走らぬ方が良いですね。理由は、出発前に若き軍師殿から聞いているとおりでしょう?」
老騎士が背後から近づき、会話に割り込んできた。
もちろん、少年からどういう目論見で砦に留まっているのかは全員が聞かされている。『敵はレスキューの杖を持っている。ローダンの身体が崩れ落ちなくとも、いずれ異形兵の残弾が尽きるのだから、無茶をして敵陣深くへ首を取りに行く必要はない』と。
「そうだったな。悪かったよローレル、どうにも焦っちまうのが俺の悪いクセだ」
「いや、こちらこそ不安を煽るような言い方をしてしまったよ」
それから、しばらくの間、新たな敵が現れる気配はなかった。
張り詰めた静かな時間が、異様なほど長く続く。まさか、森の中で勝手に自滅したのか……と、そう思わせられるほどに。
だが、彼らが痺れを切らしかけた絶妙なタイミングで、再びローダンが叫び声を上げた。
今度は、グリフォンに跨る飛行兵が四体。地上の騎兵や弓部隊の存在をまったく恐れる様子もなく、やはり街道を抜けて学園へと飛び去ろうとする。
当然、砦の屋上から放たれる吟遊詩人の風魔法や、弓部隊の矢がそれを許しはしなかった。一体は撃ち漏らしたものの、三体はその場で叩き落とした。残る一体も、地上で待ち構えていた騎兵たちが的確に仕留める。
「……何かが変だ。どうなっているんだ」
肌にまとわりつくような不気味な違和感を拭えず、緑髪の兵士は静かに呟いた。
*****
そこから、さらに一刻。
すでに日は完全に落ち、辺りは月明かりと、砦に灯る
「おかしい……」
戦場全体を
ローダンの叫びの音量のみならず、その『回数』が激減しているのだ。この一刻の間に叫んだ回数は、一度に出現する異形兵の数が極端に少ないのにも関わらず、たったの五回。
その五回分の総数を合計しても、昼下がりの激戦時に一度の咆哮で喚び出していた数にすら満たないと思われる。
「ローダン、疲れたんじゃないの? 貴方の予想通り、身体が限界を迎えてボロボロになってきているのかもね」
子爵令嬢もまた、事象を素直に受け取り、希望的観測を口にした。
彼女の
「……それとも、軍師殿には何か気になることがありまして?」
気になること。
それはもちろん、敵の衰弱があまりにも
確実に自分たちを殲滅しようと動いているローダンが、あらかじめ引き連れている異形兵の総数。昼間の戦闘分だけでも、およそ三百を超えるか超えないかという規模だったはずだ。
あれだけ豪勢に使い捨てていた以上、二千から三千もの軍勢を引き連れていると考えるのが筋だが、いきなり一度に召喚する数が極端に減った。
出撃してくる兵種もまちまちだ。疲れてきたから人数を一桁に絞ったのかと思いきや、先ほどは急に二十体ほどの様々な兵種を入り乱れさせてきた。砦の正面に攻め込んでくる者、強引に第一陣を追おうとする者、騎兵たちを執拗に追い回す者……その狙いもバラバラだ。
次がいつ現れるのか。どれだけの数が来るのか。まったく規則性がない。
……そこまで思考を巡らせた瞬間。
少年は、森の奥に潜むローダンたちの『真の意図』に気が付いた。
「そういうことか……!」
自分たちは今、避難民を逃がすための『防衛戦』を強いられている状況だ。
数日間に及ぶ籠城戦を覚悟してはいるが、それは言い換えれば、昼夜を問わず常に極限の緊張状態で気を張り続けていなければならないということでもある。
だからこそ、少年は賭けに出た。「ローダンの身体には限界があるのではないか」という推測をもって、あえて泥沼の消耗戦に持ち込んだのだ。
今の状況が克明に告げている。その少年の推察は、きっと当たりだった。だが、ローダンは……あるいはその傍にいる何者かは、こちらから攻め込む手立てがないことを見透かした上で、恐るべきカウンターの策に打って出たのだ。
──同時に出す数を意図的に減らし、こちらの
敵はひとまず、兵の数で自分たちを圧殺することを捨てた。
先ほど二十体を同時に出してきたということは、その気になれば五十、六十の異形兵を一気に召喚するだけの余力はまだ十分に残っているはずだ。だが、守る側であるこちらは、常に『最大数が襲ってくる想定』をして守りを固める必要がある。
それが、いつ、何体出てくるのか分からなくとも、『今から一秒後に、数百体の群れが全方位から襲ってくるかもしれない』という最悪の前提で、暗闇の森を見張り続けなければならないのだ。
一瞬でも気を抜けば、そこを確実に突いてくる。機動力に長ける飛行兵や騎兵を、たった一体でも先発隊の背中へ逃がしてしまえば、自分たちの敗北が確定してしまう。
こちらの神経と体力を無駄にすり減らすために、不規則な揺さぶりをかけ続ける。それが、絶体絶命のローダン側が土壇場で編み出した、最も陰湿で効果的な反撃策だったというわけなのだろう。
「……面白い」
文字通りの窮地。
だというのに、少年の胸の奥からは不思議な高揚感が湧き上がっていた。
自分の策に対し、敵もまた命がけの策で対応してくる。
このひりつくような盤面での知略の応酬は、机上の空論や歴史書をなぞるだけでは決して味わえない、軍師としての本能を昂らせるものだった。もちろん、命のやり取りであるのだから、これが盤上の
しかし、だからこそ、何が何でも彼らの思惑をへし折り、全員を生還させてみせるという強烈な意志が燃え上がっていく。
──ここからは、ただの我慢比べだ。だが、僕の信じる仲間たちは優秀だから、そう簡単には音を上げないぞ。
ローダンが朽ち果てるのが先か、こちらの神経と体力が尽きるのが先か。
微かな雪がちらつき始めた夜の闇の中で、極限の死闘が幕を開けた。
7月分はここまで。いつも読んで下さってありがとうございます。
8月分も予約投稿済みです。