FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第3章-1:侍従の日常・前編

 翌日。オルテンシアは誰に別れを告げることもなく、学園時代から手懐けているペガサスに跨り、ブロディアへと発った。

 

 それは、去年の3の月、大勢の祝福に包まれて門出した日とは、あらゆる意味で対極にある寂しい出発だった。

 

 彼女はこれから、人殺しになる。

 

 聖王女の指輪により、紋章士ルキナの加護を宿す以上、無様に戦場の露と消えるような事態にはならないのかもしれない。

 だが、紋章士の指輪なら、敵国ブロディアにだって存在するはずだ。

 

 指輪の真価を引き出す術は長らく失われていたと聞くが、イルシオンがその秘術を確立したのなら、他国も同様の手段を得ていると考えるのが軍略上の道理だろう。

 

 実戦経験に乏しいオルテンシアが、同じく紋章士の力を携えた敵国の猛者たちに、果たして太刀打ちできるのだろうか。

 

 少年は、募る不安を振り払うように没頭して仕事に従事したが、その最中でさえ嫌な噂が耳に飛び込んできた。

 

 イルシオンの軍勢はすでに、大陸の中心たる聖地リトス、さらには遠方のフィレネ王国までをも蹂躙しているという。

 

 ブロディアに攻め込まれている側が、報復として相手国を叩くならまだ理解できる。

 だが、なぜ無関係な二つの地を侵す必要があるのか。少年にはその意図が、まるで見えなかった。

 

 さらに、その侵略の過程で、神竜王ルミエルを殺害し、いくつか紋章士の指輪を奪ったという凶報さえも舞い込んできた。

 となれば、オルテンシアが身につけていた聖王女の指輪はそのうちのひとつということだろう。

 

 イルシオンが邪竜信仰を(ほう)じる国ゆえか、それを語る女中たちの顔に悲壮感はなく、「敵の首領が死んだんですって」とでも言うような、驚くほどあっけらかんとしたものだった。

 

 だが、その実子である「神竜」がフィレネで蜂起し、イルシオンの侵略軍を退けたのだという。

 神懸かり的な采配によって、戦力差を覆したのだと。

 

 そして──最悪なのは、ここからだ。

 

 その神竜一行が、フィレネ王国の王族や兵を伴ってブロディアへ入るという。

 実際に戦地から逃げてきた兵士が吐き捨てていた言葉だ、おそらく確かな情報なのだろう。

 

 となれば、フィレネ王国の目的はただ一つ。

 神竜という象徴を奉じ、イルシオンに奪われた「指輪」の奪還、あるいはこれ以上の強奪を阻止することだ。

 

 たとえ彼らにイルシオン本国を滅ぼす意図がなかろうと、既に交戦状態にあるブロディア側からすれば、これほど都合の良い加担はない。

 

 神竜とフィレネという後ろ盾を得たブロディアは、必ずやイルシオンを「共通の敵」として徹底的に叩く大義名分を得るはずだ。

 

 そうなれば、イルシオンは二カ国連合、さらには神竜という絶対的な存在を相手に、孤立無援で攻め込む形になる。どう考えても分が悪い。

 

 オルテンシアが立つのは、その激戦の最前線だ。

 いくら彼女が聡明でも、本格的な軍略を修めているわけではない。

 あの「神竜の采配」とやらを相手に、勝機があるとは思えなかった。

 

 勝敗を分かつのは紋章士の力だろうが、相手は文字通りの「神」。

 指輪の力を同等以上に引き出してくると見たほうがいい。

 オルテンシアはなすすべもなく殺されるのではないか──その恐怖が、少年の背筋を凍らせる。

 

 恐怖に呑まれぬよう、少年はあえて「自分が軍師ならば」と思考を巡らせた。

 

 火の海にすべてを置いてきた幼少期から、彼は「もしも自分なら、こう動く」とシミュレーションするのが好きだった。

 

 オルテンシアが傍にいた頃も、そんな話をすると彼女は「学園に行ったら注目の的になるわね」と、感心したように膝を打ってくれたものだ。

 

 さて。

 イルシオンに何らかの大義があり、各国を侵略する必要があるという前提で考えれば。

 

(……そもそも、王族を最前線に立たせるような真似はしない)

 

 詳しく知っているわけではないが、紋章士の指輪は、決して王族専用の武具ではないはずだ。

 ならば、魔力が高いとはいえ実戦経験が絶望的に不足している王女二名に、指輪の運用を丸投げするのは荷が重すぎる。

 

 経験豊富な将校が前線で指輪の力を振るい、敵を各個撃破する。

 王女たちを用いるなら、安全圏から長射程の魔法で狙い撃たせるのが、最も合理的かつ安全な役割分担だ。

 

 だが、あの愚王は、最愛の娘たちを戦場のど真ん中に放り出すような愚を犯している。

 紋章士の力を過信しているのか。あるいは……考えたくもないが、娘を戦場で失うことに、何らかの理由があるのか。

 

 思考をこねくり回し、少年はふと、根本的な問題に突き当たった。

 

 数でも練度でも勝るはずのイルシオンが、神竜一行に下剋上を許しているのは、ひとえに「士気」が低すぎるからではないか。

 

 戦う意義を見失ったまま武器を振るうのは、どんな自殺行為よりも恐ろしい。

 大義なき侵略に、果たしてどれほどの兵士が心から賛同しているというのか。

 

「……オルテンシア様」

 

 少年は、己のしたことを激しく自省した。

「父のために、姉のために」という、彼女にとって唯一の戦うモチベーション。それを、先日のあの乱暴と暴露によって、根底から削ぎ落としてしまったのではないか。

 

 せめて、故郷を焼いたのが彼女の父だと悟らせるべきではなかった。

 強く否定し、彼女の信じる「優しい父」を守ってやるべきだった。

 いや、そもそも力尽くで彼女を(けが)した時点で、もう取り返しはつかないのか。

 

──あれこれと巡る思考は、暇な証拠だ。没頭すれば、嫌なことも考えずに済む。

 

 仕事を終えた夜。少年はふっと思い至ったように立ち上がり、(あるじ)のいないオルテンシアの寝室へと向かった。

 

 彼女が生還したとき、心安らかに眠れるように。部屋の手入れだけは、一日たりとも欠かすべきではないと思ったからだ。

 

 誰に頼まれるでもなく、それを少年は日課としていた。精神を落ち着けるために。

 

 ……しかし、雑念を忘れて仕事に没頭しようとすればするほど、足元を掬われるのが人間というものらしい。

 オルテンシアとの間に生じた決定的な亀裂は、少年の心に深い影を落としていた。

 

 ある日の勤務中、城内の食器を洗っていた際、少年は不意に手を滑らせて皿を床に落とした。

 

 ガシャン、と陶器の砕ける乾いた音が響く。

 それは侍従や来客用の安価な皿であり、王族に供する品ではなかった。

 実質的な損害は微々たるものだ。

 

 だが、少年らしからぬその失態に、周囲の侍従たちは驚愕した。

 

 彼の仕事ぶりは、常に完璧だった。

 嫌味な先輩女中に付け入る隙を与えず、厳格な侍従長が「模範」と認めるほどの勤勉さ。誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る。

 

 男一人で女社会に身を置きながら、一寸の乱れもなく順応する彼を、誰もが「底知れないほど優秀だ」と密かに尊敬していたのだ。

 

 その彼が、皿一枚を割っただけで顔を青ざめさせ、愕然と立ち尽くしている。

 いつもなら他人のミスを笑顔でフォローする側であるはずの彼が、だ。

 

「へえ、キミでも仕事でミスすることがあるんだね。意外!」

 

 洗い場の床を拭いていた女の子が立ち上がり、少年の様子を見て困惑していた同僚たちの沈黙を破るように声をかけた。

 彼女は「大丈夫、大丈夫」とでも言うように、少年の肩をポンと叩く。

 

 茶色の短髪にそばかすが特徴の、同年代の同僚。

 少年が城に潜り込むより少しだけ早く勤務し始めた彼女は、少年が「友人」と呼べる数少ない一人だった。

 

 彼女は侍従にしては少々ガサツで、侍従長に刺々しく叱られる常習犯だ。

 だが根性はあり、三年以上続く過酷な城勤めを「辞めたい」とこぼしたことは一度もない。

 

 いつもフォローしてくれる少年に恩返しをする機会を狙っていたのか、彼女は悪戯っぽく、けれど優しく微笑んだ。

 

「ここは私が代わりにやっておくから、気にしないで!」

「で、でも……僕の持ち場だし、迷惑をかけるわけには……」

 

 視線で訴える少年の頑なさを、近くでテーブルクロスを運んでいた別の同僚がくすくすと笑い飛ばした。

 

「人の厚意は素直に受け取るものだわ。……でも、少し安心した。貴方、あまりに仕事ができすぎるんですもの。まるで精巧に造られた工芸品のようで少し怖かったけれど、そんな顔をするなんて、やっぱり貴方も人間なのね」

 

 彼女は子爵令嬢だ。この城に花嫁修業としてやってきた、由緒ある家柄の娘である。

 

 本来もっと早くにやめるつもりだったが、今の職場を気に入ったらしく「じっくり修行する。理想の相手が見つかったらやめる」と言って同じく三年以上勤めている。そばかすの同僚とは同期で、身分の差を超えた友人関係にあった。

 

「私もやるわ。彼女だけに任せたら、今度は残りの皿を全部割ってしまいそうですもの」

「あー、手伝ってくれんの? 助かるわー。私、重いもの持つのは無理だから、ライラに任せちゃおっと」

 

 子爵令嬢は、その可憐な物腰からは想像もつかないほどの力持ちだった。

 

 華奢(きゃしゃ)な少年が音を上げるような重い荷も、彼女は涼しい顔で持ち上げてしまう。誰にも笑われぬよう、実家で日常的に鍛えていたとのこと。

 

 そばかすの同僚は、令嬢に仕事を丸投げしようとしてケラケラと笑い、令嬢は無言で彼女の耳をつねって戯れている。

 

 見慣れた、微笑ましい光景。

 

 だが、自分のせいで彼女たちの仕事を増やしてしまったという自責の念は消えない。

 少年はせめて令嬢が運んでいた洗濯物を代わりに持とうとしたが……。

 

「あなたはもう、下がりなさい。そんな顔をしていては、戦地へ向かわれたオルテンシア殿下やアイビー殿下にも顔向けできないでしょう?」

 

 声をかけたのは、いつも少年に嫌味ばかりぶつけてくる古参の先輩だった。

 

 目つきは相変わらず鋭く、口調も厳しい。

 だが、その言葉の裏には、少年の尋常ではない憔悴を察し、休ませようとする不器用な(ねぎら)いがあった。

 

「しかし……」

 自分の責務を投げ出しては方々に迷惑がかかる。それでは戦地の王女方に合わせる顔がない──。

 

 少年は食い下がろうとしたが、嫌味な先輩は冷ややかな一瞥でその言葉を()ねつけた。

 

「しかしもかかしもありません。いいから、仕事の邪魔です。さっさと宿舎に……いえ、侍従長への報告が必要ね。今、あの方は詰所にいるはずです。さっさと行って判断を仰ぎなさい。先輩命令よ」

 

 語気鋭く促し、少年が抱えていたテーブルクロスを強引に奪い取る。

 先輩はそれを、(かたわ)らで困惑していた別の同僚へ、音を立てて手渡した。

 

「洗濯なんて、このだらしない肉付きの女にでもできます。貴方が今すべき仕事は、休むこと以外にないの。いいわね?」

「ふふー、私に任せてねー」

 

 受け取った同僚は、恰幅が非常に良かった。

 

 休みのたびに「美味しいものを食べるのが好きだから」と城下や港町まで足を運び、給金を使い果たして帰ってくるのが趣味の女性だ。

 最近は魚介料理に凝っているのだという。

 

 だが仕事となれば驚くほど機敏に動き、誰よりも早く細かな汚れに気づく目を持っていた。

 

 その豊かな体型に比例するように性格も穏やかで、向けられた刺々しい言葉も笑顔でスルーしてしまう。

 

 確執のある場に彼女がいれば、その毒気を抜かれたように喧嘩が収まってしまう、ある種の大人物だった。

 

 自分より遥かに長いキャリアを持つ彼女の抱擁感と、毒舌の裏に隠された先輩の不器用な優しさ。少年はそれに感謝するほかなかった。

 

 重い足取りで詰所へ戻る。調理場からは目と鼻の先だというのに、まるで果てしない遠方へ赴くような気分だった。

 

(……皆に、迷惑をかけてばかりだ。オルテンシア様のことを忘れられたなら、もっと仕事に集中できるのだろうか)

 

 自己嫌悪の(おり)を抱えて詰所の扉を潜ると、中にいた者たちが一斉に少年へ視線を向け、絶句した。

 

 顔を突き合わせていたのは、侍従長と、次期侍従長と目される凛とした先輩。そして主にアイビー王女の世話を担当している、新参で幼い双子の姉妹。計四名の顔ぶれだった。

 

「……申し訳ありません、侍従長。先輩に、休めと言われて……」

 

 この世の終わりのような面持ちでいる少年の報告に、侍従長は短く息をつき、「そう」とだけ言って羽ペンを置いた。仕事の段取りを双子に指導していた最中だったのだろう。少年は、貴重な教育の時間を邪魔したことを激しく自省した。

 

「……私たちも休憩にしましょう。四人とも、そこに座って待っていなさい」

 

 侍従長は常に険しい顔立ちをしていた。生まれつきなのだと本人は言っていたが、その風貌通り仕事には極めて厳格だ。特にガサツな「そばかすの同僚」にはいつも手を焼いている。

 

 そんな彼女を失望させてしまったのではないか。

 洞察力に優れた少年をもってしても、今の侍従長の真意は読み取れなかった。

 己の不甲斐なさに、目が曇っていた。

 

「せんぱい……どうしちゃったんですか。元気出してくださいね……」

「そうだ! 後で私たちが、お歌を歌ってあげますっ。きっと笑顔になりますよ!」

 

 おどおどした姉と、それを支える快活な妹。

 復讐を誓った頃の自分と同じか、それよりも幼い二人の手には、短い勤務期間ながらすっかり仕事のマメが出来ていた。

 

 両親を失い途方に暮れていたところを、アイビー王女に拾われたのだという。

 少年はそれを聞いた時、アイビー王女殿下は本当に、困っている者を見過ごせないお方なのだ──と改めて感じた。

 

 拾われた身である自分も、その慈悲に救われた一人に過ぎない。

 

 ……さすがに幼い二人が自分のときのように「首を()ねるかも」などと脅されたとは考えにくいが。

 

 懸命に仕事を覚える二人を、侍従たちは皆、妹のように温かく包み込んでいる。

 嫌味な先輩ですら、彼女たちに不遜な態度をとっているところを見たことがない。

 

 そんな彼女たちの無垢な気遣いに、少年は癒やされつつも、さらなる焦燥を覚えた。

 

「……完璧主義というのも、困りものですね」

 

 少年の心中を見抜いたのか、次期侍従長がぼそりと呟いた。

 

 勤続十年を超えるベテランだが、年齢はまだ二十代半ばと若い。

 彼女が次期候補と噂されるのは、実務能力以上に、的確な指示で場を統率できるからだ。

 

 嫌味な先輩の方が勤続年数は長いが、そちらは人を困らせるための指示を出す悪癖があり、侍従長からその資質を咎められたことが何度もある。

 

 対して次期侍従長は、全ての侍従を大切な戦力として扱い、誰に対しても礼節を崩さない。

 

「他人には優しくて、自分には厳しい。それが貴方の美徳ですが……自分を追い込みすぎては毒になります。今、侍従長がいいものを用意してくださっていますから。この子たちの歌も、後で聴きましょう?」

 

 オルテンシアへの思慕で心を砕いている事情には一切触れず、彼女は優しく少年の頭を撫でた。

 

「すみません、子供扱いはお嫌いですか?」

 

「いえ……その」

 

「ふふ。ダリアさんが休めと言うなんて、相当なことですよ。あの人、とりわけ男嫌いですからね。……ほら、派手な痴話喧嘩をして別れた城兵の殿方がいたでしょう? まだ関係がギクシャクしているみたいで」

 

 あの先輩が元彼への愚痴をこぼしていたのは二年も前のことだ。いまだに引きずっているのかと、少年は内心で苦笑した。

 

「けれど、あの人も内心では貴方を認めているのです。いつまでも、そんな顔をしていてはいけません。貴方はいつも誰よりも働いている。……少し、根を詰めすぎましたね」

 

 次期侍従長は、慈しむように、少年の頭を撫で続けた。

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