「大丈夫……大丈夫よ、怖がらないで。わたしはフィレネの王女よ。坊やとも何度か会ったことがあるでしょう?」
オルテンシアが激しく
「やめろ! お前も、イルシオンのおうさまみたいに、化け物になってるんだろ!?」
イルシオン王城に一時的に預けられていた彼は当然、父王ハイアシンスの顔もはっきりと覚えている様子だった。
そして、この港町を襲撃する軍勢の中に、異形兵と化した彼が町を焼き払う姿も目の当たりにしていたようだ。そのため完全に疑心暗鬼になってしまっている。セリーヌは拒絶に胸を痛めながらも、治療を止めるわけにはいかず、杖を当て続けた。
──よかった、お姉様が一緒じゃなくて。
アイビーは飛竜に跨って、同じく飛竜乗りのロサードと共に上空から生存者を探している最中のようで、この場には居合わせていなかった。気高き姉は、この手の事象に対して表立って心動かされる素振りは見せないが、その実、喜怒哀楽がわかりやすいオルテンシアよりも激しくダメージを受けてしまう気質にある。
これは間違いなく、イルシオンとフィレネの間に消えない確執を残すだろう。
オルテンシアの内に激しい怒りが湧き上がった。
別人格だろうが、ヴェイルはヴェイルではないのか。聖騎士の指輪をセピアから奪ってこちらに投げつけてきたから、今までのことは帳消しね、というのは、あまりにも道理が通らない。
洗脳されていようと、覚えていなかろうと、自分がやったことは自分がやったと認めるのが筋だ。あの悲劇のヒロインぶった邪竜の娘に、それが出来るというのか。
今の彼女には、仲間たちが多重人格だからと同情し、ヴェイルの罪まで帳消しにしようとしているように思えてならなかった。
それが通るなら、今から自分が仲間の誰かを焼き殺し、「別人格がやったの」などと言い張れば許されることになるのでは。こんなのあり得ない。
……しかし。
自分もソルム王国でセピアに洗脳され、神竜どころか姉まで手にかけようとした経緯がある。そのことを、オルテンシアは今でも深く気に病んでいた。
洗脳されるよりも前、スフォリア女王を人質に取ったことも、その実子であるミスティラやフォガートと仲良くなった今では、なんて
自分だって許されるべきではないのに。そんな自分が、ヴェイルを断罪し、糾弾することなどできないのはわかっているが、それでも膨れ上がる感情に歯止めは効かない。
──神竜サマが救うと決めたのなら、そのご意志には従うけれど、結果、軍に入ってきたら、あたし、仲良く出来ない……。
そんなことを考えながら、オルテンシアは、男の子の涙溢れる怒りの視線をただ受け止めている以外に出来ることがなかった。身体が、『フリーズの杖』を振られた時のように硬直してまったく動かない。
「あ、あの。フィレネと……イルシオンの国際婚って、珍しい話じゃないんですか?」
この怒りと絶望に満ちた空気をなんとかしようとしたのだろう。スタルークが瓦礫の撤去作業を手伝いながら、隣のカゲツとゼルコバに訊ねる声は割と大きく、当然オルテンシアの耳にも届いていた。
彼の不器用な気遣いを察したのだろう。人の良いカゲツはもちろん、いつもなんとなく威圧感を醸し出しているゼルコバも、彼の質問を
「たまに聞きます。常に『小競り合い』をしているブロディア国民から見れば、『有り得ない』のかもしれませんね。しかし、我が国は『鎖国』しているわけではない。荷物検査は厳格ですが『海路』もあるし、何より、イルシオンとソルムの『国境』は、そちらとの国境とは違い、とても『開放的』なのです」
「うむうむ! そうでなければ、余も故郷からイルシオンに渡ることなどできなかったからのう!」
実際、オルテンシアも単身でイルシオンからソルムに渡ったが、どちらの国境警備隊も、こんなので警備が務まるのかと思うくらい自分をあっさりと素通りさせた。イルシオン側の方は、後で王族として厳重に注意しなければと考えた程だ。
神竜の軍勢も、商隊を名乗って何の障害もなくどちらの国境警備も掻い潜ったのだという。まるで仕事をしていない。
だが、この緩さ故に、侍従長の息子の結婚式がイルシオンで行われることに障害がなかったのだとも言える。フィレネから嫁いできた彼女は、海路ではなく陸路にてソルムを経由し、イルシオンに来たのだと、かつて侍従長が話していた記憶があった。
「……ねえちゃんが、イルシオンなんかに行ったのが間違いだったんだ」
大人たちが別の空気に変えることを許さないとばかりに、男の子は声を激しく震わせた。
まだ彼は瓦礫から救出されていない。あまりにも建材が密集していて、退けても退けても足が出てこないのだ。
「ぼくらが何をしたって言うんだよ! イルシオンで結婚したのが悪いことだったのか!? 返せ、返せ! ぼくの家族を返せッ! お前らなんか、早く死んじまえーッ!」
心からの慟哭。
もはやオルテンシアは、一秒たりとも彼の前にいるべきではないと考えた。
姿を見せ続けていれば、彼の感情を激しく掻き乱すだけなのだと。
「……ごめん、なさい」
背を向けて、オルテンシアは走り出した。
どこへ。そんなのは考えていない。
とにかく、誰にも見つからない、一人になれる場所へ。
「オルテンシア王女!」
皆が呼ぶ声が後ろから響くことなど、一切無視して駆け抜けた。
オルテンシアは運動が苦手だ。しかしこの時ばかりは、徒競走で誰にも負けないのではないかというくらい、身体が悲鳴を上げるのを無視して全速力で走ったのだった。
*****
「あはは。そっか。彼氏くん、あの男の子と同じ気持ちだったのね」
オルテンシアが無我夢中で走り抜けた結果、気が付けば近くの森の中へと入り込んでいた。先程まで夕方だった空は、すっかり闇に閉ざされている。
月明かり以外何もない森の中で一人は心細くて仕方がないが、今だけはこの心細さだけが彼女の救いだった。
木こりが木を切り倒した後、そのままにしていったのであろう切り株に、オルテンシアはちょこんと腰をかけて、ひとりごちた。
愛する侍従の少年は、ハイアシンス王によって住んでいた故郷を焼き払われたのだという。
生き残って、過去も、名前すらも捨て去り、王族への復讐を強く誓って、数年かけて研鑽を積んでから王城に辿り着いた彼。悲劇さえなければ、その村の誰かと結婚して、王族とも
先程の男の子の憎悪は、かつての彼と全く同じものだったのだと思えた。
ハイアシンスの、そしてイルシオンという国全体の責任かと問われれば、そうなのかもしれない。父王が邪竜を復活などさせなければ、フルルが
侍従の少年は責任を王族全体に転嫁し、まずオルテンシアを殺そうと短剣を握った。
あの男の子もそうなってしまうのか。
そう思うと、胸は締め付けられる思いだった。
「ねえ……彼氏くんがあたしだったら、どうしてた? きっとこんなふうに、無様に逃げたりしないんだろうな」
少年とオルテンシアは恋人関係になる前から、戦術書を二人で読むたびにあれこれと語らうことが多かった。
彼と過ごす時間は何をしても楽しかったが、特に戦術の話をしていると、あっという間に時間が溶けていく感覚がした。学園に通ったこともなく、出自の問題で今後通う金もない彼。それでも彼の考察は、その辺の知識人ぶった者たちよりも的確に本質を突いていた。
自分なら、と前置きして語り始めるその内容に、心を奪われなかったことなど、ない。
その仮定を彼はどんな些細なことでも当てはめて考える。だからこそ、まるで人の心を読んだかのような的確な動きが出来るのだろうと、かつてオルテンシアは深く感心したものだ。
そんな少年なら。
どれだけ理不尽なことを言われても、よっぽどでない限り柳に風と受け流してしまうあの子なら。
きっといとも簡単に、あの男の子に芽生えかけている復讐心を抑え込んでしまうのかもしれない、と思った。
彼自身が覚えのある感情だ。
対処法だって、誰よりも理解しているに違いない。
……それとも。彼自身の復讐心については、彼自身では対処しきれなくて、あたしがなんとかしてしまったのだろうか。
学園に通う二ヵ月前。オルテンシアは少年に愛の告白をするために自室へ呼び出し、初めて身体の関係を持ったあの日。
彼の瞳に強い殺意が灯っていたのを、オルテンシアは見逃してはいなかった。しかし告白を受けた途端、彼は泣き出してしまい、その殺意は涙と共にどこかへ溶けて消えてしまったようだった。
もしあのとき、少年がこちらへの愛情など一切ない状態であったのなら。あのタイミングで、懐に隠し持っていたナイフで間違いなく刺し殺されていたはずなのだ。
彼が暗殺者だとしても、自分の愛嬌で心変わりさせてみせる。
早く処断せよと注意喚起しにきたゼルコバにそう言い放ち、自ら危険に飛び込んだのはオルテンシア自身だったが、もし心を変えられないのなら、そのまま殺されてしまっても構わないとすら思うほどに、彼を深く愛していた。
……先程の男の子には、さすがにそこまでの覚悟を抱いてやることは出来ない。
父王を亡くし、姉が激動のイルシオンをまとめ上げることを決意している以上、自分はそれを王族として支える義務がある。休学させられている学園の最上級クラスを無事に卒業したら、宰相として姉を支える気でいるのだ。彼氏くんを伴侶とし、自分の仕事に彼の溢れんばかりの知能を存分に活用してもらおうと考えている。
だから、大人しく男の子の怒りを受け入れ、殺されて死ぬわけにはいかない。
とはいえ、このまま顔を合わせないままで逃げ続けるというのもどうなんだろう。
「……そうよね。向かい合うわよね、あなたなら」
愛する彼なら真っ向から顔を突き合わせるはずだと、己の胸の内を伝えるはずだと、オルテンシアは考えた。
こちらは彼に何も伝えていない。
本当の敵がなんなのかということを。残ったイルシオンの王族は、決してこのような
伝えに行かなければ。
意を決して、オルテンシアは切り株から立ち上がった。
しかし。
「あれ? あたし……どこから来たん、だっけ」
辺りを確認せずに無我夢中で走り抜けていたせいで、方角がすっかりわからなくなっていた。
自分を転移させるリワープの杖は持ってきていない。
杖どころか、魔導書の類も全て港町に置いてきてしまっていた。ペガサスに括りつけた道具袋へ、一式しまったままだ。
魔力を操り、指先から小さな炎を出す。足元の明るさはこれで多少担保できるとはいえ、オルテンシアの素の魔力では、空高く炎を打ち上げて助けを呼ぶような真似は出来なさそうだった。
「ど、どうしよう……!?」
足跡が残っていないかどうか確認する。
これが一年の大半を雪に覆われているイルシオンであれば、自分の足跡を辿って帰るだけで良かったのだが、緑あふれるフィレネの森では、同じ手法が使えなかった。
正気に戻った今、猛烈な心細さが胸を締め付ける。
こうして自分が単独で離れたことを知り、姉やロサード、クロエなどが空から探してくれているかもしれないが、
「お姉様ーっ! みんなーっ! ごめんなさーいっ、助けてー!」
なりふり構わず、自分の居場所を知らせるように大声を出すオルテンシア。
子どもっぽいと思われるだとか、そんな体面は考えていられなかった。
しかし返事が来る気配はなく、今度こそ泣き出してしまいそうになる。
「こ、こういうときどうすればいいのかしら……ええと……」
道がわからなくなり、しかし自分を探してくれている人が確実にいるということがわかっているとき。そんな仮定を、かつての愛する彼氏と語り合った記憶があるのを、必死に呼び起こした。
確か答えは。
『その場から動かない』。
下手に動くとかえって見つかりにくくなるから、黙って一つの場所で待つべき。
動いた方がいいのではと反論したオルテンシアに、少年は「一度探された箇所は探されなくなるから、むやみに動き回ってそこに足を踏み入れてしまうと、発見が大幅に遅れる」と返事をしていた。
その通りだ、とオルテンシアも納得した。仲間たちは必ずこちらを心配して動いてくれる。そう信じて、再び切り株に戻って座って待つことにした。
と、そのとき。
背後の草むらで、ガサガサと嫌な音が鳴る気配がした。
「あっ! た、助けにきてくれ、たの、ね──」
安堵で声を上擦らせたのも束の間。
その希望は見事に打ち砕かれた。
目を赤く光らせ、濁った涎を垂らし、錆びた斧を握り締めている異形兵がにじり寄ってきていたのだ。
それも二体。
どちらも明らかに、無防備なこちらへ殺意を向けている様子だった。
「……ウソでしょ……」
魔導書も杖もない今、まともに相手することなど不可能だ。紋章士の指輪も、戦闘が終了した時点で神竜リュールに預ける手筈となっており、常に身につけているわけではない。
刺激しないように静かに立ち上がり、向かい合いながらじりじりと後退していくが、二体の異形兵は見逃してくれなさそうだった。けたたましい金切り声を上げて、一気に突進してくる。
「ごめんっ! みんな、お姉様、彼氏くん! あたし、ここで終わっちゃう……!」
必死に対処法を考えたが、何も思いつかない。
せめてエルファイアーの魔導書さえ手放していなければ……。
そんな丸腰の彼女へ容赦なく、まず一体の異形兵が飛び掛かり、大斧を振り下ろそうとした。
ぎゅっと目をつぶって、死を受け入れる。
「オルテンシア王女! もう大丈夫ですからねッ!」
その刹那。
オルテンシアを庇うように黒馬と共に飛び込んで来た人物が、飛び上がる異形兵の懐へ潜り込み、首筋へ剣を振り抜いた。
最近、馬に乗りながら戦うことを覚えた、神竜の軍勢の中でも年少に分類される男子。
自身を第三十三代「竜の
「クラン……! ご、ごめん、迷惑かけちゃったわね……」
彼の刃は的確に異形兵の首を切り落とし、化け物は断末魔と共に掻き消えていった。
今見せた圧倒的な剣技は、実はオルテンシアのアドバイスを受けて身につけたものであった。
ずっとクランは魔道士として神竜を支えてきたようなのだが、お世辞にも魔力の伸びしろがあるようには見受けられなかったのだ。
そこで思い切って「物理攻撃を主体にする兵種にしてはどうか」と進言したところ、彼は魔道を捨てることを
精彩を欠いていた魔道一本のときよりも目覚ましく戦果を上げられ、今や軍の切り込み隊長として欠かせない地位を確立している。
その見事な凄腕が巡り巡って、オルテンシアの命を救ってみせたというわけだ。
「クラン! ダメ、まだもう一体いるの!」
倒した一体で安心している最中、もう一体の異形兵が高々と飛び上がり、大斧でクランの頭を叩き割ろうとしていた。慌てて剣で受け止めようとするが、体格と武器の重さが違い過ぎて、衝撃を緩和できそうにない。
万事休す。
そう思ったそのとき、膨大な魔力が込められた矢が暗闇から飛んできた。光を
地面に叩きつけられた異形兵はびくびくと
「もう、クラン! よそ見しちゃダメでしょ。何かあったらフランが悲しむのよ!」
神竜の
「ご、ごめん……アンナ」
「ア・ン・ナ・
「あ、アンナさん」
秘密の行商人を自称する女の子、アンナ。
赤髪赤目にポニーテールが可愛らしい彼女は、軍の女性の中でも最年少であった。
身体が小さいのに重い斧を振り回していたのだが、どうにも腕力がつかず、逆に斧に振り回されてばかりだった彼女。そのくせクランとは真逆で魔道の素質は恐ろしく高く、オルテンシアは「魔道で戦え」と諭したのだが、彼女は「自分の一族は全員戦士なのだから」と頑として突っぱねていた。
あまり戦績が芳しくなかった彼女の転機となったのが、最近手に入れた、魔力を乗せて矢を放つ『光の弓』だ。これを手にしてからの彼女は見違えるようであり、今や「異形の飛行兵を討つなら彼女」とまで言われるようになっていた。
目指す方向性と実際のポテンシャルがちぐはぐだが、戦闘能力は著しく高い幼いコンビ。
そんな二人に助けられてほっとしたオルテンシアだったが、同時に、自分の軽率な行動で彼らを危険に晒したことをひどく情けなく思うのだった。
「……ごめんなさい、二人とも」
「顔を上げてください、オルテンシア王女。僕たち、王女が無事で本当に良かったと思ってるんですから」
「そうよー。申し訳なく思うのなら、おすすめの商品があるの。すさんだ気持ちがやわらぐ香水なんだけど」
思い思いの言葉でオルテンシアを慰める幼き二人。
その温かい心遣いに、自然と口角が上がった。
それでも、港へ戻る足が震えなくなったわけではなかった。
突然ですが第1回オリキャラ人気投票・主要キャラのみ。投票期間は2026年8月中。1位のキャラは朱鷺夜が絵にしてくれるぞ!
-
少年:主人公
-
子爵令嬢:ライラ
-
吟遊詩人:ジェラニウム
-
赤髪の兵士:グラディオ
-
緑髪の兵士:ローレル
-
無骨な重騎士:カラバッシュ
-
青髪の天馬兵:バニラ
-
老騎士:ガランサス
-
薄緑髪の弓使い:ナスタ
-
救護班の老人:リフレクサ
-
男装の麗人:アデルファ
-
薄赤髪の剣士:アザレア
-
幼き侍従・双子の姉:スズ
-
幼き侍従・双子の姉:ラン