皆がロビュスト砦へ帰還してからも、ローダンが新たな異形兵を呼び寄せるべく咆哮を上げる気配はなかった。
大広間に身を寄せた十二名は、まず砦の守りを改めて確認した。
この大広間には、強固な大扉を除いて出入り口が存在しない。
避難民を連れておらず、残る者も十二名しかいない現状では、砦の外周すべてに人員を割く必要はなかった。正面の大扉さえ突破されなければ、仮に敵軍が押し寄せたとしても、籠城して凌ぐことができる。
また、万が一、大軍に包囲されて退路を断たれたとしても、壁を打ち破って脱出する手段は残されていた。
大広間の奥。ある石壁の前にだけ、不自然なほど巨大な
外側からは周囲の強固な石壁とまったく見分けがつかないほど精巧に偽装されている。敵が存在を見抜き、外から狙って破壊することは困難だろう。
その一方、内側からであれば、赤く錆びついた
森を焼かれた意趣返しとして、火攻めを受ける危険も考えられた。
だが、この砦の壁はきわめて燃えにくい材質で築かれており、魔法の炎すら
さらに、救護班の老人の手によって、正面の大扉には簡易的な魔力結界が張られていた。
以前、デスタン大教会近郊の墓地から、地下にある王家の避難路へ潜った際にも、入口へ施した結界である。侵入者を弾く力はあるものの、あくまで気休め程度の代物であり、強烈な一撃を二度、三度と受ければ、容易に砕け散ってしまうらしい。
それでも、結界が破壊される際には、大広間中に響き渡るほどの轟音が生じる。全員が熟睡していたとしても、目を覚まし、武器を取るだけの時間は稼げる。その警報としての役割こそ、今の彼らには何よりありがたかった。
大扉の
もはや正面と裏口を交代で監視する必要はなく、警戒すべき場所は大扉ひとつだけ。その事実がもたらす安心感は、それまでとは比べものにならなかった。
無論、敵地の
ローダンが命を削って異形兵を召喚する可能性も、西から進軍してくる辺境伯の大軍も考慮しなければならない。いつまでも眠りを貪っている余裕はなかった。
それでも、最低で四刻。可能ならば六刻近くは眠り、少しでも身体を万全な状態へ近づけておきたい。
たとえ肉体を休められても、極限状態の中ですり減りきった精神まで、すぐに癒えるわけではない。このしんがり部隊の十二名が、心身ともに安らげるのは、無事に学園へ辿り着いた後になるだろう。そこまで逃げ切れたなら、丸一週間は死んだように眠り続けたい──誰もが、そんなことを考えていた。
少年も大広間に横たわるなり、泥の中へ沈むように眠りへ落ちた。だが、目を覚ましたのは、わずか二刻半ほど後のことだった。
外にはいまだ夜の闇が垂れ込め、仲間たちは毛布にくるまり、規則正しい寝息を立てている。
疲労
ありがたいことに、今回は第一王女を抱くような背徳的で
もう少し休むべきだと分かっていても、一度目を覚ませば、なかなか二度寝ができない。それが少年の厄介な体質である。
少年は毛布の中で静かに身を起こすと、まず両手を組み、祈りを捧げた。
──どうか、オルテンシア様が無事にイルシオンへ戻ってこられますように。
──アイビー様も、決して大きな怪我を負うことなく帰還されますように。
一通りの祈りを終えると、途端にすることがなくなった。
仲間たちは深く眠っている。砦の外から咆哮が響くことも、結界が破られる音がすることもない。ローダン側に、差し迫った動きはなさそうだった。
どうしたものかと暗闇の中で思案していると、小さな声が少年を呼んだ。
「おや……軍師殿。もうお目覚めですかな」
「もう少し寝た方がいいと思いますぞ。頭の働きを保つには、十分な睡眠が欠かせませんからな」
大広間の片隅で、
「……お二人こそ、もう起きていて大丈夫なんですか? 特に……ガランサスさんは、身体に凄まじい負担がかかる『奥義』を放たれたのでしょう?」
少年が戦場へ到着する以前にも一度放ったという、『
イルシオンに住まう精霊の力を借りて繰り出すその魔法剣は、重装兵の分厚い鎧すら
もし異形兵ではなく、生身の人間へ向けて放てばどうなるのか。想像するだけでも恐ろしい神技である。
だが、絶大な威力には、それに見合う代償が伴う。奥義を放った肉体へ跳ね返る反動もまた、凄まじいものらしい。
先ほどローダンを狙った一撃は、ネルーケの気功術に阻まれ、不発に終わった。それでも奥義の発動そのものは行っている。すでに一度、限界を越えて技を放った身体で、再び同じ力を引き出したのだ。無事で済むはずがなかった。
「いやはや、お恥ずかしい話なのですが。身体中の節々が痛んでしまいましてな。むしろ、とても寝てなどいられないのです。ですから、こうしてリフレクサ殿の杖で、少しばかり痛みを和らげてもらっていた次第でして。どうせ眠れぬのなら、このまま起きていようかと思いましてね」
力なく微笑む老騎士の顔には、隠しきれない疲労が深く刻まれていた。長年鍛え上げてきた鋼のような肉体であっても、寄る年波と、限界を越えた奥義の連続使用による傷みまでは誤魔化せないのだろう。
二人の老兵の姿からは、若者たちには決して同じ重荷を背負わせまいとする、静かで重い覚悟が伝わってきた。
自分たち老いぼれの命なら、いくら削れても構わない。その代わり、未来ある若者たちだけは必ず生かし、次の時代へ繋ぐ。
それは、イルシオンの古き良き時代を知る者たちが胸に抱く、確固たる
少年は横になっていても眠れそうにないと諦め、近くから木椅子を引き寄せて、二人の会話に加わることにした。歴戦の老兵たちの話へ耳を傾ければ、この先の行軍に役立つ知恵を得られるかもしれないという思いもあった。
辺境伯の人となりについては、その息子である吟遊詩人から概ね聞かされている。
しかし、老兵二人の口から紡がれる生きた記憶は、彼がかつてどれほど優れた人物であったのかを、改めて少年へ思い知らせるものだった。
長年続くブロディアとの国境紛争において、現辺境伯は当主の座に就いて以来、自ら他国へ侵攻することを決して許さなかったという。
防戦に徹し、自領の兵はもちろん、敵国の兵にさえ、可能な限り無駄な死傷者を出さぬよう尽力した。その甲斐もあり、彼の治世下では、国境で失われる命は僅かな数に抑えられていたらしい。
「『無意味に人が死んで喜ぶ者などいない。武力ではなく、対話によって物事を解決すべきだ』……常々、そのように仰っていた御方でした……」
老騎士は、ハイアシンスが王位に就く以前から国境防衛へ駆り出され、将として兵を率いた経験もある。その縁から、辺境伯と直接言葉を交わす機会が幾度となくあったのだという。
心優しく、それでいて武家の当主として確かな実力と誇りを備えていた男。その男がセピアに敗れ、意志を捻じ曲げられ、知性を残した異形兵へ変えられていた。
あまりにも残酷な真実を、息子である吟遊詩人から告げられた時の衝撃を思い返し、老騎士は深く
「しかし……我々にも、腑に落ちるところはあったのです。今年に入って本格化したブロディアとの戦争において、あの辺境伯が率先して王へ私兵を貸し与えたという、不可解な噂が耳に届いておりましたからな」
救護班の老人が、蝋燭の火を見つめながら重々しく
少年も、その不穏な噂が城内で囁かれていたことを、はっきり覚えている。
オルテンシアが兵として戦場へ駆り出されるため、学園を休学させられ、王城へ呼び戻されるよりも前から、侍従たちの詰所には異様な緊張が走っていたのだ。
「ペラルゴ様ご自身が、国境沿いのブロディア兵を自らの手で惨殺したと聞いた時は、何かの間違いではないかと、耳を疑ったものですがね……」
強大な武力を持つからこそ、命の重みを誰より理解していたはずの男。その男が非道な凶刃を振るうようになった裏には、邪竜の娘と魔竜の女が落とした、逃れようのない絶望の影があった。
多くの命を踏みにじり、人の心まで捻じ曲げた怪物たちへの怒りが、少年の胸中に沸き上がる。しかし、いくら憎んだところで、辺境伯が邪竜に魂を縛られた異形兵である以上、元の人間へ戻す術など、この世には存在しない。
それどころか、このまま放置すれば、彼は今後のイルシオンにとって、最大の害悪になり得る。
自領の民の命を保証するという口約束と引き換えに、他領の民を異形兵の素体として差し出させている。その魔手はいずれ領境を越え、イルシオン全土へ及ぶだろう。
いや、あるいは辺境伯こそが、今、この国中に溢れ返っている異形兵の『供給源』の一つなのかもしれない。
ならば、先日、妖精の村長から持ちかけられた提案を受け入れるべきではないか。少年の脳裏に、あの時の言葉が蘇る。
『辺境伯を討つことも視野に入れております』
『もし貴方がその必要性に駆られれば、我々は協力を惜しみません』
ただの侍従にすぎない自分には、国家の行く末を左右する決断を下す権利などない。本来であれば、次期女王となるべきアイビーが判断すべき重大な問題である。
しかし、邪竜との死闘を終え、疲弊しきって帰国するであろう彼女に、辺境伯の問題を即座に片付ける余裕があるのだろうか。ただでさえ、荒れ果てた国内の復興には、膨大な時間と労力が必要となる。
吟遊詩人の証言によれば、辺境伯はヴェイルから直接魔力を注がれ、それによって存在を保っているという。ならば、神竜軍の活躍によってヴェイルが討たれれば、魔力の供給を絶たれた辺境伯も、やがて自然と塵へ還るかもしれない。
放置したまま、神竜軍の勝利を待つ。
無駄な血を流さずに済むという意味では、決して悪い選択ではない。
だが、ヴェイルが討たれた後、辺境伯が本当に滅びるという確証はない。たとえ滅びるとしても、それまでにどれほどの時間を要するのか、誰にも分からない。あまりにも不確かな望みへ、国の命運を預けることになる。
ならば、この国の未来を真に案ずるのであれば。
まずは学園で妖精たちと合流し、十分な休息を取って態勢を立て直す。その上で彼らの力を借り、辺境伯を討つことも考えなければならないのではないか。
仲間たちは皆、吟遊詩人から過酷な事情を聞かされている。少年が必要性を説けば、頭から否定する者は、この大広間にはいないだろう。
辺境伯によって同胞である異形竜をけしかけられた妖精たちも、村長の呼びかけがあれば、報復のために立ち上がるに違いない。
……しかし。
「どうなされましたかな、軍師殿。随分と顔色が悪いようですが……やはり、無理をなさらず、もう少し横になられては」
深い思考の底へ沈み、凄惨な未来を思い描いた嫌悪が、顔に出てしまっていたらしい。救護班の老人が、孫を気遣うような優しい声で
「いえ……。ただ、意志のある者を殺すと決めて……実際に、その者が燃え尽きる光景を見るのは、酷く心苦しいものだと……思い返していまして」
「……先ほどの、ネルーケのことでしょうか」
老騎士の問いに、少年は小さく頷いた。
正直に言えば、ただの異形兵が相手なら、自らの采配によって仲間たちが消し飛ばしていっても、少年はそこまで心を痛めずにいられた。
彼らはすでに命を失い、何者かの命令に従って蠢く死体にすぎない。
先日、子爵令嬢が討った、そばかすの同僚のように、死の間際になって一瞬だけ生前の正気を取り戻す。そんな悪辣な現象が毎回起きていたなら、これほど戦いにくい相手もいなかっただろう。
だが、多くの下級異形兵は、倒されれば霧か灰となり、跡形もなく消滅していくだけだった。
それに対して、明確な『意志』を持つ異形兵を討つことは、生きた人間を殺す行為と、少年の中ではほとんど変わらなかった。
ネルーケを知る兵士たちや重騎士は、彼を「盗賊上がりのどうしようもないクズ」だと吐き捨てていた。その評価を否定するつもりはない。彼が重ねた悪行が、同情によって消えるわけでもない。
それでも、そんな男にさえ幼い時代があり、生きるために必死にならざるを得なかった『何か』があったはずだ。少年は、そう考えずにいられなかった。
自ら手を下したわけではない。だが、ネルーケが死の炎に焼き尽くされたのは、間違いなく、自分の策が思いどおりに進んだ結果でもある。その責任まで、他人へ押しつけることはできない。
直接、炎で彼を手にかけた吟遊詩人は、あのひょうきんな仮面の下で、今、何を思っているのだろうか。
敵の命にさえ、このような感傷を抱いてしまう。その時点で、やはり自分は冷徹な軍師などには向いていないのだろう。この数日に及ぶ過酷な戦いの中で、血塗られた采配を下すたび、幾度となくそう思い知らされてきた。
それでも、仲間や民を生かさなければならない。その一心で、必死に軍師としての役目を演じ、戦い続けてきた。
すべてが終わったなら、策謀とは無縁の、平凡な侍従へ戻りたい。少年は心の底から、そう願っている。しかし、その平穏を取り戻すためには、国に残された脅威を取り除かなければならない。
「……もしかして、軍師殿。先を見据え、いずれペラルゴ様をも討とうとお考えなのではありませんかな?」
少年がネルーケの死という過去だけに囚われているのではなく、さらに恐ろしく、重い未来を見据えていると察したのだろう。救護班の老人が、意を決したように静かに問うた。
少年はしばし迷った末、ゆっくりと頷いた。
今は学園へ逃げ延びることが最優先である。だが、いずれオルテンシアたちが身を置く神竜軍の戦いを助けるためにも、自分たちが辺境伯の軍勢と相対し、これを打ち破らなければならない時が来るのではないか。
胸の内に芽生えた考えを、少年は包み隠さず告げた。ただの侍従の口から語られた、あまりにも壮大で、そして冷酷な戦略に、老騎士も救護班の老人も一瞬言葉を失った。二人の額に、冷たい汗が
それも当然だった。かつて辺境伯の人となりを知り、その高潔さを敬っていたのなら、たとえ異形兵と化した今であっても、「討つ」という選択に
「あくまでも……そうした方がいいのではないかと、考えただけです。明確な意志を持つ命を、自らの手で摘み取ること……たとえ相手が異形であったとしても、その殺意の重みを、僕自身が最後まで受け止めきれるかは分かりませんから……」
少年自身は、剣を振るうことも、魔法を放つこともできない。ただの無力な侍従である。
そんな自分が、いまだ確証すらない
何より、そのような非情な決断を平然と下せるようになってしまえば、自分が生前から誰より嫌悪していた、ハイアシンス王と同じ怪物になり果てるのではないか。
そんな自己嫌悪の
むしろ、邪竜との過酷な戦いから帰還する王族たちの負担を思えば、国の災厄となり得る芽は、自分たちの手で摘んでおくべきなのかもしれないと、少年が口にできなかった本音を代弁した。
「元々、私はとうの昔に騎士を引退した身。この老骨に鞭を打てる回数も、もうさほど多くはありません。ですが……国のため、未来のために、ペラルゴ様を討つべき時が来たのであれば……その時こそが、私が再び剣を握った意味なのだと受け入れましょう」
老騎士の瞳には、静かで、揺るぎない決意の炎が宿っていた。
もし本当に少年が過酷な決断を下す時が来たなら、最後までその采配を支える。それが老兵たる自分の務めなのだと、その眼差しが物語っている。
「私も、そろそろ杖を置き、安らかな隠居を──と考えておりましたからな。ですが……人生の最後に戦場へ立ち、若者たちが築く新たな時代の
救護班の老人は深い
しかし、その目の奥には、老騎士と同じ覚悟の炎が燃えていた。
「……まずは、学園へ逃げ切るのが先、ですけどね」
二人の忠義と覚悟に押し潰されそうになる胸を抑え、少年は、あえて目の前の現実を口にした。
ここから北へ二日。険しい山中に位置する、王立イルシオン学園。
まずはそこまで、この十二の命をひとつも欠くことなく連れていかなければならない。それができなければ、辺境伯討伐の構想など、何もかもが机上の空論にすぎない。
──絶対に、みんなで逃げ延びてやる。
この数日の地獄の中で、何度も噛み締めてきた決意。
少年は揺れる
8月投稿分はここまで。いつも読んで下さってありがとうございます。
感想・お気に入り・評価をくだされば励みとなります。
人気投票アンケートも一応8月をもって終了。
読んで下さっている方は是非投票して下されば嬉しいです。
9月分も全て予約投稿完了済。万紫千紅楽しみですね。
突然ですが第1回オリキャラ人気投票・主要キャラのみ。投票期間は2026年8月中。1位のキャラは朱鷺夜が絵にしてくれるぞ!
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少年:主人公
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子爵令嬢:ライラ
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吟遊詩人:ジェラニウム
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赤髪の兵士:グラディオ
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緑髪の兵士:ローレル
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無骨な重騎士:カラバッシュ
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青髪の天馬兵:バニラ
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老騎士:ガランサス
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薄緑髪の弓使い:ナスタ
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救護班の老人:リフレクサ
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男装の麗人:アデルファ
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薄赤髪の剣士:アザレア
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幼き侍従・双子の姉:スズ
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幼き侍従・双子の姉:ラン