FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

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第3章-2:侍従の日常・後編

 侍従長が戻ってきたのは、それから四半刻(しはんとき)ほど過ぎた頃のことだ。

 

 戻ってきたのは彼女一人ではない。

 そばかすの同僚、子爵令嬢、そして恰幅の良い同僚も一緒だった。

 

「本当は全員を連れてきたかったのですが、そうもいきませんでした。ですが、五人分の(ぼん)を運ぶのは、流石に私一人では骨が折れますから」

 

 彼女たちの手には、湯気を立てる紅茶のカップと、イルシオンの特産である氷菓子が捧げ持たれていた。

 

 現場の統率をあの嫌味な先輩に一任し、運搬の手を募ったところ、真っ先に挙手したのがこの面々だったという。

 侍従たちの中でも、特に少年と親しい者たち。

 

「あの……僕のために、わざわざ、すみません」

 

「いいえ。私たちも休憩したかっただけですから、気に病むことはありません。いちいち卑屈にならないこと。貴方らしくもありませんよ」

 

 侍従長は少年の謝辞を遮るように、厳しくも温かな眼差しを向けた。

 そーそー、と、そばかすの同僚が少年の肩に手を置き、揉みほぐすように力を込める。

 

「この三年、誰よりも働いてきたもんなあ。誰に頼まれたわけでもないのに、オルテンシア殿下のお部屋を毎日掃除してるんでしょ? 働きすぎなんだよー。もう少し気楽にやったって、バチは当たらないって」

 

「……貴女は、もう少し気を張って仕事をしなさい」

 

 ケラケラと笑う彼女に、侍従長が厳格な口調で釘を刺した。

 そばかすの同僚は頬を膨らませ、不服そうに唇を尖らせる。

 

「もー、せっかく彼を(ねぎら)う会なのに。叱らないでくださいよー」

 

「普段の行いが悪いからよ。彼のように誠実に職務に励んでいれば、いちいち小言を言われずに済むものを」

 

 軽口を叩く彼女を子爵令嬢が(たしな)め、小さくため息をつく。

 

 いつもの見慣れた光景。

 良い二人組(コンビ)だな、と少年が微笑ましく眺めていた日々の断片。

 それを思い出し、少年の口角が自然と持ち上がった。

 

「早く飲みましょうー、食べましょうー。せっかくの紅茶が冷めてしまいますー」

 

 おっとりとした恰幅の良い同僚が皆を急かすと、まるで合わせたかのように彼女の腹の虫が鳴り、その場にいた全員がふっと吹き出した。

 

 詰所に集った計八名で、紅茶と氷菓子を堪能する。

 

 熱い紅茶と冷たい氷菓子の相性は、驚くほどに良かった。

 氷菓子の甘みで冷えた口内に、薫り高い紅茶が流れ込み、身体の芯から(ほぐ)れていくような心地がする。

 

 何より、この茶葉は格別に美味しかった。

 独特で深みのある風味は、少年がこれまで知るどの味とも異なっていた。

 

 茶葉自体は普段使いのものだが、淹れ方に秘訣があるのだという。

 フィレネ王国から嫁いできたという侍従長の息子の妻が、直々に教えてくれた手筋らしい。

 息子もまた、妻の影響で独特な紅茶を淹れるのが上手くなったのだそうだ。

 

「侍従長様の紅茶、おいしいです! ね、お姉ちゃん!」

「はい……本当に、優しい味がします。これからも、いっぱい飲みたいです……」

 

 幼い双子も嬉しそうに舌鼓を打っている。

 それを見守る侍従長の顔には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。

 

 だが、姉の方が不意に表情を曇らせた。

 

「……でも。侍従長様は、来年にはいなくなってしまうのですよね……」

 

 その一言で、場にいた者たちの心に寂寥(せきりょう)が広がった。

 

 三十年以上、ハイアシンス王の即位以前からイルシオン王家に尽くしてきた彼女。

 しかし、腰の持病を理由に、来年の三月をもって引退することが決まっていた。

 誰よりも勤勉で、誰からも慕われる彼女がいなくなることを悲しまぬ者など、この城にはいない。

 

「そんな悲しい顔をすることはありません。死ぬわけではないのですから」

 

 しかし、当の本人はどこ吹く風で、優雅に紅茶を飲み干している。

 むしろ、自分ではまだ息子夫婦の淹れる「完成品」の味には届かないのが残念なのだという。

 

「落ち着いたら、皆で私の故郷にいらっしゃい。息子夫婦が淹れてくれる紅茶は、世界一美味しいんだから」

 

 山嶺(さんれい)にそびえるイルシオン王城から、南にある熱砂の国ソルムとの国境沿いにある彼女の故郷までは、決して近い道のりではない。

 侍従の職務は激務であり、(まと)まった休みを取るのも容易ではないだろう。

 

 それでも、「必ず行こう」と、ここにいる誰もが心の中で誓い合った。

 

 その様子を眺め、侍従長は今日一番の柔らかな微笑を浮かべる。

 侍従長が笑うなんて珍しい、とそばかすの同僚が茶化し、子爵令嬢が笑顔のまま、そのおでこを指で弾いた。

 

「……さて、貴方」

 

 氷菓子を平らげ、温かな談笑が一段落した頃。

 侍従長は真剣な表情を浮かべ、少年に向き直る。

 

「貴方を慕う者たちの前で、はっきりと叱ることになりますが」

 

 侍従長はそう前置きした。

 最近の自分が精彩を欠いていることは、少年自身も痛いほど自覚していた。

 

「この城に来て、三年あまり。貴方は優秀です。どんな仕事も眉ひとつ動かさずこなし、他の侍従たちの手本となるべく……いえ。手本とするにはあまりに完璧すぎるその仕事ぶりに、皆は貴方を神格化すらしていましたが。とにかく、貴方が必死に邁進してきたことは、私たちが一番よく知っています」

 

 その言葉に、普段から彼の背中を追いかけていた同僚たちは、深く肯定するように首を縦に振った。

 幼い双子の姉妹も、尊敬の念を隠さず目を輝かせている。

 

「しかし。だからこそ貴方には、明確な欠点があります。それは、何事も自分一人で完結させようとすることです」

 

「……そんなつもりは」

 

 去年の6の月、オルテンシアの誕生日のために仲間を巻き込み、多大な迷惑をかけたことを引き合いに出して反論しようとしたが、侍従長はそれすらも一喝した。

 

「問題は、それを『迷惑』などと呼称していることです。堂々と頼ればよろしい。王女殿下への贈り物に反対する侍従など、この中に一人としていません。何事も一人で済ませようと思わぬこと。それが貴方の克服すべき課題です」

 

 そう諭されても、この数年、少年は己の身一つで道を切り拓いてきた。

 

 筋力がつかぬ体質を補うため、手先の器用さと、その美貌すらも利用し、各地を渡り歩いて経験を積んだ。

 誰にも頼らず為すこと──それは彼にとって、呼吸するのと同じくらい自然な生存戦略だった。

 

 城内の仕事にしてもそうだ。

 腕力が必要な場所以外で、彼にできないことはなかった。

 むしろ、女たちの力を借りねば重い物一つ運べない自分を、情けなく思う日々ですらあったのだ。

 

「どのような理由であれ、他人に頼れぬ者は必ずそのことで足元を掬われます。力仕事に関しては『頼らざるを得ないから頼っている』だけでしょうが、そこに申し訳なさを感じるのがいけません。それは貴方の可能性を、自ら狭めているのと同義です」

 

 その言葉を引き継ぐように、そばかすの同僚が茶化すように言った。

「それとも、私たちって優秀なキミから見て、全然信用できない感じなのかなー?」

 

──そんなことはない。

 

 自分一人で完結させようとするのは、決して他者を見下しているからではなかった。

 

 むしろ、同僚たちは皆、極めて優秀だと感じていた。

 復讐のことしか頭になかった自分より、ずっと光の中で真っ直ぐに生きている彼女たちを、見下す道理などどこにもない。

 

 だが同時に、他者との交流を最低限に留めてきたのも事実だ。

 いつか王女を殺害するという目的を果たした際、必要以上に慕われていては、残された彼女たちにとってそれは「副次的な殺人」になりかねないと考えていた。

 

 しかし、彼の思惑とは裏腹に、三年の歳月は彼を城内の人気者に変えていた。

 深く関わろうとしなくても、仲間以上の情愛を常に向けられていることは分かっていた。

 そこに報いることはできないと、どこかで頑なに線を引いていたのだ。

 

「……いいえ。僕は皆さんのことが、大好きです。……行き場のない僕をここまで繋ぎ止めてくれたのは、皆さんの優しさだったんだと……心から感謝して、信用しています」

 

 口にして初めて、少年はそれが偽らざる本心であると思い至った。

 

 復讐の刃を研ぎ澄ませていた間も、この場所は──帰るべき場所を失い、記憶すら霞んでいた彼にとって、間違いなく唯一の「家」であったのだと。

 

 侍従の仕事がいつまで続くかは分からない。

 侍従長が去るように、自分もいつかはここを去る日が来るだろう。

 

 だが、この温かな場所が無慈悲に奪われてしまったら──そう想像するだけで、身を裂かれるような恐怖が込み上げる。

 

 大事にしたい。そう心底から思えるほどに、三年という年月は短くはなかった。

 

「頑張りなさい。貴方自身の未来を、貴方自身が閉ざすようなことがあってはならないのですから」

 

 厳しくも慈愛に満ちた激励に、そばかすの同僚は親指を立て、子爵令嬢は優しく微笑んだ。

 恰幅の良い同僚は深く頷き、次期侍従長は無言のまま慈しむような眼差しを向け続けている。

 双子の姉妹は「がんばれ、せんぱい!」と声を上げ、満面の笑みで応援してくれた。

 

──オルテンシア様以外にも、城内に自分を受け入れてくれる場所が確かにあったのだ。

 

 少年は、込み上げる熱いものに視界を滲ませた。

 

 ……こうしていると、今が戦時下であることを忘れてしまいそうになる。

 

──ハイアシンス王の狂気の下、オルテンシア様とアイビー様が苦境に立たされているのに、自分だけがこんな幸せに浸っていいのか。

 

 そんな罪悪感が脳裏をよぎるが、少年はそれをすぐに振り払った。

 なるようにしかならない。不安に押し潰される日々に、今こそ別れを告げようと。

 

「皆さん、ありがとうございます。おかげで、また頑張れそうです。休憩が終わったら、すぐに持ち場に戻ります」

 

 少年はそう告げたが、「明日からでいい」という侍従長の言葉と周囲の強い同意に、最後は折れるしかなかった。

 

 一年のほとんどを雪に閉ざされるイルシオン。

 

 寒空が広がる今日という日に、少年の心だけは、陽だまりのような温かさに包まれていた。

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