そのうち絵を用意します。
「やあやあ! 大軍を率いて、ご苦労なことだねえ!」
吟遊詩人は単身、砦の階段を上って屋上へ出ると、胸壁から身を乗り出し、よく通る声を雪原へ響かせた。
口調こそ、いつもどおりのおどけたものだったが、その声には僅かな笑みすら含まれていない。
一人で姿を晒したのは、伯爵軍が吟遊詩人をいまだ辺境伯の息子──自分たちの味方だと思い込んでいるのなら、その立場を利用して、彼らをジーヴル港へ誘導できると考えたからだ。
港に神竜軍がいないと判明したなら、『神竜軍はイルシオン王城へ攻め上っているのかもしれない』と偽り、そちらへ向かわせる。あるいは、辺境伯本軍の到着を待つよう説き伏せ、足止めしている隙に、砦へ残る十二名が逃げる。
もっとも、相手が裏切りに気づいていないことを前提とした、淡い望みにすぎない。
そして、その望みは、瞬く間に打ち砕かれた。
雪原を埋め尽くす騎兵の陣。その最前列に、白馬へ
あの悪辣なダンデライ伯爵で、間違いない。
その
薄青の髪を高い位置で結った彼女とは、吟遊詩人も十年来の付き合いがある。数年前に従騎士となり、今も修練を重ねている人物だった。可憐な容貌には似つかわしくない分厚い斧を軽々と振るい、戦功も挙げている。吟遊詩人が口説くたび、その斧を鼻先へ突きつけてきた相手でもあった。
そして──二人のすぐ近くに立つ、見覚えのある重装兵。間違いなく、ローダンだった。
ローダンはすでに伯爵軍と合流し、砦で起きたことを報告している。こちらの目算は最悪の形で当たった。すべてを知って砦を包囲している以上、中にいる者を一人残らず殺すつもりなのだろう。
「おかしいですなぁ、ジェラニウム様! 貴方様は今頃、ヴェイル様より
伯爵はガッハッハと豪胆に笑い、分かりきったことを、わざとらしく問いかけてきた。
その顔には、隠すつもりすらない侮蔑が張りついている。
「半月近くいたら、愛着が湧いてしまってねえ! いっそ、ここをボクの家にしようかと思ってさあ! ダンデライ、まさかボクの家を無断で荒らそうなんて、考えちゃいないだろうねえ!」
「それは、クレマチス辺境伯家を
伯爵の全身から、濃密な殺気が立ち上る。以前から辺境伯の息子を気に入っていなかったのだとでも言いたげに、手にした槍の切っ先を、屋上の吟遊詩人へ向けた。
やはり、説得など通じない。吟遊詩人は表情を崩さぬまま、胸の内だけで覚悟を固めた。
大広間を出た仲間たちは、階段の下で、このやり取りへ耳を澄ませているはずだ。とりわけ耳のいい無骨な重騎士と薄赤髪の剣士なら、言葉の一つ一つを聞き取り、そこに込められた意味まで皆へ伝えてくれるだろう。
伯爵に従う騎士の多くは、邪竜の思し召しを絶対と信じ、命令一つで罪のない民へも刃を向ける者たちだ。無論、全員がそうだとは限らない。
言葉だけで彼らすべてを翻意させることは難しい。それでも仲間へ人殺しをさせたくないというのなら、自分が直接、伯爵の首を取り、指揮を失った軍勢を退かせるしかないのかもしれなかった。
──フィレネとの戦争へ、揃って駆り出されていればよかったのに。
セピアは、国中から戦力をかき集めたという。しかし、辺境伯領の兵は、万が一に備えた領地防衛のために残されてしまったらしい。
眼前の三百騎もろとも、優雅な船旅でも楽しんでくれていれば、こんな面倒な戦いをせずに済んだものを。吟遊詩人は、叶いもしない愚痴を胸中で
では、先ほどから狙いを定めていた薄青髪の女性従騎士は、どうだろう。
距離があるため、細かな表情までは読み取れない。それでも、彼女が現在の状況へ強い困惑を抱いていることは、硬く強張った姿勢から見て取れた。
たった今も、隣にいる父へ何事か耳打ちしたようだ。しかし伯爵は、娘の言葉を聞く気などないとばかりに、片手で乱暴に振り払った。
前もって考えていたとおり、彼女であれば、こちらの言葉に耳を傾けてくれるかもしれない。運がよければ、彼女を慕う兵たちも、ともに離反する可能性がある。
しかし、軍隊に身を置く以上、彼女は指揮官であり父でもある伯爵へ従わねばならない。領地の者たちを裏切るに等しい決断をさせるには、相応の理由と、心を揺さぶるだけの衝撃が必要だろう。
──あの聡明な美少年なら、何か打開策を思いついてくれるだろうか。
自分一人では、犠牲を避ける策を見つけられない。
ならば、頼るしかない。そう考えながらも、吟遊詩人は時間を稼ぐため、声を張り上げた。
「そんな怖い顔をしないでよ! それより、ボクの花火を見たから来てくれたんだろう!? 港へ行かなくていいのかな!? 神竜軍は強いよ! 港にいる異形兵だけじゃ、抑えきれないかもしれない!」
「もう、くだらない演技はやめにしましょうぞ! 貴方様の合図は虚偽! ここにいるローダンの目を潰すために行った、姑息な策だったと聞いておりますからな! なんとも愚かな自殺行為! 我々は砦に潜む反逆者をすべて打ち倒し、そして!」
伯爵が高々と槍を振り上げた。
あらかじめ定めていた合図なのだろう。砦を取り囲む騎兵のうち、学園へ続く街道側に集まっていた二十騎ほどが、同時に手綱を引いた。馬首を北へ向け、今にも駆け出そうとしている。
「何をするつもりだ!? ダンデライ!」
「ガッハッハ、知れたこと! ここから先へ逃げた者どもの背を追うのだ! すでに半日は経っているようだが、我が誇る騎馬隊の脚ならば、
吟遊詩人の顔から、さっと血の気が引いた。それだけは、何としても阻止しなければならない。
避難民を乗せた荷馬車で進む第二陣が、学園へ辿り着くまでには、まだ相当な時間を要する。
伯爵軍は、迅速な行軍で知られた騎馬隊だ。このまま身軽な騎兵だけを先行させれば、間違いなく追いつかれ、逃げる民は皆殺しにされる。
第二陣には、戦える妖精が百余名いる。だが、避難民と荷馬車を守りながら、機動力に優れた騎兵を迎え撃つのは、あまりにも分が悪かった。
「そうか、そうか! ダンデライに従うみんなは、ボクの魔法で撃ち抜かれる覚悟ができてるってことで、いいのかな!?」
吟遊詩人は大声で威嚇すると同時に、片手へ凄まじい雷の魔力を集中させた。
指先から紫電が走り、上級魔法『トロン』の光が、薄暗い雪原を鋭く照らす。
正直なところ、学園方面へ全速力で走り去る騎兵にまで、確実に魔法を届かせられるかは分からない。だが、脅しとしては十分すぎる威力だった。少なくとも、砦の近くに陣取る伯爵や、その周囲の騎士であれば、容易に射程へ収められる。
激しい雷光を前に、伯爵は忌々しげに槍を握る手を震わせた。
「待て!」
鋭い命令が飛ぶ。
今まさに駆け出そうとしていた二十騎が、一斉に動きを止めた。
「いいだろう、交換条件だ! 砦に潜む者は、全員、丸腰で外へ出るがいい! 貴様らの命と引き換えに、逃げたネズミどもの追跡はしないと約束してやる!」
その約束を信じられるはずがない。武器を捨てた後で皆殺しにし、改めて第二陣を追わせるつもりかもしれない。
とはいえ、騎士を率いる将である以上、目の前の脅威を無視し、部下の命を無為に散らすほど無謀ではないらしい。少なくとも、吟遊詩人がトロンを放てる状態にある間は、騎兵を軽々しく動かせないと判断してくれたようだ。
僅かではあるが、考えるための時間を得た。この猶予を無駄にはできない。
「ジェラニウム様……いや、ジェラニウム! 中にいる仲間とともに、どうするか考えてくるのだな! 猶予は半刻! それまでは、律儀に待ってやろうぞ!」
吟遊詩人には、あの美少年が選ぶ答えがどうであるのか、おぼろげながら予想できていた。
それでも、伯爵が約束を
吟遊詩人は胸壁から身を乗り出したまま、背後の階段へ向けて叫んだ。
「話は聞こえているね!? みんな、屋上まで来てくれるかなー!」
*****
それから、四半刻。吟遊詩人は依然として、砦の屋上から雪原を見下ろしていた。
先ほど呼び寄せた仲間たちと、胸壁の陰で何やら言葉を交わしているようだ。しかし、伯爵軍からは、吟遊詩人以外の姿を確認できない。
強力な魔法で牽制されている以上、騎兵を不用意に動かすこともできない。半刻の猶予を、最後まで使い切るつもりなのだろう。
だが、砦を包囲する側に、焦りはなかった。学園方面へ配置された騎兵は、中でも馬術に秀でた者たちであり、乗馬も長距離の疾走へ耐えられるよう鍛えられている。第二陣に半日の先行を許していようとも、追跡を始めれば、恐るべき速さで距離を縮められるのだから。
伯爵は勝利を確信したような笑みを浮かべ、持参した携帯食を汚らしく貪っていた。
その
「父上、やはり、おかしいのではないか。たとえソンブル様のご意志であろうとも、何の大義もなく、自国の民や兵と争うなど……」
声を上げたのは、薄青髪の従騎士──伯爵の実の娘だった。
彼女は悪辣な父の血を引きながらも、武器は力なき民を守るために振るうべきだという理想を掲げていた。その正義を行動で示してきたからこそ、領民からの信頼も厚い。
「領土を奪うために虚言を弄し、邪竜信仰を咎めるという大義名分で侵略してくるブロディア兵ならば、分かる。倒さなければならない敵だろう。しかし──」
「くどいぞ、サフィニア!!」
伯爵は口に含んでいた水を雪の上へ吐き捨て、娘を大声で怒鳴りつけた。
薄青髪の従騎士が、びくりと肩を震わせる。
馬まで怯えて身をよじり、彼女は危うく鐙から足を外しかけた。それほど激しい怒声だった。
「邪竜様のご意志もそうだが、何よりクレマチス辺境伯への恩義のためだと、再三言っているだろうが! 我々が伯爵家であり続けられるのは、ペラルゴ様のおかげだと、何度言えば理解する! 恩を仇で返すつもりか!」
伯爵は、この国が掲げる邪竜信仰と同じほど、辺境伯を崇拝している。少なくとも、周囲の者たちには、そう見えるよう振る舞っていた。
だが、それが外向けに作り上げた、都合のいい建前にすぎないことを、娘はとうに見抜いている。
父にとって辺境伯への忠義は、享楽へ溺れ、亡き母を泣かせ続け、領内で悪辣な振る舞いを重ねるための『隠れ蓑』だった。
辺境伯のためだと唱えてさえいれば、付き従う兵たちは納得する。略奪や殺戮すら、忠義を果たすための行いだと正当化できる。
父も、その周囲へ集った者たちも、血に飢えた獣と変わらない。薄青髪の従騎士は、とうの昔に、父との精神的な断絶を済ませていた。
それでも完全に縁を切ることができないのは、肉親への情や愛によるものではない。
ひとえに、領民を守るためだった。
辺境伯から預けられた領土は、東部の一角にすぎない。しかし、そこに暮らす者たちは優れた工芸技術を受け継ぎ、その手仕事によって国を密かに支えてきた、実直な民ばかりである。
愛する領民が父の気まぐれで虐げられることだけは、何としても避けたかった。
ただでさえ最近、領内から姿を消す者が増えている。父の悪政に耐えかね、他領へ逃げたのだろう。父自身は、この程度にも耐えられぬ軟弱な連中だと
だが、どうしても、それだけとは思えない。消えた者たちの行方には、何か血生臭い真実が隠されているのではないか。その疑念が、胸の奥へ刺さったまま抜けずにいた。
「……反抗期でしょうか。では、いっそソンブル様のもとへ送ってみてはいかがです。従順な騎士へ生まれ変われるかもしれませんよ」
父も父で、「それもいいかもしれん」と、本気で検討している様子を見せる。
冗談ではない。邪竜のもとへ送られれば、何をされるか分かったものではなかった。
「……分かっている、父上。我々にとって、ペラルゴ様は大恩人だ……」
従騎士は込み上げる悔しさを飲み込み、従順を装った。
今ここで反抗を続けても、自分の身を危険へ晒すだけで、領民の助けにはならない。
それにしても、この重装兵は一体何者なのか。従騎士は、ローダンを忌々しげに睨みつけた。
吹雪の中から突然現れ、父と密談を交わしただけで信頼を得た、得体の知れない人物である。
時折、屋敷へ姿を見せていた、角を生やす銀髪の女。その関係者であることは間違いないだろう。
身につけている重厚な鎧も、イルシオン重騎士団の正式な装備に見える。だが、国へ仕える正規兵が、フィレネへの遠征にも加わらず、なぜこの辺境にいるのか。何もかもが怪しすぎた。
「はあ……」
父にも、ローダンにも、この現状にも、薄青髪の従騎士は溜息を吐くことしかできなかった。
このように行き詰まった時、彼女の脳裏へ浮かぶのは、いつも一人だけだった。
──
薄青髪の従騎士は、十四歳から現在の立場にいる。
イルシオンでは国法により、貴族も平民も原則四年間の学校教育を受ける。彼女は王都にある、爵位を持つ者へ貴族の心構えや民との接し方を教える学園を選んだ。
中級から最上級クラスまでの三年間は王家の騎士団にも配属され、学業と並行して、現場で経験を積む生活を送っていた。
その
先輩は子爵家の女性で、家格だけなら自分より下だったが、そのようなことは敬意と何の関係もない。
自らの掲げる正義を決して曲げず、陰湿ないじめを繰り返す生徒や、権力にまみれた腐敗教師を、次々と物理的に黙らせていった人物である。不満を抱いた者が仕返しを企てても、父から仕込まれたという先輩の槍術は、あまりに強かった。
卒業の年に開かれた武術大会で、その槍を目の当たりにした時、従騎士が抱いた感想は一つだけである。
『槍では、絶対に勝てない』
そう痛感したからこそ、彼女は斧を手に取った。
斧は槍に対して優位に立てる武器である。それも理由の一つではあった。
しかし、先輩の本当の強さは、槍の腕だけではない。誰に対しても分け隔てなく接し、不正を見過ごさず、たとえ相手が目上の者でも恐れず立ち向かう。その心の強さこそ、彼女が追いつきたいと願ったものだった。
貴族家の令嬢として、その振る舞いは大丈夫なのだろうかと、年下ながら心配したことさえある。そんな先輩なら、卒業後は真っ先に騎士になるものと思っていた。ところが彼女は、『将来、素敵な人と結婚するために、侍従として働く』と言い出したのだ。
騎士への誘いを頑なに断り続けた理由には納得した。だが同時に、酷くもったいないとも感じた。あの腕なら、対ブロディアの戦力として重宝されたことだろう、と。
やがて、自分も学園を卒業した。それから、二年近くが経とうとしている。果たして自分は、騎士を目指す者として、あの先輩に恥じない振る舞いができているのだろうか。
父と同類だと思われたくない。その一心で必死に牙を研ぎ、戦い続けてきた十代だった。
それなのに、今の自分は──。
「先輩。今の私を見たら……酷く、がっかりするのだろうな」
大義もなく同胞を襲う、化け物じみた所業へ加担しようとしている。
いっそ父を裏切り、一人でこの場から離脱してしまおうか。その考えは、何度も頭を
しかし、自分だけが逃げるわけにはいかない。領地には、守らなければならない民がいるのだから。
このまま心を殺し、父へ従うしかないのだろうか。
自分にも、あの先輩のように、正義に反する者へ引導を渡せるだけの確かな『強さ』があれば──。
自己嫌悪に沈みかけた、その時だった。
周囲の兵士たちが、突如としてどよめき始めた。誰もが一斉に、砦の屋上を見上げている。
そこでは、見知った吟遊詩人が両腕を大きく掲げ、何らかの魔法を空へ放とうとしていた。
赤、緑、黄。
三つの光球が互いの周囲を回転しながら、上空へ昇っていく。
「! 直視するな! 全員、伏せろッ!!」
ローダンが鋭く叫ぶ。
だが、薄青髪の従騎士は、命じられるより早く両目を固く閉じていた。
あの魔法ならば、よく知っている。吟遊詩人が口説き文句を並べるついでに、何度も彼女へ見せてきたものだった。
三つの属性を融合して生み出す、『花火』と呼ばれる魔法。
父が深夜に目撃し、この砦まで軍を進めるきっかけとなった合図も、同じ魔法である。
そして、あの男は、花火が放つ光の強さを自在に変えられる。ローダンが警戒したとおり、強烈な閃光による目眩ましを狙っているのだと、彼女も瞬時に理解した。
しかし、上空へ昇った三属性の融合体は、一切の光を放たなかった。バンッ、と大気を震わせる破裂音を残し、空中で弾け飛んだだけである。
「な、なんだと……? 何も起こらんではないか……!」
目眩ましを警戒しながら薄目を開けていた伯爵が、間の抜けた声を漏らす。
ローダンも、周囲の兵士たちも、何が起きているのか理解できず、僅かな間だけ動きを止めた。
その時だ。ドスッ、ドスッ、と肉を貫く鈍い音が続いた。陣形の最前列近くにいた兵士が数名、短い悲鳴を上げ、相次いで落馬していく。
胸に。あるいは、頭に。
深々と矢が突き刺さっていた。
砦の屋上から放たれたものだと、誰の目にも明らかだった。
「ジェラニウム! 貴様!」
「これがボクたちの答えだ、ダンデライ! 心苦しいけどねえ、仕方がない! 殺し合いをしようじゃないか、なあ!」
胸壁から身を乗り出しているのは、薄緑髪の弓使いと男装の麗人。
二人とも悲痛な表情を浮かべていた。
それでも、すでに次の矢を