FEエンゲージ イルシオンの希望   作:あじさいファン

72 / 81
第10章-9:絶望、そして・その9

──こんな地獄を、仲間たちに背負わせたくなどなかった。

 

 

 

 ほんの少し前に遡(さかのぼ)る。

 

 吟遊詩人の呼びかけに応じ、仲間たちと砦の屋上へ向かっている間も、少年は考え続けていた。

 

 伯爵から与えられた半刻。その限られた猶予の中で、誰の血も流すことなく、この窮地を切り抜ける方法を探し続けた。

 

 だが、どれほど知恵を絞っても、答えは見つからない。

 

 砦は三百もの騎兵によって、全方位から包囲されている。正面の大扉から強引に突破することはもちろん、偽装壁を打ち破り、新たな退路を作る策も意味をなさない。どこから出ようと、敵の目から逃れることはできないのだ。

 

 加えて、こちらには激戦の疲労を残す者が多い。敵騎兵を振り切り、徒歩で学園まで逃げるという策は、この時点ですでに破綻していた。

 

 ならば、吟遊詩人の三属性融合魔法を利用し、伯爵軍の目を焼いて逃げるのはどうか。

 

 それも現実的ではない。多少曇っていて薄暗い天候ではあるが、今は太陽が雪原を照らす時間帯であり、夜間と比べれば、閃光による目眩ましの効果は落ちる。

 

 そもそも、三百人全員が同時に空を見上げ、光を直視するとは限らない。三つの魔法を放ち、上空で融合させてから炸裂させるまでには、僅かながら隙も生じる。

 

 何より、ローダンは、あの花火の正体と威力を一度味わっている。魔法を放つ素振りを見せた時点で伯爵へ警告し、兵へ目を伏せさせるだろう。

 

 伯爵を説得する道も、すでに閉ざされていた。吟遊詩人と老騎士から聞いた苛烈な人物像。武器を捨てて外へ出ろという、慈悲の欠片もない要求。どこを見ても、こちらを生かして帰す意図など感じられない。

 

 投降すれば、殺される。あるいは捕らえられ、邪竜への供物として差し出された末、異形兵へ変えられる。いずれにせよ、待っているのは破滅だけだった。

 

 ならば、取り得る手段は一つしかない。

 こちらから先制攻撃を仕掛け、敵の陣形が整うより先に正面を打ち崩す。そのまま砦の堅牢さを利用した籠城戦へ持ち込み、辺境伯本軍が合流するまでに、眼前の伯爵軍から追撃能力を奪う。

 

 第二陣を追う余力も、自分たちを包囲し続ける余力も残さない。そのためには、敵兵を討たなければならない。

 

 つまり。

 

 仲間たちへ、人(・)を(・)殺(・)せ(・)と命じるほかに道はなかった。

 

 これまでの異形兵との戦いとは違う。すでに命を失い、何者かの命令によって動かされている死体を、苦しみから解放するのではない。今も生き、考え、帰りを待つ家族を持つかもしれない同胞へ、刃を向けろと命じるのだ。

 

 

「……! 美少年、泣いているのか……?」

 

 

 吟遊詩人に指摘され、少年は初めて、自分が涙を流していることに気づいた。

 慌てて袖で拭(ぬぐ)っても、次から次へと溢れ出す。胸を切り裂くような罪の重さを前に、止めることなどできなかった。

 

 赤髪と緑髪の兵士、無骨な重騎士、青髪の天馬兵。そして、かつて王兄の近衛を務め、幾度も国境戦へ駆り出された老騎士。

 軍属として武器を握ってきた五人は、戦場で人へ刃を向けることが何を意味するのか知っている。実際に命を奪った経験を持つ者もいるだろう。

 

 だから平気なはずだ、などと思っているわけではない。慣れによって罪が軽くなるはずも、過去に人を殺した者ならば今度も傷つかないはずもない。

 それでも彼らは、自ら軍へ身を置き、国と民を守るために戦う覚悟を選んできた。その覚悟を知った上で、少年はこれまで幾度も力を借りてきた。

 

 救護班の老人は後方で杖を振るう。しかし、傷ついた味方を癒やす行為も、戦いを継続させるという意味では、殺し合いの一端を担うことになる。それを承知で、老人はすでに、最後まで皆を支えると約束してくれていた。

 

 ほかの者たちも、それぞれに戦う理由を持っている。

 

 子爵令嬢は、この逃亡が始まった日に、異形と化した親友を自らの槍で討った。

 吟遊詩人は、つい先ほど、明確な意志を持つ異形兵ネルーケを、自らの炎で焼き尽くしている。

 妖精の村から来た男装の麗人と薄赤髪の剣士も、故郷と同胞を守るため、必要とあらば人へ刃を向ける覚悟を抱いているのだろう。

 

 だが、それは少年が勝手に推し量っているだけだ。誰もが本心では恐ろしく、苦しんでいるかもしれない。

 

 それなのに少年は、彼らの覚悟へ縋(すが)らなければ、全員を生かす策を成立させられない。

 

 中でも、どうしても目を向けられない相手が、一人いた。

 

 

「ナスタ君……ごめん。ごめんね。僕には、どうしても……この方法しか、思いつかないんだ……」

 

 

 薄緑髪の弓使い。

 

 少年の侍従としての後輩である双子と、それほど年齢の変わらない幼い少年。年末に十三歳になるそうで、愛するオルテンシアよりも、さらに若い。

 

 幼い頃から、猟師である厳格な父に鍛えられてきた。弓の腕は正規兵にも引けを取らず、狩る獣へ敬意を払いながらも、必要であれば迷わず矢を放つ強(したた)かさを持っている。

 

 しかし、今から戦う相手は、糧を得るために命をもらう獣ではない。死してなお望まぬ戦いを強いられている、意志なき異形兵でもない。自分たちと同じ国に生まれた、生身の人間である。

 

 イルシオンで成人を迎える十六歳には、まだ遠い。それほど幼い彼の手へ、人の命を奪った記憶を背負わせることなど、本来ならば、決して許されないはずだった。

 

 だが、彼の比類ない狙撃の腕を借りずに勝てるほど、三百の騎兵は甘い相手ではない。

 

 少年は、彼の幼さを理由に戦列から外してやりたいと願いながら、生き延びるためには、その力を最も必要としていた。その矛盾が、胸を千々に引き裂いていく。

 

「ほかのみなさんにも、本当に……申し訳が立ちません。僕の命令で、みなさんの手を……同胞の血で、汚させることになります。僕が、みなさんを……悪魔の尖兵に……」

 震えて言葉を詰まらせながら、少年は自罰の言葉を繰り返した。

 

 

『貴様こそが、新たな暴虐の王だ』

 

 

 脳裏へ、自分自身の声で放たれた呪いのような言葉が蘇る。

 

 自分はもう、ハイアシンス王を否定できる立場にはないのではないか。

 

 名もなき侍従の分際で軍師を名乗り、戦場を盤面のように見立て、人の命を動かしてきた。

 策が思いどおりに嵌まった時、一瞬でも快楽に似た高揚を覚えたことは、否定できない。

 そして今度は、仲間たちへ、生きた同胞を殺せと命じようとしている。

 

 これが悪魔の所業でなくて、何だというのか。

 セピアや邪竜ソンブルと、自分のどこが違うのだろう。

 

 せめて、自分にも伝説の紋章士のような力があれば。

 そこまで望まずとも、仲間と肩を並べて戦える武術の才があれば、この罪悪感も僅かには薄れていたかもしれない。

 

 しかし現実の自分は、戦う力を持たない。仲間に守られ、その背後から策を告げ、危険と罪ばかりを強いる存在だった。

 

 

「……あの」

 薄緑髪の弓使いの両手が、震えていた。

 

 深く俯いているため、その表情までは見えない。消え入りそうな呼びかけの後も、彼はなかなか次の言葉を発しなかった。

 

 少年は身を固くしたまま、ただ、その言葉を待った。

 

 

「僕はとっくに、覚悟を決めてるんだよッ!」

 

 

 薄緑髪の弓使いは顔を上げ、少年の胸ぐらへ力いっぱい掴みかかった。

 

 その頬には、大粒の涙が流れていた。少年の身体が、大きく揺さぶられる。

 

「僕はもう、王城からここに至るまで、何人もの異形兵を射(い)てきた! 異形兵だって、もとは生きていた人間だ! あの姿に変えられる前には、家族も、帰りを待っていた人もいたかもしれない!」

「ナ、ナスタ君……」

「心が残っていないから、もう死んでいたからって、僕があの人たちを貫いた時の痛みまで軽くなるのかよ! 異形兵だったから、何も背負わなくていいなんて、僕は一度も思ってない!」

 

 涙に濡れた目が、少年をまっすぐ射抜いていた。

 

 その言葉を聞いて、少年はようやく気づかされた。

 自分は薄緑髪の弓使いの幼さばかりを見て、彼がこれまで何を思い、何を背負いながら矢を放ってきたのか、一度たりとも正面から見ようとしていなかった。

 

「城門の小部屋でこの弓を手に取った時から、そのつもりでここまで来たんだ。相手が獣でも、異形兵でも、生きた人間でも……みんなの命を奪おうとするなら、僕は逃げない。八年間、お父さんから教わってきたことを、みんなを守るために使うって!」

 彼の声が、雪の舞う屋上へ響き渡る。

「お父さんは、人を殺せなんて教えなかった。生きるために弓を使え、命を奪うなら、その重さから目を逸らすなって教えてくれたんだ。だからッ! 何を射(い)ることになっても、その重さから目を逸らさないッ!」

 

 少年の胸ぐらを掴んでいた手に、いっそう強く力が籠もる。

 

「僕は守られているだけじゃない。ここまで一緒に逃げて、一緒に戦ってきた。命令されたから、何も考えずに矢を放つんじゃない。誰を射るのかも、何を背負うのかも、僕自身がわかった上で、僕の意志で弓を引く!」

 

 ただ守られるべき幼子としてではなく、一人の人間として見てほしい。

 己の意志で戦列へ加わり、すでに命を奪う痛みを背負ってきた、一人の仲間として認めてほしい。

 彼の慟哭(どうこく)は、そう訴えていた。

 

「僕が背負うものまで、あなた一人の罪にするなよ。僕は自分で決めて、守りたい人たちのために弓を引く!」

 薄緑髪の弓使いは少年の胸ぐらから手を離すと、自らの胸へ拳を強く当てた。

「殺すことが正しいなんて言わない。何も悪くないとも言わない。でも、その罪を背負って戦うと決めた僕たちを、悪魔だなんて呼ぶな! 僕らは誰かを苦しめるためじゃない。生き延びて、逃げている人たちを守るために戦う! 違うのかッ!?」

 

 その言葉を受け、少年の膝から力が抜けた。糸が切れたように、雪の上へへたり込む。

 

 薄緑髪の弓使いは涙を乱暴に拭い、周囲の仲間たちを見回した。

 

「僕だけじゃない。みんなだって、命令されるまで何も考えていなかったわけじゃないだろッ!? もう覚悟を決めて、ここに居るはずだよなッ! そうだよなッ!?」

 

 少年は震える身体を抱えながら、顔を上げた。

 

 自分を除く十一名の仲間たちが、誰一人として目を逸らすことなく、こちらを見つめている。

 

 恐れを知らぬ者など、いないだろう。迷いも、痛みも、ためらいもある。それらを呑み込んだ瞳の奥に、それでも退かないという決意が宿っていた。

 

 皆の思いを最初に言葉へ変えたのは、傷だらけの赤髪の兵士だった。

 

「ナスタの言うとおりだ。あんただけが背負う罪じゃねえ。俺たちが自分で選んで、全員で分かち合う地獄なんだぜ。一人で格好つけて、全部自分のせいにしてんじゃねえよ。軍師様」

「そうよ。王城で私が何を言ったのか、もう忘れたわけ?」

 

 赤髪の兵士の言葉を継ぎ、子爵令嬢が、へたり込む少年へ顔を近づけた。

 

 忘れるはずがない。異形と化したそばかすの同僚を討った直後、その罪を自分一人で抱え込もうとした少年へ、思い上がるなと、涙ながらに叱ってくれた彼女の言葉を。

 

「そう。敵が何者であろうと、私たちのすることは変わらない。守るべきものを守るため、私たちは、自分で選んで軍師に従う」

「逃げてきた民を、全員生き延びさせるのだろう、少年。我々は王城を出た時から、ずっとお前を信じているぞ」

「はわわ……もし自分の保身しか考えていない、酷い命令だったなら、とっくにわたしが殴り飛ばしていますよお。そうしない意味、ちゃんとわかってくれていますかねえ?」

 

 緑髪の兵士、無骨な重騎士、青髪の天馬兵が、それぞれの言葉で思いを告げた。

 

 この数日、彼らは幾度も絶望的な苦境へ追い込まれた。そのたび、少年の奇策と決断を信じ、ともに死線を越えてきた。

 

 少年が掲げた『全員生存』の理想を、彼らは命を預けるに足るものだと認めてくれている。

 

「我々も同じだ。眼下にいるのは、おれたちが忌み嫌ってきたものを具現したような連中。……人へ矢を射(い)ることに、恐れなどない。故郷と仲間を守るためならば、おれは容赦なく弦(つる)を引く」

「アデルファ。無理に強がっても無駄ですわよ。動物すら、まともに殺せなかった貴方が。でも、それほどの覚悟を、すでに決めているということですわね。ですから軍師殿も、わたくしたちの決意まで背負おうとなさらないでくださいませ」

 

 妖精の二人が、少年を労(いたわ)ってくれた。

 

 男装の麗人の凛とした態度には、恐怖を押し隠すための虚勢も含まれているのだろう。だが、怖くないから立ち向かえるのではない。

 恐怖を抱えたまま、それでも立つと決めたからこそ、その姿は何より頼もしかった。

 

「未来ある若者が、奪った命の重みを背負う苦痛。この老骨にも、理解しているつもりです。ですから、私が先陣を切りましょう。流れる血の痛みは、このガランサスが、少しでも多く引き受けます」

「無論、ナスタ殿が自ら選んだと言えば、我々大人の責任が消えるわけではありません。彼が背負う痛みを支え、別の道を探し続けることも、我々の務めです。そして知恵を絞り、軍師殿を補佐することも。若き御身一人へ、すべての重責を背負わせるわけにはまいりませんからな」

 

 老騎士は険しくも、深い慈愛を宿した眼差しで告げた。

 長きにわたる国境戦で、数多の命を屠(ほふ)ってきた者だからこそ、その言葉には、誰より深い血の重みがある。

 

 救護班の老人も、皺の刻まれた目元を細めていた。

 自らは刃を振るわない。それでも、長い人生で培ってきた知恵のすべてを、少年と若者たちのために使い尽くそうとしてくれている。

 

「……ありがとう、美少年」

 最後に、眼下の敵軍を警戒していた吟遊詩人が、静かに口を開いた。

「ダンデライの兵は、ボクの家──クレマチス辺境伯家に連なる者たちでもある。……ボクの今後の立場を慮(おもんぱか)って、ためらってくれたところもあるんだろう?」

 

 図星だった。少年は嗚咽(おえつ)を漏らしながら、小さく頷いた。

 

 吟遊詩人は、いつものように冗談で茶化そうとはしなかった。寂しげでありながら、それ以上に決然とした表情で、僅かに笑う。

 

「彼らを生かすか、キミたちを生かすか。そう問われたなら、ボクは迷わずキミたちを選ぶ。付き合いの長さなど、もはや何の免罪符にもならない」

 翡翠の瞳が、眼下の軍勢へ向けられた。

「はっきり言うがね。自領の民を犠牲にして平然としているダンデライは、辺境にとっての『恥』だった。彼へ従い、罪なき民を供物として差し出してきた者たちも、見過ごすわけにはいかない。……彼らを断罪する機会を与えてくれたことに、感謝しているよ」

 

 その瞳に宿るのは、燃え盛る怒りではない。澄み切った氷のような、冷徹な光だった。次期辺境伯となる者として、故郷を蝕んできた罪を断たなければならない。そんな後戻りのできない決意が、そこにはあった。

 

 そうだ。皆は、少年に命じられたから、何も考えず従うのではない。それぞれが恐怖と罪を見つめ、自らの意志で、この戦いを選ぼうとしている。

 

 ならば、少年一人が、自分だけの罪であるかのように抱え込み、いつまでも立ち止まっているわけにはいかなかった。

 

 伯爵軍の兵にも、家族がいるだろう。守るべき大切なものがあり、自らが正しいと信じる理由を持つ者もいるはずだ。

 

 戦争は、善と悪の二つだけで割り切れるものではない。そのことなど、少年もとうに理解している。

 

 これから見知らぬ誰かを悲しませ、誰かの人生を奪う。その事実へ、胸の引き裂かれるような痛みを覚えずにはいられない。

 

 だが、だからといって、こちらが一方的に蹂躙(じゅうりん)される道理など、どこにもないのだ。

 

 敵はこちらを、砦へ追いつめられ、怯えて投降を待つだけの無力な鼠だと侮っている。その傲慢な思い込みこそ、戦局を覆す最大の隙となる。

 

 戦える者は、僅か十一名。対する敵は、三百騎。

 数の差を覆すには、こちらから先制攻撃を仕掛け、敵が優位を活かすより早く、砦の地形を利用した防衛陣形へ持ち込むしかない。敵の統制が戻る前に、主導権を奪い取るのだ。

 

「それで、どうする、美少年? 指定された半刻の刻限まで、話し合いを引き延ばすかい?」

 吟遊詩人の提案は、軍略としては真っ当だった。

 

 今も北へ逃げ続けている第二陣のことを考えれば、一瞬でも長く時間を稼ぐ方がいい。

 

 しかし、その事情は、敵将も理解しているはずだ。それでも半刻もの猶予を与えたということは、たとえその後に逃げられても、騎兵の機動力ならば容易に追いつけるという自信があるのだろう。

 

 こちらが恐怖に震え、策もなく話し合いを続けていると油断しきっている今こそ、奇襲が最も深く突き刺さる瞬間だった。

 

「……いいえ」

 少年は、膝についた雪を払い、静かに立ち上がった。

 

 瞳から涙が消えたわけではない。迷いも、罪の痛みも、これから先まで決して消えないだろう。

 

 それでも、そのすべてを抱えて決断するのが、軍師としての務めだった。

 

 

──ここにいる仲間と、逃げ続ける民を、必ず生き延びさせるために。

 

 

 少年は仲間たちをまっすぐ見渡し、腹の底から絞り出すような声で、決断を告げた。

 

 

「みなさん、お願いします。僕と一緒に……地獄へ落ちてください」

 

 

 

*****

 

 

「なんとも馬鹿な連中だ! 指定された半刻すら待てず、仕掛けてくるとはな!」

 強がるように吐き捨てる伯爵の顔からは、先ほどまでの余裕が消えていた。

 

 砦の屋上から放たれた、二人の弓兵による正確無比な狙撃。

 兵が相次いで射抜かれるや、伯爵は槍を振り上げ、部隊へ命令を下した。

 

「北へ陣取る者ども! そのまま北上せよ! 邪竜ソンブル様のご意志へ背き、逃げ出したネズミどもを、一人残らず轢(ひ)き殺すのだ!」

 

 号令に応じ、砦の北側へ展開していた二十騎ほどの部隊が、一斉に馬首を巡らせた。雪を蹴立て、北へ向かって疾走を始める。

 

 伯爵家が誇る精鋭騎兵である。逃亡した民の中に百名ほどの護衛が混じっていようとも、その機動力と突破力をもってすれば、容易に蹂躙(じゅうりん)できる。伯爵は、そう確信していた。

 

「弓騎兵部隊、魔道騎兵部隊! 敵は屋上だ! あの鬱陶(うっとう)しい射手どもを、全員殺せ!」

 

 砦から距離を取り、陣を構えていた遠距離部隊へも、矢継ぎ早に指示を飛ばす。胸壁から身を乗り出して矢を放つ二人へ攻撃を集中させ、弾幕で射抜くつもりなのだ。

 

 だが、屋上にいる辺境伯の息子も黙ってはいない。強大な風魔法を操り、いまだ統制を取り戻せずにいる包囲部隊へ、牽制の刃を乱れ撃つ。

 

 屋上の三人を仕留めれば、敵の戦力を大きく削げる。伯爵はそう目論んでいた。

 

 しかし、その時。

 正門と対峙していた近接部隊の方角から、一人の兵士が、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で駆け戻ってきた。

 

 その口から、伯爵とローダンにとって、最悪の報告がもたらされる。

 

「ぜ、前線の部隊が……瞬く間に突破されました……! 敵の歩兵部隊が、正門から一斉に突撃してきています!」

「なんだと!? 馬鹿な! これほどの包囲網を、たった十人ほどで突破できるはずがなかろう!」

 

 伯爵が怒鳴りつける。兵士は、血の気を失った顔を引き攣(つ)らせ、全身を震わせていた。

 

「空へ放たれた魔法に対し、ローダン殿の指示で、我々は咄嗟に目を伏せました! ですが、光は来ず……!」

 兵士は恐怖と悔恨に顔を歪め、声を振り絞った。

「顔を上げた時には、もう目の前にいたのです! 虚を突かれた隙に、城門から規格外の猛者たちが殺到してきて……!」

 

 三百の軍勢とはいえ、砦の全方位を包囲し、さらに後衛の遠距離部隊と、北へ向かう追撃部隊にも戦力を分けていた。

 

 正門前へ配置されていた近接部隊は、数十名にすぎない。いかに精鋭であろうと、目を伏せて無防備となり、完全に虚を突かれた集団である。

 

 そこへ、極限の死線を幾度も潜り抜けてきた戦士たちが、一斉に襲いかかった。隊列を整え直す時間など、与えられるはずもない。前線の陣形は、文字どおり瞬く間に粉砕された。

 

「あの小僧……! 私の警戒心すら逆手に取って、利用したのか……!」

 真相を悟ったローダンが、屈辱に顔を歪め、激昂した。

 

 敵の軍師は、齢(よわい)十六ほどの少年だという。

 最初に報告を受けた時、伯爵は、そんな子供に自分たちが出し抜かれるはずはないと高を括っていた。だが、ここに至っては、驚愕と焦燥に顔を引き攣(つ)らせるしかない。

 

「おのれ、このまま連中を調子に乗らせてはならん! サフィニア、貴様に戦功をくれてやる! たった十人ほどだ、数の暴力で捻り潰してこい!」

 その間に伯爵自身は、手薄になった砦へ突入して内部を制圧し、逃げ場を完全に塞ぐつもりなのだと吠えた。

 

 名指しされた薄青髪の従騎士は、胸の内で重い溜息をついた。

 

 邪竜のためという大義すら怪しい、自国民同士の殺し合い。そこに何の名誉も見いだせない彼女にとって、父の命令は苦痛でしかない。

 

「……わかった。五十騎ほど、貸し与えてくれ。何とかしてみせる」

 

 できることなら、誰の命も奪わず、この不毛な戦いを終わらせたい。

 しかし、相手が覚悟を決め、先制攻撃を仕掛けてきた以上、そんな淡い願いが叶うはずもなかった。

 

「ガッハッハ、いいだろう! 連中を外と中から挟撃してやろうではないか!」

 

 

──いっそ、この父こそ敵の策に嵌まり、挟撃されて痛い目を見ればいいのではないか。

 

 

 そんな黒い思いを胸の隅へ押し込み、薄青髪の従騎士は五十の部下を率いて、崩された前線へ馬を走らせた。

 

 敵は死に物狂いで抵抗するだろう。それでも、何とか一人も殺さず、生け捕りにできないものか。甘いと知りながら、なおもその可能性を探し続ける。

 

 

 

 やがて最前線へ到着した彼女は、乱戦の中で猛威を振るう『ある人物』を目にし、雷に打たれたように硬直した。

 

 血と泥にまみれた、ぼろぼろの侍従服。それでも、金糸のように美しい髪を翻し、神速の槍捌きで騎兵を圧倒する一人の女性。洗練された動きには、迷いも恐怖もない。

 

「……ライラ先輩……?」

 薄青髪の従騎士は、呆然とその名を呟いた。

 

 かつて学園で圧倒的な武威へ憧れ、その背中へ追いつくために斧を手に取るきっかけとなった、比類なき気高い人物。

 

 憧れ続けた先輩が今、敵として、彼女の目の前に立っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。