ただ、そのときの自分は、『ヴェイル様に蘇らせられた』という事実をまったく認識していなかった。イルシオン重騎士団で長らく世話になった先輩、カラバッシュ殿から、砦の前で自分がすでに死んでいると指摘されるまでは。
アビュームにもきっとその自覚はなかったのだろう。ヴェイル様も、その
新たな
ただし、クレマチス辺境伯領だけは、密約があるため手を出すなと厳命された。その密約とやらの内実を教えられることはなかったが、絶対的な
だが、ひとつだけ妙な変化があった。
アビュームが、分厚い重装の鎧を脱ぎ捨てていたのだ。
重騎士団へ入ってでも自分とずっと一緒に居たいと笑い、深く懐いてくれていた彼女に、どのような心境の変化があったのか。問いただしてみると、彼女はただ虚ろに『ヴェイル様の指示だ』と短く返した。
重装の鎧は、彼女にとっても、我々の絆を示す誇りであったはずなのに。
拭いきれぬ違和感を覚え、恐る恐るヴェイル様へ理由を問うと、彼女は目を細め、無邪気で残酷な笑みを浮かべて答えてくださった。
『その方が都合が良いのです。彼女には強靭な筋力がありますが、鎧のせいで高い攻撃力が阻害されていることがわかりました。何のしがらみもなく、最前線で敵を屠ってくれる
それに、
一見、もっともらしい説明であった。
──死ぬ直前になった、今だからこそわかる。
その言葉が、かつて自分たちを苛立たせた、あのハイアシンス王の正室がほざいていた『鎧を脱いだ方が身軽に動けるから強くなる』という素人の暴論を、否応なく思い起こさせたからだ。
実際、アビュームはその後、軽装の狂戦士として防御を捨て、各地の町を無慈悲に襲撃し、多くの死体を献上してみせた。
結果だけを見れば、確かに正しい采配だったのだろう。しかし、かつて二人で誓い合った約束と、重騎士としての名誉を土足で踏みにじられたような屈辱は、当時から無意識の底へこびりついていた。
それでも、ヴェイル様への忠誠心だけは、異常なほどに高まっていった。それが、異形兵として蘇らせられた呪縛ゆえだったのだと、今ははっきりと理解できる。
自分は湧き上がる違和感を無視し、アビュームに負けじと町を襲い、主の望む戦果を淡々と上げ続けた。
そうして、今から半月近く前のこと。
死体献上の功績を認められ、自分はあの小賢しいネルーケと共に、クレマチス辺境伯領へと向かう命を受けた。
来たるフィレネとの大戦争に備え、万が一イルシオンの本軍が敗走した際、勢いに乗った神竜軍は海路でイルシオンへと攻め上ってくるだろう。
それを逃げ場のない港で一網打尽にすべく、軍を動かす辺境伯との打ち合わせを行う使者としての
辺境伯のことは、事前にヴェイル様から『私の忠実なる
辺境伯の息子の合図を受けて、ロビュスト砦付近の森へ潜ませている無数の異形兵を、本軍と合流させる。ただ、それだけを伝える話だった。
しかし、この総数で数千にも及ぶ異形兵の群れは、神竜軍の追討だけのために用意されたものではなかった。
城内にもその鼠を殺すための罠を仕掛けるが、小賢しい奴のことだ、抜け出してしまうかもしれない。そうなれば、逃亡者は追手の少ない北を目指し、まずロビュスト砦へ逃げ込むだろう。その道を読み、待ち伏せて確実に殺せという裏の指令が含まれていたのだ。
辺境伯の息子が砦で待ち構え、逃亡者を殺戮すべく内部で暴れ始めたら、外から大量の異形兵で完全に包囲し、圧殺する。そんな算段だった。
それは、自分がかつて憧れた、聖騎士シグルドに従ったという重騎士の戦い方そのものであった。ゆえに自分は、内心で酷く高揚していた。ヴェイル様に逆らう哀れな逃亡者を討つことは、己の誇りを満たす聖戦となるはずだったのだ。
……だが、その完璧なはずの作戦は。
何もかも、あり得ないほどの誤算が重なり、無残に破綻してしまった。
辺境伯の息子が、最初から我々を裏切る気であったこと。
自分とネルーケが手をこまねいている間に、中性的な外見をした異常に強い軍勢が荷馬車を伴って東から現れたこと。
セピアが忌み嫌っていた『鼠』が驚異的な強運を持ち、何より、一介の侍従とは思えぬほど悪魔的に知恵の回る軍師であったこと。
そして──あろうことか、神竜の仲間たちが、この辺境の地にまで駆けつけてしまったこと。
いくらオルテンシア王女がお気に入りの少年を探していたとしても、広大なイルシオンの中から、迷わずこのロビュスト砦へ救援に来られる道筋などなかったはずだ。
ここで戦が起きていると知る何者かが、神竜側へ情報を流したのだとしか思えない。
その予期せぬ介入のせいで、自分は今、こうして
アビュームは、リンデンの
今、自分の腹に魔法剣を突き立てているフィレネの姫は、無慈悲にも傷口の中で刃を回し、臓腑を焼き焦がしている。そのくせ、『本当は貴方を殺したくなかった』とでも言いたげな、偽善に満ちた悲痛な表情を浮かべていた。
侮辱だ。
どこまでも自分たちを
村の子供たちも、陛下の正室も、ヴェイルも、
そんなに、どいつもこいつも、弱い自分たちをいじめるのが楽しいのか。身勝手な理屈で我々からすべてを奪い、それでも平然と生きていられると思うな。
──貴様らにも、因果応報を味わわせてやる。
かつて村で、アビュームと私をいじめていたあの陰険なクズどもが、残虐な盗賊の凶刃にかかり、無惨に殺されたときのように……。
そうだ。連中は、私に
お望みなら見せてやろう。
私の命をかけた全身全霊の……。
*****
「……こ、れ以上……」
ローダンは弱々しく呟いた。
そして、セリーヌの握る『いかづちの剣』の刀身へ
──本当に憎らしいほどに、愛らしい顔をしている。
こんな戦争さえなければ、平和なフィレネ王国から出ることすらなく、温かな生を全うしていたのではないかと思えるほどに。さぞ、男からも女からも愛されているに違いない。ローダンは、そう思った。
その顔を、絶望で醜く歪ませてやれるのならば。
自らの命と引き換えにしてでも、この女を、そして自分たちを苦しめた周りの連中を道連れにするのも悪くはない。
そんなローダンのどす黒い怨念を読んでいるのか、いないのか。
セリーヌは更に剣へ力を込め、無慈悲に魔力を放った。強烈な電撃がローダンの体内を駆け巡り、その巨躯を内側から破壊していく。
激痛。
同時に、異形兵としての限界を迎えつつあった彼の巨躯は、すでに足元からボロボロと灰になり始めていた。
「私達を……いじ、めるなァァァッ!」
血を吐くような呪詛を放ち終えると同時に、ローダンは大きく息を吸い込んだ。
その場にある空気を、すべて己の肺腑へ飲み込んでしまうかのような、異常なまでの吸気。
「な、何……?」
その不可解な行動に、セリーヌの表情へ困惑の色が浮かぶ。ローダンの臓腑を抉る剣を押し込んでいた手が、ほんの一瞬だけ止まった。
その異様な兆候を、オルテンシアの前、ペガサスの鞍上から遠巻きに見ていた少年は、瞬時に意図を察した。
「セリーヌ王女! その近くにいる者も! 全員、すぐに
他国の王女に対する敬意も、普段の丁寧な物腰もかなぐり捨てて、少年は喉が裂けんばかりの大声で指示を飛ばした。
少年は知っている。
合流する前、正門を守っていた無骨な重騎士が、至近距離でローダンの『叫び』を浴び、どれほどの傷を負ったのかを。同じ目に遭わせてはならないと、必死の形相で呼びかけた。
何が起こるか理解していなかったセリーヌにも、少年の必死の形相から、ただならぬ危機だけは瞬時に伝わった。彼女はすぐさまいかづちの剣から手を離して後方へ跳び退き、両手で強く耳を塞いだ。
これまで少年と共に籠城戦を戦い抜いてきた仲間たちも、即座にその意図を察する。オルテンシアをはじめとする神竜の仲間たちもまた、ただならぬ脅威を悟り、一斉に耳を塞いだ。
「ギアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
直後。空気を、大地を、そして人々の精神すら切り裂くような絶叫が、戦場に轟き渡った。それは、少年たちが籠城戦で聞いてきたどの『叫び』よりも凄まじく、あまりにも長い断末魔だった。
ローダンの身体が、耐えきれずに取り返しのつかないほど深くひび割れていく。だが、すでに死を待つだけだった彼にとって、もはや己の肉体がどうなろうと知ったことではなかった。
──この雪原の周囲に潜ませている、未召喚の異形兵。総数七百。
そのすべてを、この最後の一声で召喚しきってから死ぬ。それこそが、彼の最期の復讐だった。
真正面で音波の直撃を受けたセリーヌは、気絶しそうになる意識を必死に繋ぎ止めていた。
耳を塞いでいてなお、脳が揺れるほどの凄まじい衝撃。もし少年の指示が僅かでも遅れていれば、鼓膜が破れるだけでは済まず、その場で意識を断たれていたかもしれない。
長く、果てしなく続く絶叫。
やがてローダンの身体は、自ら放つ破壊的な魔力と呪いに耐えきれず、吼えながら──内側から激しく弾け飛んだ。
ローダンの巨体が砕け、無惨な灰となって雪原へ飛び散っていく。それと同時に、ようやく破壊的な『音』の奔流が途絶えた。
「な……なに? 決死の攻撃だったってわけ……?」
少年の背後で、オルテンシアが困惑の声を上げる。
彼女も少年の警告に応じてすぐさま耳を塞いだうえ、大きく離れていたため、さほどの傷は負っていない。
しかし、至近距離にいたセリーヌは相当な衝撃を受けたらしく、雪原へ
「大変! 大丈夫、セリーヌ王女!?」
オルテンシアはペガサスに括りつけていた袋から『
同時に、救護班の老人も杖へ魔力を込める。
二重の回復魔法。セリーヌは呻き声を漏らしながらも、ひとまず自力で身を起こせるまでに回復したようだった。
しかし。
「みなさん! 周りを見てください……!!」
ロサードの背後に浮遊する紋章士エイリークが、血相を変えて叫んだ。彼女の兄、紋章士エフラムもまた、苦虫を噛み潰したような険しい顔で周囲を睨みつけている。
「異形兵……!」
スタルークの背後に立つ紋章士リーフが、即座に槍を構え、迎撃の態勢をとった。
少年も彼らの声に反応し、周囲の雪原を見渡す。
そこには、自分たちを幾重にも包囲する、絶望的な数の異形兵が群れを成していた。
歩兵、騎兵、飛行兵。得物も剣、槍、斧、弓、そして魔道と、あらゆる兵種が入り混じっている。
これまでの籠城戦で何度も苦しめられた
その総数は、ネルーケの口から聞かされていた残存数『七百』と、概ね合致しているように思われた。
辺りにはまだ、伯爵軍の兵士たちも残っている。
だがローダンにとってはもはや、伯爵軍が巻き添えになろうが、統率を失った異形兵同士が共食いを始めようが、どうでもよかった。この場に集う忌まわしい者たちを、一人残らず圧殺できるのならば、手段など選ぶつもりはなかったのである。
「……この数は手強いな。でも、泣き言は言っていられなさそうだ」
前線で戦っていた紋章士ベレトが、オルテンシアたちの元へ戻ってきた。迫り来る異形兵の群れを見据え、天帝の剣を手に迎撃の構えを取る。
西からは、間もなく異形と化した辺境伯の大軍が到着するという。その前に、この圧倒的な群れを相手に生き残らなければならないのか。
底知れぬ絶望が、少年の胸を冷たく締めつける。それでも、まずは眼前の最悪をどう凌ぐか。軍師として、持てる思考のすべてを戦場へ注ぎ込んだ。
*****
ローダンは、身体が砕け散っていく中で、なお微かな意識を保っていた。
人間であれば到底耐えられぬ苦痛の中で、異形兵という呪われた身体ゆえに、死の間際だけが引き延ばされている。
もはや、いかなる治癒の手立てもない。彼は、自らの絶叫によって呼び出された異形兵の群れに、敵対する軍勢が慌てふためく様を最期の
──最後まで、奮闘した。誰もが私を褒めてくれるだろうか。
ネルーケ。貴様の死を無駄にしてしまってすまない。あの世があるなら素直に詫びたい。互いに辛かったな。とびきり上質な酒を奢ろう。
亡きハイアシンス陛下。申し訳ございません。何一つ、恩義に報いることは叶いませんでした。
そして……アビューム……。
……優しき日々の
死の淵で脳裏に浮かぶのは、自分を蘇らせたヴェイルへの、狂わされた忠誠などではない。王都の孤児院で過ごした日々。たった一人の家族であったアビュームと交わした、ささやかな約束の記憶だった。
『私たちが、誰にも恥じないくらいの騎士になれたら、結婚しない?』
それは、ローダンが従騎士として経験を積み、いよいよ憧れの王城へ上がる直前のことであった。妹のように可愛がり、守り抜いてきたアビュームから、明確な愛の告白を受けたのだ。
だが、当時のローダンは、不器用なまでに騎士としての道を歩むことしか頭になかった。
『考えておこう』
その素っ気ない返事に、彼女は少し寂しそうな、それでも、これでこそ自分の愛する男なのだとでも言うような、慈しみに満ちた瞳を向けてくれた。
あんな無骨な返事ではなく、あの場で、しっかりと想いへ応えるべきだったのかもしれない。灰になりゆく今になって、そんな痛切な後悔が胸を締め付ける。
『固い、強い、遅い。あの伝承の重騎士のように、我々は胸を張れる人物になるんだ』
そんな祈りを共に分かち合い、誰にも恥じぬ騎士となるため、
……一体どこで狂ってしまったのだろうか。
やはり、フィレネの地で、
直接手を下したのが意志を持たぬ異形兵だったとはいえ、その指揮を執っていたのは他でもない自分である。そこに言い訳の余地などない。ローダンは暗い絶望の中で自嘲した。
そういえば。
あのとき、フィレネ王女の近衛二名を救援するため現れた集団に混じっていた、白馬に
──あれこそが、
伝説の聖騎士と敵対した以上、自分は、彼に付き従ったあの誇り高き重騎士とは対極にある、邪悪な存在へ成り果てていたのだ。
死後の身とはいえ、ヴェイルの指示のままに自国の罪なき民までも襲い、屍を
かつて
しかし、彼は最期まで清廉な騎士であり続けた。
主君と共に炎に焼かれ、死ぬその瞬間まで、後ろめたいことなどただの一度たりともしなかったはずなのだ。
志半ばで炎に包まれ、命を落とすという、その末路だけが共通していたのだとしても。
──私は、あの崇高な重騎士
取り返しがつかなくなってから、ようやく悟る。
道を間違えさえしなければ、アビュームも、自分も、このように無惨な死を迎えることなどなかったかもしれないのに。
もし、神竜の軍勢と肩を並べ、正しきもののために戦えていたのならば。
死体となってまで、己の罪に
真に守るべきもののために戦うという確かな誇りを胸に、この槍を振るえていたのだろうか。
『いつも私のこと
在りし日の、愛しい彼女の明るい声が、幻聴のように脳裏に鳴り響く。
──これからは、永遠に
静かな、そして、もはや決して叶わぬ誓いを最期に。
ローダンは、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、冷たい雪原を漂う灰となり、完全に消失していった……。