「ひ、ひ、ひィーッ‼︎」
この邪悪な狂乱の戦場において、誰よりも情けない悲鳴を上げたのは、つい先程まで軍師の少年を嬉々として処刑せんとしていた悪辣な伯爵であった。
ローダンの自爆の爆心地から距離があったため、音波による直接的な影響は軽微だったが、彼の精神はすでに恐慌状態にあった。
ローダンからは事前に、この周囲にはまだ召喚を済ませていない異形兵の群れが潜んでいると聞かされてはいた。だが、これ以上の連続召喚は召喚者本人の肉体が崩壊する危険があるとして、邪竜の娘ヴェイルが魔力の再充填に訪れるまでは、放置しておく手筈だったはずなのだ。
それを、あの男は自滅を代償にした決死の咆哮で呼び覚ました。
当然、統率者を失った彼らに敵味方の判別などつくはずもなく、雪原から湧き出した異形兵の群れは、神竜の軍勢のみならず伯爵軍の兵士たちへも等しく襲い掛かり始めていた。
こうなっては、部下達を囮にして自分だけ西へ逃げ延びるしかない。やがて到着する本隊である辺境伯の軍勢と合流したのち、この場にいる忌まわしい連中を異形兵ごとまとめてすり潰した方が遥かに得策だ。
伯爵は己の保身のみを優先し、急いで馬に飛び乗ると、戦場からの離脱を図った。
「く……逃亡阻止じゃ!」
だが、それを咎めるべく、カゲツが神速の踏み込みで距離を詰める。
馬を駆る伯爵の初動よりも遥かに速い。抜刀と同時に放たれた鋭い一閃が、伯爵を背後から一刀のもとに切り伏せんとした、その瞬間。
二人の間に、凄まじい速度で割って入った者がいた。ローダンが護衛として呼び出していた、異形と化した
気功術の極致、『チェインガード』の絶対原則の前では、たとえ百戦錬磨の剣士であるカゲツの刃であっても逆らうことはできない。
華麗な太刀筋から放たれた必殺の剣撃は、本来ならば伯爵を馬ごと引き裂くはずだったが、見えない気功の壁によって威力の大部分を殺され、
「『姑息』な……!」
カゲツの攻撃が生んだ僅かな隙を逃さじと、ゼルコバが無音で数本のナイフを投擲する。しかし、
もちろん、すでに無傷ではなくなった異形兵は『チェインガード』の発動条件を満たしていない。猛毒が塗られた短剣は、異形兵の身体へ深々と突き刺さっていく。
「駄目じゃ、ゼルコバ! これ以上はあの男を追えぬ!」
邪魔な肉の壁の処理を手早く終わらせた頃には、すでに伯爵は馬を駆け、徒歩では到底追いつけない位置まで遠ざかってしまっていた。
ゼルコバの得意とするナイフの射程圏内からも外れている。彼は冷徹な計算で現在の戦況を即座に見極め、自分たちがどう立ち回るべきかを弾き出した。
「……オルテンシア様のところへ。異形兵を『迎撃』しよう」
「うむうむ! あの男の追跡はクロエたちに任せようぞ!」
……しかし、その上空でも、伯爵への追撃は不可能という判断が下されていた。
「逃がすわけには……でも……!」
「はわわ……仲間達の援護を最優先にしませんか! 綺麗なグリフォン乗りのひと!」
クロエと、青髪の天馬兵。
空を駆ける二騎が急降下して伯爵を仕留めることは可能だったかもしれない。
だが、眼下の地上では、すでに何百という異形兵の群れが味方に向かって一斉に襲い掛かろうとしている。もし自分たちが敵将を追って孤立すれば、地上の防衛線が瓦解し、逆に仲間の足を引っ張る結果になりかねなかった。
死の危険すらも至上の悦楽とする天馬兵でさえ、この状況を無邪気に楽しむ気にはなれなかった。自分が
試しにと、二人同時に上空から手槍を投げつけて牽制を試みたが、やはり乱戦の雪原では狙いが定まらない。放たれた槍は、怒涛のように押し寄せてくる異形兵の群れの只中へと虚しく突き刺さるのみであった。
「そうね……! セリーヌ様も援護しないと! 手伝ってくれるかしら? え、ええと……」
「あ、名前ですかあ? バニラですよぉ」
「いい名前ね! わたしはクロエよ! よろしく!」
敬愛する主君を、そして命を懸けて戦う仲間たちを援護するために。
この戦いで出会ったばかりの飛行兵二名は、互いの呼吸を合わせながら、弓や風魔法の射線に気を付けるよう声を掛け合い、乱戦の地上へと急降下していった。
*****
「こ、ここまで逃げればもう安心だろう……クソッ、何故ワシがこんな目に遭わねばならんのだ!」
雪煙を上げて馬を走らせながら、伯爵は悪態をついた。
無為に襲い掛かってくる異形兵の群れと、執拗に背後を狙ってきた第二王女の仲間とおぼしき軍勢を撒き、大きく西へと離脱することに成功していた。
想定外の事態が、あまりにも連続して起こりすぎている。
そもそも、伯爵軍がこのロビュスト砦まで出向いてきたのは、辺境伯の息子が裏切っていた場合のための保険であったはず。
辺境伯の本隊より先んじてここに辿り着き、あの『花火』による合図が正しければ、部下の一人に早馬を飛ばさせてその旨を報告する。
もし嘘であれば、辺境伯の息子を処断し、生きている逃亡者がいるのであれば自分の軍勢で皆殺しにする。
すべては、これから神竜の軍勢と戦う本隊──辺境伯の軍勢を疲弊させないための、セピアによる狡猾な進言であった。
実際、危惧していた通り、辺境伯の息子は邪竜に従うつもりなど欠片もなかったらしい。
あの大規模な『花火』は、ローダンらへの目眩ましであり、父である辺境伯が到着する前に決着をつけたかったらしいが、それより早く
圧倒的な兵力をもって、敵の『頭脳』であるあの小賢しい軍師を人質に捕らえ、処刑寸前まで追い詰めたところまでは、完璧なまでに順風満帆だったはずなのだ。
それがどうして、神竜の軍勢や第二王女と直接戦う羽目になるのか。
しかも、失われたはずの紋章士とおぼしき霊体のような戦士まで使役し、確実に自分の首を取ろうと襲いかかってきた。となれば、あの娘は完全に国を裏切り、神竜の軍勢に
自国の正義に対する裏切り行為。恥知らずにも程があるその思考に、伯爵は腹の底から怒りが沸き上がるのを感じた。
「いくら紋章士の加護があろうとも、三千を超える兵の前にあの少数ではどうしようもあるまい! 待っておれ、間もなく無残に引き潰してくれようぞ」
とにかく、今は辺境伯軍との合流が最優先だ。
人間と異形兵が入り混じったあの軍勢は、もともと神竜の軍勢と正面から戦うために編成されたものだ。紋章士が相手になることもとうに想定しているだろうし、何より、その辺りの兵や領民が、あるいは辺境伯自身が死のうと、自分の心は少しも痛まない。
自分さえ生きていれば、それでいいのだから。
だが、まだ辺境伯の軍勢の影すら見えない。到着には、早くともあと一日近くはかかるだろう。少しでも進軍を早めさせるために、こちらから合流しなければ……。
そう思って、馬に強く鞭を打ち、さらにこの場から遠ざかろうとした。
そのときだった。
「父上。どこに向かわれるのだ? 少しばかり
逃走する伯爵の行く手を阻むように、暗い雪道の前方に、重厚な斧を構え、冷ややかな殺気を纏った実の娘──薄青髪の従騎士が、静かに立ちはだかっていた。
「く……おのれ!」
逃走を完全に阻まれた伯爵は、
薄青髪の従騎士の周囲には、彼女に付き従う兵が二十騎ほど立ち並んでいる。その全てが、伯爵に対する強烈な敵意と憎悪をその目に宿らせていた。
全員が馬上で武器を構え、これ以上の逃亡は絶対に許さないという鉄の意志を見せている。
「ダンデライ伯爵、貴方に質問があります。私の姉はどこへ消えたのですか」
薄青髪の従騎士に最も近い兵が、押し殺したような淡々とした声で問うた。その兵の姉というのは、数ヵ月前に突然行方不明になってしまっているのだ。
もちろん、辺境伯から与えられた異形兵の素体という『ノルマ』に加担するべく、伯爵が自ら身柄を拘束し、邪竜の供物として売り渡していた人物である。伯爵本人がそれを覚えていないはずもなく、答えに
「おかしいとは思っていたんだ。……全部、貴様の仕業だったんだな!」
同じく家族を失ったという別の兵が、抑えきれぬ怒気を込めて吐き捨てた。
その言葉に、図星を突かれた伯爵は青筋を浮かばせて激昂する。
「誰に向かって口をきいている、下賤な兵どもが! ワシはダンデライ伯だぞ!」
「……父上、いつまで在りもしない爵位に
氷のように冷徹な眼差しを、娘である薄青髪の従騎士は父へ向けていた。もはや肉親としての温情をかける余地など、どこにもない──その瞳はありありとそう告げていた。
「なんだと⁉︎」
「『ダンデライ伯』は、今この瞬間より私の称号だ。いずれオルテンシア王女殿下も認めてくださるだろう。父上はここで虫けらのように死ぬ。地べたを這い回るだけの、下劣な盗賊どものようにな。まともな生き物の形を保ったまま死ねるだけでも、貴様には勿体ない末路だろう?」
冷ややかな
実の娘と、
「いい気になりおって! それが実の親に対する態度か!」
「愛などなく、ただ性欲にまみれて作っただけの子だろう、私は。伯爵を名乗るのなら、もう少し気の利いた反論をしてみせてはどうか。知能の低さが窺えるぞ。ああ、貴様の頭の悪さを受け継がなくて本当に良かった」
鼻で笑う娘の容赦ない悪態に、もはや伯爵は我慢の限界だった。なりふり構わず、この憎き娘に引導を渡してやろうと、馬を走らせて手にする長槍で串刺しにしてやろうと目論んだ。
「死ね、死ね死ね死ねェッ! ワシを敬わぬクズどもが!」
「……はあ。だから知能が低い、というのだ」
呆れ果てたかのように、薄青髪の従騎士が深い溜息をついた、その直後。彼女もまた馬を前進させ、父の槍と接触する瞬間に、愛用の重厚な斧を思い切り振り上げた。
武器のリーチには差があるが、込められた威力の差には勝てない。伯爵の繰り出した槍へ、下から激突する斧の凄まじい衝撃。
それは槍の柄を伝って直に伯爵の両腕へと響き、激痛を伴って「ぐわあっ!」と悲鳴を上げさせた。体勢を大きく崩した伯爵は、そのまま背中から無様に落馬し、冷たい雪原へと叩きつけられた。
彼にトドメを刺そうと、薄青髪の従騎士は素早く馬から飛び降り、斧の切っ先を倒れ伏す伯爵へ向ける。彼女を信奉している兵たちも次々に下馬し、万が一にも逃げられぬようにと、仰向けに倒れている伯爵を完全に包囲した。
「重い斧の斬撃は、槍の受け流しを
「ま……待て、サフィニア!」
「いいや。高潔な先輩は、貴様のような汚らしい
薄青髪の従騎士は、冷酷に斧の刃先を父の首筋に当てた。
薄皮に傷がつき、一筋の血が薄く流れ始める。
「すまぬ! 許してくれ! ワシは邪竜様のいうとおりにしてきただけなのだ! ワシも領民を差し出すのはイヤだったのだが、仕方なかったのだ!」
「ほう」
「な! だから……た、助けてくれ……! なんでも言うことを聞く! ほら、このとおりだ……」
見え透いた言い訳を並べ、浅ましい命乞いをする父。
薄青髪の従騎士は、それを無感情な目で見下ろしていた。
だが、彼女は父の気質を誰よりもよく知っている。この後、彼が何をするような人物であるのかを。
「『──と、油断させておいて、馬鹿め、死ね』……と言いたいのだろうが」
薄青髪の従騎士は、密かに槍を握り直そうとしていた父の右腕を。
今、首にあてがっていた斧を素早く持ち直して、一切の容赦なく切り落とした。
「ぎゃああああああっ⁉︎」
あまりの激痛に絶叫し、雪の上を転がりまわる伯爵。
利き腕を失い、虎視眈々と狙っていた反撃の機会すらも永遠に失われてしまった。
その精神が、ついに完全な絶望一色に染め上げられる。
「ずっと父上が、捕らえたブロディア兵や盗賊を殺す時にやってきたことだろう。どれほど面白いのかと思ってやってみたが……つまらないな。そろそろ楽にしてやろう」
「ま、待って……! 待って、殺さないで、殺さないでくだ──」
しかし、その見苦しい命乞いなど聞き入れる耳を持たないとばかりに。
薄青髪の従騎士は、今度こそ父の首を、重い斧の一撃で完全に切り落としてみせたのだった。
絶望に歪んだ表情が張り付く父の頭部が、鮮血を噴き出しながら雪原に転がる。
「……ただ、『私という存在を作ってくれたこと』だけには感謝しているぞ、父上」
首を切り落とされても、人はわずかな間だけ意識を保つという。
死にゆく暗い意識の中で、その娘の冷酷な言葉を受けながら、伯爵の脳裏には、己のこれまでの足跡が走馬灯としてよぎり始めていた。
*****
ダンデライ伯爵。
正確な本名を、ウルフズベイン・フォン・ダンデライと言う。
広大なクレマチス辺境伯領のうち、東部の管理を任されているダンデライ伯爵家の唯一の子として生を受けた自分は、幼少から厳しく武芸を叩き込まれた。
それは国境を越えて攻め入ってくるブロディア軍に対処する武門の家系として当然の義務であり、武芸を身につけること自体に何の不満もなかった。
それどころか、他者に暴力を振るうことは無上の快感だった。
自分の力に屈しない者は、等しく
そして、自分にはそれを実行するに足るだけの確かな才能があった。
槍術もさることながら、杖術の才にも深く愛されていたようで、本来であれば専門の修練を積んだ神官や魔道士しか使えぬ高度な杖さえも、いとも
その卓越した腕前は、王都の学園においても高く評価されたものだ。
この暴力と才能の全てを、イルシオンへの忠誠という都合の良い大義名分で包み込み、合法的に人を次々と殺せる。
邪竜の思し召しだ、とさえ
そして、女をいたぶるのもまた、格別に楽しかった。
圧倒的な暴力に屈し、絶望に泣き叫ぶ女の
……今から、二十年ほど前のことだったか。
伯爵家で一番働き者だった平民の使用人に、戯れに手を出してみた。
やたらと肉付きが良く、整った美貌を持つその女を、力ずくで自分のものにしてやった夜の悦楽は最高だった。
しかし、自分の父はこれを『ウルフズベインが身分差を越えて本気で愛した相手』なのだと、美談として勘違いをした。
使用人の女は、無理矢理
生まれて来た子は、忌々しいことに女だった。父は孫の顔を見る前に戦地で亡くなった。
男児を成すまで子作りを続けるべきだという伯爵家のしきたりを一切無視して、使用人の女はその娘を、次期当主として大切に育て上げることを宣言した。
自分には、どうでもよかった。自分の死後の伯爵家がどうなろうと、知ったことではないと思えたからだ。
……ときどき、己の卑しい身分を
意見されずとも、何かの腹いせに思い切り打ち据えてやると、気分がスッと晴れたものだ。
そうして理不尽な暴力を振るい続けていくうちに、あの女はある日、あっさりと死んだ。
これも、どうでもよかった。欲処理の道具など、別の若い女をあてがえばいいだけなのだから。
残された娘は、いつも何か強い怒りを込めた目でこちらを睨みつけてくるばかりだった。
それは酷く不愉快だったが、実の幼子を殴り倒すのは伯爵としての体裁が許さず、いちいち苛立つだけだった。
鬱憤が溜まれば、捕らえたブロディア兵や盗賊をなぶり殺す時に発散すればよい。そう思ってやり過ごしていた。
自分から離れるように、娘が王都の学園に入学し、従騎士の身分を得て領地へ戻ってきたのは十六のときだった。
娘は実直なまでの働きぶりを見せ、いつしか領民たちからも深く慕われるようになっていった。
たいした力も持たぬ青二才の女が、何故これほどまでに下民どもから好かれるのか、自分には到底理解できなかった。
いつか、力こそが全てだという残酷な現実を骨の髄まで思い知らせてやりたい……そう企んでいたが。
今年の頭ごろに、ハイアシンス王の友人を名乗る女、セピアが現れたのが最大の転機だった。
来たる大戦に向け、『異形兵』を作るための素体を辺境伯領から献上せよ、と命じてきたのだ。
これだ、と思った。あの生意気な娘が大切にしているちっぽけな箱庭を、合法的に滅茶苦茶にする最高の手段だと。
自分にとって領民など、その辺に群れている家畜と何ら変わりはない。
娘が慈しんでいる家畜どもが、理由もわからずじわじわと消えて行けば、あの娘も現実を思い知り、己の無力さを痛感し、力のみを信奉する伯爵家としての当然の価値観を身につけるだろう。
そう思って、笑いが止まらなかったのだが。
自分の思い通りに他者の人生を
もっと懇切丁寧に、圧倒的な暴力による正しい教育を施してやるべきだったのか。
いや、もう遅い。
娘はあろうことか、実の父の首を
こんな、綺麗事ばかりを並べる出来損ないの女にしてやられてしまうなど、イルシオンを支えるはずの伯爵家として、あるまじき失態。
*****
──このワシが、殺されるとは、馬鹿な……。
己のこれまでの醜悪な生き方を、ただの一秒たりとも自省することなく。
やがて完全に思考も回らなくなり、伯爵は、その身勝手で残虐な一生を最高に