雪原に転がり落ちた伯爵の首を
「……それで、伯爵の首はいかがいたしますか」
絶望と苦悶に顔を歪めたまま動かなくなった、実の父の生首。このまま雪原の泥の中に放置し、獣の餌にするという、尊厳をことごとく破壊するような真似をしてやりたい衝動もあったが。
ひとまず、近くにひっそり立っていた木まで、胴体と共に運んで寄り添わせてやった。
「全てが落ち着いたら、簡素でいい、墓を作ろう。手厚く埋葬する義理はないがな」
どこまでも悪辣で、尊敬すべき箇所など何ひとつない男であった。
しかし、それでも彼が家門のために生き続けてきたという足跡自体を否定する気はなかった。その事実まで捻じ曲げ、死者の尊厳を完全に凌辱し尽くすのは、誇り高き貴族の娘としてあるまじき行いだと自らを律したのだ。
「さて。今度はライラ先輩たちへの加勢に向かう必要があるが……」
薄青髪の従騎士は、遠巻きに広がる血みどろの乱戦へと視線を向けた。
尊敬する先輩たちと、彼女らの救援のために颯爽と駆けつけた第二王女の軍勢が、ローダンの遺した異形兵の群れを相手に死闘を繰り広げている。
そして、父である伯爵を失い統率を欠いた伯爵軍の兵士たちは、無差別に襲い掛かる異形兵の対処に追われ、完全に
「だが、我々にはそれよりも先に、西から来るクレマチス辺境伯の本軍の進軍を止めなければならないという役目がある。私と共に、三、四騎ほど来てくれないか。残りの者は、先輩たちの援護に回ってくれ」
「まさか……!? 辺境伯軍と正面から戦うおつもりなのですか!?」
「いや。さすがにそんな無謀な真似はしない」
西からは三千を超える大軍が迫っていると分かっているのだ。
たった数騎で戦闘を仕掛けるなど、自殺行為にも程がある。
「辺境伯に、砦付近の状況を説明するのだ。ジェラニウムの裏切りのこと……そして、
あの大規模な魔法の花火は誤報であったと伝えることで、辺境伯軍の進軍理由を奪い、撤退させる算段である。
辺境伯の息子は逃亡者を守るために伯爵軍と敵対し、その激戦の最中で伯爵は命を落とした。生き残った娘は命からがら西へと逃げ延び、辺境伯軍の無駄な消耗を抑えようと、主君へ健気に報告に走った。
そのような筋書きである。
真実の中に都合の良い嘘を緻密に織り交ぜる。
忌み嫌っていたはずの父から色濃く受け継いだ、その狡猾で悪質なやり口を、今まさに自分が利用しようとしている事実に、薄青髪の従騎士は自嘲めいた笑みを浮かべるしかなかった。
「ま、うまいこと乗り切るしかないか」
小さく息を吐き出して思考を切り替えるが懸念点がないわけではない。
先程の対話によれば、クレマチス辺境伯は、あの忌まわしいローダンのような『意志を持つ異形兵』へと成り果ててしまっているという。
人間ではない、亡者としての特異な嗅覚で、こちらの隠し持った嘘を見抜かれてしまうのではないか。そんな本能的な恐怖と不安は、どうしても拭い去れなかった。
しかし、だからといって、辺境伯軍の進軍をここで食い止めるのを諦めるわけにはいかない。憧れであり、愛すべき先輩を確実に逃がすために。この危険な盤面を描けるのは、この場で自分をおいて他にないのだ。
薄青髪の従騎士は、数騎の頼れる精鋭のみを引き連れて、三千の軍勢が迫る西の闇へと馬を走らせたのだった。
残された兵たちもまた、決死の覚悟で進む主の背中を見送った後、彼女の指示通り、オルテンシア王女の軍勢を援護すべく血みどろの乱戦へと駆けて行った。
*****
「いくらなんでも多すぎるわ! お客さんは多い方がいいと言っても、限度があるわよ!」
怒涛のように押し寄せてくる異形兵の群れ。
倒しても倒してもキリがない絶望的な物量に、苛立ちを抑えきれずに叫んだのは、この過酷な戦場にあって最年少の少女、アンナだった。
彼女が放つ『光の弓』による魔法の矢は、けたたましく吼えながら急降下してくるグリフォン兵や飛竜兵を次々と叩き落としている。
「売ってあげられるものなんかないわ! どうせ冷やかしでしょ! 帰りなさい!」
次々に光の矢をつがえ、放っていくアンナ。
スタルークやフォガート、薄緑髪の弓使いや男装の麗人による濃密な弾幕援護も相まって、上空の飛行兵には一切の接近を許さない。
……少し前。
ペガサスの上から絶望的な数の異形兵が湧き出すのを見た少年は、敵の波状攻撃が始まる直前に、血を吐くような大声で陣形を整えさせた。
『全員、砦門の前で戦います! 砦の壁を背にしましょう! 近接戦闘を得意とする者は前へ! 魔法や弓は後方からそれを援護します! それから──バニラさんたち! セリーヌ王女を急いで回収するんです! 安全な後方で休ませないと!』
彼の極めて的確な状況判断と、何よりそれを一瞬で実現させる百戦錬磨の戦士たちの動きにより、異形兵の大群を迎え撃つ迎撃態勢は盤石に整えられていた。
歩兵の近接戦闘員は、防御力に秀でる無骨な重騎士を中央の要として、敵の進軍を強固に食い止める。
騎馬部隊、および飛行兵は互いに連携し、遠距離から攻撃を放とうとする敵の弓兵や魔道兵へと果敢に遊撃を仕掛けていく。
さらには、薄青髪の従騎士が残してくれた部下たちの一喝により、
味方の魔道士たち、および弓兵は、歩兵部隊の強固な背後から絶え間ない援護射撃を行っている。
馬上から弓を操るフォガートも、騎馬部隊として戦いながらも、この遊撃・後方支援に対する連携を並行して行っていた。
そして何より、百戦錬磨の紋章士たち。
同一の指輪に宿るエフラムとエイリーク兄妹を含めた五名は、指輪を装着する者の戦闘能力を底上げするだけでなく、自らも果敢に前線へと顕現し、次々に敵を処断していった。
特に紋章士ルキナは、無骨な重騎士が敵の死角から魔法攻撃を狙われるたびに神出鬼没に現れ、手にする神剣『ファルシオン』でその術式を完璧に弾き落とし、防御面において絶大な貢献を果たしている。
ローダンの自爆の絶叫により三半規管に深刻なダメージを負ったセリーヌは、砦の門扉の前で救護班の老人に介抱され、側近であるクロエからも付きっきりで回復の杖を当てられていた。
完全回復にはまだ時間がかかりそうな状態であったが、彼女の回復に二名が集中できるという事実こそが、少年が即座に構築した強固な防衛陣の賜物であった。
……しかし。
アンナの言う通り、あまりにも多すぎる。
かつて少年たちが数刻かけて対処した、総勢三百五十の群れよりも遥かに多く、頑丈だ。
神竜の軍勢の絶大な力と、伯爵軍の一部の手を借りて尚、なかなか敵の数が減っていかないのだ。
それだけ、ローダンの文字通り命を賭した最期の絶叫が、この七百の異形兵たちに異常なまでの生命力と戦闘能力を付与したということなのだろうか。
「こうなったら、これ以上、出し惜しみはしていられないかもしれない、なっ!」
敵の兵種や持っている武器に合わせて、殺傷能力の高い『キラーアクス』を、連続攻撃が可能な『マスターランス』を、そして母の形見であり魔法攻撃を放つ『ひかりの剣』を流れるように器用に使い分けながら、紋章士リーフは仲間達を鼓舞した。
彼の相棒であるスタルークは後方からの狙撃に専念しているため、二人には少しばかりの距離が空いている。
このリーフの言葉に呼応したのは、同じく相棒のロサードから離れた位置で戦っている『聖魔の紋章士』の兄妹であった。
「俺もリーフと同意見だ。出し惜しみせず、一気にケリをつけたい。だが……」
「使いどころが難しいかもしれませんね。これほど異常な数と生命力では、奥義の一撃だけでは殲滅までにはもっていけないでしょう」
エフラムとエイリークは、最も厄介な重装兵と騎馬兵の対処を引き受けていた。
兄が持つ愛槍『レギンレイヴ』と、妹の振るう細身の『レイピア』は、どちらも分厚い鎧や騎馬の装甲を貫通する特効武器であるため、極めて通りが良いのだ。
だが、不敗を誇るエフラムの槍技と、エイリークの閃く剣撃をもってしても、敵は一撃では倒れてくれない。
やはり、ローダンの呪いによって、特に異形としての生命力そのものが大幅に強化されている状態であると見て間違いないだろう。
兄妹の凄まじい連撃を加え、さらにリーフがひかりの剣の魔法で貫いて、ようやく一体が消滅するかどうかといった塩梅である。
後方からのリンデンや吟遊詩人、あるいは前線に出ながらときどき炎を放ってくれるクランによる魔法の追撃があって初めて、確実に一体を葬れるという恐るべき耐久力だった。
「紋章士殿。何かこの窮地を脱する突破口がおありなのでしょうか? であれば、是非ともお願いしたいものですが」
彼らの会話を
弾かれ、大きくたじろいだ敵の隙を突き、愛用の戦斧で無慈悲に切り裂いていく。
だが、二体を同時に沈めても、生じた僅かな隙を別の異形兵が即座につけ狙ってくる。
重騎士の死角から突き出された槍による一撃を、リーフの斧が横から叩き落とし、無手となった瞬間にエフラムの槍が容赦なく串刺しにする。
そこへ、さらに別の魔道兵から飛んでくる炎と雷の術式。その直前までフォガートと共に戦っていたルキナが、瞬時に重騎士の前に躍り出て、その魔法の全てを彼女が持つ神剣で鮮やかに弾き散らした。
「ほ……本当に助かります。ええと、紋章士ルキナ殿」
重装兵である重騎士にとって、魔法攻撃は一撃で致命傷を負いかねない最大の脅威だ。それを確実に受け止めてくれる頼れる者がいるというだけで、どれほど安心して前線に立ち続けられることか。
「いいえ。これが私の役割ですから。遠慮なく頼ってください、重騎士殿」
紋章士ルキナは凛と微笑みかけると、再び本来の指輪装備者であるフォガートの背後へと瞬間移動していった。
だが、敵の波状攻撃は止まらない。またも鼓膜を
「重騎士殿の提案に従おう。エイリーク、俺はロサードに進言してくる。いつでも対応できる準備をしておいてくれ」
「わかりました、兄上。それまでは、私がこのまま皆の援護をし続けます」
エイリークの返事を受けて、エフラムは持ち場を離れ、騎馬兵と共に敵の後衛を掻き乱しているロサードの下へと向かった。
残った妹のエイリークは、念じて振り上げれば突風を吹き荒れさせる魔法剣『かぜの剣』に持ち替え、重騎士に群がろうとする異形兵を強烈な風圧で吹き飛ばしていく。
その崩れた陣形の隙を、身のこなしの軽い歩兵たちが見逃すはずがない。今回真っ先に動いたのは子爵令嬢と、先程から彼女の死角を完璧にカバーし続けているゴルドマリーだった。
二名の卓越した槍使いによる華麗なる猛攻が、体勢を崩した異形兵たちを次々と沈黙させていく。
「後ろからも来ています、ライラさん……!」
乱戦の只中、子爵令嬢の背後の隙を捉えようと忍び寄った異形兵。しかし、その動きを目ざとく見逃さなかったゴルドマリーが、牽制用の手槍を正確に投げつけて脳天を串刺しにする。
「ありがとう。相変わらず見事な槍のお手前ね、ゴルドマリー。見ていて惚れ惚れするわ」
「ふふ……当然です。可愛くて強くて本当にすみません……。ですが、ライラさんもあの頃と変わらないようで驚きました……」
絶妙な連携を見せるこの二人だが、実は今日が
子爵令嬢が王都にある学園を卒業する年に参加した、槍術の武闘大会。その準決勝の舞台において、二人は激しい打ち合いの末、子爵令嬢が僅差で勝利を収めたという過去があるのだ。
決勝で当たった相手よりも、ゴルドマリーの圧倒的なセンスの方が深く印象に残り、『あの勝利は運で、自分が負けていたかもしれない』と、子爵令嬢は友人たちに語っている。
ゴルドマリーは子爵令嬢の一つ年下であり、当時はまだ実家の温泉宿を手伝う事情もあって、十三をとうに過ぎているにも関わらず学園には入学していなかった。
だが、その武術大会での敗北を機に、二人は互いの腕を認め合い、時折文通をするほどの良き友人関係となった。
そして。あの時の敗北の悔しさこそが、ゴルドマリーが実家を離れて学園へ入学する最大のきっかけとなったのだ。
「このまま背後を任せてもいいかしら? 貴女の背中は、私がしっかり守るわ」
「任せてください……。あまりにも美しすぎる背中の盾ですみません……」
かつて武闘大会で槍を交えた二人が、今は心から信頼し合える戦友として、自らの命を預け合う。
子爵令嬢とゴルドマリーは互いの背中を合わせ、立ち上がって報復せんとしてくる異形兵の群れを迎え撃つべく、鋭い槍を同時に構えた。
砦の門扉の前。重篤な状態となっているセリーヌを治療する二人よりは前方で、軍師役を担う少年は、魔法の杖を振って前線のサポートに徹し続ける愛しのオルテンシアに守られながら、彼女から『紋章士』についての情報を聞き出していた。
かつて過酷な戦いを乗り越え、自らの国を、世界を救い上げたという異界の英雄達。
千年前の、邪竜を下す聖戦においても絶大な活躍を遂げたという彼らの力を完全に引き出してこそ、この窮地を乗り越えられると確信したのである。
オルテンシアから受けた説明を要約すると、こうなる。
現在、この場にある紋章士の指輪は四つ。エフラムとエイリーク兄妹は、同一の指輪に宿る特異な存在だ。
神竜の軍勢は、敵に奪われた『英雄王』と『慈愛の王女』の指輪を除く合計十の指輪を取り戻しているが、そのうち六つは、今まさにイルシオン王城へと攻め上っている神竜リュールら本隊が持つとのこと。
指輪の装着者は、その紋章士が得意とする能力に近づくように戦闘能力が向上し、背後に顕現した彼らと共に戦うことができる。
紋章士も敵の攻撃を受ければ多少の傷は負うようだが、霊的な性質上、死ぬことはなく、彼ら自身の戦闘能力も極めて高い。
だが、真価はそこではない。
指輪に向かって祈りを込め、紋章士と魂を重ね合わせる『エンゲージ』。その状態の時に振るう力こそが、紋章士と共に戦う戦士たちが至る真の本領なのだそうだ。
行使できる時間には制限があり、一度解ければ再発動までに時間を要するが、その極限状態の間に一度だけ、戦局を根底から覆すほどに強力な『奥義』を放つことができる。
そして、その奥義を使ったからといって、エンゲージしている時間が減るわけでもないということだった。
もちろん、紋章士ベレトにもその奥義は存在する。
現在前線に立っている他の紋章士とは違い、直接敵を薙ぎ払うような強烈な一撃ではない。しかし、戦術に組み込めば、間違いなくこの絶望的な盤面を覆す、逆転の切り札になり得る代物だという。
……その奥義の具体的な効力を聞いて、少年は確信した。
間違いなく、今限界を迎えている仲間たちの最大の刃となることを。
「迷う理由はありません。今すぐ実行しましょう」
「でも、彼氏くん。そうすると……その、降りなきゃいけないのよ。だめ、無防備になるわ」
少年がペガサスから離れ、地に足をつけなければならなくなることに、オルテンシアは強い不安を示した。
こうして腕の中に抱いている間は、敵から狙われても手綱さばき一つで愛する彼氏を守りながら戦うことができる。だが、地面に降ろしてしまえばそうはいかない。
ここが最後方の安全圏であるとはいえ、万が一にも敵が砦門の防衛線を突破してきたら、抗う術を持たない少年が殺されてしまうリスクが跳ね上がるのだ。
「だが、他の
「そうね……でも……」
背後のベレトから急かされても、どうしても最悪の想像が脳裏を
だが、少年の決意は固かった。
「大丈夫です。僕は死にません。狙われたら何を利用してでも逃げますから。そもそも、オルテンシア様が僕を守ってくださるのでしょう?」
「……もちろん、そうだけど」
確かに、このまま力を温存して駄々をこねているだけでは、無為に皆の命を削るだけだ。
そう、愛する者の命は他でもない、自分自身が守り抜けばいい──オルテンシアもまた、意を決した。
「絶対に……絶対に、あたしが守るから。だから、また後でね、彼氏くん」
「ええ。みんなで生き延びましょう、オルテンシア様」
そう言って、オルテンシアの支えを受けながら、少年は彼女の愛馬から静かに降りた。
ペガサスは本来、乙女にのみ心を開き、男を背に乗せることを極端に嫌う気高き生物だ。
実際に、吟遊詩人がローダンへの奇襲をかけるために青髪の天馬兵の愛馬へ同乗した際も、馬はあからさまに嫌悪のいななきを上げていた。
作戦上仕方ないと理解しつつも、生物としての本能が拒否感を示してしまうのだろう。
しかし、このオルテンシアの愛馬は、少年が降りるのをどこか名残惜しそうにするばかりで、嫌がる素振りなど微塵も見せなかったのだ。
『ペガサスは女の子しか乗せないけど、可愛い彼氏くんならきっといけるわよ。一緒に乗りましょうね』
かつて、学園に通っていたオルテンシアとの文通に記されていた一文。本当にそうだったのだと、ペガサスから自分に向けられる家族のような確かな愛情を感じて、少年は胸に熱くこみあげてくるものがあった。
だが、感傷に浸るのは全てが終わってからでなければならない。
少年は地面にしっかりと足を踏みしめ、大きく息を吸い込むと、この場に展開している仲間全員の耳に届くように、力の限りに声を張り上げた。
「指輪を持つ皆さん! 今こそ、その力を完全に引き出してください! オルテンシア様とベレト様の力で、全員の攻勢を最大限に援護します!!」
これまでの過酷な戦いで、オルテンシアとベレトが持つ力の真価を知る神竜の軍勢が、少年のその指示の意図を理解できないはずもなかった。
紋章士ルキナの力を宿す、ソルム第一王子フォガートが。
紋章士リーフの力を宿す、ブロディア第二王子スタルークが。
紋章士エフラム・エイリーク兄妹の力を宿す、ロサードが。
そして、紋章士ベレトの力を宿す、少年が心から愛するイルシオン第二王女オルテンシアが。
四人の戦士たちが、全員同時に、己の指に嵌めた指輪へと強く祈りを込め、反撃の