100話の大台も近いですね。しかし物語はまだまだ終わらない。
こうして、ロビュスト砦の近郊に、ようやく静寂が戻った。
西から押し寄せるであろう辺境伯軍の大軍勢を思えば、いまだ全ての懸念が払拭されたわけではない。
だが、その辺境伯軍に対しては、戦死したダンデライ伯爵の娘である薄青髪の従騎士が、進軍を足止めすべく説得に向かってくれているという。彼女に従い、こちらへ寝返った兵士たちがもたらした情報だった。
欺瞞が露見すれば、命を失いかねない危険な賭けである。それでも成功すれば、学園へ逃れるための貴重な時間を得られるだろう。
そして、目前の脅威だった異形兵の群れは、完全に撃破した。
加えて、イルシオン王城から邪竜ソンブルが新たな追手を差し向ける危険も、今は大きく薄れている。
神竜リュールやアイビー王女を含む神竜軍本隊が、まさにイルシオン王城へ攻め上っている最中だと聞かされたからだ。
少年がそのように冷静な見立てを口にすると、仲間たちの間から、深い安堵の吐息が一斉に漏れた。
9の月1の日の昼。異形と化したそばかすの同僚が起こした凶行から始まった、イルシオンを崩壊させんとする惨劇。
血と泥に塗れた濃密な五日間は、まるで数ヵ月にも及ぶ果てしない戦争だったかのように、誰もが抱く時の感覚を狂わせていた。
ようやく、この過酷な逃避行と防衛戦に、一つの区切りがついたのだと考えてよさそうだった。
「ただいま。あたしの彼氏くんっ」
「……お帰りなさいませ、僕のオルテンシア様」
ついに。ついに……。
幾つもの死線を越え、愛し合う二人は再会を果たした。
少年の策によって玉座の間から『導き手の指輪』を奪い、セピアの凶手から彼女を逃がしたあの日が、オルテンシアの顔を見た最後だった。時間にすれば、二人が離れ離れになっていたのは一ヵ月強。決して、途方もなく長い期間というわけではない。
しかし、その短いはずの不在は、二人の中であまりにも長く引き延ばされていた。それほどまでに、互いが死と絶望の淵を
オルテンシアが主導して、少年の細い身体をぐいっと強く抱き寄せる。熱を帯びた紫の瞳で少年を見上げると、その首へ両腕を回した。
人目はある。少年の仲間たちも、オルテンシアと共に駆けつけた神竜の戦士たちも、異界の紋章士たちも、二人の一挙手一投足を見守っている。だが、そのような体面など、極限の死地を生き抜いて再会を果たした二人にとって、もはやどうでもよかった。
互いの唇を塞ぎ、舌を深く絡ませ合うような熱烈な
最初に口づけを求めたのは、やはりオルテンシアの方だった。
「まあ……!」
感嘆と恍惚が入り交じった声が、どこかから聞こえてきた。
聞き馴染みのない女性の声だったため、神竜の軍勢の誰かなのだろうと少年は思った。
だが、その声の主を確かめようと、視線を逸らすことすらしなかった。今はただ、目の前にいる愛しい少女の存在を、その体温と香りを、全身で確かめることだけに集中したかった。
永遠にも思える濃密な口づけを終え、二人は名残惜しそうに唇を離す。その間に、細い銀色の糸が艶やかに引いた。
至近距離で、改めて互いの姿を見つめる。度重なる戦いを経て、どちらの装いも見る影なく傷んでいた。
少年の侍従服には、初日に浴びたそばかすの同僚の血が、いまだ落ちきらずにこびりついている。オルテンシアもまた、いつも『可愛い』を自称する彼女らしからぬほど、顔もドレスも泥と
だが、その満身創痍の姿こそ、互いが生き抜こうと足掻いた軌跡の証明だった。
だからこそ、愛おしくて仕方がない。生きて再び会えた奇跡を、少年の
「……皆さんが来てくださらなければ、僕は今頃、この世にはいなかったでしょう。本当に、ありがとうございました」
少年はオルテンシアの背後に集う神竜の軍勢へ向き直り、深々と頭を下げて礼を述べた。
彼らは皆、少年たちを救い出せたことに安堵し、優しく温かな表情を浮かべている。
イルシオンは各国へ攻め入った侵略国であるはずなのに、その確執など存在しないかのように、彼らは少年たちを対等な、守るべき命として扱ってくれた。
その気高さに胸を打たれながら、少年は恩人たち一人一人の顔を、記憶へ刻みつけるように見渡した。
オルテンシアを含む、十二人の戦士たち。そして、四つの指輪に宿る、五人の紋章士たち。
見知った顔もあれば、初めて目にする者もいる。だが、例外なく全員が、計り知れない強者の覇気を
自分よりも年下に見える少年や少女の姿もある。それでも彼らは、先ほどまでの戦場で獅子奮迅の活躍を見せていたのだ。
これほどの者たちが本隊を離れてもなお、神竜軍はイルシオン王城を攻め落とせるだけの戦力を維持している。その驚くべき事実に、少年は大きな希望を見いだした。彼らならば、きっと
「ですが……どうして、このロビュスト砦に? 僕たちを助けに来てくれたのはわかりますが、何故この場所が……」
「あたしたちが、どうしてここにいるってわかったのか、気になるわよね?」
少年のもっともな疑問を察し、オルテンシアがにこりと微笑んだ。
そのまま、共に駆けつけた仲間たちの方へ向き直る。
「みんな。この子たちに、あたしたちがどうやってここへ駆けつけたのか、説明しようと思うの。……説明、手伝ってくれる?」
その頼みを拒むような冷たい仲間は、ここには一人もいなかった。誰もが笑顔で、快く承諾の意を示す。
「……彼氏くんも、後で説明してね。あなたがどれだけ大変な戦いをして、みんなを守ってきたのかを」
「もちろんです」
少年もまた、これまでの死闘を、そして散っていった者たちの軌跡を聞いてほしいと心から願っていた。拒む理由などあるはずがなかった。
ロビュスト砦の大広間。少年の仲間たちと、オルテンシアが率いてきた神竜の軍勢。そして、最終的にこちらへ味方してくれたダンデライ伯爵領の兵士たち。
合計六十余名が集い、暖かな炎に照らされたその空間でオルテンシアたちは、ここへ至るまでに経験した過酷な道程を、静かに語り始めた。
*****
フルルの港町を出港したのは、9の月4の日の早朝。
神竜の軍勢は、フィレネ第一王子アルフレッドが合流させた同国の精鋭部隊を加え、国内で最も速度に優れる軍船を用いて、イルシオンへ逃亡した
だが当然、神竜軍の航行をイルシオン軍が容易く許すはずもない。オルテンシアが読んでいた通り、イルシオンの軍船による海上での迎撃が行われた。
本来、海上から迫る敵を迎え撃つ側が取るべき定石は、自らも船を出し、真正面から衝突することではない。
砲台や長射程の魔法、矢の雨を岸から浴びせ、高所と陸地の利を存分に活かしながら、敵の上陸を阻むべきなのだ。
足場も退路も限られる船上へ、わざわざ兵を送り込んで接舷戦を挑むなど、守る側が自ら地の利を投げ捨てるに等しい。
セピアほど狡猾な女が、その程度の軍略を理解できぬはずがなかった。
それでも彼女は、この有り得ない愚策をあたかも最善手であるかのように装い、兵たちへ出航を命じた。
それは、何故か。
セピアは熟知していたのだ。自軍の中に、この大義なき戦いを快く思わぬ者が、大勢存在することを。
たとえば、
フィレネでの戦いへ連れてきておきながら、船で待機させていた者の多くが、離反の可能性を秘めた者たちだった。
この海上部隊を指揮していたのは、アビュームという女性の将だった。彼女は、邪竜の軍勢が実質的に『自らに死ね』と命じていることを知ってか知らずか、ただ淡々と、配下へ命令を下したという。
『全てはあの方のため。己の命をもってしてでも、神竜の侵攻を食い止めろ!』
神竜の乗る軍船を挟み込むように、イルシオン軍の船二隻が接舷する。
こうして、互いに逃げ場のない熾烈な海戦が幕を開けた。この時にはすでに、
しかし、戦況はセピアの思惑通りには進まなかった。
リンデンを始め、この戦いに大義を見いだせずにいた者たちが、その場で初めてアイビーとオルテンシアの姿を
リンデンは自ら先頭に立ち、同志を引き連れて、即座に白旗を掲げた。神竜の軍勢と、何よりも存命だった二人の王女へ刃を向けるつもりなど、毛頭ないと示したのである。
王女たちにも、その老兵の姿には強い覚えがあった。十二年前に城を去ったハイアシンス王兄の近衛であり、主君が去った後も、老齢を理由に引退するその日まで王城に残り、イルシオンへ尽くしてくれた忠臣。
共に戦ってほしい──アイビーもオルテンシアも、異口同音にそう告げた。
『アイビー様とオルテンシア様がおられる場所こそ、わしにとっての正しきイルシオンです。こう見えて腕は衰えておりませぬ。この魔法で、兵たちの目を覚まさせてやりましょう!』
リンデンと、彼に呼応したイルシオン兵たちは即座に向きを変え、なおも神竜軍への敵意を捨てぬ者たちを討っていった。大義なき戦いへ駆り出された末、ようやく真に力を振るうべき大義を得た彼らにとって、それは何物にも代え難い誉れだったのだろう。
その場にいた半数以上の兵が寝返る光景に、将であるアビュームは激昂した。
『貴様……裏切ったのか!』
リンデンは、重騎士団の新米だった彼女のことを覚えていた。
イルシオンの重騎士にとって、その分厚い鎧とは国を守るための名誉であり、決して手放してはならぬ誇りであるはずだ。
しかし目の前の彼女は、恐らく邪竜側の命令に従って重装の誇りを脱ぎ捨て、裏切り者と見れば容赦なく斧を振るう、文字通りの狂戦士と成り果てていた。
『わしは、イルシオンのために戦っておる。道を
リンデンの冷徹な言葉に、アビュームは怒りの形相を浮かべたまま飛びかかってきた。
『ハイアシンス様を毛嫌いしていた分際で! 貴様の首を、あちらで待つあの方に献上してやる!』
リンデンは、前述の通り、ハイアシンスの兄である前王太子直属の近衛だった。先王の方針によって、弟のハイアシンスが王位を継いだ際、長年捧げてきた忠誠の全てを否定されたような虚無感を覚えたそうだ。
相棒だった老騎士が『これも運命である』と静かに受け入れていたことへ腹を立て、その怒りをハイアシンス本人へ向けていたのも事実である。
しかし、ハイアシンスは、そのような態度を取るリンデンを決して責めなかった。長年にわたり兄を支え続けてくれたことへの感謝と共に、「リンデンは、今のままでいい」と優しく言ってくれたのだという。
当時は、その言葉の真意を理解できなかった。
それでも数年後、王城を退く時になって、ようやく思い至った。あの時、王が浮かべていた悲しげな表情は、国と兄を思う、偽りのない心から生まれたものだったのだと。
その背景も知らず、『毛嫌いしていた』と安易に断じる娘へ向けていた同情を、老賢者はその瞬間、完全にかなぐり捨てたという。
『イルシオンには若者が必要じゃ! じゃが……その若者を囮にすることを良しとする愚かな若者を処断するのは、老兵の務め! 我が
怒りと共に放たれた、極大の雷魔法。
一直線に解き放たれた高速の雷撃は、アビュームに避ける隙など一切与えず、激しい轟音と共に、その身体の中央を無慈悲に貫いた。
『あ……ああ、ああ……』
胴の中央に大穴を穿たれれば、人間ならば即死を免れない。
だが、アビュームはなおも動いた。斧を上段に構え、よろめきながら足を引きずり、せめてリンデンだけでも道連れにしようと、執念深く食らいついてくる。
リンデンはもう一度、トロンを放つための術式を組み上げ始める。
しかし、その魔法が放たれることはなかった。
『大丈夫ですかっ!!』
彼を援護すべく割って入ったのは、薄い灰色の髪に、緑色の服を身につけた少年。神竜の
クランは、アビュームの顔をよく知っていた。かつて、彼が心から崇拝していた神竜王ルミエルの殺害に関与した軍を率いていたのが、他ならぬ彼女だったからだ。
あの時、クラン自身の魔道によって確実に仕留めたはずなのに、何故生きているのか。そんな疑念を抱きながらも、もう一度、自らの手で討ち倒そうと考えたのだという。
『甘く見るなよ……! これが、
不安定な船上で馬を駆るのは難しいため、クランは歩兵として戦っていた。それでも、その力が損なわれるわけではない。踏み込みと共に放たれた鋭い剣閃は、確実にアビュームを死へ至らしめる威力を帯びていた。
剣を阻む重装の鎧を身につけていないアビュームは、その一撃をまともに受けた。後方へ弾き飛ばされ、天を仰ぐように倒れた後、もう二度と歯向かってくることはなかった。
『報いを……受けたか……海路の死守、叶いません、でした……』
果たせなかった任務を誰かへ詫びるような言葉を、微かな声で吐き出した後。
『……ごめん、ね、ロー……ダン……』
最期に、誰かの名を、ひどく悲しそうに呟いて。
アビュームの身体は、足元から音もなく灰となり、消えていった。
『まさか! ハイアシンス王と同じ……!?』
フルルでの戦いで最前線に立ち続けたクランは、その光景から即座に察した。彼女もまた、ヴェイルの魔力によって作られた、『意志のある異形兵』だったのだと。
……将である彼女が倒れたことで、寝返らなかった一部の狂信的な兵を除き、アビュームに付き従っていた者たちは完全に瓦解した。
統制を失い、混乱のまま襲いかかってくる者たちを無力化し続け、戦いが終わった頃には、辺りはすっかり夜の闇に包まれていたという。
いかに高速船とはいえ、接舷した敵船を引き離し、進路を取り直すには相応の時間を要したらしい。だが、神竜軍はこうして、リンデンを始めとする良識あるイルシオン兵を、新たな戦力として迎え入れた。
大義なき悲劇的な海戦の中で、その事実だけが、彼らにとって確かな意義を持つものだったという。