リンは、イルシオン王家が代々守護してきた『草原の公女の指輪』に宿る紋章士である。
千年前、世界を恐怖に陥れた邪竜ソンブル。その封印に力を貸した紋章士たちは、千年に一度、十二の指輪が
だが、戦いの中心となった神竜王ルミエルは、その大いなる力が誰の手にも渡り得ることを危ぶんだ。願わくば、最愛の子であるリュールのためにこそ使われて欲しかったようなのだ。
そこで、十二の指輪のうち四つを、エレオス大陸の四カ国へ一つずつ託した。守護を任された国々には、イルシオンも含まれていた。邪竜ソンブルに恩義を感じ、信仰を寄せるこの国すら、神竜王は決して排除しなかったということだ。
そこからの歴史は入り組んでいるが、ここで重要なことは一つ。イルシオン王家は、この千年間、紋章士リンの指輪を大切に守り通してきたのである。
実体として顕現する以前から、指輪に宿るリンは、その扱いを見ていた。だからこそ、イルシオン王家へ寄せる思いも、他の紋章士に比べてひときわ深かったようなのだ。
『行かなければ必ず後悔するわ。私、オルテンシアに悲しい思いをして欲しくない。もちろん、アイビーにもね』
『で、でも……』
それでもアイビーは、首を縦に振らなかった。
国を背負う王族として、個人の感情を優先してはならない。妹に言い聞かせた言葉が、そのまま自分自身をも縛っていたのだろう。
リンは深く溜息を吐き、かつて自分がいた世界での『昔話』を語り始めたという。
賊に両親を奪われ、孤独だったリンは、軍師を目指す旅人と共に歩む中で、自分が侯爵家の孫娘であることを知った。
迎えに来た騎士たちによれば、祖父は病床に伏せているという。一刻も早く会いたいと、彼女たちは侯爵家を目指した。
旅の途中には、幾度も刺客に命を狙われた。それは、家督を狙う侯爵の弟の差し金だった。孫娘が祖父のもとへ辿り着けば、己の企みが潰えてしまうと考えたのだろう。
身の危険と、祖父を案じる焦り。そんなものを抱えた旅路の最中、リンたちは、家督騒動とは別の暗殺集団に追われる幼い男の子と出会った。
自分たちも急いでいるからと、その子を見捨てることはできなかったのだという。
捕らえられていた姉の踊り子も、別の侯爵家の嫡男が力を貸してくれたお陰で救い出せた。だが、救われた姉弟には、なお悲しみが残っていた。
亡き母の形見である、大切な指輪を奪われてしまったのだ。
指輪を取り戻すには、逃げた敵を追わなければならない。祖父との再会を急ぐリンたちへ、さらに危険な遠回りをさせるわけにはいかないと、姉弟は諦めようとした。
そのとき、共に旅をしていた軍師を目指す人物は、迷わず決断してくれたという。
──その指輪を探すべきだ、と。
リンもまた、姉弟のために指輪を取り戻したいと願っていた。彼が背中を押してくれなければ、いずれ自分から同じことを言い出していただろう、とのことだ。
そして、彼らは指輪を奪還した。その後、祖父との再会も果たせた。一つを大切にするために、もう一つを切り捨てるような真似をせずに済む道を、自分たちは選び取ってきたのだと、リンは語った。
『あのとき、おじいさまの下へ急ぎたい気持ちは、もちろんあったわ。それでも私も……彼も、目の前の二人を助けたいと思ったの。それって、そんなに悪いことかしら? 指輪と人……比べるようなものじゃないけれど、誰かの「大切にしているもの」を想うという観点は同じよね。迷わず助けに行くべきよ。城攻めはなんとかなるわ』
自分たちが急いでいるからと、誰かの大切なものを諦めさせたくない。助けたいと願う心まで、誤りだと決めつける必要はない。リンの真っ直ぐな言葉は、その場にいる者たちの胸へ届いていった。
それを後押しするように、別の紋章士が腕を組んで口を開いたという。
『何も、この軍全てを行かせる必要はない。オルテンシアを中心とした別動隊を救援に向かわせるべきだろう。ロイとミカヤが戻ってきた以上、こちら側にある指輪は十となった。半分を割いても問題はないはずだ。ベレトの力がなくとも、俺たちが負けることはない』
ソルム王国が長年守護してきた『蒼炎の勇者の指輪』に宿る、蒼炎の紋章士アイクであった。蒼い髪と、鍛え抜かれた逞しい身体。百戦錬磨の英雄が告げる言葉には、安易な慰めとは違う重みがあった。
彼を相棒とするソルム第一王女ミスティラも、ずっと話を聞いており、力強く頷いていたそうだ。
『あたしたちソルムも協力を惜しまないよ。それに、これは恩を売る絶好の機会……今後あたしたちが困ったときに、イルシオンに力を貸してもらいましょう、なんて。アイクのトコにいた軍師様なら、きっとそう言うよね?』
『言うだろうな』
ミスティラが朗らかに笑うと、アイクは短く、確かな声で応じた。
妹の大切な人を救うことは、国の利益に背く行いではない。彼女は、そういう見方もできるのだと示してくれたのだろう。
『というか、かつて似たような状況になったとき、俺自身もそうしたぞ』
彼が率いる傭兵団の雇い主である王女が、死に別れたと思っていた乳兄弟の騎士と再会しようとしたときのことだった。
アイクたちが辿り着く前に、その騎士は敵軍に包囲されてしまっていたらしい。
騎士を見捨て、王国奪還のために進軍すべきだと、その実姉や親友は進言した。だが、アイクは受け入れなかった。
厳格な軍師の許可を待つより先に、助けに行くことを選んだのだという。何より、騎士を失うことに耐えられない王女の心を守るために。
救出は成功し、その騎士は、後に国を救う大きな戦力となってくれたそうだ。
『自分の心を殺して正しい選択をするばかりが、王族の在り方とは言えない。違うか?』
『……自分もリンやアイクの意見に賛成だ。あの侍従の少年は、今後のイルシオンに不可欠だとオルテンシアも言っていた。大局を見据えた判断としても、彼を救わない手はないと思う』
オルテンシアの相棒であるベレトも、同調した。
仲間たちだけでなく、幾多の戦いを知る紋章士たちまでが、救援を支持してくれている。
もとより、オルテンシアに少年を見捨てるつもりはなかった。それでも、私情のために神竜軍を危険へ晒すかもしれないという恐れが、すぐに消えたわけではない。だからこそ、皆が差し出してくれた言葉は、彼女の足を前へ踏み出させる力となった。
しかし、アイビーはなお、頷けずにいた。救いたくないのではない。救いたいからこそ、王族としての判断を見失っていないか、疑ってしまうのだろう。
そこで、それまで黙って聞いていた神竜リュールが、彼女へ『命令』を下した。
──侍従の少年を救うため、オルテンシアと仲間の一部をロビュスト砦へ派遣する。
敬愛する神竜の命令とあらば、その軍に身を置く者として従うべきものとなる。妹の私情を認めるのではなく、神竜軍の決定を受け入れる。責務と感情の間で身を引き裂かれそうになっていたアイビーへ、リュールは、その道を与えてくれたのだ。戦力を割く危険も、決断の責任も、自ら引き受けて。
アイビーは両手で顔を覆い、大粒の涙をこぼしたという。堪え続けていた思いが、ようやく行き場を得たかのように。
『ありがとうございます……ありがとうございます、神竜様』
ただ、ひたすらに感謝を重ねる姉へ
『というわけで、話し合った結果、ここに集う者たちが砦に向かう面々となった』
ベレトの助言を軸に、別動隊の編成が進められた。
少年を救うために、本隊の城攻めを危うくするわけにはいかない。迅速に移動でき、少数でも戦える者たちを選ぶ必要があった。
そうして集まったのが、オルテンシアを含む十二人である。
まず、フィレネ王国からは第一王女セリーヌと、その近衛クロエ。
セリーヌの兄、第一王子アルフレッドの推薦だったという。
セリーヌは王族として本隊の城攻めを優先すべきだと考え、クロエも主君と同じ側に留まるつもりでいた。
しかし、二人とも、内心ではオルテンシアを助けたいと切に願っていたらしい。妹が責務を果たそうとする一方で、友人を案じて心を痛めている。その思いを悟ったアルフレッドが、二人の背を押してくれたのだ。
クロエを随伴させるのは、信頼できる近衛であることに加え、グリフォンによってセリーヌの機動力を確保できるからでもあった。
もう一人の近衛、重装兵のルイは、装備の重さゆえに強行軍へは向かない。主君の守護を相棒へ託し、自分は城攻めに加わることとなった。
ブロディア王国からは、第二王子スタルークのみ。
これについて、第一王子ディアマンドは、ひどく申し訳なさそうにしていたそうだ。
本来なら、もっと多くの者を派遣して力を貸したかった。しかし、援軍のブロディア兵が未だ抱く、イルシオンへの悪感情を考えれば、そうもいかなかったという。
一般兵や騎士を送れば、故国へ戻った後、『敵国イルシオンに情が移った裏切り者』などと、理不尽な
そこで、スタルークに白羽の矢が立った。正当な王族である彼へ、面と向かって不満を
また、スタルークは、デスタン大教会での敗走以前から紋章士リーフの力を扱った経験を持つ。船上や港での戦いも潜り抜けてきた彼は、戦力としても適任だった。
常なら、自分を卑下してばかりいる第二王子である。だが、このときばかりは、己の力を否定する言葉を一つも口にしなかったという。僕が守ります、と胸を張ったのだ。
兄が送り出せない者たちの思いも背負い、王族としての責任を噛み締めたのだと、本人は語っていた。
ソルム王国からも一人、第一王子フォガート。
ミスティラが『恩を売る』と宣言した以上、さらに人員を出す余地はあった。だが、一人でいいと申し出たのは、フォガート自身だったという。
紋章士ルキナを相棒としてきた自分が向かう。その代わり、他のソルム出身者は本隊へ残り、神竜の力となるべきだ、と。
直属の側近二人が代わりを申し出ても、彼は首を縦に振らなかった。
『恩を売るなら王族が直接行く方が都合がいいし、ミスティラ姉さんはアイクを相棒にする以上、城攻めの主戦力から離れるわけにはいかないからね』
姉も側近たちも、彼が一人で別動隊へ加わることを心配していた。しかし、本隊の戦力を割きすぎてはならないという説明は筋が通っており、最後には、その意向を受け入れたそうだ。
聖地リトスから名乗りを上げたのは、神竜の
理由は二つ。オルテンシアに対する確かな情と、今回の行軍には馬が必要だろうという、実際的な判断である。
上司に当たる老聖騎士は、その決断に反対しなかった。神竜の仲間を救い、軍を支えることもまた、竜を護る務めに繋がる。そう考え、誇らしく思ってくれたようだ。
双子の妹フランも、兄を引き留めることはなかった。クランがいない間は、自分がその分まで神竜様をお守りするから、と、決意を込めた目で誓っていたという。
そして、イルシオンの面々。同国の民を助ける作戦である以上、この国に縁を持つ者たちが最も多くなった。
オルテンシアはもちろん、その近衛に等しい存在であるロサードとゴルドマリーにも、随伴することへの迷いはなかった。ロサードの相棒である紋章士エイリークとエフラムも、二つ返事で協力を約束してくれたという。
イルシオン出身の行商人アンナも、名乗りを上げた。
オルテンシアに対する情に加え、自分の上客でもある同国の民を殺し回る連中など、絶対に許せないと息巻いていたそうだ。商いに結びつける物言いこそ彼女らしかったが、仲間を救おうとする思いは、他の者たちと何ら変わらなかった。
神竜軍では新参に当たる、『
幼い頃のオルテンシアを知る彼は、第二王女が恋人と呼ぶ少年へ、大いに興味を抱いていたのだという。王女を守るため、そして、その少年に直接会い、話をしてみるため。そう言って、絶大な魔力を惜しまず振るうと誓ってくれたらしい。
こうして、『オルテンシアの彼氏くんに会いたい』と口にした者が、まず九人集まった。
オルテンシア本人を加えれば十人。その中には、次期国王の座を担わない各国の王族が、一人ずつ含まれている。
人数は少ない。それでも、エレオス大陸の国々が手を結ぶ姿を象徴するような一団であった。
さらに、アイビーの計らいで二人が加わる。彼女直属の近衛、カゲツとゼルコバである。
二人は主君を守るため、イルシオン王城の攻略に加わるつもりでいた。だが、その申し出を、アイビー自身が頑なに退けたという。
本当なら、自分も妹と共に砦へ向かいたい。しかし、第一王女が王城奪還の決戦に姿を見せなければ、次期国王としての示しがつかない。だから、自分の代わりに二人を派遣するのだと。
主君の望みと、王女としての責務。その両方を汲み取った近衛たちは、ようやく救援へ加わることを承諾した。リンもまた、相棒が本隊に残るという決断を受け入れたそうだ。
その代わり、紋章士の力まで携えて別行動を取るのだから、草の根を分けてでも、あの侍従を探し出すこと。アイビーは妹に、そして自分の近衛二人と妹の親友二人に、そう固く約束させた。
救援に向かう者は、計十二人。携える紋章士の指輪は四つ。エイリークとエフラムが同じ指輪に宿るため、姿を現す紋章士は五人となる。合わせて十七人の一団が、オルテンシアの願いを叶えるために集ったのだ。
『……本当に、みんな……ありがとう』
感極まって、オルテンシアは泣きそうになったという。
だが、溢れかけた涙を、ぐっと堪えた。感謝して泣くのは、彼氏くんを無事に見つけてからにしようと決めたのだ。
──あたしが、このメンバーの中心。これだけワガママを通してもらったのだから、絶対にお礼をしなくちゃ。
仲間たちが差し出してくれた力は、当然のものではない。本隊に残るべき理由を持ちながら、それぞれが考え、自ら選んで、ここへ集まってくれた。その思いに報いる責任が、自分にはある。
邪竜の軍勢を打ち倒した後こそ、王族にとって本当の戦いが始まるのだと、オルテンシアは悟っていた。
最も復興に苦しむのは、恐らくイルシオンだろう。それでも、力を貸してくれた国々が戦後の混乱に直面したなら、自国のことで精一杯だからと背を向けるわけにはいかない。
次期女王を支える『宰相』として、今度は自分が手を差し伸べる。そのためにも、必ず生きて帰るのだと、決意を新たにしたという。
『……忘れ物はないわね? 一度出発してから戻るようなことがあっては大変よ。準備に抜かりはないように。ね?』
『! お姉様、それって……!』
出発の直前、アイビーがかけた言葉に、オルテンシアは強い聞き覚えがあった。
一年前の3の月。学園へ向かう門出の日にも、姉は何度も何度も持ち物を確かめさせた。少し呆れてしまうほど、念入りに。あの日と変わらない、過保護な言葉だった。
それから、何もかもが変わってしまった。父は非業の死を遂げ、国は滅びかけている。学園へ旅立つ日には想像もしなかった戦場へ、今は仲間を率いて向かおうとしている。
それでも、姉は姉だった。妹が忘れ物をしていないかと、最後まで案じてくれる人だった。
思わず涙が
アイビーの声も、今にも泣き出しそうに震えていたという。けれど姉は、必死に気丈な姿を保とうとしていた。
オルテンシアも、その強さに応えたかった。心配をかけたまま出発するのではなく、帰還を信じて待っていてもらえるように。
──もうこれ以上、大事なものを奪われるもんか。
『必ず……あの子を、救い出すわ。あたしも生き延びる。全部叶えてみせるわ。だってあたしは──』
砦へ向かう一団を見送る仲間たちへ、オルテンシアは笑顔を向けた。
涙を堪えているからこそ、力強く。自分を信じて送り出してくれる者たちへ、迷いを見せぬように。
『イルシオン第二王女、オルテンシアだから!』