オルテンシア率いる別動隊が、ロビュスト砦の近郊へ到着したのは、陽が西へ傾き、夕闇が迫る頃合いであった。急ごしらえの一隊でありながら、馬や飛行生物を駆っての強行軍が間に合った。徒歩で進んでいたなら、辿り着いたときには、何もかもが手遅れになっていたかもしれない。
砦への遠征に名乗りを上げた十二名のうち、オルテンシアを含む半数に、馬術、あるいは飛行生物を扱う心得があったことが幸いした。
オルテンシアは、自身のペガサスにアンナを同乗させた。長距離の移動である以上、『乙女しか背に乗せたがらない』という天馬の気質を無視して、男性を長時間乗せ続けるわけにはいかなかったからだ。
グリフォン兵となっていたクロエは、主君であるセリーヌを乗せた。慣れ親しんだ臣下の背に身を預ける、自然な組み合わせである。
飛竜乗りのロサードは、相棒のゴルドマリーを。
騎馬兵であるソルム第一王子フォガートは、共に戦ううち、親友同然の間柄となっていたブロディア第二王子スタルークを。
同じく黒馬を駆るクランは、加入したばかりの老賢者リンデンを、それぞれ同乗させた。
残るのは、アイビーの臣下であるカゲツとゼルコバだ。彼らは元来、地に足をつけて戦う歩兵である。
この編成に必要なものを察した神竜リュールが、一度ソラネルへ帰還し、最も足の速い馬を一頭、カゲツへ貸し与えてくれたのだ。
カゲツは、故郷である『白の砂漠』で過ごした日々の中で、馬術も厳しく叩き込まれていた。一度も馬を操ったことのないゼルコバよりは、扱いに長けている。故に、彼が手綱を握り、相棒を後ろへ乗せることとなった。騎上で自在に戦えるほどではないにせよ、砦まで急行するには、それで十分だった。
共に戦う紋章士たちは、装着者の背後に浮遊して随伴することも、指輪の中へ精神を戻すこともできる。彼らのために、別の馬を用意する必要はない。
以上十二名、六組。
空と地を駆ける六騎が、少年のもとへ向かう道をひた走ったのである。
そうして辿り着いた砦の前で、オルテンシアたちは目にした。即席の処刑台へ無惨に引きずり上げられ、今まさに首を吊られようとしている、愛する少年の姿を。
間に合った、などと安堵する暇はなかった。ほんの一瞬、判断を誤るだけで、ここまで駆けてきた意味が失われる。砦前の開けた広場では、伯爵の軍勢も、少年の仲間達も、到着した一団に気づいていないようだった。敵も味方も、眼前の処刑台と、それを巡る攻防に意識を奪われている。この僅かな猶予のうちに、彼を確実に助け出す手立てを決めなければならなかった。
オルテンシアたちは砦を取り囲む外壁に身を隠し、声を潜めて言葉を交わした。
『やっぱりレスキューの杖、一本だけでも貰ってくるべきだったかしら……』
任意の一名を手元へ引き寄せる特殊な杖は、神竜の軍勢にとっても貴重品である。
リュールは、確実に少年を助け出せるようにと、所持していたうちの一本を託そうとしてくれた。だが、オルテンシアはそれを辞退したのだ。これから始まるイルシオン王城での戦いも、苛烈を極めるはずだ。こちらのために、そこまで配慮してもらうのは心苦しい、と。
あの申し出を受けていれば、今すぐ彼を引き寄せられたかもしれない。しかし、悔やんだところで杖が手元に現れるわけではない。ここで立ち止まれば、少年を救う機会まで失ってしまう。
聡明な彼氏くんなら、必要なものがないからと諦めたりはしないはずだ。彼の考え方をなぞるように、オルテンシアは手元にある力を組み合わせた。
少年の首にかけられた縄を、遠距離攻撃で引き裂く。その直後、敵が呆気に取られている間に飛行兵が急降下し、少年をかっ
救出する役目は自分が担うと、オルテンシアは宣言した。
『危険すぎるよー! 向こうには弓を持ってるヤツもいるんだよ!?』
『そうですよ、オルテンシア王女。万が一を考え、ここは、わたしかロサードが』
ロサードとクロエが、すぐさま代役を申し出た。空を駆けて少年を救い上げることなら、二人にもできる。王女自ら、敵の射程へ飛び込む必要はない。
それでも、オルテンシアは頑として譲らなかった。彼を救うのは自分なのだと、その一点だけは曲げようとしなかった。
『傷ついたらすぐに回復します。ですから安心して向かってください、オルテンシア王女』
その背中を押したのは、フィレネ第一王女セリーヌである。手には、『
少年を抱えて安全圏へ離脱するまで、決してオルテンシアから目を離さない。傷を負えば、その場で癒やしてみせるという意志が、杖を握る指先にまで表れていた。
杖を扱える者は、他にもクロエとリンデンがいる。だが、射程の長いリブローを持つのは、オルテンシア自身を除けばセリーヌだけだった。そして、杖で自分自身を癒やすことはできない。
親友同然の王女が、届かぬ背中を守ってくれる。その言葉に、オルテンシアは心底救われる思いだったという。
では、首の縄を誰が射切るか。
真っ先に立候補したのは、フォガートだった。多少距離はあるが、自分の弓なら問題なく撃ち抜けると、迷いなく断言した。ただし、万一を考え、スタルークにも第二の矢を放てるよう備えてもらうこととなった。一射が外れれば、次の矢に許される猶予は極めて短い。
アンナも弓兵に近い立ち回りをしているが、所持しているのは純粋な魔力で矢を形成する『光の弓』である。実体のある縄を確実に引き裂けるかという懸念から、この役目には加わらせなかった。
少年を救った後は、そのまま戦闘になだれ込むことになるだろう。敵の陣頭に立つ男の顔を、オルテンシアは知っていた。
在りし日の父ハイアシンスも、その悪辣さを嘆いていたというダンデライ伯爵である。邪竜の意志に盲従し、今も彼氏くんを殺そうとしている。今後のイルシオンを考えても、生かしておく価値のない人物だった。
イルシオン王家の名の下に、死をもって断罪する。その決断に、彼女は迷わなかった。
『アイビー様が居ても、同じ「決断」をされていたでしょう』
『そうじゃな! 余とゼルコバに任せるのじゃ!
ゼルコバとカゲツが、頼もしく応えた。救出に乗じ、伯爵の首を
結局、伯爵を討ち取ったのは実の娘だったが、それはこの時点では知る由もない。救出と同時にカゲツたちが伯爵のもとへ駆けたのは、この取り決めがあったためなのである。
『……時間がないわ。行動を開始するわよ、みんな』
合図を受け、仲間たちは一斉に戦闘の支度へ移った。
オルテンシアは同乗していたアンナを地上へ降ろし、単身でペガサスを駆る構えを取る。少年を抱き留めるために、今は自分の腕も、天馬の背も空けておかなければならない。
誰にも気づかれぬうちに、最初の一矢を。フォガートはスタルークと並び、遠く処刑台の縄へ狙いを定めた。
『アイクから聞いてた逸話にそっくりな状況だよ、これ』
弓を引き絞りながら、フォガートは『蒼炎の紋章士』アイクの話を思い出したという。姉ミスティラの相棒である彼が、かつて語ってくれた逸話だ。
もちろん、処刑を目前にしたこのとき、悠長に昔話をしていたわけではない。どのような逸話なのかは、今、経緯に聞き入る少年たちへ向けて、フォガートが補足してくれた。
アイク率いる軍勢が、王国の奪還に成功して三年後のこと。
その戦争で彼を雇っていた王女は、女王として国を治めるようになっていた。だが、彼女の治世に不満を抱く貴族たちが反逆を起こし、かつてない苦境へ追い込まれたのだ。
本来、王位を継ぐはずだった叔父は、先の戦争で命を落としたとされていた。
そのため、継承を予定されていなかった彼女が女王となったのだが、その即位の経緯と、あまりに優しすぎる治世は、国の実権を欲する貴族たちにとって、格好の糾弾の的だったらしい。
勃発した戦いの最中、かつてアイクが救った騎士の
女王は、半身とも言うべき彼女の命と、王の座とを天秤にかけられた。しかし、王の座にあり続けると宣言した。気にくわぬものを暴力で排除する貴族のやり方を認めてしまえば、その先で苦しむのは、自国の民だからだ。
国を守るために、忠臣を見殺しにする。その罪をなかったことにするつもりはなく、女王は一生背負って生きる覚悟だったという。
だが、女王すら知らぬところで、騎士の姉を救おうと動いていた者たちがいた。
アイク率いる傭兵団である。
彼のもとで戦う、二名の優秀な弓兵が弓を構えた。そのうち、長年の傭兵経験を持つ、弓術の天才と呼ぶべき射手が、遥か遠方から縄を射切ってみせたのだ。
処刑を覆す一矢を合図に、傭兵団は救出へ動いた。こうして、見殺しにされるはずだった忠臣の命は救われたという。
語り終えたフォガートは、再び、砦へ到着したときの話へ戻った。
かつての英雄の逸話と、自分たちの置かれた状況が重なる。その一瞬に、彼はひどく高揚していたそうだ。
『さしずめ俺が
『申し訳ありませんが……今回は、僕がシノン役です』
アイクからその話を聞いた際には、スタルークも同席していたという。
極限まで集中した王子の眼差しは、普段の気弱な言動からは想像もつかぬほど、鋭く、冷徹だった。遠くにある縄の結び目を見据え、既にその手は弓を引き絞っていた。
フォガートの言葉が終わるより早く、何のためらいもなく、矢を放つ。
『あー! 俺の見せ場ー!』
フォガートが、わざとらしく情けない声を上げた。その間にも、スタルークの矢はぶれることなく空を貫き、少年の首を締め上げようとしていた縄の結び目へ直撃した。
矢はいとも
そのときには既に、オルテンシアはペガサスを駆って飛び込んでいた。矢が命中したのを確かめてからでは、間に合わない。スタルークが外す可能性など、微塵も考えなかったと、彼女は語った。
また、フォガートも、親友の一射に何の不安も抱いていなかったらしい。
『あはは! 流石スタルーク王子! 先を越されちゃったなー。大好きだよ!』
『ひょええ!? す、すみません、僕なんかが、出しゃばった真似を……!』
狙撃を終えた途端、スタルークは直接的な称賛にうろたえ、いつもの自信のない王子へ戻ってしまったという。
とはいえ、戦いはこれからだ。すぐに意識を引き締め直し、オルテンシアが少年を救い上げたのを見届けると、待ち構えていた仲間たちと共に、血塗られた戦場へ加わった。
その後は、少年たちも知っての通りである。
****
ここへ辿り着くまでの経緯を聞かされ、少年も、仲間達も、しばらく言葉が出なかった。
救援が現れたのは、決して偶然でも、ただ幸運に恵まれたからでもない。幾つもの死線を越えた者たちが、それぞれの意志で力を差し出し、ようやく繋ぎ止めてくれた命だったのだ。
──まさか、
少年にとって、騎士モーヴの印象は薄かった。
邪竜ソンブルが衆目に姿を晒した際、随伴していた者。その程度の認識しかなく、人となりは知らない。セピアに付き従う以上、同じように虐殺を楽しむ人物なのだろうとさえ、思い込んでいた。
しかし、少なくとも、今聞いた彼の行いは、その認識には収まらない。敵として見ていた者の言葉が、自分たちへ救援を導いた。その事実を、少年は受け止め直さなければならなかった。
一方、邪竜の娘ヴェイルについては、簡単に結論を出せなかった。
セピアによる洗脳があったとしても、吟遊詩人の父を異形兵に変えたのは彼女なのだ。人格が複数あるからといって、奪われたものが戻ってくるわけではない。オルテンシアと同じく、少年も、それだけを免罪符に許そうとは思えなかった。
それでも、彼女自身がセピアの被害者であるらしいことまで、否定はできない。怒りを捨てることも、事情を聞かなかったことにすることもできず、少年は胸の中に、その問いを残した。
そして何よりも、オルテンシアを神竜の軍勢へ送り出した、自分の選択についてである。
少年は、幾度となく後悔していた。愛しい者を戦場へ送る。それは、かつて恨んだハイアシンス王と、同じ愚行ではないのか。彼女を救うつもりで、また別の死地へ追いやっただけではないのか。
他に、絶望していた彼女を救う道はなかった。そう自分へ言い聞かせるたび、都合のいい言い訳で、己の罪から逃げているだけなのではないかとも思った。
その選択の先に、何があったのか。今、彼女たち自身が、少年へ語ってくれたのだ。
「少年の勇気が、オルテンシアを救い、リュールを救い……。そして、君自身をも、イルシオン王国をも救い上げたんだ」
過酷な道程を締めくくるように、紋章士ベレトが言った。
かつて教師だったという彼の言葉は、生徒が迷いながら歩んだ道を、肯定するかのようだった。異論を挟む者は、この場に一人もいなかった。
「運命を変えるのは、力を持つ者の意志だけではどうにもなりません。一人ひとりの想いを束ねる中心人物が必要です。あなたは……軍師として、その過酷な役割を果たしたんです」
紋章士ルキナが、言葉を継いだ。
絶望的な戦場を経験してきた彼女にとっても、少年の泥にまみれた戦いは、他人事ではなかったのだろう。
「っ……本当に……ありがとう、ございます……っ」
少年の目から、大粒の涙が
自分が救われたという安堵だけではない。オルテンシアを送り出した先に、彼女を受け止めてくれる人々がいた。その人々が、今度は、自分たちをも救うために戦力を割いてくれた。
独りよがりな願いだと思っていたものが、誰かの力になっていた。そのことが、堪え難いほど嬉しかった。
神竜リュールは、アイビーを迎え入れるほどの慈愛を持つ人物だ。ならば、オルテンシアにも手を差し伸べてくれるはずだと、少年は信じた。その直感は、間違っていなかったのである。
ロサードも、ゴルドマリーも救われた。リンデンも、無慈悲な戦いを強いられる道から逃れることができた。そうして生き延びた彼らが、この場にいる者達まで救ってくれた。
イルシオンは、リュールの母である神竜王ルミエルを殺した国である。その憎しみを国全体へ向けられたとしても、おかしくはなかったというのに。
少年には、リュールこそ、真に神と呼ぶに相応しい存在だと思えた。憎まれても仕方がないと覚悟していた相手が、愛しい者を守り、自分たちへ救いの手を届けてくれた。その温かさを、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
崩れるように泣き出した少年を、オルテンシアが優しく抱き締めた。
「辛かったわね。今まで頑張ったわね。よしよし」
「オルテンシア様……オルテンシア様っ……!」
彼女の声を聞くほどに、涙は止まらなくなった。
今はもう、次の一手を考えなくてもいい。誰かを励ますために、無理に顔を上げなくてもいい。抱き留めてくれる腕の中で、少年は張り詰めていたものを、ようやく解くことができた。
邪竜の軍勢が消え去ったわけではない。
子供のように泣きじゃくる姿に、もらい泣きする仲間達もいた。
「ごめんなさい、オルテンシア様、ごめんなさい……! 僕は、ハイアシンス陛下の復活を望んでいたわけではありません……! それなのに、あんな嘘をついて……あんな……!」
「いいのよ、知っていたわ。だから、謝らないで。あのとき、お父様の死を受け入れられなかったあたしに、前に進むための道を示してくれて……本当に、ありがとう」
責められると思っていた嘘を、彼女は既に知っていた。その上で、ありがとうと言ってくれる。少年は何も返せず、ただ彼女の温もりに縋って泣いた。
背後で聞いていたロサードとゴルドマリーも、涙ぐみながら一歩近づいた。
「彼氏くんに救われたのは、オルテンシアだけじゃない。オレたちもなんだよー?」
「ええ。美しいわたしが、この世界から損なわれるという損失が起こっていたかもしれません……彼氏くんのお陰で、世界一可愛い女の座を独り占めしてしまって、本当にすみません……」
いつもの軽口だった。だが、その声にも表情にも、幾つもの死線を潜り抜けてきた者の、隠しきれぬ感慨があった。
何度も死を覚悟したはずだ。それでも、城で初めて言葉を交わしたときのように、船上での指輪簒奪作戦を伝えてくれたときのように、二人は変わらぬ調子で語りかけてくれる。
失われたものばかりを数えてきた少年にとって、その懐かしいやり取りは、今、二人が生きて目の前にいる何よりの証だった。
「まさか『暗殺』を考えていた少年が、これほどの『大役』を担うとはな」
「あ、あんさつ? 何のことじゃ?」
「……なんでもない。『食べ物』のことだとでも思っておけ」
ゼルコバは、かつて少年の正体に気づき、始末すべきだとオルテンシアに進言したことがある。申し出を却下されてからも、不安は拭えずにいた。
その少年が今や、イルシオン王国のために戦い、これほどの役目を担っている。かつての彼には、思いも寄らぬ成り行きだったのだろう。
カゲツは、相棒が思わず漏らした言葉を
食べ物とは、いくらなんでも無理がある。それでも、あっけらかんとした気質のカゲツは、それ以上追及しなかった。
「……ねえ、今度はあなたの話、聞かせてくれる? 彼氏くんの……今までの、戦いを」
抱き締めていた腕を緩め、オルテンシアは濡れた瞳で促した。
少年は、ゆっくりと頷いた。
言葉にすれば、また涙が溢れるかもしれない。それでも、聞いてくれる人が、今はここにいる。
愛する彼女と、その仲間達へ向けて、少年は自分たちが歩んできた地獄の道筋を、語り始めたのだった。