その6まで。
少年とオルテンシアが無事に再会を果たし、ロビュスト砦で報告会が痴話喧嘩へと発展していた頃。神竜リュール率いる城攻め本隊は、未だイルシオン王城へ到達できずにいた。
最大の要因は天候であった。
ヴェイルを救うために一刻も早く王城の玉座を目指したかったが、山道は猛烈な吹雪に見舞われ始めており、軍の歩みを阻むには十分すぎるほどに強行軍が困難な状況に陥っていたのだ。
ジーヴル港で降伏し、捕虜として軍に同行している騎士モーヴも「天候の無理を押して山を進み、部隊が疲弊してかえってヴェイル様救出の邪魔になるくらいなら、ここでの足止めは当然の判断だ」と、深い納得を示していた。
進軍の目処が立つまでのこの空き時間を、城下町の異形兵掃討に当てるべきだ──神竜リュールは、そう宣言。安全なソラネルへ一時帰還して休息を取るべきだという意見もあったが、リュールはその進言を呑まなかった。
邪竜ソンブルを討ち果たした後は、リュール本人も含め、誰もが自国の戦後処理で手一杯になってしまうことが予想される。被害が極端に少ない熱砂の国ソルムは例外としても、他二国の被害はあまりに甚大だ。
ブロディア王国は、覇王モリオンが崩御したことで長子であるディアマンドが王位を継ぐことが確定している。だが、新王戴冠という国家の根幹に関わる時期に、他国への大規模な支援など行えるはずがない。
一方フィレネ王国は、現国王イヴが存命ではあるものの、この大戦乱が終わり次第、王位を第一王子アルフレッドへ譲る意向を示しているという。神竜と共に世界を救ったという功績の熱が冷めやらぬうちに、という母王の思慮深い計らいだろう。
彼らもまた、真っ先に焼け野原となったフルル港などの国内復興に注力する必要がある。イルシオンへの支援どころではないし、フィレネ国民の感情を置き去りにしてイルシオンのために軍を動かせない。
今いる国の未来の復興を見据え、真にエレオス大陸全体の平和を掲げるのなら、各国の軍勢が神竜軍として一つの旗の下に集っている今のうちに、城下に
この決断に、かねてより神竜と共に戦ってきた名のある戦士たちは、特に驚きもしなかった。我らが優しき神竜であれば、必ずそう言うだろうと、心のどこかで信じていたからだ。
しかし、ジーヴル港で合流したばかりのブロディア兵たちは、大きくどよめいた。
彼らの多くは『邪竜を奉じ、我が王を殺した憎きイルシオンを攻め落とす』という復讐の口実を胸にこの死地へやってきているのだ。その大義名分が『イルシオンの民を救うため』へとすり替わってしまえば、反発心を抱く者が現れるのも当然のことであった。
それほどまでに、ブロディア・イルシオン間の血塗られた確執というのは、長年に渡る呪いのように民の心へ根付いていたのである。今この場にいる兵の多くが、そもそも何故両国が長年争い合っているのか、その根本的な理由すらよくわかっていないというのに。
「我らが王を殺し、国土を荒らした敵国に恩を売るなど、どういうことだ!」
「イルシオンの奴らに母を殺されたというのに、あまりにも薄情ではないか!」
怖れを知らぬブロディア兵の一部が不満の声を上げると、連鎖反応が起こったかのように、次々と「そうだ、そうだ」と同調する者が現れ始めた。
こうなると、海上で神竜軍へ寝返って加入したイルシオン兵たちも黙ってはいない。
「好きで他国と戦っていたわけではない!」
「我々も邪竜に無理矢理戦わされていた被害者だ!」
「そもそも国境を侵犯し続けたブロディアは加害国だろう!」
などと激しく喚き立て、まさに一触即発の事態となっていた。
イルシオン第一王女アイビーは、ブロディア兵に食ってかかることも、自国のイルシオン兵を諫めることも出来ずにいた。どちらの言い分も痛いほどわかる。何より、二国間の歴史的背景はさておき、今回の惨劇が父王ハイアシンスの狂気によって引き起こされたものであることは紛れもない事実だからだ。
モリオン王が殺害された件に父も噛んでいるという事実が覆らない以上、ブロディア兵の怒りと痛みも受け入れなければならない──アイビーは次期女王として、その罪の重さを背負う覚悟を決めていた。
しかし。ブロディア第一王子ディアマンドは、彼女とは真逆であった。この事態を前にして黙っていることなど、彼の気質が許さなかったのである。
「聞け、ブロディアの者達よ! 歴史を考慮し、怒れる気持ちはわからないでもない。しかし、これは他ならぬ神竜様のご意向だ! 母君である神竜王ルミエル様のご慈愛もまた、我がブロディアが重んじる歴史の一部であったはずだが、そちらは都合よく忘却の彼方か!?」
左の側頭部に明るいメッシュの入った暗い赤色の髪。そして鋭い赤き瞳には、まるで猛火のような強い怒りが込められているようだった。
実のところ彼は、亡き父モリオンの『家族を愛する父としての姿』は心から尊敬していたものの、同時に『領土拡大を掲げてイルシオンへ侵攻を奨める軍事方針』には、昔から否定的だったのだ。
平和的な手段で国を豊かにする政治を行い、いつかイルシオンとも手を取り合えないか──父から厳格な帝王学を学ばされていた幼い頃から、彼は密かにそう考えていたのだという。
実現するための問題は山積みだった。
ディアマンドは質実剛健な精神ゆえに民からの信頼も厚く、彼の直属の臣下たちの中にその志を否定するような者はいない。しかし、ブロディア軍の全員が王子の平和主義に賛同しているわけではなく、武力至上主義であったモリオン王やかつての国王たちと相反する理念を掲げる彼を『軟弱だ』と疎ましく思う兵も少なからず居た。
「第一王子殿下は、イルシオンの魔女に
兵の誰かが、下劣な言葉で嘲笑した。それにつられて下品に笑う者までいる。
アイビーの衣装は確かに装飾的で肌の露出も多いが、これはれっきとした正装なのだ。明らかな侮辱であったが、アイビーは怒鳴り散らせなかった。ただ怖くて、悲しくて、何よりその悪意に、深くショックを受けてしまったのである。
ディアマンドは無言のまま、その怒りを受け止めていた。しかし、そんな彼の代わりに無礼な兵を処断しようと、横から鋭く口を挟んだ者たちがいた。
「今のは王族全てに対する挑戦と受け取っても? わたしも、ドレスの露出度は高いのよ。……いい度胸しているわね。ディアマンド様と、わたしに対する明確な侮辱と認識するわ」
「いいえ。あれは女性全体に対する侮辱よ。ディアマンド様の手も、シトリニカの手も煩わせる必要はないわ。……あたしが、今ここでぶちのめすから」
一人は、魔道士シトリニカ。亡きモリオン王の妹君の娘であり、王子たちとはいとこの関係に当たる大貴族の令嬢。
ふんわりとした金髪に赤き瞳。美しい耳飾りや髪飾りで自身を着飾り、宝石が散りばめられた豪奢なドレスは、彼女自身が言及した通り、肩と胸元が大きく露出したデザインである。
彼女は華奢な手にバチバチと恐るべき雷の魔力エネルギーを溜め、淑女の笑みの裏に隠し切れない激怒を湛えていた。
そしてもう一人は、剣士ラピス。芋が名産の村の出身であり、芋農家の怪力娘なのだが、多くの者にはその出自を隠して『中流階級の女の子』を装っている女性。
桃色の髪と瞳を持ち、右の側頭部から小さな三つ編みを垂らしている。彼女が身に纏う真紅の軽鎧は、剣士としての誇りそのもの。
華奢な体躯にはおよそ見合わぬ巨大な大剣を軽々と片手で構え、不敬なブロディア兵を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけていた。
彼女たちは、今はこの場にいない第二王子スタルークの近衛である。
ブロディア兵の反感を買わぬよう、スタルーク以外のブロディア関係者はロビュスト砦の別動隊へ向かうことを許されなかったため、彼女らもこの本隊に残っていたのだ。
二人とも、内心では「無理を押してでもスタルーク様の傍についていけばよかった」と後悔し始めていたところだった。そして同時に。こんな醜悪で腹立たしい光景が広がる場に、心優しき主君であるスタルークが居なくて本当によかったと、両者とも心から安堵していた。
「……頼む、二人とも。剣を収め、魔力を解いてくれ。私は力で彼らを抑えつけたいわけではないんだ。落ち着いてほしい」
一触即発となった女性二名の怒りを、ディアマンドは必死に制止した。あくまでも言葉で、兵士たちの燃え上がるようなイルシオンへの恨みを静めさせたい……次期国王としての確固たる意図が、その赤き瞳に込められていた。
敬愛する次期国王の静かなる意志に、二人はこれ以上吼えるのを止め、不満げに得物を下ろすしかなかった。
「私自身は、どのような
落ち着いた重低音の響きであったが、ディアマンドの目には未だ確かな怒気が籠っていた。
アイビーを、ではなく『他国の王族を』と、あえて主語を大きくして
ディアマンド王子はあくまでも彼女の尊厳を庇おうとしてくれているのだが、名を直接出せば、嘲笑した兵士たちをさらにつけあがらせるだけだ。
王族、と大きく括ったことで、その侮辱の対象をこの場にいるフィレネ王子アルフレッドやソルム王女ミスティラにも飛び火させる形にしたのだ。きっとそういう意図なのだろう、女王となる者として大いに参考にせねば……と。
王子の理路整然とした叱責と威圧感に、さすがの兵士たちも顔を見合わせ、毒気を抜かれたように黙り込んだ。だが、彼らの内に燻る復讐の炎までは消えていないことを察し、ディアマンドは小さく息を吐いて妥協案を提示した。
「貴公らが、イルシオンを救うことにそこまで強い抵抗があるというのなら……わかった。こう考えるのはどうだ? 現在、町でうろついているのは異形兵だが、元を正せばイルシオンの者だ。貴公らが胸に抱くイルシオンに対する怒りをぶつけるのに、これ以上ないほど、うってつけの相手だろう。今後のイルシオンを助けるのではなく、倒す。そう考えれば、貴公らの抵抗感も少しは薄まらないか?」
ディアマンドは横目でアイビーを見た。自らが提示した内容が、イルシオンの兵士たちを、そしてアイビーの心をどれほど深く傷つける残酷な言葉であるかを理解しているからこその、痛切な悔恨の色がその赤き瞳には浮かんでいた。
しかし、アイビーは彼の苦渋の意図を正確に理解していた。
異形兵を元の人間に戻す手立てがこの世にない以上、どういう理由であれ彼らを討ち果たさねばならないという結論は同じ。ならば、この場で不満を爆発させ、味方同士での殺し合いという最悪の事態を招くくらいなら、自分たちへの憎悪を都合よく利用し、彼らの激情をコントロールしてほしいと、彼女は冷徹に割り切っていた。
一方、激しく動揺していたのはブロディアの兵たちであった。
上述の通り、彼らの多くは、覇王モリオンとは違い、平和的解決を望むディアマンドのことを『綺麗事ばかり吐く軟弱な王子』だと軽んじていたのだ。それが、顔色ひとつ変えずに、このような血生臭くも非情な折衷案を堂々と突きつけてくるとは予想外だったのだろう。
この一触即発の事態を黙って見守っていたが、ついに怒りの限界に達したのか、兵たちの前に進み出て、烈火の如く怒鳴り散らした者が居た。
「いい加減にしな、あんたら! くだらん罵詈雑言を吐いて、他国の王族を笑いものにして、あまつさえディアマンド様まで見下すのが、武の国ブロディアの在り方だったのかい!? 陛下も、さぞかし草葉の陰で嘆くことだろうね!」
浅黒い肌に透き通るような白い髪が特徴的な、無骨な鎧を纏い大斧を振るう中年の女戦士。
覇王モリオン直属の臣下であるザフィーア。彼女は
彼女自身はブロディアにある田舎の漁村の生まれだったが、かつてイルシオン兵による報復に巻き込まれ、幼い頃に両親を理不尽に殺されているという壮絶な経歴を持つ。
本来であれば、直接イルシオンに対して最も強い恨みを抱いているはずの彼女が、この怒れる兵たちの中にあって、誰よりも道理を弁えた発言をしていたのだ。
「ディアマンド様が次期国王になるのが、そんなに不満かい! 殿下はね、私らが王城で手をこまねいている間も身を削ってモリオン陛下を救おうとし、神竜様への恩義を忘れず最前線で戦い抜いてこられたんだ! 武の国を体現してくださっていたのさ! そんな誇り高い殿下を侮辱するなんて、いつからあんたらはそんなに偉くなったんだい!?」
「ザ、ザフィーア。庇ってくれる気持ちは嬉しいが、その辺りにしてくれるか」
吠え続ける忠臣に、さすがのディアマンドも焦ったのだろう。彼は彼女を制止しようとしたが、当のザフィーアは「いい機会だから止めないで欲しい」と前置きし、そのまま言葉を続けた。
「気高く戦っている他国の王女を、背景も知らずに馬鹿にして、しかも娼婦呼ばわりしたヤツはどこのどいつだ! 私が今ここで首を
怒れる形相で、大斧を地面に激しく叩きつけるザフィーア。
あまりの恐ろしさに、それまで軽口を叩いていた兵士たちも命の危機を感じたのか、全員が並んで平身低頭し、冷たい雪の降る大地に額をこすりつけて震え上がった。
ザフィーアはまだ彼らを許さないつもりだったようだが、ディアマンドがいい加減やめてくれとそれを制止。地に這いつくばる兵士たちへ厳格な口調で告げた。
「言ったはずだ、私への
そう言って、ディアマンドは視線でアイビーに合図を送った。こっちに来てくれ、という意図なのは理解できた。
アイビーは少し悩んだが、ここで引くわけにはいかないと察し、ブロディア兵たちの前に凛と立った。
「彼女もまた、ハイアシンス王の、いや、邪竜ソンブルの邪悪な意志に翻弄された被害者なのだ。かつて彼女がブロディア王城を襲撃したことは、貴公らの記憶にも新しいだろう。しかし、あれは全て邪竜に心酔した父に認められたいがため、家族としての愛を欲するが故の凶行であった。親の愛に飢え、家族の変心があっても誰も殺めずにいられる者だけが、彼女を糾弾するがいい」
「……いいえ、違うわ」
ディアマンドの温かい擁護は、ひとえにアイビーの背景事情をよく知る、仲間としての大いなる優しさだった。
彼自身が、そうやって事情を汲み取り許してくれていることは本当に嬉しい。しかし、それを免罪符にして己の罪から逃げるわけにはいかない……というのが、アイビー自身の確固たる想いであった。
つい最近、フルルの港で足を失った男の子に対し、床に頭をつけて涙ながらに謝罪したときのように。自分の犯した罪から目を背けたりしない──アイビーは、すでに次期女王としてそういう決心を固めていたのである。
「全ては、私の意志……です。わ、私は、自分自身の、親の愛を得たいという欲望のために……ブロディアの民が傷つくことを一切、考慮しませんでした」
彼女の絞り出すような、しどろもどろな演説に、怯えて頭を下げていた兵士たちもハッとして頭を上げ、聞く姿勢に入った。神竜の軍勢の仲間たちもまた、彼女の気高き贖罪に一切口を挟まず、ただ黙って見守っている。
「それが、どういう結末をもたらすか……なんて、私は考えもしていませんでした。ブロディアとの確執にまたも修復不可能な亀裂を入れるどころか、この世界そのものを滅ぼす手助けになるかも、なんて……何一つ……」
気を抜けば、今にも
だが、気高き王女を演じ続けなければならない。それが、罪を背負ってイルシオンを継ぐと決めた者の義務なのだから……。
アイビーは震える両の拳を強く握り締め、涙を堪えて決意を入れ直した。
「そんな大罪人である私を、ディアマンド王子は仲間として、友として支えると仰ってくれたのです! そんな心優しき次期国王を、どうか同国民である皆様が非難することだけは、どうか……おやめください!」
彼女もまた、ディアマンドと全く同じ気持ちだった。
自分を許して欲しいとは思わない。怒りは当然だから、どんな心無い言葉も甘んじて受け入れる。でも、ディアマンド王子に対する暴言だけはどうか取り消して欲しい……そんな悲痛な思いを瞳に込めて、兵士たちへ眼差しを向け続けた。
困惑と、重い痛みが交差する沈黙が流れた。
それを引き裂いて、最初に娼婦だのと侮辱めいた言葉を吐いた兵士が、震える口を開いた。
「……俺達は、イルシオンは邪竜を信仰する血も涙もない悪魔だと教えられて育ってきました。歴史の上では、イルシオン側がブロディアから人を
一呼吸置いて。
「遠い遠い昔の話です。今のイルシオンの皆様がそうしているわけでは、ないのでしょう。でも俺達は、そんな古い歴史を妄信して、イルシオンを糾弾し続けてきました。俺達が……無為な戦いを広げ続けて来てしまった」
二国間の血塗られた戦いは、果たして何故始まったのか。
少なくとも、神竜王ルミエルから四ヵ国にそれぞれ指輪を託された千年前には、そのような殺し合う関係ではなかったはずなのだが。その発端はもはや歴史の闇に埋もれてしまって、誰にも判然としない。
「娼婦だなんて言って、本当に申し訳ありませんでした。それから……この戦いは、俺達のような者が──」
「最初の謝罪は受け入れます。でも……その続きは、どうか言わないで欲しいのです」
アイビーは、悲しみに満ちた、しかし凛とした目でその兵士を見据えながらそう言った。
「もはや、どちらが先に悪かった……という話ではないのです。歴史のどこかで歯車が狂い、このような戦争が起こってしまったことは事実です。しかし、過去の責任のなすりつけ合いは、私の望むところではありません。大切なのは、過去ではなく、現在、そして未来……。私はそう固く信じています」
だからこそ、イルシオンに対する彼らからの公的な謝罪は受け入れない。同時に、自分もイルシオンの王女として彼らに謝罪はしない。
ディアマンドが幼き日に
敬愛する神竜の軍勢が、今まで自分たちにしてくれたように。
「どうか、共に戦ってください。全ての国の……未来の希望のために」
「……私からもお願いする。今こそ、かつての
二人の次期国王の、力強い言葉に。もはや、敵意を込めて