『まずは私の妹、オルテンシアの身の回りの世話をさせなさい。将来学園に通う際、友人の作り方も知らぬままでは王族の恥だわ。同年代で、これほど使い勝手の良さそうな平民が侍従を申し出る機会など、二度とないでしょうから』
……これは三年前の1の月。あの雪の日の出来事だ。
今、矢で貫かれそうになっている私は、どうやら、自らの走馬灯を見ているらしい。
確かに、人は絶対的な死を想起した際、己の生涯の光景が脳裏に甦るものであると聞いたことがある。王立イルシオン学園の授業で得た知識だ。
しかし、そうであるならば、もっと幼少の頃の記憶から思い出していてもいいはず。何故、三年前のこの日からなのだろうか……。
私の口は、私の意志に関係なく勝手に動く。身体もだ。
意識だけが肉体から切り離され、少しだけ宙に浮き出ているような感覚。かつての私の行いを追体験していながら、思考だけが現在のままという、ひどく奇妙で不可思議な状態に陥っていた。
「そんなに不思議に思うことではないわ。ここに貴方の生きるためのヒントがあるのよ」
不意に、何者かにパシッと肩を掴まれた。
そんな人物が背後にいるというのに、目の前で雪に這いつくばる少年も、周りを固める城兵たちも、まるで見えていないかのように一切反応しない。
首を振り向かせることは出来ないが、耳元で囁かれたその声の主が誰であるのか、私にはすぐにわかった。
──これは、私自身だ。私自身が魂の奥底にひた隠しにしてきた、真の私と言ってもいい代物。
「黙って感じ取っていればいいわ。思い出すのよ。貴方自身の……いいえ、私のことを」
学園の教師には、かつてブロディアとの苛烈な小競り合いを生き延びた歴戦の騎士が多いのだが、彼らからも『死の淵で自分の影が語りかけてくる』などという逸話は聞いたことがなかった。
これは本当に走馬灯なのだろうか──そんな疑問が浮かぶが、私の意志で質問するために口を開くことは出来ない。必然的に、今与えられているこの幻の事象を黙って受け入れるしかないわけだ。
……私がこの日、少年に向けて脅迫めいた言葉を用いたのは、彼を本気で死なせようとしている兵たちを納得させるための、私なりの強引な芝居だった。
働きぶりが不振だった程度で、簡単に首を
わざわざ単身でこの過酷な雪山を登ってきた彼に、王族の責任をもって、私なりの敬意を表した結果だったのだ。
私の冷酷な言葉を聞いて、少年はお礼を言いながら、ひたすら雪に額を擦りつけて頭を下げていた。どうしてもこの城のために働きたかったらしい。
記憶喪失だという、素性も名前も一切わからぬ平民。周囲が抱く強い警戒も理解できるが、私はいっそ、過去を持たないこの者の方が都合がいいと思ったのだ。
ひとまず、オルテンシアの今後を考えれば、同世代の異性を遊び相手として宛てがうのが都合が良いというのは紛れもない事実。
私が学園に通って城を空けている四年間、実の母を亡くし、孤独な派閥争いの中で闘ってきた妹のために、少しでも心の支えになれる人物が欲しかったし、あらゆる意味で使い勝手が良いのも確かで。
そう、あの時のオルテンシアは、今にも壊れそうな心を、「死んだ母が悲しむから」、そして「父が好きだから」というたった二つの理由だけで、必死に張り合わせて保っていたのだ。
あの子が一番辛い時に、一緒に居て守ってあげられなかった自分に、その心の傷を埋める資格などない。オルテンシア自身は微塵も私を恨む様子がなく、頼れる姉だと無邪気に愛してくれていたが、私自身が、そんな都合のいい自分を許せそうになかった。
私の実の母も、私が在学中に死んだ。オルテンシアの母が死んでから一年後のことだったが、私にとっては本当にどうでも良いことだった。
私の愛した兄を、無実の妹や弟たちを、オルテンシアを、果てには父の心まで壊し尽くした、権力欲にまみれた下衆に向けてやる慈愛など、私の中には一滴たりとも存在しない。
立場上、仕方がないから一旦学園を休学して葬式には出てやったが、おかげで中級クラスのカリキュラム受講に遅れが出て大変だったのを、今でも恨めしく思っているくらいだ。
とにかく、オルテンシアを少しでも励ましてあげたい。その不器用な真意を周囲に悟られぬよう、少年を拾い上げた私の決断に、きっと間違いはないと信じたかった。
──まさか彼が、兵士達の言うように、本当に王家を狙う『間者』だったとは思いもしなかったが。
震える小動物のような名もなき少年を引き入れたのは、妹オルテンシアのため。それが、イルシオン王家に激しい復讐を誓う毒蛇だったなんて……。
「オルテンシアからその事実を聞かされて、彼を城に引き入れなきゃ良かったと、そう後悔した?」
背後の私の影が、意地悪に笑いながら問いかけてくる。
質問の意図がわからなかった。
当然なのではないだろうか。父を、私を、そして愛する妹を殺そうと刃を研いでいた人物だ。
あわやイルシオン王家の崩壊もあり得たのだ。後悔しないはずなど……。
「いいえ、違うわ。私は納得し、後悔とは違う別の感情が渦巻いた。何故なら、私は──」
私の至極
影は、私の精神の奥底を抉るような、冷徹な言葉を紡ぐ。
「『妹のため』だけに、あの彼を引き入れたわけではないのだから」
その瞬間、世界がぐにゃりと歪み、場面が切り替わる。
イルシオン王城の内装は目に優しい緑色を基調に構成されているが、この場所は高貴な紫が基調。
──私の部屋だ。
目の前に
彼女たちには、定期的にあの少年の働きぶりについて報告させるため、他の侍従たちに聞かれることのないよう、こうして密かに自室へ招いていたのだ。
『彼ですが、驚くほど仕事の覚えが早く……。筋力不足で力仕事に難があることが欠点ですが、他は非の打ち所がありません。王家の侍従として申し分のないほどの逸材です』
侍従長の真面目な言葉に、隣にいる次期侍従長の彼女も「その通りです」と笑顔で肯定する。
かなり厳しく採点をしても、他の侍従達を凌駕するほど精密で繊細な仕事をし、それでいて誰もよりも数をこなすとのことだ。
『侍従隊からの信頼も非常に厚いですね。イルシオン王家に恩返しに来た妖精なのだと、まことしやかに囁かれるほどで』
ヴァイオレットがそう言って笑ったが、私はそれを冗談半分に受け流しておいた。
真の妖精の民ならイルシオン王家に怨恨を抱いているはずだから、自ら進んで奉公しにくるわけがないと。
だが、この手放しの高評価は、オルテンシアから直接聞いていた自慢話の内容とも完璧に合致していて、それが紛れもない事実であると認識せざるを得なかった。
オルテンシアが十三になる年には、学園への入学が行われる。あの子がうまく友人を作れなさそうで恥をかく可能性が高いなら、数年遅らせることも視野に入れていたが、その心配は無用かもしれない……と思わされた。
『そう……それなら良かったわ』
……この時の私は、心底嬉しそうに、こうやって口元を綻ばせて返事をしていたのか。
何故、嬉しかったのだろう。それが今の私には全然思い出せない……。
『カゲツさんといい、あの少年といい……。ときどきイルシオン王城には珍客が訪れますが、最終的には王家の確かな力となっておられる。これもアイビー殿下が持つ魅力なのかもしれませんね』
ヴァイオレットが、敬意を込めて目を細めていた。
そう、カゲツとあの少年には奇妙な共通点がある。どちらもイルシオン王城にとって、不意に現れた招かれざる客だったことだ。
カゲツは少年が入城する数ヶ月前に、強者を求めて門番や城兵をなぎ倒し、殴り込んできたとんでもない不審者だった。死者は出なかったが、ゼルコバが即座に彼を制圧出来ていなければ、大惨事になっていただろう。
本来であれば即刻処刑を命ずるべきだった父は、あろうことかカゲツをゼルコバに次いで私の近衛にすることを命じてしまった。その真意は当時わからなかったが、父は彼がいずれ起こる戦争の戦力となることを見越していたのだろう。
あんな物騒な事態が直前にあったものだから、武力で訴えて来ず、ただ額を擦りつけて恭順を示した無力な少年が城で受け入れられたのは、ある意味で自然な流れだったのだ。
「私とゼルコバは、最初カゲツに対する采配に酷く嫌な顔をしたわね。でも……あの少年に対しては、初見から嫌悪を抱かなかった。何故かしら?」
影が耳元で静かに問う。
そんなことを言われても返答に困るが、怪我人を出した危険な剣客と、吹けば飛ぶような無力な少年では、扱いが違うのは当然ではないのだろうか。
「いいえ。結局、カゲツは今や私の背中を預けられる、絶対の臣下になっていったじゃない。そう……それは」
影は私の肩にポンと手を置いて。
またも、私の理解の外にある、核心を突く発言を繰り出した。
「カゲツとあの少年に対する、『最初の好感度』が大きく違ったということよ」
その瞬間、またも世界が歪み、光景が切り替わる。
今度は、いったい何を見せられるというのか。最終的にどんな結論に辿り着くのか。
全くわからず、私はただただ、己の魂の深淵で困惑するしか出来なかった。
『あの……お姉様、ええとね』
鮮やかなピンクを基調とする部屋。
家具のひとつひとつが可愛らしくデコレーションされている。
──妹の部屋だった。
私は椅子に座らされ、当のオルテンシアは切り出しにくそうに何やらモジモジしている。
この光景には覚えがある。
オルテンシアが学園へ入学する、二週間前の出来事だ。
大事な話があるからと言われ、この子に招き入れられたのだ。
何の話をされるのか、予想が出来なくて私自身もやけにドキドキしていたのは記憶に残っている。
『じ、実はね……』
まだ言い出すべきか、言い出すのをやめるか悩んでいる様子のオルテンシア。
しかし、わざわざ呼んでおいて言わないのも意味がわからない、と思ったのだろう。ドレスの裾をギュッと掴んで、意を決した表情で、たどたどしく胸の内を伝えてきた。
『あ、あたしの……あたしの世話を主にやってくれている侍従の子、いるわよね? 侍従隊で唯一の男の子』
まさか彼の話をされるとは思わず、私は面食らった。てっきり、学園入学についての不安の相談か何かだと思っていたのだけれど。
あまりに悲壮な決意を込めた顔だったものだから、彼に嫌なことをされたとか、そういう不祥事の話かと警戒してしまった。
オルテンシアが、やけに彼にご執心だったのは城にいる誰もが知る事実。もはや執着と言ってもいい熱量に、私がやんわり
それくらい仲の良かった彼との間に、何かあったのだろうか。
その次の言葉を待つ。
オルテンシアから放たれたのは、私の想像の斜め上を行く内容だった。
『つ、つつ、付き合うことにしたのよ! 彼氏になって、って言ったらね! オッケーもらっちゃって!』
あのとき私は、何を言われているのか、一瞬、脳が理解を拒んだ。
オルテンシアが、あの少年を、恋人にした?
『ず、ずっと名前呼びにくかったし。みんな、そこの男の子とか、彼だとか。だからね、あたし、あの子を彼氏くんって、呼ぶことにしてね』
仲が良いのは確かだったが、その関係は主従の枠組みをとっくに超えてしまっていたらしい。
ダメ、などと頭ごなしに言えるはずもなかった。
オルテンシアの母も、かつて平民の侍従だった女性なのだ。身分を理由に否定するなら、かつての父の選択も全否定することになると思った。
そう……あのとき。
私はオルテンシアと少年の関係を、ほんの僅かな間、無意識のうちに引き裂こうとしたのだ。それを今、思い出した。
大義名分がまるで思いつかないものだから、言葉に出来なかっただけで。
『……貴方の心を支えてくれる大切な人となったのね。素晴らしいことだわ、とても』
困惑しながらも搾り出した私の言葉を、オルテンシアは素直に受け取ってくれた。
それまで、「否定されるかも」と不安が
『彼氏くんね、城にね、ずっと居てくれるんだって! あたしが学園を卒業した後も! 実は、急にいなくなっちゃうかもって不安だったのよ。ときどき、消えてしまいそうな瞬間があったんだもの』
オルテンシアが言うその『瞬間』については、私自身も何度も観測してきたことだった。
周囲に愛想のいい笑顔を見せ、完璧に仕事をこなす彼が不意に見せる、どこか儚げで悲しげな表情は、いつも私の脳裏に焼きついていた。
確かに彼は、そのうちふらりと、黙っていなくなるかもしれない。そう何度も思った。
それがオルテンシアのお陰で城に留まったのなら、イルシオンにとって良いことなのだ。
彼ほどの優秀な侍従を失うのは、王家の多大な損失に繋がるのだから。
「いいえ」
そのもっともらしい思考を、またも影が冷酷に否定する。
もう私は、影が最終的に導く結論が何であるかの予想がついていた。
それは確かに、心の奥底に厳重に鍵をかけて、しまわなければならなかった感情だ。
お願い、言わないで。
口に出すことさえ許されない私の懇願を
「優秀な侍従を失うのが嫌だから、彼がいなくなるのを嫌がったわけじゃない。……もうわかるでしょう? 貴方が秘めた感情の正体が、なんだったのかを」
やめて。
やめてやめてやめて。
お願いだから、最後まで聞かせないで。
自覚したら。
それを自覚してしまったら……!
オルテンシアとの関係が、壊れてしまう!
……影は再び、目先の光景を無慈悲に歪ませた。
それが最後に見せるものよ、と意地悪く笑いながら。
そのときに感じた浅ましい感情を、私は嫌でも思い出さなければならなかった。
今見せられているのは、オルテンシアの門出の日。馬車に乗り込む前の妹の姿を捉えている。
私は何度も忘れ物がないかを確認した。気づけば十回以上、同じことを口にしていたようで、オルテンシアに苦笑されてしまった。
『そろそろ行くけど……。あのね、彼氏くんのことを任せていい? 間違っても城から逃げ出さないように縛り付けておいて』
私を信頼しているオルテンシアの笑顔。
何故か胸がちくりと痛んだ気がするが、私は大きく首を縦に振っておいた。
あの痛みは。
「もうわかっているでしょう?」
やめて……。
オルテンシアは私に話した後、愛する侍従の男の子へと駆け寄って、堂々と『彼氏くん』と呼んだ。
ああ、最後だから恋人に挨拶するのは当然だ、私でも同じ立場ならそうする、なんて呑気なことを思ったりした……。
「私でも同じ立場なら?」
本当にやめて……!
オルテンシアの、彼に対する囁き。
私の位置関係からは、二人の会話がはっきりと聞こえてしまった。
『大好きよ』
『僕も……愛しています』
仲睦まじい二人の愛の言葉。
本当は、胸が引き裂かれそうだった。
「何故、引き裂かれそうだったか」
いや! 聞きたくない!
……見送りの人々が散っていっても、彼が立ち尽くすその姿には、妹に対する深い愛情があったように思えた。
寒風に晒されても動こうとしない彼に、私は少し苛立ちを覚えたものだ。
『……何をしているの。風邪を引くわよ。あの子を悲しませるつもり?』
手に持っていた羽織るものを、そっとかけてあげた。
本来は私用のものだったが、私はどうにも寒さを感じなかった。元々寒さを感じにくい体質なのだけれど、この日は顕著だった。
『……実はね』私は感情を押し殺したまま、続けた。『貴方のこと、あの子から聞いていたわ。「大切な彼氏くん」らしいわね?』
何か、彼が悲鳴らしきものを上げていた。
恋人関係にあることを咎められると思ったから、だと推測していたが今ならわかる。
少年は、オルテンシアと夜な夜な愛し合っていたことを勘付かれたと思ったのだろう。当時の私は全く気づいていなかったけれど。
『貴方の働きは、正直に言って私の想定を遥かに上回ったわ。素性の知れぬ者が、あの子の心をこれほどまでに解きほぐすことになるとは、思いもしなかったもの』
これは素直な賞賛だった。
しかし、心の奥底にあったのは……。
『あの子はしばらく王城を離れるけれど……それでも、ここで待っていてくれるというのは本当なの?』
何気ない質問を装った。
『はい。オルテンシア様と交わした約束を、違えるつもりはありません』
彼の屈託のない笑顔。
あのとき、私に灯った謎の羨望の正体。
私自身にもわからなかった、私自身が必死に殺していた、私自身の真の感情。
「そう。彼は私にとって、ただの侍従じゃなかったの」
…………。
そうだ。
私は、ずっとそれを無かったことにしてきたが。
城の前で拾ったあの日からずっと。
私は、
プロローグ第1章を書き上げたとき、いつかこの回を書くというのは確定していました。まさか90話近く離れるとは思いませんでしたが。
これを踏まえてプロローグを読み返すと面白いかもしれません。