そうと自覚してしまえば、私自身の取ってきた行動や感情に、身に覚えがありすぎた。
オルテンシアを見送ったあの日、私の胸の内に静かに灯った不可思議な羨望も。
先日、ソラネルで彼の過去の話を聞いたとき、実直にイルシオンへ貢献する彼の功績を称えると同時に、思わず「羨ましい」と口にしてしまったのも。
そして、ジーヴル港で彼の生死がわからないと聞かされた際、オルテンシア以上に取り乱し、温情をかけて下さった神竜様へ何度も礼を言ったのも。
あの、見目麗しい少年を、一人の異性として愛していたから。そう認めれば、これまでの自分の不可解な挙動すべてに説明がついてしまう。
「一目惚れだったのよね? 城には、カゲツやゼルコバを含めて大人の男性しかいなかった。学園に通う男子は、年齢相応に子供だった。見た目が子供なのに、不釣り合いなほど大人びていた彼に惹かれていたのよね?」
否定、できない。
彼は私の人生で見た男性の中で、あまりにも特殊すぎた。
年齢が自分より低い男などごまんといる。もちろん、この軍にも。だが、彼らには庇護する者がいるのだ。軍の年少たちも、神竜様の加護があってこそ戦場に立っている状態なのだから。
だけど、彼は違った。
自力で全てを解決し、何の後ろ盾もなくたった一人で生き抜いてきたことを、あの深い青の瞳が雄弁に語っていた。詳しい事情を知らなくとも、ただそれだけで、私には魅力的すぎたのだ。
城に入ってからの仕事ぶりを、いつも目で追っていた。些細な失敗すら犯さぬ彼を内心で賞賛し、侍従長マグノリアたちからの報告に胸を高鳴らせて喜んだりもした。
全て、彼を人知れず、いいえ、私自身ですら己を偽りながら、愛していたからだ。
これは、神竜リュールに対する愛とは全く異なる感情だった。
確かに、かつて孤独だった私の心の拠り所である神竜には、並々ならぬ敬愛があることは自覚している。当人にも『好き』と直接的な言葉で伝えているくらいだ。
命を救われた大恩があるが、これがもしこの軍の陣頭に立つのが神竜王ルミエルであったとしても、当然この敬愛の感情はルミエルへと向けられ続けていただろう。あるいは、神竜リュール共々、どちらも同等に崇拝しているか。
だが、侍従の少年は、そのような神ではない。侍従隊にとっては神格化されていたようだが、私の世話を重点的にしていたわけではないのもあって、距離感が適度にあったのだ。
この瞬間まで自分でも知り得なかったが、その『適度な距離感』こそが、私が彼へ恋愛的な感情を抱くにあたり、最低条件にして十分条件だったらしい。
一度自覚をしてしまえば、感情が溢れ出るのが抑えられない。
彼の好きな点は、上げようと思えばいくらでも上げられる。
職務に一生懸命で妥協知らずなところ。他者に優しく微笑みかけるところ。相談を受ければ絶対に親身になるところ。知識が意外とあり応用力に長けるところ。料理の腕が卓越しているところ。私の好きなものや嫌いなものも熟知しているところ。私の誕生日に長時間話し相手になってくれたところ……。
その全ては、いずれ私たちを殺すための化けの皮だったのかもしれない。しかし今は、その皮こそが彼自身に根付いてしまった真実なのだ。
彼が最愛の妹、オルテンシアの恋人である以上、私がこの感情を持っていることは
それでも、切に思う。彼が死んでいたら、私も途方に暮れてしまいそうだ。イルシオンに不可欠な侍従だと思っているからではない。
彼を密かに愛する一人の女として。何としても、生きていて欲しい。
「そう。私はここで死ぬわけにはいかないわ。
私の影が、意地悪に嘲笑する。妹の彼氏を愛するなど、なんて浅ましくていやらしい女なのだと、魂の奥底から私自身を軽蔑する
この痛みを、私自身はもはや否定しなかった。自覚したところで、進むべき道はただひとつだけだ。
──失恋を胸に抱いて、イルシオン女王として生きる。それが数多の罪を背負う私の、贖罪なのだから。
「幸せを求めようとは思わないの? オルテンシアを蹴落としましょう。下賤な女の血が混じった娘など王家にいらないわ。適当な理由をつけて処刑台へ送ればいい。そうすれば彼は私のもの。私を愛せと命令すれば従うでしょうね」
この瞬間。
私の影が
影は確かに、私の魂の奥底に封じ込めていた本音を代弁してくれている代物ではあったが、今、私自身では到底あり得ない発言をした。
オルテンシアへの、オルテンシアの母への、そして彼への侮辱。天地がひっくり返ったところで、私が私である限り、絶対に起き得ない思考だ。黙って聞いていれば、私は邪竜を崇拝していますなどと言い出しかねない勢いである。
……これは私ではない。私を模した邪念だ。死の淵に立たされた私が見ている幻影か、あるいは王城の玉座でふんぞり返っているソンブルの幻術なのか。
これを『私ではない』と認識できたことで。まるで喉に食事が詰まったかの如き状態になっていた私は、ようやく言葉を発せられるようになっていた。
「あの子を……あの子の母を、そして彼を!
*****
その瞬間。
異界に飛ばされていた意識が、まるで瞬時に元の世界に帰還したかのように、アイビーの視界が開けた。
眼前には、飛来してくる鋭い矢。すぐ近くには、彼女を庇おうとして血相を変えているディアマンド。炎を挟んで、紋章士であるリンとロイが驚愕の表情を浮かべている。少し離れた位置にいるジェーデとアンバーも、敵と鍔迫り合いを行いながらアイビーに意識を向けていた。
時間の経過がゆっくりになったような奇妙な感覚を、全否定するように。彼女は大声で叫んだ。
「イルシオンに不可欠なあの子たちを……妹夫婦を! 引き裂くなど、あり得るはずがないッ!」
叫びながら、アイビーは瞬時に自分を防衛する魔法結界を前方へ展開した。炎の壁となって顕現したそれは、矢を自分のところまで届かせることなく完全に焼き払う。
「私は……心の底から祝福しているわ。オルテンシアの幸せも! 彼が復讐を諦め、あの子のために生きていることも!」
今展開した結界の魔力を、アイビーは手の中へ引き戻す。防御から攻撃に特化させたものへと変質させ、矢を放ってきた方角へ、超高速で撃ち飛ばした。
火の矢と化した魔力は、弓を持つ異形兵を逃がさない。先程放った極大魔法『ボルガノン』の残り火による炎の壁を巻き込んでさらに威力を増大させ、敵の胴体に突き刺さり、金切り声を上げさせながら消滅させた。
──もちろん、オルテンシアの母にも感謝している。あの下衆とは違って、私を本当の娘のように可愛がってくれたのだから。
出自が平民であるかどうかなど、些細な話なのに……オルテンシアを血で差別し、あまつさえ処刑台に送れだなどと、そんなものが私であってたまるか。
アイビーは思い返す。あの影が最後に見せた醜悪な本性は、やけに、権力欲に塗れたあの実母に近いものであった、と。
あんな風にはならないように済む。妙な存在だったが、己の在り方がどうあるべきかを指摘してくれたようなものであると、アイビーはある意味で感謝すら覚えていた。
「もう一本飛んでいっている!」
しかし、安堵の息をつく暇はない。ロイが叫んだ通り、アイビーの死角から二本目の矢が飛来してきていたのだ。別の異形兵が放ったものだった。
「……死ねないわ!」
再び炎の障壁を張ろうとするが、今度は間に合いそうになかった。しかしアイビーは最期の瞬間まで諦めまいと、忍び寄る死を真っ向から否定し続けている。
そのときだ。
第二の矢を避けられないと踏んだのだろう、アイビーを守るように一人の人物が前に躍り出た。
「自国の王女を傷つけようとするなんて。異形兵と化していても、許されることじゃないよ」
腹部が大きく露出し、優雅な装いと身のこなしをした見目麗しい踊り子の男。腰まで伸ばした艶やかな黒髪に、均整の取れたしなやかな肉体は、女性と見まごうほどの美しさを誇っている。体術にも心得があり、何よりも他者の魂を奮い立たせる踊りを用いて軍を幾度も助けてきた男。
しかし、彼の武器はそれだけに留まらない。
武闘派の僧侶が使用する気功術『チェインガード』をも得手としていた。
己の身体に気を纏わせるその防御術は、術者自身が一切の傷を負っていない無傷のときのみ使用可能という厳しい条件がある。
だが、どれだけ強力な一撃だろうと威力を最小限にまで殺してしまうという絶大な恩恵があった。彼は咄嗟の判断で、自らの無傷を代償にしてアイビーを完璧に庇ってみせたのだ。
「セアダス!? どうしてここに!?」
「カードに従ったんです。神竜様にも許可は得ていますよ」
踊り子の青年セアダスは、踊りの力をもって軍の最前線で味方を鼓舞し戦うことが多い。わざわざ後方であるここまで下がってきたのは、彼が趣味とするカードでの運勢占いにおいて、アイビーの身に余程の凶兆が現れたからなのだろう。
だが、アイビーが彼の登場に驚いたのは、単に前線で多大なる貢献をしている人物が来たからというだけではない。
セアダスが、紋章士を相棒とする戦士でもあるからだ。それを証明するように、彼の指には『未来を選びし者の指輪』が装備されている。
救援に来てくれたのはありがたい話だが、ただでさえこちらにはロイとリンという強力な二名が居てくれているのに、これほど大きな戦力をこちらへ割いてしまって本隊は大丈夫なのだろうか……と、神竜リュールの底知れぬ慈愛に深く感謝すると共に、前線の心配が募ったのだ。
そんな不安は、アイビーの顔にハッキリと書かれていたらしい。
「問題ありません。前線は順調……今は、紋章士の力を振るうまでもないでしょう。それよりも、こちらに来ている敵の数が、想定以上に──」
「セアダスさん! 危ない!!」
凛とした、女性の叫び。
彼女の指し示した方向を見れば、前衛のディアマンドたちが撃ち漏らした異形兵の群れが、こちらへ向かって殺到してきていた。アイビーが先程放った極大魔法ボルガノンの残り火は、雪に飲まれてとっくに消えてしまっている。
今叫んだのは、セアダスの相棒である『選択の紋章士』カムイだった。暗めの銀髪に、紋章士共通の特徴である透き通るような青い瞳を持つ、高貴な鎧を身につけた女性。
彼女は非常に優秀な剣士であり、主に夜刀神なる刀を用いて戦う。その剣閃は、他の紋章士に比べれば純粋な爆発力には欠けるものの、相対した者の気力を削ぎ、戦闘能力を大きく奪い去ってしまうという恐るべき力を持っている。
だが、彼女の紋章士としての真髄は、剣士としての実力ではない。
「セアダスさんにも……アイビーさんにも! 近づけさせません!」
カムイは両手に力を込めると、気合の叫びと共に体勢を低くし、その力を大地に向かって激しく叩きつけた。
その瞬間。セアダスとアイビーを庇うように、強固な氷の壁が異形兵の進行を完全に阻むように隆起してきた。
竜脈の力、というものらしい。
彼女が元いた世界において、竜の血を引く者だけが行使可能だった、大地に直接干渉する神の叡智なのだという。使うには大地に流れる竜の力を必要とするため、特定の場所でしか使えなかったそうだが、紋章士となったカムイは、それをどこでも自在に行使できる能力を得たらしい。
そして、竜脈が氷の壁として現れた理由。これは、気功術を用いるセアダスと組んでいることが原因だという。彼女は千年前の戦いでも数多の戦士と組み、共に戦う者の戦闘スタイルに合わせて、あらゆる地形変化を起こしたと言っていた。
ただし、この氷の壁そのものは敵を傷つける用途には使えない。
物理的な破壊も容易であり、あくまでも時間稼ぎのみが行える防壁だ。
だが、アイビーたちが体勢を整え、反撃の準備を完了させるには、十分すぎるほどの猶予であった。
「任務を遂行……私が、殺す」
地を這うような低い呟きと共に、背後から音もなく躍り出た女性がいた。赤い長髪に、黒と紫を基調とした、胸元と脇腹が大きく開いた服。何より特徴的なのは、頬や髪に散りばめられた星型の装飾だ。
謎の流れ者を自称する、普段はひょうきんな女性ユナカだった。
殺意の塊と化した彼女が投じた白銀の短剣は、氷の壁の僅かな合間を器用に縫い、壁の向こうで足踏みしている異形兵の急所を次々と正確に刺し貫き、音もなく絶命させていく。
「危なかったですなー! 怪我はありませんかな、アイビー氏にセアダス氏!」
「え、ええ……」
背筋が凍るような殺気と暗殺者としての迫力を全面に押し出していた先程の状態が、まるで嘘だったかのようなおちゃらけた豹変ぶりに、アイビーは思わず目を丸くして驚いた。
交流が薄いのもあって、彼女のその極端な二面性の理由は不明だが、戦闘になると血が騒いで気持ちが昂る気質なのだろう……と、ひとまず解釈しておくことにした。
戦闘はまだ終了していないが、安全は確保出来たと言っていい。早くディアマンドらに合流して戦列を立て直さなければ……そう思った、次の瞬間。
「気を抜くな、アイビー王女! まだそっちの異形兵は──」
遠くで戦うディアマンドによる血相を変えた注意喚起の叫び。それと同時に、カムイが展開していた氷の壁のうちのひとつが、甲高い音を立てて激しく破壊された。
その裏側に身を細めて潜んでいた二体の異形兵が、それぞれ剣と槍を手に、金切り声を上げてアイビーたちへ突進してきたのだ。どちらも、ユナカが急所を外して投げつけたナイフが肩や腕に刺さったままの状態だった。
「仕留め損なっていたと言うの……!?」
普段のおちゃらけた口調をかなぐり捨て、ユナカが屈辱に戦慄する。だが、混乱は一瞬だった。挽回しなければと思い直し、すぐに再度投げナイフを手に構え直す。
その一瞬の戸惑いこそが、命取りだった。
「させない! こっちを見ろ!!」
二人の女性の盾になるべく、再びセアダスが前に出た。
しかし、彼は先程、アイビーを矢から守るために使用した気功術の反動により、身体にわずかな擦り傷を負ってしまっている状態。無傷でなければ発動できない気功の壁を、今は張り直すことが出来なかったのだ。
せめて、アイビーが彼に一刻も早く回復の杖を使っていれば違っていたのだが。怒涛のように押し寄せる異形兵の群れを前に、杖を振って彼の傷を癒やしているような余裕は、どこにも与えられなかった。
無防備なセアダスの身体を貫かんと、異形兵の槍が真っ直ぐに伸びてくる。彼も体術をもってそれを強引に弾こうとしたが、異形の筋力を弾き切れず。
「うぁっ……!」
無慈悲な槍の穂先が、セアダスの脇腹に突き刺さったのだ。
「セアダスさんっ!?」
相棒であるカムイが、悲痛な声を上げる。
幸い、致命傷ではない。しかし、噴き出た鮮血が浅く積もった雪にかかり、純白を無惨な緋色へと染め上げていく。放っておくわけにはいかない深い傷だった。
アイビーがすぐに魔道書から杖へと持ち替え回復行動に入ろうとする。
だが、それをさせまいと、もう一体の剣を持つ異形兵が狂ったように飛びかかってきて、杖を振るのを阻害してくる。アイビーは自身の身を守るために攻撃を避けることしか出来ず、他の行動が一切取れない。
セアダスは激痛に脇腹を押さえ、その場に崩れ落ちるように
とてもではないが、今のままでは戦闘を継続できるような状態にはないらしい。
槍持ちの異形兵はカムイが剣で抑え込んでくれているが、これ以上時間をかけてはいられない。
この場にいる杖持ちがアイビーのみである以上、優勢だった戦況は急激に暗転し、彼らは一気に、絶体絶命の危機へと追いやられ……。