それでも、運命はセアダスに死を与えない。
この場で杖を使えるのは、アイビーだけのはずだった。
だが、杖を片手にセアダスへ駆け寄る者がいる。不敵な笑みを浮かべた、ユナカである。
「えっ、貴方、杖を……?」
神竜軍へ加わって以来、遠巻きながら彼女の戦いを見てきたアイビーは驚いた。
ユナカは
短剣を主武器とし、物陰から敵の急所を狙う。時には単身で敵陣へ飛び込み、身のこなしで攻撃を躱し続けて囮を担うこともある。
今はここにいないゼルコバと似た立ち回りで、役割を分担する場面もあった。だが、魔道の心得があるとは聞いていない。まして、杖を使えるなどとは。
「ふふん。わたくしめが杖を振るところを見るのは、アイビー氏は初めてでしたな?」
ユナカはセアダスの脇腹へ杖を当て、意識を集中させた。
その背後へ、青いオーラを
濃い赤紫色の衣装に、首元へ巻いた青い布。黒いタイツに包まれた脚。そして、何より目を引くのが銀色の髪だった。カムイも銀髪だが、こちらはより明るく、神々しさすら感じさせる。
──『暁の紋章士』ミカヤ。
己の身を削り、杖を使わず味方を癒す『癒しの手』をはじめ、十二の紋章士の中でも回復の術に秀でた人物だ。
ユナカが神竜軍へ加わったのは、まだ軍が今より小さく、アイビーもイルシオンの将として彼らと敵対していた頃である。
ブロディアの首都コルヌの一帯を治めるルブライト伯と一悶着あった折、縁あって仲間となり、ミカヤを相棒とすることになったという。
その『暁の巫女の指輪』は、デスタン大教会の戦いで一度は邪竜の軍勢へ渡った。しかし、ジーヴル港で着用していたモーヴから取り戻し、神竜リュールの判断で再びユナカの手へ返されたのだった。
そう。短剣を得手とする彼女が杖を使える理由。それは、紋章士ミカヤの力を得ているからだ。
「ミカヤ氏! わたくしめが回復に集中している間、援護をっ!」
「大丈夫よ。あなたには指一本触れさせないわ」
ミカヤは既に、光魔法の詠唱を終えていた。
近づいてくる異形兵は、全身を分厚い鎧で包んだ重装の歩兵。守りを頼みにしたその装いは、彼女にとって脅威とはならない。むしろ、最も戦いやすい相手である。
放つのは、元いた世界で彼女だけが扱えたという光魔法『セイニー』。頭上から無数の光弾が降り注ぎ、異形兵の鎧へ炸裂した。その光は装甲の隙間へ入り込み、内側で跳ね回って肉体を引き裂いていく。
分厚い鎧で身を固めた歩兵にも、馬上から敵を蹂躙する騎馬兵にも、この魔法は絶大な威力を誇る。騎馬ならば閃光と衝撃が軍馬を怯ませ、乗り手を振り落とす。
まして、魔道への抵抗力が低い傾向にある重装兵には効果が
ミカヤは惜しみなくセイニーを放ち、ユナカへ肉薄しようとする者を次々と退けた。他の歩兵は少し離れた場所でディアマンド隊と紋章士二名が抑えている。なおも抜けてくる敵は、カムイが鋭い刀で切り伏せる。
セアダスを癒す手は、もう止まらない。
アイビーもまた、彼を仕留めようと群がる異形兵へ攻撃を集中させた。魔力を炎へ変え、味方を巻き込まぬよう範囲と威力を絞って焼き払う。
その中の一体が、破れかぶれに跳び上がった。炎を越え、上から剣を突き立てようと迫る。通常の魔法では、あの速さに狙いを合わせきれない。
そう判断したアイビーは、迷わなかった。
『リン! 力を貸して! エムブレム・エンゲージ!!』
相棒を呼び戻し、指輪へ祈りを込める。
アイビーの髪が鮮やかな緑へ変わり、その身を白基調の神聖な衣装が包んだ。紋章士と魂を重ねた者の姿。背にも青い光の翼が生え揃う。
この状態でのみ放てる絶技を、アイビーは
──『流星群』。
弓から放たれた五本の矢が、魔力の尾を引いて異形兵へ殺到する。
一矢、また一矢。空中の敵を逃さず、その身体へ突き刺さった。怒涛の連撃に剣を振るう間も与えられず、異形兵は後方へ弾き飛ばされる。地面へ叩きつけられたときには、既に灰へ崩れ始めていた。
その間に、セアダスの傷も塞がっていた。深く抉られた脇腹には傷痕すら残っていない。ミカヤの力を借りた治癒が、それほどまでに強力なのだろう。
「大丈夫か、セアダス!」
敵を切り伏せながら、ディアマンドが叫ぶ。
当のセアダスは自力で立ち上がり、微笑んでみせた。先ほどより調子がいいくらいだと、その顔には余裕さえある。
「問題ありません! このまま押し切りましょう!」
絶体絶命の窮地は脱した。アイビーは愛騎と共に浮き上がり、眼下の敵陣を見据える。今度はこちらの番だ。反撃の
*****
戦いが終わったのは、それからさらに半刻ほど後だった。
吹雪は激しさを増し、少し離れた味方の姿さえ白く霞んでいる。
戦闘終了の報せを後衛のアイビーたちへ届けたのは、神竜リュールの補佐を務めるヴァンドレだった。第三十二代竜の守り人。白髪に碧眼、立派な髭を蓄え、白銀の重厚な鎧をまとう老練の騎士である。
「神竜様はこれ以上の滞在は危険だと仰られております。全軍、一度ソラネルに帰還すべしとのこと」
9の月の上旬に、山上ならまだしも平地に近い城下でこれほど吹雪くのは、近年では珍しかった。
イルシオンの冬将軍は、まさに死神。雪に慣れた自国の兵でも命を落とすことがあるのだ。他国の者たちに、この寒さの中で踏み留まれとは言えない。
撤退に異論はなかった。ただ、ロビュスト砦へ向かった妹たちが気にかかる。こちらが神竜と共に帰ってしまえば、あの子たちはどこへ戻ればいいのか。
「心配はいらないのではないか? もし万事うまく行っていたとしても、この天候だ。オルテンシア王女らは砦で一晩を過ごすはずだぞ」
傍にいたディアマンドが声をかけてきた。
砦付近の状況は、投降したモーヴたちにもわかっていない。侍従の少年たちが足止めされているというのも推測だ。既に先へ進んだ可能性もある。最悪の場合、命を落としていることさえ。
だから、砦の周辺で見つからなければ、闇雲に捜し続けず軍へ戻るよう約束させてある。
その事態を考えたくはないが、セリーヌ、スタルーク、フォガートら他国の王族まで巻き込み、妹が際限なく捜索を続けるとは思わない。望みと判断を分けられぬほど、愚かな子ではないはずだ。
見つかったなら砦で夜を明かし、見つからなかったとしても、この猛吹雪の中を無理に戻ることは避けるだろう。自分があちらにいても、そう判断する。ディアマンドの推察には頷けた。
そこまで考えて、ようやく理屈が追いつかなくなる。
先ほどは可能性の一つとして数えたものが、急に生々しく胸へ迫ったのだ。
──侍従の少年が、すでに死んでいる可能性。
動悸がした。
死の淵で恋心を自覚してしまった以上、ただの懸念として片づけられない。もし本当に失われていたなら、絶望するのはオルテンシアだけではない。この私もなのだ。
二人を引き裂くなど、あり得るはずがない。先ほど自分の影へ叩きつけた言葉に偽りはなかった。彼の恨みを買いたくはないし、何より、心底信頼してくれる妹を悲しませるなど言語道断である。
だが、二人を間近で応援し続けられるのか。そこまで自分を信じることは、まだできなかった。
大好きな二人が愛し合う。微笑ましく、心から祝福したい。それなのに、その姿を目の前で見れば、身を引き裂かれるほど嫉妬するのではないか。
祝福も嫉妬も、どちらかが嘘ならよかった。どちらも本物だから、始末が悪い。
戻ってきたオルテンシアへ、よそよそしく接するなどしたくない。妹には何の非もないのだ。自分の胸に芽生えた感情のせいで、あの子を戸惑わせたくはなかった。
かつてなら、一人で抱え込んだだろう。誰も信用せず、自ら築いた氷の檻へ閉じこもり、その中で秘めた感情の炎に焼かれ続ける。己を罰するには、それで十分だったのかもしれない。
だが、今のアイビーは、そうして自分を追い詰めれば済む立場ではないと知っている。
誰にも頼らず判断を誤れば、女王となる前に戦場で命を落とす。大切な仲間まで失うかもしれない。自分を罰したつもりで、他者へ代償を払わせてはならないのだ。神竜軍で共に戦ううち、そのことを幾度も思い知らされてきた。
だからこそ、他者を頼る。王族として正しく在りたいからこそ。アイビーは帰還準備の合間を見計らい、セアダスへ声をかけた。
「あの……セアダス。怪我を負ったばかりで悪いのだけれど」
「俺の心配は不要ですよ。ユナカのお陰で元通りですから。それで、どうしましたか?」
他人の機微に聡い彼は、軽い用件ではないと察したらしい。急かさず、こちらの言葉を待ってくれていた。
アイビーはその気遣いに感謝し、ソラネルへ戻ったら個人的な話を聞いてほしいと告げる。取り繕わず差し出した頼みを、セアダスは静かに受け入れてくれた。
*****
聖地リトスの上空に浮かぶソラネルは、地上の吹雪が届かぬ安全圏だった。ここで一夜を過ごし、明朝、イルシオン王城へ再出発する。ひとまず、そういう手筈となっている。
四カ国の軍が集い、これほどの大所帯で滞在するのは初めてだった。一時的に収容することはできても、寝床や食材には限りがある。この規模の軍を支え続ける場所として、何度も頼るわけにはいかないだろう。
そのソラネルの外れに、セアダスの占い小屋がある。神竜リュールの許しを得て建てたもので、リュール自身も仲間たちも、何度か足を運んだ場所だという。
アイビーもまた、そこへ招かれた。
悩みを聞き、カードで占う。十二の紋章士が描かれた札を混ぜ、引き当てた絵柄から未来の暗示を読み解くのだとか。
「えっと……ユナカも一緒なの?」
意外だったのは、部屋で待っていたもう一人の存在だ。
謎の流れ者を名乗る彼女は、どうにもセアダスと馬が合うらしい。彼がその演技力をいたく気に入っているとは聞くものの、詳しい事情は知らない。
最近は占いの補佐として同席することも増えているのだという。
「あ……お、お邪魔ですかな? では、わたくしめは失礼しますぞ──」
「ダメだ。ユナカにはここに居てもらうよ」
そそくさと退こうとしたユナカへ、セアダスが釘を刺す。直前の占いで、彼女も同席した方がいいという結果が出たらしい。
「別に構わないわ。ごめんなさい、ユナカが嫌いなわけじゃないの。二人きりだと思ってたものだから、つい驚いてしまって」
「ああいえ! お気になさらず。それよりもわたくしめが、アイビー氏の個人的な秘密を知ってもいいのですかな?」
「……ええ。この感情についてアドバイスをしてもらえるなら、ありがたいわ」
意を決して、アイビーは語り始めた。
オルテンシアが今、ロビュスト砦へ向かっている理由。その中心にいる侍従の少年について。
死の淵で意識が異界へ飛ばされたように感じ、自分に似た何者かと対話した末、彼への恋慕を自覚したこと。
妹と彼の関係は大切にしたい。だが、自分の感情をどう扱えばいいのかわからない。だから、進むべき道を示す手掛かりが欲しいのだと。
普段は気高く、隙を見せぬ王女。その口からこぼれた切実な告白に、二人は少し驚いていた。
「許されざる恋……というヤツですな……。聞いていて燃え上がる気分がしてきましたぞ」
「要はオルテンシア王女との関係を崩したくないから、気持ちを落ち着けたいということですね」
セアダスの言葉に、アイビーは深く頷いた。
叶わぬ恋だとはわかっている。妹の幸せを壊してまで、自分のものにしたいわけではない。
だが、諦めると決めることと、感情を消せることは違う。何もかも押し殺そうとして、妹の前で自然に振る舞えなくなっては本末転倒だった。
よき姉であり続けたい。そのために、この痛みをどう扱えばいいのか。
自分一人では答えを出せず、彼らの言葉を必要としていた。
「アイビー王女、もう少し詳しく教えていただけますか? その少年がどういう人物なのかを知れれば、カード占いの結果がハッキリしますので」
「詳しく……? ええ、と言っても、彼についてそこまで詳しくないのだけれど」
促されるまま口を開いたが、伝えられることは多くなかった。
イルシオンとブロディアの国境沿いにある村で暮らしていたこと。村を焼かれ、幼くして放浪した後、王城へ転がり込んできたこと。その彼を、自らの采配で侍従へ取り立てたこと。
もちろん、王家への復讐を企てていたことや、父ハイアシンスへ憎悪を燃やしていたことまでは明かさない。自分の恋心を相談するために、彼の過去まで余さず晒していいわけではないのだから。
「国境沿い……イルシオン側……」
真っ先に反応したのはユナカだった。
いつもの朗らかさが消えている。暗い面持ちで押し黙る彼女へ、アイビーは顔を向けた。
「ユナカ? 何か気になることが?」
「ああ、いえ。その……実はわたくしめ、過去に一度だけ、国境を越えてイルシオンの村に行ったことがありましてな」
彼女はブロディア出身だ。
両国の国境警備は厳しい。それを掻い潜って越境したという事実に、アイビーは驚いた。なるほど、この軍の最前線で働く
ただ、ユナカが自ら過去を語るのは珍しかった。
普段の避けようからは、よほど触れられたくない事情があるのだろうと窺える。それでも今は、言葉を探しながら続けてくれた。
イルシオンの村で世話になった夫婦と、その幼い息子。彼らと過ごした時間は、思い出したくもない過去の中で、唯一と言っていいほど美しい記憶なのだという。
「もしかして、それを思い出させるために、わたくしめが同席する必要があったのでしょうかな?」
「それはわからない。カードの占いで出てくる結果は、予知じゃないからね。どう解釈するかは、その人次第だよ」
そう答え、セアダスはカードを混ぜ始めた。目を閉じ、一枚一枚へ祈りを込めるかのような丁寧な手つき。アイビーはその指先を見つめる。
未来を決めてもらえるわけではない。それでも、自分だけでは見つけられぬ道を、そこに見いだせるだろうか。
「アイビー王女の感情はとても入り組んでいます。三枚引いて、その結果を見てみましょう。どう解釈するかは──」
「私次第、ということね。わかったわ」
アイビーが頷くと、セアダスはカードを混ぜる手を止めた。
古びた円卓へ、三枚の札が伏せて並べられる。凝った意匠の裏面を見ているだけでは、何を告げるものかはわからない。
小屋の中へ微かな緊張が満ちた。アイビーもユナカも口を閉じ、最初の一枚へ伸びる指先を、息を呑んで見守っていた。