セアダスが使うカードには、十二の紋章士が描かれている。
同じ絵柄が三枚ずつ、合わせて三十六枚。本来は別の絵柄の札も用いるが、今回のような運勢占いでは、この十二種類だけを使うのだという。
三枚を並べる占いをもとに、セアダス自身が手を加えた手法。そんな豆知識を、ユナカが補足してくれた。
めくった札がアイビー側から見て正しい向きなら正位置、上下が逆なら逆位置。絵柄だけでなく向きも読み取り、そこから暗示を探る。基本的には、正位置の方がいい意味を持つらしい。
「さて、一枚目は──」
セアダスが札をめくる。
描かれていたのは、紋章士エイリーク。正位置だった。
「ええと、これは……?」
「
指先が二枚目へ移る。紋章士シグルド。こちらは逆位置。
最後の一枚は紋章士ルキナで、正位置だった。
「……逆位置があるわね」
やはり、邪な感情を抱いているせいなのか。
表情を
「では、それぞれのカードについて解説いたします」
正位置のエイリークは『優愛』。
一枚目に出たのは、強い愛情を抱いている証なのだという。
アイビーは頬へ熱が集まるのを感じた。あれだけ相談しておいて今更だが、札にまで指摘されると、隠しようもないものを暴かれた気分になる。
逆位置のシグルドは『悪評』。
身に覚えのない噂や、望まぬ評判が広まる暗示。
今度は胸が冷えた。秘めた恋慕が知れ渡り、浅ましい女だと囁かれる。そんな光景を、
そして、正位置のルキナは『希望』。
絶望の未来から過去へ飛び、世界を変えた彼女のように、運命が好転する兆しを示すという。
この感情の、どこに希望があるのか。羞恥と不安の後に差し出された一枚を、アイビーはただ見つめていた。
「……解釈はアイビー氏次第。セアダス氏はそう申しておりますが……これは深く掘り下げなければならないのではないですかな?」
尋ねてみれば、占いを受ける者の多くは、札の意味を聞くだけでは読み解けないのだという。今のアイビーのように。
だからセアダスも自分なりの解釈を伝え、相手が考える助けとする。最近はユナカもそこへ加わり、時には異なる読み方を示して、別の可能性へ目を向けさせるのだそうだ。
アイビーに断る理由はなかった。そもそも、自分だけでは考えが行き詰まったからこそ、ここへ来たのだ。
「まず『優愛』のカードだけど……アイビー王女は、侍従の少年への恋慕をなくしてしまいたいと思っていますか?」
「え、ええ……その方がオルテンシアともギクシャクしないで付き合えるでしょう?」
「あくまでも俺の解釈ですが。残念ながら王女は今後、その感情を捨て去ることがない……いえ、出来ないのだと思われます」
むしろ、秘めた愛はさらに膨らんでいく。それがセアダスの見立てだった。
ユナカも同意するように頷き、別の方向から言葉を添える。
「むしろ、少年氏に対する愛情を注ぐことでイルシオンがより良い方向に進む暗示かも知れませぬぞ」
「そんな……。それは、彼を愛しているオルテンシアに対する裏切りになるじゃない……」
妹の恋人を愛し、その感情を優先するそんな真似が、イルシオンのためになるはずはない。女王となる己に許されることでもない──そう考えるアイビーに対し、二人は揃って真面目な顔をしていた。
「その感情を自ら否定する必要はない……俺はそう思いますよ」
「そうですぞ。特定の誰かを強く想うことは、素晴らしいことのはず。想うこと自体を咎める権利など、誰にもありませんからな」
彼らが肯定するのは、妹から恋人を奪うことではない。自分の中に生まれた想いを、それだけで罪と決めつけなくてもいい、ということらしい。
少年を愛していてもいい。だが、彼を求めずに愛し続けることなど、自分にできるのだろうか。女王の立場を濫用せず、妹を傷つけずに、この感情を抱えていられるのか。今すぐ答えの出る話ではなかった。
アイビーは視線を二枚目へ移す。
「じゃあ……『悪評』というのは?」
「……率直に申し上げてもいいですか?」
「ええ、お願いするわ」
「アイビー王女の考えておられる通りです。少年を愛する、その感情が多くに漏れてしまう可能性がありますね」
セアダスとユナカが、秘密を広めるとは思わなかった。
他人の相談を面白おかしく吹聴する者であれば、とっくに噂になっているだろう。彼らへ打ち明けたことを、後悔するつもりはない。
ならば、何かをきっかけに──恐らくは、自分の振る舞いによって漏れるのかもしれない。
隠し事には自信があった。
正しくは、他者との間へ壁を築き、内側を見せないことに慣れていた。イルシオン王家に生まれながら神竜を信じていたことも、そうして守ってきたのだ。だが、その信仰をオルテンシアには打ち明けている。大切な相手ほど遠ざけられず、いつまでも同じ壁で隔て続けることはできない。
何より、自分ですら見落としていた恋心だ。自覚した今、これまで通りに振る舞えるという保証などなかった。
「ですが、もしそうなのだとして……危惧するような事態は起こらないかもしれません」
「どうしてそう言い切れるのかしら?」
「三枚目に引いたのが『希望』のカードだからです」
最後にルキナが出た場合、それ以前の逆位置の意味を覆すように読むのだという。
悪評が広まるとしても、それは不幸で終わる出来事ではなく、その先の幸福へ至る過程かもしれない。後になって振り返れば、悪評さえも、シグルドの正位置が示す『名誉』へ転じる。そういう解釈も成り立つのだそうだ。
「つまり! アイビー氏は何も気にせず少年氏を愛し、それが周りにバレ、少しは冷めた目で見られるやも知れませぬが、最終的にはオルテンシア氏も巻き込んでハッピー! ということですな!」
ユナカは、これ以上ないほど前向きにまとめてみせた。セアダスの占いはよく当たるのだから、そう考えた方が幸せだ、と。
──そんな馬鹿な。
悪く考える方が、よほど筋が通る。妹へ配慮もせず少年を愛した挙句、その事実が広まる。女王の醜聞を喜ぶ者たちにとっては、それこそ希望の展開ではないか。
恐る恐る口にすると、セアダスは首を横に振った。
「確かにどう解釈するかは自由ですが……俺のカードはあくまでも、占った相手に対して起こる現象の暗示です。『希望』が出た以上は、アイビー王女にとっての希望、ということにしかなりません」
「悪く考えない方がいいですぞ! きっとなるようになりますからな!」
少年を愛することが、希望へ繋がる。どうすればそんな結末になるのか。考えるほどにわからなくなるが、二人が真剣にそう読んでくれていることだけは伝わった。
未来を保証されたわけではない。それでも、胸の重みが少し軽くなっていた。
占いの結果が都合のいいものだったから、というだけではない。浅ましいと切り捨てようとした感情を、目の前の二人が肯定してくれたからだ。
妹の恋人を愛する自分は、権力欲に塗れた実母と同じ下衆なのではないか。そうとまで思い詰め、氷の檻へ閉じ込めて罰しようとしていた。だが、その檻へ、外から温かな言葉が届いたのである。
結末は見えない。妹を傷つけたくない気持ちも変わらない。ただ、この愛おしさを無理に捨て去らなくてもいい。そう赦されたような安堵が、今は確かに胸にあった。
*****
セアダスとユナカへ礼を告げ、アイビーは自室へ戻った。
地上の吹雪が収まれば、明日にはイルシオン王城へ向けて再出発する。モーヴとマロンは投降したが、
ヴェイルの救出も急がなければならない。間に合わず、モーヴの言う魔道具による洗脳が施されれば、彼女とも戦うことになるだろう。マルスとセリカの指輪は敵の手にある。考えるべきことは、幾らでもあった。
──それに、オルテンシアと少年。
妹は彼を見つけられたのか。彼は、まだ生きているのか。今は何もわからない。祈るしかないというのは、何とも歯痒いものだった。
休まなければ、と考えるほど目が冴える。明日も戦いが待っているのに、嫌な想像が眠気を追い払ってしまう。占いの席で軽くなった胸も、二人の安否を思えば落ち着かなかった。
日付が変わる直前の深夜。いつもなら同じ部屋にいる妹も、今夜はいない。
「……リン、いるかしら?」
相棒の名を呼ぶと、戸口の向こうから返事があった。
緑髪を垂らし、異国の装いをした剣士は、部屋の前で待っていたらしい。
「寝られないんでしょ。いいわ。お話しましょ」
「ありがとう、リン。その……一緒に散歩でもしない?」
地上へ下りられるわけではないから、ソラネルの中を歩くだけになるけれど。そう付け加えると、リンは嬉しそうに目を細めた。以前交わした『一緒に散歩を』という約束を、覚えていてくれたのだ。
紋章士であることに不満はない。それでも、この世界を自由に歩いてみたい。そう言っていた彼女と、今は他国の道をのんびり巡ることもできない。申し訳なくなったアイビーは、逆に慰められてしまった。
「アイビーと歩けるだけで嬉しいから、そんな顔をしないで」
二人で取り留めのない話をしながら歩いていると、小さな影が二つ、足元を横切った。
一匹は、ソラネルの守り神であるソラ。青っぽい頭に丸い目。犬に似た姿で「フャン」と鳴き、見た目に反して、桃二個分ほどの重さしかないという。いつも穏やかで、神竜リュールによく懐いている。
もう一匹は黒猫だった。オルテンシアがソラネルにいる間、よく遊んでいる猫だ。戦が終わったら城へ連れ帰りたいとせがまれ、リュールからも許しは得ているらしい。
ただ、王城で飼っていいものかとアイビーが迷っているため、姉からの返事は保留のままなのだった。
二匹は並んで歩いていたかと思うと、立ち止まってじゃれ始める。明日にも城を取り戻す戦いへ赴く。その事実が嘘に思えるほど、平和な光景だった。
黒猫が顔を上げ、アイビーを見た。妹の面影でも感じたのか。こちらを確かめるように眺め、それから、何かが違うと言いたげに首を傾ける。
「……オルテンシアは今、いないわ。ソラネルを離れて、大切な人のために戦っているのよ」
猫へ説明してどうするのか。言葉が通じるわけでもあるまいに。
そんな自嘲が浮かんだが、黒猫は一鳴きし、またソラへじゃれついた。わかったとでも返されたようで、アイビーの口元が僅かに緩む。けれど、その後にこぼれたのは深い溜息だった。
「はあ……」
「心配? オルテンシアのこと」
リンが覗き込んでくる。あの顔をさせるほど、今の自分は沈んで見えるのだろうか。
「……そうね。心配だわ。私やあの子のために、みんな優しいんだもの。イルシオン王家として、どうやって恩を返したらいいのかしらね」
「アイビー……」
仲間の優しさに甘えて終わるわけにはいかない。イルシオンが他国へしてきたことを思えば、ただ感謝するだけでは足りないだろう。生きて帰った後、王家の者として何ができるのか。妹を心配しながらも、アイビーの目はその先へ向いていた。
「私ね、そのアイビーの強さが凄いなって思うの」
「強い? そんなことはないわ。私は……」
──妹の恋人を愛していると気づいただけで、恐ろしく動揺するような女なのに。
喉元まで出かかった言葉を呑み込む。占いの席で話したからといって、誰彼構わず打ち明けられることではない。そこまで恥を晒す勇気はなかった。
「私、キアランの公女って立場を自分の意志で捨てちゃったから。草原で育った私に領主が出来ると思えなくてね」
リンは静かに、過去を語った。
紋章士となるより前、自分の世界に生きていた頃のことだ。
大国の暗殺集団を乗っ取り、その陰でおぞましい生物兵器を作っていた闇の魔道士。彼を退ける戦いが終わり、やがて祖父が世を去った後も、リンは侯爵領を継がなかった。
自分には向かないと思ったことのほかに、切実な理由があったのだという。
大きなものは、二つ。
一つは、お家騒動の火種を残すことへの不安だった。
草原の部族の青年と駆け落ちした母。その娘として侯爵家へ迎えられたリンを快く思わぬ貴族もいた。口には出さずとも、部族の血が高貴な家へ混じることを認めない者たち。自分が継げば、収まったはずの争いが再び起きるかもしれない。その懸念は拭えなかったらしい。
もう一つは、故郷の草原に『帰る場所』を用意してくれた男性の存在。
父とは別の部族に属する彼は、その長として、他部族の者でも差別せず受け入れると言ってくれた。戦いの中で育まれた縁がリンへ草原に戻る道を示したのである。
残す領地をどうするかは、戦友の男二人へ相談したという。
しっかり者と大雑把な者。そのうち大雑把な方が、面倒を見ると引き受けてくれた。兄の急逝で自らも領主となり、大変な思いをしていただろうに、それでも胸を張って『任せろ』と言ってくれたのだそうだ。
その厚意に甘えて、リンは草原へ帰った。
ただし、後ろめたさまで捨てられたわけではない。
貴族としての責務を放棄したのではないか。女としての幸せを、領地より優先したのではないか。
そうして己を責めるたび、周囲が慰めてくれたのだという。今こうして語る口ぶりにも、自分の選択への苦さが残っていた。
「王族として、現状を真正面から受け止める。逃げた私には出来なかったことよ。だから凄いなって」
「……でも、リンは何もかも無責任に放り出したわけではないわ。ちゃんと友人に引継ぎをしているのでしょう? 自分に出来ないことを認め、しっかり去る選択が出来るのは、逃げじゃないわ」
そこまで言って、アイビーは気づいた。
──自分にできないことを認める。
リンへ向けた言葉が、自分の胸へ返ってきたのだ。
できないことがある。それを認めるのは、責任を投げ出すことと同じではない。なのに自分には、その区別を許してこなかった。
少年への恋慕も、そうではないか。捨てなければならないと思い、そのために占いを頼った。
捨てられぬ想いを二人に肯定されて安堵したのに、なお心のどこかで、それでは駄目なのだと自分を縛っていた。
誰かに赦されるだけでは足りない。自分もまた認めなければ、同じところへ戻ってしまう。
三年前に芽生え、今まで名前もつけず抱えてきた想い。自覚したからといって、都合よく捨てられるものではない。それを認めてから、どう振る舞うかを考えればいい。
なるようになりますからな、とユナカは言った。
全てを成り行きへ任せることはできない。だが、今ここで答えを出せぬからと、未来に道がないことにはならないだろう。
少年を愛している。その事実を認めたうえで、オルテンシアとの間に亀裂を生まぬよう努めることはできるはずだ。
「ありがとう、リン」
「え、どうして? 今お礼を言わなきゃいけないのは私の方じゃない?」
「どうしてもよ。本当にありがとう」
目を丸くしたリンへ、アイビーは微笑んだ。
異形と化した父へ、自分がイルシオンの王になると告げた。
その決意は本物だ。それでも胸のどこかには、荷が重い、向いていないのではないかという恐れがあった。認めれば王族としての逃げになる。そう思い、その声を聞かぬ振りをしていたのだ。
だが、今は違う。
弱さもある。恋に燃え、自分でも浅ましいと思う感情もある。
その全てを消し去らねば、王になれぬというのか。そんな、自分ですらない何者かを目指してどうする。
抱えたまま、立てばいい。
足りぬところは認め、他者の力を借り、それでもイルシオンを背負うのだ。
誰もが認める王になろうという決意が、ようやく自分の弱さと同じ胸へ収まった気がした。
「……私は立派な王になれるかしら」
「なれるわ」
不意に
「私が保証する。キアランの公女リンディスとしても。ロルカ族のリンとしても」
伝説の紋章士である彼女が、二つの名にかけてそう言ってくれる。
自然と笑みがこぼれた。長く指輪からイルシオンを見守り、今は自分の隣を歩いてくれるリン。その強い
足元では、ソラと黒猫がこちらを見上げていた。
二匹も新たな決意を祝福してくれているのだろうか。そう思えるだけで、胸が温かくなる。
明日への不安が消えたわけではない。それでも、この夜を歩き出したときより、顔を上げていられた。