「はあ……っ、はぁっ……これでおあいこね、彼氏くん。これ以上はあたしも限界よ。疲れたでしょう? だから、考え直して。ペラルゴと戦おうなんてしないで……」
ロビュスト砦の薄暗い地下室にて、少年とオルテンシアは激しく愛し合った。正確には、少年がオルテンシアによる一方的な愛という名のイジメを甘んじて
四ヶ月前の仕返しとばかりに行われたのは、愛する彼氏くんの意志を完全に無視した快楽への
暴力は一切なかったが、それよりも地獄だと錯覚するような、甘く厳しい時間がそこには流れていた。
「……おあいこ、だとっ、い、言う、の、なら……」
溜め込んでいた愛のすべてを強制的に放出させられた少年は、生まれたままの姿で、あられもない状態を晒している。涙に
その凄惨な様が示す通り、極限の疲労から言葉を紡ぐのにも時間がかかる様子だ。しかし、それでも尚、イルシオンと愛する王女のために身を尽くそうという少年の気高き意志が、快楽によって消失させられることなどあり得なかった。
「おあいこ、だと、言うのなら! 僕は……オルテンシア様と同じように、しますっ。絶対に……折れたり、しない! どれだけ、何をさせられても……また、さっきみたいに、な、情けなく……叫んでも! 僕はこの国のために、動きたい……!」
「はあ!? ほんっと、強情ね! これ以上やって、干からびたいの!? どうしてあたしの言うことが聞けないのよ!」
かつて彼から泣きながら
彼女もまた、少年同様に生まれたままの姿になっており、彼を苛め抜いた、そして愛し合った証として液体という液体に塗れている。しかし自分がそんないやらしい状態にあることなどお構いなしに、恥じらいもなく身体を晒したまま、少年の両肩をバシッと掴んで、心ゆくまで言い争いをしようという臨戦態勢に入った。
しかし、この日だけでジーヴル港と砦を合わせて二度もの厳しい戦闘を経験していることに重ね、一刻近くにわたる激しい睦み合いを強行したことにより、オルテンシア自身にも体力的な余裕はまるで残されていなかった。あくまでも王女としての意地と気力だけで、へたり込む少年を上から押さえつけようとしているのだ。
「ねえ、わかってる!? あたし、彼氏くんが大好きなの、もうあなたなしには生きられなさそうなのよ! さっき凄く可愛かったわ。声も顔も、何もかも! これが二度と出来なくなるかもしれないなんて考えるとイヤなの! あなたとの子どもだって作りたい。きっとあたしたちに似て可愛さの権化ばっかり生まれてくるわ! ずっと一緒にいたいの、本気なの! だから、やめて! もう彼氏くんは十分頑張ったじゃない!」
「ぼ……僕だって、オルテンシア様が、いっ、いなくなったら屍になるしか、はぁっ、ないんですよ! 気持ちが、はぁっ、理解出来るなら今すぐ神竜軍を離脱し、戦いが終わるまで、はぁっ、学園に一緒に
結局、愛の交歓という名のお仕置きが為されても、二人の平行線な意見が交わることはなかった。先程まで大広間で繰り広げていた言い争いを、今度は密室で二人きりで行ってしまう始末である。
止める者など誰もいないこの閉鎖空間では、互いの本音がむき出しになった徹底的なぶつかり合いが為されてしまった。
激しい感情をありのままに投げつけ合い、両者とも肩で荒い息を吐きながら、互いの肩へともたれかかるように手を置いている。もはや怒りに任せて言葉を絞り出すのは、どちらにとっても体力的、精神的に限界だ。
「……あたしも、そう出来たら良かったなって思ったりもするわ。イルシオンの王族じゃなければ、ただ彼氏くんと愛し合うためだけに全部投げ出す、なんて選択肢があったかもね。でも……」
「第二王女の責務として、そして神竜の下に集う戦士として、世界を救わなければならない……ですか?」
「他の王族もあの通り、戦ってるわけでしょ。あたしだけが、個人的な感情で逃げるわけにはいかないわ」
オルテンシアは深く俯いて、ひどく悲しそうな顔をした。自分がこうして戦い続けるという過酷な選択をしている以上、自らの身を挺して国を守ろうとする少年を止める権利など、本当はどこにもないのだと最初からわかっていたのだ。
それでも、フルルの港で過呼吸に陥るほどに彼女を支配した忌まわしい妄想が、本当に現実化してしまうのではないかという恐怖で、全身が震えてしまって仕方がない。
せめて彼が神竜軍に加わり、自分の目の届く場所に居てくれるのならまだ安心なのだが、少年はそれを明確に拒絶している。その返答の真意が、単なる強情やワガママによるものではないと理解しているからこそ、彼の拒絶そのものを覆すことも不可能なのだと悟っていた。
少年もまた、彼女が神竜軍を離脱することによる致命的な戦力的損失が想像できないはずがなかった。
冷徹な軍師として厳格に思考を回せば、対邪竜の軍勢において不可欠な貢献を果たしているオルテンシアの離脱など、到底あり得ないのだ。
そもそも、彼女を神竜の元へ送り届けるという冷酷な決断を下したのは、誰だったか。
かつて、己の無力さを噛み締めながら、身の丈に合わぬ復讐の炎だけを胸に生きていた頃の自分から見れば、今の己はあまりにも醜悪な存在そのものだろう。
憎き
彼女の笑顔を守るためなら、この手がどれだけ血と裏切りで汚れようと構わない。
その邪悪さを最も嫌っていたのは自分自身だったはずなのに。
……果たして、このおぞましい執着を、愛と呼んでもいいのだろうか。
いいや、と少年は即座に思い直した。
この地獄のような戦いの中で、彼は何度も激しい自己嫌悪に
そして最後には、自らの命を盤面に投げ打ってでも、イルシオンの未来を仲間たちに託そうとした。それは一体、何のためだったというのか。
復讐の亡者であった過去の自分とは、とうの昔に決別を果たした。激しい自己嫌悪は、冷徹な策を実行に移すための
どれだけ人道に
すべては、何のために?
決まっている。何もかもが、最愛のオルテンシアのためだ。
彼女の存在がいなければ、自分がここまで生に執着することなど絶対にあり得なかった。この狂おしいまでの執着が愛でないと言うのなら、一体何が愛だと言うのか。
平穏な日常の中で子を成し、夜な夜な温かく身体を交わらせ、老人となるまで、いや、死が二人を分かつその時まで変わらぬ日々を過ごす。そんな、平和な世界で誰でも成し得るような凡百の愛の形も、確かに美しいだろう。
だが、少年はそんな一般的な概念に当てはめられるような温い生など、最初から送ってはいないのだ。
燃え
これは、復讐を誓った彼自身が始めてしまった物語であり、途中で立ち止まることなど決して許されない。
いつまで足掻き続けるのか? そんなものは決まっている。彼らの前に、越えるべき戦いという名の壁がある限りだ。少年自身、その確かな真実に至り、すでに揺るぎない決意を固めていた。
処刑台での死の淵すら乗り越えた今の彼に、もはや恐れるものなど何もないのだから。
「……オルテンシア様」
少年は、自身の胸に寄りかかるオルテンシアをひしと抱きしめ、その白い額に優しくキスを落とした。彼女の柔らかな身体を抱くたび、何度も何度も思う。このまま永遠に時間が止まってしまえばいいのに、と。激しい痛みを共有する今も、その想いは全く同じだ。
「彼氏くん……」
「大好きです。貴女の顔も、愛嬌も、ワガママなところも、人への情が深いところも、数多の苦境を乗り越えてきたところも、僕にだけ見せる甘えも、他所に見せる偽りの仮面も、王族として気高くあろうとするそのお姿も。何もかもが、僕の大好きなオルテンシア様です。心からお慕いしております。本当はずっと離れたくない。子ども……ですか。きっとオルテンシア様に似て気高く可愛らしい子なんでしょうね」
少年がオルテンシアに促される以外で、自ら明確な愛の言葉を囁くのは極めて珍しいことだった。不意を打たれる形となった彼女は、激しく胸が高鳴り、熱を持った顔を真っ赤に染め上げてしまう。
だが、彼女はその持ち前の聡明さ故に即座に気づいてしまった。この熱烈な愛の告白は、彼が悔いを残さぬようにと吐き出したものなのだと。互いに過酷な戦地に赴いて確実に生きて帰れる保証などどこにもないからこそ、今のうちに気恥ずかしさを全て捨て去り、胸の内のすべてを明け透けにしただけなのだと。
「いや……いや、いや! 彼氏くん、ダメ! 死んじゃやだ……絶対に生きて……生きてよ……! これは、王女命令……ううん、あなたの彼女としてのお願いよ。もう戦いに向かうな、なんてワガママは言わないわ。だから……だから……っ」
「……なら。僕も、貴女の彼氏としてのお願いです」
──必ず生きて戻ってくること。五体満足でイルシオン王城に帰還した暁には、先程のような暴力的なお仕置きではなく、未来を誓い合った本当の
そう固く切実な約束を結び、愛し合う二人は長く長く、互いの舌を深く絡ませ合った。一時的にでも、迫り来る死への不安を打ち消すように。これが永遠の別れなどではなく、必ず再会を確実なものにするための儀式なのだと、互いの魂に言い聞かせるような、熱く貪り合う
*****
それにしても、と少年は密かに頭を悩ませていた。
オルテンシアから情熱的な告白を受けたのを皮切りに共に過ごした二ヶ月弱の間、彼女が学園から帰ってきたあの日、
顔を合わせては、男女の深い交わりを確実に行っている。その全てにおいて一切の避妊など行っておらず、ただ容赦なく、彼女に望まれるがままに自らの子種を注ぎ込み続けてきた。
となれば、嫌でも気にしてしまうことがある。当然、妊娠の不安だ。
婚儀を挙げるにはまだ早すぎるというのに、本当に子供が出来てしまえば王家を揺るがす大問題となる。この過酷な戦いに深刻な影響が出るのはもちろんだが、何より彼女の学園への復学どころではなくなってしまうだろう。
少なくとも、グランスール大橋へ向かう前に行われたあの過激な情事では、子が成されなかったことには密かに胸を撫で下ろしていた。もし宿っていたのであれば、四ヶ月弱が経過した今、彼女の平らなお腹に愛の証がはっきりと現れていて当然なのだから。
しかし、一ヶ月前の交わりによる結果は、未だ不明瞭だ。あとどれくらいの間、彼女らが邪竜の軍勢と戦い続けることになるかは定かではないが、身重となってその大いなる戦いの邪魔になるような事態は言語道断だし、アイビーから厳しい断罪を受けさせられるのも恐ろしい。
少年は恐る恐るオルテンシアに尋ねた。ゆくゆくは未来の伴侶としてそれを望むとしても、今、子供が出来てしまってはまずいのではないかと。
だが、当の第二王女は、驚くほどあっけらかんとしていた。
「先月のことなら、神竜サマの軍に入った直後くらいにちゃんと生理が来たわ。まだ子どもは作っちゃダメだって、天が言ってるのよ」
などと、事もなげに笑っている。
しかし、つい先程の一件はどうするつもりか──などとは、これ以上聞き出せなかった。
彼女があまりにも幸せそうで楽しそうだったし、互いに生死を懸けた決意を固め合った直後に、妙な水を差すような真似はしたくなかったからだ。倫理的には到底許されぬ真似だと激しい自覚はありつつも、少年はそれ以上の言及をそっと避けた。
互いに布で汗ばんだ身体を拭き合った後、脱ぎ捨てられていた服を着用する。ゼルコバによる暗殺者特有の縛めは情事の最中に外されていたが、よほどキツく結ばれていたとみえて、少年の腕には赤い痕がくっきりと残っていた。後で彼には文句を言ってやろうと、少年は密かに誓った。
「えへへっ。久々にさ、彼氏くん、着せてよ」
かつて侍従の仕事で毎日そうしてくれていたみたいに。オルテンシアは甘えるように彼に背を向けた。
戦場に在っても彼女らしいその色鮮やかなドレスは、度重なる激しい戦闘において彼女の身を守り抜いてきたことを証明するかのように、あちこちが痛ましくほつれていた。少年はこれを完璧に修繕できるだけの技巧を誇っているが、あいにく、今は裁縫の道具がない。
服の痛みに気づきながらただ着せるだけというのは、完璧を求める彼自身の性分としてあまり好ましくなかったが、オルテンシアの可愛らしいおねだりには素直に従った。
こうして彼女のために服の着用を手伝っていると、在りし日の平和だったイルシオン王城での日常の光景が、鮮やかに脳裏へ甦ってくる。
そんな美しき
「戻りましょ。セリーヌ王女がお茶会をするって言ってたしね。言っておくけど、彼氏くんは強制参加よ。みんな、あなたに会いたがってたんだし」
他国の王族からそうでない者まで一様に、彼を一目見たいと言ってくれていたという彼女の説明に、少年は少しばかり気恥ずかしさを覚えた。
しかし、こんな深夜に優雅に紅茶など飲んでは、目が冴えて寝られなくなってしまうのではないか。
そんな極めて現実的な意見が喉元まで出かかったが、あえて口にするのはやめた。数々の激戦を生き残った高揚感で頭はすっかり冴え切っているし、それはきっとこの砦にいる皆も、同じ状態なのだろうと思ったからだ。
薄暗い地下から地上へ上がる階段を登り、隠し扉の仕掛けを起動させて天井となっている床を動かし、上階へと顔を出す。すると、大広間にて仲間たち全員が和やかに談笑している声が聞こえてきた。安堵の笑い声が上がっていることに、少年もオルテンシアも自然と笑みが溢れた。
しかし、彼らが顔を出した廊下は、無人ではなかった。
「ああっ、オルテンシア! ご無事でしたか!? 痛いことなどはされていませんか!?」
そこに立っていたのは、紋章士五名。慌てた様子で声を上げたルキナだけでなく、リーフも、エフラムとエイリークの兄妹も、そしてベレトも揃い踏みしていた。
彼らが何を考えてこの薄暗い廊下に集まっていたのかは不明だが、直前の張り詰めた様子から察するに、五人で何やら真剣に話し合っていたようだ。
紋章士たちは実体を持たず寒さを感じる身体ではないようで、それ故に底冷えするこの場所にいても、特に気にする様子はなかったらしい。
声を上げたルキナだが、彼女の瞳は明らかに少年のことを強く警戒している様子だった。彼が僅かながら軍師として見せた状況判断力は正当に評価していても、数ヶ月前にオルテンシアの自室で目撃したあの過激な光景から、男としては到底褒められたものではない、という厳しい見方なのだろう。
「あまりオルテンシアの恋人を悪く言いたくはありませんが、彼はケダモノですからね、ケダモノ! 嫌なことをされたなら遠慮なく言ってください。私が彼の運命を変えて差し上げますからッ!」
激烈な怒気を
本気で撃ち殺しかねないルキナの純粋な怒りに、オルテンシアは引き
少年もまた、かつて愛する恋人を強引な性暴力をもって従わせようとしたのは濡れ衣でも何でもない事実であるため、少しの怯えと深い申し訳なさを見せるしかできない。
いくら彼女の怒りを鎮めるためとはいえ、「今回、泣き叫ぶくらいイジメ抜かれていたのは、むしろ僕の方です」などと、高潔な英雄たちへ赤裸々に伝えるわけにはいかないからだ。
ただ同時に、伝説の英雄にすらこれほどまでに慕われ、心配されているオルテンシアの厚い人望に、少年はまるで自分のことのように誇らしくなる気持ちも芽生えていた。
いきり立つルキナを前に、大慌てしたのは他の紋章士たちだった。
この手の激昂をあまり覚えなさそうな、穏やかな気質にして同性のエイリークが一番わかりやすく慌てふためいていた。
どっしりとした印象の兄エフラムも苦笑を浮かべ、「ケダモノか……俺も昔、言われたことがあるな……女と見れば襲いかかると……もちろんデタラメにも程があるが」と何かを思い出している様子。
リーフも「本気で怯えさせちゃダメだ、彼は非戦闘員なんだぞ」と必死に宥めている。
感情の振り幅が極端に少ないであろう静かな印象を受けるベレトだが、彼はどこか遠い目をして「若い子の過ちを許す度量が必要だ。自分達は千年以上を生きる大先輩なのだから」と落ち着いた声で口にし、ルキナを優しく諭していた。
仲間である他の紋章士たちが少年の擁護に回ったこと、そして何よりも、当のオルテンシアが悲痛な表情を浮かべるどころか、ツヤツヤと上気した顔をしていることに気付き、ルキナもようやく毒気が抜かれたのだろう。
直前までの激怒はどこへやら、武器を取り出してまで少年に威圧的な態度を取ってしまったことに、彼女は深々と謝罪してきた。
「申し訳ありません。その……以前、オルテンシアの部屋で見たものが、あまりにも衝撃的だったもので……」
「あっ、いいえ。あのときは僕が完全に悪かったので……」
いくら愛する恋人の
……とはいえ、あの時の彼女に対する性分に抱いた
それにしても、と少年は我に返って思った。
「紋章士の方々も、戦いの外では普通の人なんですね。笑って、怒って、悲しんで。伝説の英雄とは、性格ももっと超然としているものだとばかり思っていました」
伝承に残る『紋章士の指輪』の性質を端的に言えば、『兵器』である。圧倒的な力をもって、個の存在が大軍すらも打ち滅ぼしてしまう。その恐るべき迫力ある様は、先程の砦前の戦いで少年の目にも嫌というほど焼きついた。
長年封印されていた危険な装備に宿る異界の英霊たちは、相応に冷徹な兵器であり、人間らしい思い入れなど持てるはずもないものだと、そう彼は考えていたのだ。
オルテンシアの寝室で見させられた、ルキナの指輪から感じたあの禍々しい闇の波動からしても、その認識は間違いないはずだと。
「神竜の仲間たちも、最初はそう思っていたらしい」
少年の率直な疑問に優しく返答したのは、エフラムだった。
彼が妹と共に、ロサードとゴルドマリーの目覚ましい活躍により神竜軍へ加入した時期には、仲間たちはすでに紋章士という概念にすっかり慣れ親しんでいた。
だから、あくまで神竜リュールからの伝聞でしかないとのことだが、当初は皆が紋章士への絶対的な畏敬の念を抱き、遠い存在だと思っていたらしい。
だが、短時間ながら接してみて少年はわかったのだ。彼らは圧倒的に強いという点や、紋章士である故の実体を持たぬ特殊な体質以外は、自分達とそう変わらない、普通に感情を持った人間なのだと。神竜の軍勢もそこに至って、ある種対等な仲間としての感覚を心がけるようにしたのだろう。
武器を手に取って過酷な戦いに身を投じ、苦難を乗り越えて英雄と称されるに至った以上、彼らにも壮絶な背景が存在したことは想像に難くない。
何かを奪われた経験を持ち、そこから這い上がった者たちばかりなのではないか。彼らの表情の端々から垣間見える深い哀愁や優しさが、その事実を如実に伝えてくる。
少年は生粋の本の虫だ。書物から、彼らがどのような道のりを歩んできたのか、大雑把な伝承の知識としては知っている。
ただ、巷に溢れるものは所詮は物語であるゆえ、都合の良い脚色を施されまくっているであろうから、真に信に値するものではない。本人たちから、その真実の過程を直接聞いてみたいものだ……少年は切実にそう思った。
だが。悲しいかな、今はそんな悠長に、知識欲を満たしている状況にはない。
吹雪が完全に晴れれば、愛する第二王女が連れてきた頼もしい仲間たちは、全員が本隊へ合流しにイルシオン王城へと向かう。こちらも、打倒辺境伯という次なる死地のために、まずは学園へ向かわなければならないのだ。
十日以上に渡る飢えと寒さの逃避行になると覚悟していたときに比べれば、まだ依然として北西からの脅威があるにせよ、足取りは遥かに軽いものとなるだろう。だが、だからと言って「話が聞きたい」などと子供のような我が儘をほざき、彼らをこれ以上足止めするのはもっての外だ。
それよりも、少年にはどうしても聞き出さなければならないことがあった。個人的な知識欲を満たす真似よりも、よっぽどイルシオンの未来にとって大切な情報を、彼らから引き出さなければならない。
紋章士が、自分たちの事情をすべて明け透けに語ってくれる保証は皆無だ。それでも、聞こうとしなければ自ら語ってくれることは絶対に有り得ないだろうと、彼は踏んだ。
「……ベレト様」
「ベレト、で構わない。やはり自分に来たか。君が何を聞きたいのかは、おおよそ察しているよ。その話を、さっきまでここでみんなとしていたんだ」
紋章士側のあまりの察しの良さに、少年は深く感嘆させられるしかなかった。
自分の精神の奥底まで全て筒抜けなのではないか。紋章士たちの、すべてを見透かすような青い瞳を見れば、そんな僅かな恐怖すら覚えてしまうほどに。
少年が静かに切り出したときには、ルキナもリーフも、エイリークとエフラムも、先程までの和やかさとは打って変わって酷く真面目な顔をしていた。その場を支配する重々しさすらある雰囲気に、少年はゴクリと生唾を飲む。
「オルテンシア。すまないが、少し席を外してくれないか。自分と少年の、二人きりにして欲しい。他の紋章士たちも、大広場に向かおう」
「なによお、あたしは仲間外れ? いいなー、彼氏くん。二人きりで秘密の相談なんて」
悪戯っぽく唇を尖らせて笑いながらも、オルテンシアもまた、ベレトの瞳の奥に秘めた重い決意を察し、恋人を廊下に残して紋章士たちと大広間へひと足先に向かうことにしたようだ。
その前に、オルテンシアが少年の肩をポン、と軽く叩いた。
「ベレトが可愛いお姉さんだったら、絶対に許さないところだったわ。運が良かったわね、彼氏くん♡」
ベレトが女だった場合を想像したというのか。深い愛情の根源たる独占欲にまみれた台詞を吐いて、彼女はニコニコとしながら、仲間たちが待つ皆の方へと向かって行った。
──ベレトはベレトだろ。可愛いお姉さんだったらもなにも。
オルテンシアの残した言葉の意図がよくわからない少年だったが、これが『話し合う相手がルキナやエイリークのような女性なら、絶対に二人きりにはさせなかったわ』という意味なのだと認識した。間違いが起こりようもない相手なのにな、と、その重たい愛に少年は苦笑いした。
「……それで」
二人きりになり、ベレトがぽつりと呟いた。それに応じて、少年も彼へ静かに向き直る。
「僕が聞きたいのは──」