「僕が聞きたいことは二つです」
少年がかつて読んだ伝承の記載によると、ベレトは士官学校の教師であったというが、元は彼の父が設立した傭兵団の一員だったらしい。
ある戦いを経て縁が出来た、学校に併設された修道院の大司教らの采配により、彼より年上の女子生徒などもいる中、何故か生徒としてではなく教職に宛てがわれた。そこで彼は見事、指導の才能を開花させ、後に起きた戦乱で活躍する優秀な兵を数多く輩出した。彼自身もまた、五年の空白期間を経て再び重要な戦力となったのだという。
実際に対面して、少年は思い知った。そんな凄まじい経歴を持つのは決して物語上の都合の良い脚色などではなく、れっきとした事実なのだと。そう確信させるほどの圧倒的な包容力が、ベレトの所作の一々から静かに
「十二の指輪が集まれば、この戦乱で失われた人々の命を蘇らせられませんか?」
「その質問に答える前に、こちらから聞きたいことがある。それは、オルテンシアの父ハイアシンス王もということだろうか。オルテンシアのために、君は君自身の心を否定するのか?」
ベレトにも、オルテンシアから少年の背景について、彼女自身が知った範囲で共有されていることが今の発言でわかった。ハイアシンスが村を焼いたこと、その復讐のため登城したことも、彼はすでに知っているのだ。
少年は答えに窮した。いくら彼女の心を癒すためとはいえ、ハイアシンスの顔を再び見れば、自身の心に底知れない憎悪が再び宿るかもしれない──そう思ったからだ。
「結論から言おう。おそらく不可能だ」
ベレトの端的な返答。
やはり、と理解していたが、少年は深い悲しみを覚えた。
失った同僚たちを復活させる方法は皆無。しかしそれは同時に、復讐の相手が再び玉座にふんぞり返る可能性もまたゼロであることを意味する。悲しみと同時に、どうしようもなく募る安心感があった。
しかし、『おそらく』という枕言葉がひどく気にかかった。条件は極めて厳しいが、不可能ではないかもしれない、という意味なのだろうか。
「十二の指輪には千年に一度、どんな願いも叶えられる力がある。一つ所に保管されなかったのは、悪用されないようにと神竜王ルミエルがはからった故。……しかし、どんな願いも、の『どんな』には、具体性が必要だ」
「『この戦乱で亡くなった人を蘇らせて欲しい』では、具体的ではないと言うのですか」
「そうだ。例えば、この戦争には直接関わっていないが、身内が戦死した者が居たとする。やがて、その人物は心労で亡くなった。さて、これは『この戦乱で亡くなった』と言えるかどうか?」
ベレトの例え話を聞いて、少年は確かに、と思った。
二つの解釈が出来てしまうのだ。戦乱の直接的な要因で死んでいない、という解釈と、戦乱が起きたから結果的に死んだ、という解釈と。そうした曖昧な願いは、指輪の力で叶えられないのだろう。
ならば、具体的な名前を出して複数名を蘇らせるような願いならどうかと、ベレトに問うと。
「そもそも死者を復活させる類の願いを、指輪の力で叶えようとした者は過去にいなかった。確かに少年の案なら、不可能ではないかもしれない……しかし、これはあくまでも自分の個人的な意見だが、こう思う。戦乱の傷を癒す名目で叶えるべきではない願いだと。聡明な君なら、何故なのかは、わかってくれるね」
ベレトが言わんとしているのは、簡潔に言えば、決定的な『不平等』が発生するということだ。
具体名を複数挙げて復活させる願い自体が、そもそも端的ではない。
かつ、それで戦乱で消えた命全てを復活させられるとも思えない。それほどまでに、この戦いでは莫大な数が死んでいるからだ。いや、今回に限らず戦争が発生すれば、死者が少数にはなり得ない。
そんな中、仮に、指輪の力をもって何人かが復活したとしよう。死者が他人に襲い来る異形のような化け物としてではなく、まともに生者として蘇るわけだから、その奇跡の存在が世に周知されないはずもない。
すると、どのような弊害が想像されるか。
──
何某には、残された者の家族や親友や恋人などが入る。
誰もが『生き返られた者がいて良かったね』などと、手放しで他人の幸運を喜ぶばかりじゃない。その復活にあやかれなかった者の家族や身内が、何故こちらはダメだったんだと必ず喚き始める。
その不平等は、必ず次の戦いを生む。結果として、より多くの死をもたらす。決して他人を蹴落としたいからではなく、ただ自身の死者を悼む切実な気持ちであるというのに、それが他者への加害性へと無惨に変質してしまうのだ。
彼女が、生き残るために培った作り笑いを初めて見たとき、『故郷で死んだ者は誰ももう笑えないのに』と激昂したのと同じ理不尽が、世界単位で発生する。
だからこそ、死は平等であらねばならない。死は絶対でなければならない。
それを覆す願いを叶えようと言うのなら、復活もまた平等で絶対である必要がある。そうでないなら、誰も復活させるわけにはいかないのだ。
「オルテンシアもアイビーも、父の死を乗り越えている。邪竜側の悪趣味で戦わせられ、二度目の死を与えたときに決意を固めたようだ。彼女らのために、父を復活させてあげることは、きっと優しさには繋がらない。変えられない死があるからこそ……前に進むものもある」
そう語るベレトの瞳には、深い切実さがあった。彼もまた、同じように重々しく大切な者の死を受け止め、前に進んできたのだろうという、静かな説得力があった。
少年は、自らがひどく短絡的だったと恥じた。
生き延びた者の傷を癒すには、全てが復活すれば良いのではと考えていた節があるのは否めないのだ。オルテンシアも、父が蘇れば痛ましい傷を負ったまま生き続ける必要はない。ここまで苦境を乗り越えてきた仲間たちも、幸せになれると。
だが、変えられない死があるからこそ進む。
確かにそうなのだ。少年が今、この場にいるのもまさしく、愛する両親や友人を失ったことが最大の要因なのだから。
「……とは考えているが。今、敵の手に落ちているマルスとセリカが戻ってきた後、果たして、この死に対する価値観を自分が維持できるかは自信ないけどね」
「えっと……それはどういう意味ですか」
「ああいや、余計なことまで話してしまった。気にしないでくれ。何にせよ、最初の質問に関しては『それは無理』という話になるかな」
どうにも気になる発言だった。
隠し事であるのは少年も見抜いたが、ベレトにはそれを初対面である自分にまで話す気はないらしい。きっと紋章士内での取り決めなのだろう、と察した。
そもそもとして、胸の内を全て明かしてもらえないのは当然だ。
それくらい、どんな願いも叶えるという話には、人を変えてしまうほどの恐ろしい魔力があるのだし、何よりも少年は神竜の軍勢に属する身内ではないのだから。
「この辺りでいいだろうか。それで、二つ目の質問は……いや、聞く前から内容は察しているけれど」
「……イルシオンの復興には、その──」
「紋章士が関わることはないだろう。もちろん、他の国にも。君たちの世界は君たちのもの。エレオス外の、しかも異界の者があれこれ政治に口を出して、良くなるはずもない。紋章士はあくまで、指輪を身につける者にとっての武器であり友人なんだ」
正直なところ、少年もそんな気はしていた。
そもそもとして、紋章士が顕現したのは今年に入ってからのことだという。それまでは指輪に封じ込められているしかなかった彼らが、世界の在り方そのものに口を挟むわけがない。それまでに一度たりともそうしたことのある公的記録は、少なくとも少年の観測範囲では見当たっていないのだ。
それでも、邪竜ソンブルによって滅茶苦茶にされた地を、特にこのイルシオンを復興させるためには、神竜のみならず紋章士の絶対的な威光が不可欠になるのではと踏んだのだ。
厳しい局面で闘わせられるイルシオンの王族姉妹にとって、ベレトのような大局を見据える人物が背後で支えてくれれば、これほど心強いこともないはずなのに。
「
「……オルテンシアから聞いていた通りだ。君は一を聞いて十、いや、百を知る才があるらしい。クロードと会わせられないのが残念でならないよ」
クロード、というのは彼が受け持った学級の級長らしい。
伝承の記載には、士官学校には三学級あり、彼の名前と共にエーデルガルトとディミトリという級長の名もあったが、どの学級をベレトが受け持ったのかは不明瞭だった。
それが本人の口から明るみになったことと、神算鬼謀に長けるらしい彼と比較されて高評価を得たらしいことに、少年の心は小さく高揚した。
が、今のベレトの返答が意味するところも、瞬時にわかってしまった。
「その質問をしてくる以上、この戦いが終われば紋章士はいなくなる……そう考えているのだろう?」
「紋章士の方々が、オルテンシア様や他の方たちとエンゲージした際に見せていた技。あんな強力なものが、一切の代償なしに使えるとは思えなくて。その代償が、紋章士という存在そのものであるならば説明がつきます。一度や二度の行使では問題ないのでしょうが、あまり回数が重なりすぎると……」
「……その通りだ。この戦いにおいて、自分も含めて、紋章士たちは皆、何度も力を振るっている。イルシオン王城で行われるはずの邪竜との戦いだが、ソンブルが力を失っている今のうちに決着がつかなければ、今以上に無茶を強いられるだろう。戦いが終わった後すぐに消えないまでも、程なくして顕現は失われるだろうね。神竜リュールの力をもってしても……再顕現はきっと果たされない」
ベレトは言葉を選びながらも、その悲痛な秘密を少年に打ち明けた。
少年は悟る。今語っている内容のうち、どこまで語るかを、他の紋章士たちと真剣に話し合っていたから、彼らは冷え込む廊下に出ていたのだと。
オルテンシア様をこの場からいなくさせた点からしても、神竜の軍勢にすら『自分たちは消えるかも』という懸念を、現時点では明確に話しているとは思えない。
あくまでも、自分とこうして静かに会話出来るのが、この日が最後になる可能性が高いからこそ話せるのだ──そう認識するべきだ、と少年は重く受け止めた。
「アイビーとオルテンシアなら、君が支えればいいと思う。君自身がオルテンシアの伴侶になると宣言したのもあるし、これほどの大立ち回りをして城下と港の生き残りを死なせなかった功績を、誰もが認めるだろう。たとえ君が文字通り、名も無き平民だったとしてもだ。君を快く思わない貴族が居たとしても、ここにいる者たちや、やがて女王になるであろうアイビーが必ず守ってくれるはずだ。もちろん、オルテンシアもね」
だから、そのうちこの世界から消えてしまうような自分たち紋章士に、これ以上頼る必要はないのだとベレトは言っている。
少年とて、それがわかっていないわけではない。異界の英雄たちが持つ求心力には、底知れないものがある。
だが、彼らの威光に
ベレトの言う通り、荒れ果てた自国をどうにかするのは、他ならぬその国の王族であり、そこに生きる国民自身でなければならないのだ。
しかし、どう考えても今のイルシオンにおいては、王族への風当たりがあまりにも強すぎる。
このような凄惨な大戦乱に発展した最大の要因は、愚王ハイアシンスの狂気。その事実はすでに世界中へ流布されている。たとえ彼が邪竜に魅入られていたというのが真実であったとしても、だから仕方がないなどと許容できる人物は皆無だろう。
一旦は愚王に命じられるがまま、ブロディアを襲った経験のある娘のアイビーが国を継ぐとして。いや、仮にこれがオルテンシアだったとしても、国が最も悲惨で大変な時期に『神竜と共に旅をしていた』などという事実を、果たして生き残った国民達はどう受け止めるだろうか。
それは、世界を救うための崇高な使命を帯びた戦いではある。だが、どうにも『神竜と』という部分が、国民に強烈な悪印象を植え付ける懸念がある。何せこの国は古くからの邪竜信仰の国であり、国を支える権力者である貴族の多くが、邪竜を絶対のものとして崇めているのだから。
確かに、多くの若者の思想は自由だ。邪竜をあからさまに貶さぬ限り、おおらかに受け入れる。しかし。
『ソンブル様への敬意が、足りなかったせいだ。信仰心が足りなかったから、神罰が下ったのだ! 邪竜様の怒りを鎮めるには、お前たちのような信仰の薄い民を、供物として捧げるしかないのだ!』
避難民の中に混じっていた、己の保身のことしか頭にない不遜な侯爵は、城下から城へ逃げ込み、そして砦へ向かう死地の最中でさえ、そのように狂信を吐き散らしていた。
だがこれは、決して彼特有の偏った思考というわけではない。国を支えてきた大貴族たちは、概ねこのような凝り固まった考えを持っていると思っていい。
アイビーが新たな女王として相手にしなければならない連中は、こういった強固な排他性を持つ輩となる。
異形兵まみれとなっているこの凄惨な現状が『邪竜の仕業だ』と真実を説明されたところで、果たして彼らがすんなりと納得するかどうか……。
もちろん、戦後は姉を全力で支えるつもりでいるだろうオルテンシアも、その理不尽な政治的闘争に巻き込まれるに違いない。血を血で洗う戦場から、
そこで、見た目からして神々しい絶対的な威光を持つ紋章士を旗印に据えれば、不平不満を言う貴族どもを黙らせることはきっと可能だ。その方法は、いくらでも思いつく。議論の場に相席する紋章士が、わざわざ口を開く必要すらない。
……だが、紋章士がいつ消えてしまうかわからないというのなら、この案は完全に破綻だ。
今、イルシオン王城攻めをしている神竜軍の本隊が、そのまま邪竜ソンブルまで一気に仕留められればいいが、相手の底知れなさを思えばきっとそうはならないだろう。そうすれば、邪竜ソンブルとの真の決戦は、さらに苛烈を極めるはずだ。その天地を揺るがす戦いの中で、紋章士が力を使い果たし完全に失われることも、十分にあり得るわけだ。
「なるほど……これがクロードとの差異か」
「え?」
「いや、何度も比べてしまって申し訳ないのだけどね。そうして必死に頭を回している君を見ていると、どうしてもかつての彼がちらつくものだから」
ベレトは、かつての教え子を慈しむような柔らかな微笑みを見せた。
少年は過去の英雄と比較されていることに怒ってなどいないし、むしろ光栄だとすら感じているのだが、『差異』という表現がどうにも気にかかったのだ。
「彼は学生時代だった頃も、レスター諸侯同盟の盟主となった後も、その見事な策謀の才を常に披露し続けていたんだ。自分が元居た世界のフォドラという地には多種多様な民族がいてね、彼は幼少期の過酷な経験から、皆が当たり前に共存できる社会の実現を願っていたんだけど」
「興味深い話ですね。エレオスに残る文献には、彼の幼少期の経験という具体的な話は記載されていませんでしたから」
「君のために深く掘り下げたいが、今は時間がないから割愛するよ。オルテンシアの境遇に近い、とだけ言っておこう。……そんな彼は、常に前向きに考え続けていた。高い壁に当たっても、今持つ手札で現状を打破できなさそうでも、『壁は壊すなり迂回すべし』と考え、『手札が足りないなら増やせばいい』と考える男だったんだ。思考の末に、暗い顔をすることは決してなかった」
ということは、今張り巡らせていた思考のせいで、少年の表情は相当に
それを的確に指摘されてしまい、少年はバツが悪そうに目線を泳がせた。
「……ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃない。むしろ好ましく思っている。君がそれくらい、イルシオンの王族を真剣に大切にしているということだからね。皆が君のように自らの復讐心を乗り越え、それが愛に変わるのなら、戦争など起きないかもしれないな」
そう語るベレトの目は、どこか酷く悲しげだった。
彼は『グロンダーズの会戦』なる凄惨な戦いと、それが起こった一連の戦争において、他学級の子を中心に多くの教え子を失ったと文献に記載されていた。
きっと、その血塗られた歴史に起因する痛切な感情なのだと少年は悟ったが、これ以上根掘り葉掘り聞きだす無粋な真似は出来なかった。
「だが、自分の思考の重さのせいで、足が動かなくなってはならないよ。君の卓越した思考力は、前に進むための剣でなければならないんだ」
「前に進むための、剣……」
「たとえ武術の才に恵まれなくても。魔術を操れなくても。誰もが持ち合わせるわけではないその見事な武器で、君は今後も困難な道を切り開いていくはずだ。それは歴戦の戦士たちが持つ武勇や、自分たち紋章士の大いなる力とは違う、とても尊いものだ。力を持つ者には義務がある。その力を、正しき未来のために振るい続けなければならない義務がね」
故に、紋章士に頼る世界を築き上げる必要はない。そんな後ろ向きな思考を回す必要すらないのだと、ベレトは力強く言うのだ。
ひ弱で、ただ必死なだけの自分がそんな大役を担えるはずがない──少年は無意識に、そんな自己否定をせずにはいられなかった。しかし、英雄の中の英雄たる紋章士の、しかも教師として数多の生徒を正しき道へ導いたベレトの言葉には、すんなりと心へ受け入れてしまえるほどの、絶対的な温かさと説得力があった。
「君こそが、
──イルシオンの希望。
それは、亡き侍従長が死の直前に、アイビー直属で仕事をしている幼き双子の侍従をそう呼んでいた言葉だ。
確かに彼女たちは、これからのイルシオンの未来を担う立派な人材であるから、そう呼ばれて然るべきだが。まさか、何もない平民の自分までもがそう呼ばれることになるとは。
身に余る光栄で、思わず「自分にはふさわしくない」と口にして逃げ出したくなる。だが、ベレトの優しくも確かな信頼を宿した眼差しを受けて、そのように臆病な返答ができるわけがなかった。
「……そこまで言われて、紋章士がいないと無理なんです、なんて泣き言を吐くのは、失礼にも程がありますよね」
少年は、己の内に確かな決意を秘めた。
いずれ消えてしまう彼らは、イルシオンの復興した平和な未来をその目で見ることが叶わない。
いや、ただ指輪の中の精神体に戻るだけであるのなら、ルキナが自分とオルテンシアの強引な性暴力の夜を見ていた時のように、指輪の奥から静かに見守っていてくれるかもしれないが、少なくとも言葉を交わし意思疎通が出来なくなるのは確かだろう。
一日に満たない短い交流だけで、思わず彼らに頼りそうになるくらいに、紋章士とは人間らしく、素晴らしい人たちなのだとわかった。神竜軍の仲間たちが、絶対の戦力としても、そして何より心の精神的支柱としても彼らを頼りとする理由が、はっきりとわかった気がした。
そんな彼らに決して恥じないように、前に進み続けよう。イルシオンという傷ついた国を、必ず豊かに立て直そう。そのために、自分が持つこの『剣』が役立つというのなら、いくらでも振るってやる。
……そう、強く思えた。
「ありがとうございます、ベレト。これが最後だと思うと……どうしても寂しいですが、頑張ります。これから起こる戦いも、そしてオルテンシア様を支えることも」
迷いを振り払った少年の真っ直ぐな目に、ベレトは静かに微笑むのだった。かつての教え子の成長を見届けたような、どこか深い安心を抱いたように。
*****
「あー! 彼氏くん、戻ってきたわ!」
少年がベレトと一緒に大広間へと戻ると、オルテンシアの
少年の仲間たちとオルテンシアの仲間たちが、一斉に扉の方へ視線を向ける。その温かく優しい眼差しに迎えられ、少年は少しばかり気恥ずかしさを覚えた。
大広間の内部には、物置から引っ張り出してきたであろうテーブルと椅子が並べられている。今この場にいる六十人余りが着席出来るほどの、立派なパーティ会場と化していた。過酷な死線を乗り越えて来た直後だというのが、嘘のような光景だ。
敷き詰められたテーブルの中央には、ティーポットが置かれている。魔法の火で沸かしたのだろうか、温かな湯気が立っていた。
そして驚くべきことに、ティーカップが……恐らく、この場にいる人数分しっかりと用意されている。
「あの……この戦いに持ってきてたんですか? お茶会セットを」
「そうですよ。セリーヌ様はお茶会が大好きですからね」
グリフォン兵にしてセリーヌの近衛であるクロエが、ニコニコと微笑みながら誇らしげに胸を張っている。
いや、大好きだからと言って、こんな血みどろの戦場に割れ物を持ってくるなんて……という率直な疑問が喉元まで出かかった少年だったが、他国の王族の優雅な趣味を腐すのはまずいと思い、慌てて言葉を飲み込んだ。
それにしても、過酷な強行軍でここへ来たはずだが、一つも割らずに運搬するなんて並大抵の技術ではない。呑気にもそんな感心を抱いていた。
「砦に籠城していた皆さんの緊張を少しでも
「えっ! いや、迷惑なんてとんでもありません! とても嬉しいです!」
セリーヌが不安げに目を潤ませたのを見て、少年は自分の戸惑いを悟られてしまったのだろうと思い、咄嗟に愛想の良い笑みを浮かべた。そんな少年の肯定的な様子に、セリーヌはぱあっと表情を明るくする。
「ダメじゃないか、少年。他国の麗しき王女様を」
「ダメなのはそちらの方でしょう……いっそ、さくっと死んでもらえません……?」
ニコニコと軽薄さを顔に貼り付けた吟遊詩人が、またもや少年をからかって口説こうとしたのを悟り、ゴルドマリーが明確な暴言で即座に制止した。
そんな容赦のない言葉に胸を撃ち抜かれたのか、「あぁん」と悩ましげな声を上げて悦ぶ彼のことを、誰もが無視するべきだと判断した。無論、少年もである。
「オルテンシア王女の彼氏くんと、心ゆくまでお茶会をしてみたかったのです。戦乱が終わった後で……とも考えたのですが、せっかくの機会ですので。わたしの
「えへへー、他国のお姫様まで撃ち抜くなんて、さすがのあたしの彼氏くんだわ。さあ、まさかそんなあなたが、可愛い女の子の誘いを無下に断るわけないわよね?」
もじもじしながら頬を染めるセリーヌに対し、オルテンシアはなぜか鼻高々といった様子だった。
確かに、ハッキリと面と向かって誘ってくれている他国の王女に対し、無下に拒否する度胸などあるはずもない。そんな失礼な真似をすれば、オルテンシアの激怒を買うのも目に見えているので絶対に嫌である。
しかし、オルテンシアが自分をけしかけるような妙な発言をするし、誘う側のセリーヌもまた、ただの茶会への誘いとは思えぬほどに恥じらっている様子なのが、どうにも少年の胸をざわつかせた。
──いやいやいや。確かにフィレネの第一王女が聞きしに勝る愛らしさなのは否定できないが、そういうアレじゃないだろ。
変な意識をしてしまいそうになる己の浅ましさを、少年は内心で必死に吹っ飛ばしておくことにした。初対面の女性に対してそんな意識を向けるのは、いくらなんでも好色にも程がありすぎる。
──これはさっき、オルテンシア様と激しい睦み合いをしたせいか?
「あ……えー、とても光栄です。紅茶、大好きなんですよ。ありがたくいただきます。皆さんも飲みましょう」
慌てたみたいな感じになってしまったのは、オルテンシア様が変なこと言うせいだぞ、などと心の中で必死に言い訳をしながら。
少年は、自分を待っていてくれていたであろう仲間たち皆を巻き込んで、セリーヌが催してくれた温かなお茶会へと身を投じることにした。