名探偵コナン:星の維持者(プレザーバー)と明日への事件録 作:凜々
横浜の空は、どこまでも高く、どこまでも青い。
山手の丘に建つ『カルデア・グループ横浜支部』。かつては静謐な聖域であったこの洋館も、今や賑やかな……あるいは騒がしい、多種多様な「英雄」たちの寄合所となっていた。
リビングでは、赤と金を基調とした豪奢な平服に身を包んだ男――常務の周亮介(周瑜)が、金森彰(ギルガメッシュ)とチェス盤を挟んで対峙していた。
「……ほう、その筋で余を詰めるか。美周郎、貴様の策は相変わらず嫌らしいな」
「王の盤面を乱すは軍師の嗜み。ましてや、今日の主役は私ではなく、あちらの若き学者ですから」
亮介が羽扇を揺らしながら視線を向けた先には、書斎の机で膨大な資料と格闘する紬の姿があった。
窓の外、庭の古木の上では、緑のフードを深く被った男――警備統括の森久保峻(ロビンフッド)が、弓の弦を調整しながら欠伸を噛み殺している。
「ま、平和なこった。あのチビ……いや、お嬢様がもう卒業なんて、月日が流れるのは早えね」
峻の呟きに応えるように、書斎からパイプの紫煙が流れてきた。
「月日とは相対的なものだよ。だが、彼女がこの四年間で積み上げた『論理』の城は、極めて強固だ」
そこにいたのは、鹿撃ち帽を脱ぎ、穏やかな笑みを浮かべた男――カルデア総合探偵事務所の顧問、帆村壮介(ホームズ)だった。紬が書き上げたばかりの学位論文を手に取り、深い知性を湛えた瞳を細める。
「パパ……じゃなかった、所長。帆村さん。これで、本当に大丈夫かな」
紬が不安げに尋ねると、傍らで静かに茶を淹れていた楠木誠が、娘の肩に優しく手を置いた。
「ああ。何しろ、あの厳格さで知られる史学科の教授が、君の論文を読んで絶句したあとにこう仰ったんだから。『楠木君、君の視点は既存のアカデミズムの枠を超えている。組織に縛られる必要はない。君ならいきなりフリーの学者として世に出ても、十分にやっていけるだろう』……とね」
「そうですよ、紬。教授からそこまで太鼓判を押される学生など、聖白大学の歴史でも数えるほどしかいません」
亮介がチェス盤から目を上げ、誇らしげに微笑む。紬は「フリーの神話歴史学者」という、険しくも自由な道へ進む決意を改めて固めた。
「フリーの学者、ね。……あんたらしいや」
リビングのソファで、サバサバとした口調で笑ったのは、萩原千速だった。
彼女もまた、聖白大学の法学部を卒業しようとしている。だが、その瞳が見据える先は、紬とは対照的な「現場」だった。
「私は春から警察学校だ。地獄の訓練が待ってるだろうけど、あの弟たちが同じ道を歩む時のために、私が先に『壁』になっておかないとね」
千速は守(エミヤ)が淹れた極上のハーブティーを飲み干し、凛とした表情で告げる。
「お調子者の研二に、口の悪い松田の野郎……あいつらが警察官になった時、姉貴の背中が小さかったら格好つかないでしょ?」
その言葉に、帆村壮介がパイプをくゆらせながら頷いた。
「賢明な判断だ、萩原君。警察組織という巨大な機構の中に、君のような鋭い視点と、そしてカルデアの真実を知る者がいることは、未来の『論理』を支える重要なピースになるだろう」
「……相変わらず、この家の顧問さんは小難しいね。でも、あんたに認められると、本当に自分が正義の味方にでもなった気分だよ」
千速は苦笑しながら、紬に向き直った。
「紬。あんたが解き明かす歴史の真実と、私が暴く現代の事件。いつかその二つが重なる時が来るかもしれない。その時は、またこうして集まろう。……もちろん、あんたの過保護なパパたちも一緒にね」
紬は力強く頷いた。
「うん、約束だよ、千速ちゃん。私が歴史の裏側から、千速ちゃんの歩く道を照らせるように頑張るから」
その光景を、誠は少し離れた場所から見守っていた。
娘が自分の足で立ち、自分たちの正体を知った上でも、それを「恐怖」ではなく「学問」として受け入れ、世に出ようとしている。その成長は、かつて雪の中で赤子を拾った時の誠には想像もできないほど、眩しいものだった。
「……帆村さん、君には視えているのか? この先に待つ、あの少年たちの運命が」
誠が隣の顧問に、誰にも聞こえない声で尋ねた。
帆村は窓の外、夕闇に染まり始めた横浜の街並みを見つめる。
「楠木君。私は探偵だ。断片的な証拠から結論を導き出すのが仕事だよ。……確かに、君や金森氏が懸念する『悲劇』の種火は、既に各所で燻っている。だが、運命とは『固定』されるためにあるのではない。解き明かされ、より良き結末へと書き換えられるためにあるのだよ」
帆村の言葉に、誠は自らの掌を見つめた。
事象を固定し、維持する力。
その力が、いつか訪れるであろう「18年後の惨劇」を止めるための盾になるのか。あるいは、紬や千速という「新しい世代」が、その運命そのものを打ち砕くのか。
「……さあ、紬。お祝いの準備ができているぞ。今夜は、ブーディカたちが腕によりをかけた料理が届くはずだ」
誠の呼びかけに、紬が満開の笑顔で応える。
卒業式の日。
聖白大学の正門前で、学位記を胸に抱いた紬と、レザージャケットを羽織り、既に警察官の顔つきになりつつある千速が、肩を組んで写真を撮った。
シャッターを切ったのは、カメラを持たせても超一流の守だった。
「チーズ!」
弾けるような笑い声。
その背後で、桜の木の下に佇む誠と英霊たちは、静かに、けれど確かな意志を持って、彼女たちの歩む先を見つめていた。
大学卒業。それは守られた「家族」という円の中から、一人の専門家として、そして一人の人間として、運命の荒波へ漕ぎ出す合図だった。
まだ、あの有名な高校生探偵は生まれてさえいない。
黒き組織の影も、まだ深い闇の中に潜んでいる。
けれど、ここ横浜で芽生えた「正義」と「知性」の火は、来るべき嵐の夜を照らすための、消えない灯火となったのである。